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コミュニタリアニズム。

2007年07月31日 20時48分04秒 | 思想

こんにちは。

最近、サッカーもフットサルもしていなかったので、そろそろ身体を動かしたくなってきました。
学生時代には長くサッカーをしていたバリバリの体育会系ですので、時々、身体を動かしたくて我慢できなくなることがあります。
そこで、仕事で外出する時には可能な限り乗り物を使わず歩いたり、休日にも徒歩で雑貨屋やカフェなどを巡ってブラブラしたりするのですが、やはりスポーツの燃焼の仕方とは違うんですよね~。
学生時代の部活動で、低学年の頃は先輩の練習の球拾いをしたりしますが、その球拾い中に下を向いただけでランニングコースを30週などという理不尽なペナルティを受けていたので、ちょっとブラブラするだけではなかなか「あー、歩いたぁ!」とはなりません。
普段は、歩いている時によく「歩き疲れた。」とかウダウダ言うのですが、そんなこんなで言ってるだけで疲れてません。
私は歩行速度が世界一速いと言われる大阪人にあって更に速い方で、『早く目的地に着けばその分色々なことができる』、『運動代わりにしよう』という気持ちが早歩きにさせてしまいます。
でも、どんなに速く歩いても、やっぱり歩くだけでは運動代わりにはなりません。(なんというかスポーツ特有の汗ではない。)
がっつり運動のできるジムでも通いましょうかねぇ。

さて、『グローバルに考えて、ローカルに行動する』という社会から『グローバルに行動して、ローカルに考える』社会に変化し始めて幾分歳月が重ねられた昨今、やはり相応に人は進化適応しません。
その様な動きを感じ取った一部の人間が後手ながら対応しようと先鋭化するため、当人には更なる責任が圧し掛かり、より大きな負担が一局に集中する結果となっています。
行き過ぎたアカウンタビリティ(説明責任)は分厚い法令集と化し組織にコンプライアンスを求めますが、どうも最近、この一連の経済社会の流れが国内市場の成長に歯止めを掛けているように感じてなりません。
しかし、これもまた世界的な潮流なのです。
私も国際取引に身を投じているビジネスパーソンの一人ですが、ボーダレスという考えを本気で宿しているならば『グローバルに行動して、ローカルに考える』という考えにはならず、『グローバルに行動して、グローバルに考える』という考え方になるはずです。
しかし、依然として日本社会は日本文化特有の色合いをあちこちに残しながら、ここまで維持発展してきました。
頻繁な接待、単独の抜きん出たスキルよりも協調的な関係による問題解決、どんぶり勘定な仕事ぶり、日本特有の学閥などなど。
企業は人の集団なので何を置いても組織の優劣は至上命題(というかそれが全てと言っても過言ではありません。)なのですが、上記の様な独自性は組織にとってプラスにもマイナスにも働きます。
それは全ての国の全ての組織も同様の条件にあると言え、常にグローバルの対極にある局地性の恩恵や被害を受け続けているのです。
そんなグローバルな文化とローカルな文化の熾烈なせめぎ合いの真っ只中にある今、『コミュニタリアニズム』(共同体主義)という興味深い政治思想に焦点を当ててみましょう。
(「※」のある用語については最下層に解説が存在しています。)

コミュニタリアニズム』は端的に言ってしまえば、「現代の自由主義※1)の下に叫ばれている過度な個人の権利から少し離れ、共同体の重要性を再認識して尊重しよう」という主義主張になります。
論者によっていくつかの潮流があるのですが、今回は細部を無視してエッセンスのみです。
コミュニタリアニズムの考え方に対してよく頻出する意見があるのですが、受け取った言葉の意味を飛躍させてしまい、「個を捨てるということは全体主義的(※2)で危険だ」と繋げてしまう場合があります。
しかし、コミュニタリアン共同体主義者)達はこの様な意見に対し、「コミュニタリアニズムは本来、自由民主主義※3)の内にあるものであって、そのようなものではない。」と言うのです。
実際、コミュニタリアニズムの根底にある『コミュニティ』(共同体)とは、その様に恐ろしいものではなく、同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている社会のことを指します。
このコミュニティを結び付ける政治・経済・風俗というものの根本は、文字通り「結びつける」というように誰か一人のものではなく、社会全体の共通の利益でなければならず、このような社会や国家など共同体全体にとっての利益のことを『共通善』(common good)と言います。

さて、ここで少し話を変えて、時は18世紀。
当時のヨーロッパの国の多くは、自国の軍隊の中心を傭兵で構成していましたが、金銭で雇われている彼らはいつ裏切るかわかりません。
しかも大事な時に指示に従わないことまであります。
このような諸国家に先立って『フランス革命』を経ていたフランスは、多大な犠牲を払って共和国※4)化した自国を防衛するため、防衛戦力を組織的に不安定な傭兵軍から一般国民で構成される国民軍へと変質させていました。
ヨーロッパ史上天才軍略家として名高いナポレオンの破竹の快進撃は、この国民軍に一端があったと言われています。
フランス軍の愛国心に基づく強力な組織力は、そのまま兵士一人一人の士気の高さを意味していたのです。
この『士気』は、単純に言ってしまえば意気込みですが、軍事学上の用兵における最も重要な側面の一つであり、集団への忠誠心、仲間への信頼、功績を立てた際の正統な評価による励み等が集団と自己を同一視させ、独りでは無力であるという意識を解消させます。
最近『300』という映画もありましたので、「あー、あの映画のスパルタ軍みたいだ。」と記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。
この傭兵軍・常備軍の戦略論はマキャベリの『君主論』でも述べられている非常に有名なお話で、一見、『君主論』と書いているので指導者のことだけを書いているのかと思ってしまいますが、同書は国家のあるべき軍隊の理想像についても述べられているので軍事学の様相も呈しています。
マキャベリはバリバリの民族主義者ですが、ここでは単に「右傾化した考え方」と取り違えないで下さい。
打算や金銭だけで動く集団は、今も昔も共通の思想や理念という強い意志で繋がった集団に打ち勝つことは難しく、フランス軍の場合では愛国心こそが重要な共通善の源であったということが現代の組織の優劣にも繋がる重要事項なのです。
逆から言ってしまえば、集団で素晴らしい理想を掲げても、理想ばかりで「士気を高揚させるための人に共通するポイント」が何であるのかが意識されていなければ組織としては弱体化します。

結果、一人一人がこうした全体の『共通善』を理想としなければ、人は個人主義に堕して自ら腐敗し、最後は腐臭に慣れ鈍感になってしまうことで、不正に権力を行使する側の思惑通りになっていきます。
企業も同じ。広い視野から見ようとせず、狭い視野で自己が所属する組織を皮肉込みで責めてみたり、逆に企業側が責任者を吊るし上げて叩いたりしているだけではどうにもなりません。
共通善的な考え方は、企業単体までダウンサイジングすることで応用できる可能性を秘めているのです。
例えば、従業員共通の利益である経営ビジョンは明らかに企業組織内における擬似的な共通善の一部でしょう?
つまり、自然に結束する組織を作り上げるには、その組織の構成員間の共通善を創造したり、隠れて見えない場合は探り当てたりすることが必要で、そのためには文化人類学的な研究アプローチが非常に重要なファクターになると考えられます。
もちろん、それが直感的に分かるのであれば、この上なく素晴らしいことなのですが。
ちなみに私が温故知新的に日本的経営に見られる特異性(つまり、産まれながらに日本人の間で形成されている普遍的な文化や習慣に影響を受けた経営体質)という部分にも有効性を見出そうとするのは、この共通善を意識しているからです。
自分と同じ環境で育ってきた人の考え方ならまだ理解しやすく、応用も利かせやすい。
そうすれば人を使い易くもなる。
それだけのことです。

本来は政治思想のお話なので戻しますが、この様な考え方が生まれ始めたのは、画一的なグローバル化と勢い付いた個人主義の反動という側面が考えられます。
これらに多くの人が「うん?」と首を傾げ始めたということなのでしょう。
お上意識のなせる技かもしれませんが、日本人は世界中の国々の中でも政治や政治思想への関心が低く、その様な話題が会話の中に出てくることが希であると言われます。
なのに批判だけいっちょまえ…。
負担が大きく、国民を冷遇し始めた社会の批判にエネルギーを使うより、『どうすれば良くなるのか』という話に時間を費やした方が建設的だとは思いませんか。
批判するなら対案付きで。これぞ権力が歪んでしまった際の真の牽制です。
自分達だけで話していたって意味がないというのは大きな間違いなのです。




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