本日のブログは少しシリアスです。
でも、大事な話だと思うので、心当たりのある方は是非お読みください。
楽しい話題が良いなあ~という方は次の話題をお待ちいただくとして…。
オルガニストの仕事をされている方、教会に連なっている方は、教会で「オルガニスト」の役割をしている人たちの位置づけは案外難しい。ということをご存知だと思います。
まず牧師、又は神父が一番上、その「下に」事務的な仕事をする人たち、そして教会学校など教育的に責任のある人たち、そして信徒たちのグループとが存在する、という風に一般的に受け止められて、そのように機能していると考えられます。
なぜ牧師、神父が一番上か?ということは質問するまでもないのですが、それはさらに「その上」にあたるところから任命されて来ているからです。そのための教育を受けて、その資格を持っているという前提があります。
オルガニストは、そのための教育を受けて、その資格を持ち、教会の責任者である神父ないしは牧師が「うちのオルガニスト」として認めた場合、その教会専属になります。
しかし教会のしごとに携わる、ほかの人々との関係において、オルガニストは一体どこに位置するのでしょう?
この質問は、自分の場合、答えがすぐには出てきません。
わたし個人にとって、教会で奏楽するという事はまず「奉仕」です。お給料をもらっていたとしても、そういう気持ちで弾いています。お給料も、「とても少ない」ということもあり、時間以上の仕事をするということがごく普通に感じられます。それに、練習とか準備のことを考えると、きっちり何時間労働するという風に計算するのは無理でもあります。
だから、給料とか権利という意味でオルガニストの「偉さ」は量れません。
ということは、位置がどこになるのかも決めにくくなります。
教会学校の先生も、教会のお掃除係の人も、「同等」であると「感じながら」仕事をするということが最もキリスト者らしいのではないかという気がします。
これまで何も問題も起きずに、今の教会で10年以上働いて来た私には、音楽家として&クリスチャンとして、うまく折り合いのつく教会生活を送っていました。
ところが。
今勤めているカトリック教会の中で、今年2月以来、いろいろな不協和音が鳴っています。
自分の教会の内部の問題では、大きな、古い、裏の出入り口のたてつけが悪く、きちんと閉まっていなかったことが問題になりました。そして、オルガニスト本人「以外の人たち」が練習しにきたときに限って、戸締まりが悪い。という評判が立ちました。
つまりわたしと夫のふたり以外のオルガニストが来て練習するからいけないのだ。ということになったのです。
その結果、オルガンの月曜日コンサートは練習なしで弾くように。と、いうことになり、
週1回のアカデミーのオルガンレッスンもたくさんの生徒が来るから禁止。ということになり、
オルガニストも月1回しか練習しないように。ということになり、
それなら必要ないから教会の鍵は取り上げ。
ということになりました。
ドアが古いので直すという考えはないのか?とわたしたちには思えたのですが、この10年間これだけオルガン関係の活動があってもひとことも反対されなかったことを考えると、ドアのことは単なるきっかけではないのか、
「オルガンの活動は教会にとって何の役にも立ってないから節約のためにも活動停止。」
という時代になってきたのではないか?という裏の理由その1が浮かび上がってきます。
さて、教会の外の問題としては、ベルギーの大司教が2月に替わったことで、ブリュッセルの教会人事異動が始まりました。
更に世界的な聖職者の小児愛問題が浮き彫りになってきたことも、不安定な空気を作り出すのに一役買っていると思います。
わたしたちの教会では、責任者は聖職者ではありません。一信者でありながら、権限を与えられて、任期決めで責任者として良い働きをしている人です。とても良い働きをしているので、これからの神父の少ない時代のカトリック教会のありかたの「希望の光」的ですらあり、一緒に働くのはとても楽しく、嬉しい事でした。
ところが、上記の様な短絡的な「決定」をいきなり宣告してきたので、わたしからすれば、
「(一応責任者なので)上から来た命令はきくもの。」
という感じで、すごくショックだったのですが直後には受け入れました。「わかりました」と言ったのです。その「宣告」のとき夫はいなかったのと、その直後に子供の合唱練習が控えていて、わたしとしては、どうするべきか考えるすきもなかったというのが本当のところです。
責任者と、夫と私と、3日後に更に話し合いがあって
練習しないでコンサートをするのは無理である。
前日3時間は最低必要。
アカデミーの授業については一度合意していたのに、このような年度の真ん中で教会から追い出されたら全員路頭に迷う。
アカデミーの建物のオルガンは私の教えている日はほかの授業で使っている。
だから試験のある5月迄待って欲しい。
の二点が、外部のオルガニストに「被害」が及ぶ最大の案件、ということで、
ほんとに死ぬ様な思いで談判をして、もうぎりぎりで成就酌量されたのです。
しかししかし、いつの間に、オルガニストが犯罪者の立場におかれているのだろう?
「罰」というかたちで鍵を取り上げられるという、このあたりのやり方は、おどろくほどヒステリックに行われました。
オルガニストは、悪い。ということに、いつの間にか決まっていた訳です。
とにかく責任者は、頭がかーっ!!!となっていました。
ところで2月の初めというのは40日の四旬節に入る時期で、様々な行事に加え、聖週間と復活祭の準備をじょじょにして行くので、仕事は普段の倍になります。そういうときに、裏のドアの鍵を使えなくなったのはとても不便だったし、自転車置き場も外の物を使わなければいけなくなるため、帰る時にはタイヤをパンクさせられていたり、ライトを盗まれたりして、なんだかとても憂鬱でした。
オルガンの月曜日のコンサートに出てくれる人たちにも,日曜日3時間だけの練習で弾いて下さい。と頼まなければならないので、今迄のようにフレキシブルに週の間夜練習したりできなくなり、お互いにとても気まずい雰囲気です。
結果的に、
「教会の将来のために、新しいやりかたで活動してもらいたいので、協力してください。」
というメッセージではなく、
「おまえたちが悪いんだから罰は当然だ。」
というかたちになってしまったまま2ヶ月働きました。
特に困ったのは、「でも、友情には変化ないよね。」と、責任者の人はごく普通に、何もなかったかのように接して来るのです。罪人扱いされたわりには、いつも通りに、心を込めて奉仕して欲しい、自分に対してもフレンドリーにお願いするよ。ということで。
まあ、混乱したわたしは、ミサを弾くたびに、オルガンに上るたびに涙が出ました。
体がヘンになったというか、教会のドアを見たらそれだけで倒れそうになったこともあります。
分裂症の人と会話している様なストレスを感じました。
そして、ひとが納得の行かないしうちをされたらこんな風になってしまうのね。ということがわかりました。
大勢の、リストラで仕事を剥奪された人たちは、どんな気持ちだろうと身に染みました。
そんなわたしに比べ、夫は典礼の勉強をした人なので、もともとあらゆる神父の方たちときちんと論争します。聖書の箇所と歌の関係、典礼の式と歌の関係…「長いからこの聖書の箇所も、歌も省略」してしまう神父さん、間違った内容の歌を「この歌好きだから(一種のノスタルジーか?)」という理由で歌おうとする人、みんなかならず説き伏せて行きます。
この教会には特定の神父がいないので、一年に8人ぐらいの神父さんが回り持ちでミサをしてくれますが、そのひとたち全員ときっちり話を付けます。
夫にとっては、この教会のオルガニストがしなければ他に誰がするんだ?という仕事です。
そのとなりで働くわたしは、その恩恵で「正しい典礼のあり方、さらに豊かな典礼のやり方」を常に体験できます。
しかし、典礼を勉強していない、どちらかというと実用的なことに長けたわたしたちの責任者は、このような視点は持ち合わせていません。
だから、月ごとのミサのための会議には、夫がわたしと「典礼的オルガニストの視点」で整えた歌のリストを準備して相談し、決定して、その日曜日当番の神父さんにはその流れを踏襲していただくというかたちを取っています。
教会の中にあって、必要欠くべからざる典礼の要点を、責任者が踏み外している場合、かならず夫が指摘する、という役割が、いつのまにか出来上がっています。
そのために、教会を出て教区として見たときに、うちの責任者のさらに上に位置する神父さんが、夫の意見を大事に聞いているという事実が、わたしの教会の責任者にはたまらなく悔しい。という感情のわだかまりはあります。
この事件の1週間前には、夫と責任者は日曜日のミサの直前にどなりあいのけんかをしました。
反対に、ミサのとき弾くのが夫ではなく、私が当番だということがわかると、話し合いでは決めていない、「典礼的にはよくないかもしれないけど、センチメンタルにやりたい歌」などをどんどん挿入してくることなどから、わたしはサンドイッチのまんなかだなあ。と思う事もたびたびありました。でもわたし本人は典礼を勉強していないオルガニストなので、ミサの中で責任者が即興的にいきなり歌い始めるのをどうする事もできず、それに合わせて来ました。
責任者は、夫に対する文句なども本人には言えないのか、私に言ってくることがあります。
それをかみくだいて、夫に説明して、わたしから、彼の不満がなくなるように夫に努力してもらうということになります。
どんなことでも、きちんと話し合えば、一応納得し合える、と信じているからです。
それに、どう考えても、夫婦であるということはオルガニストであるということより大事なことだと思うからです。
ただ、わたしが、内心そう思っているという事は普通だと思うのですが、驚くのは、どこでも、共通の考えとして、皆さんそう考えていらっしゃるという事です。
つまり、「わたしと夫は共同責任」なので、夫に対する不満や怒りは妻も受けるべき、ということです。
ところで、月曜日コンサートも、アカデミーのオルガンの授業も、
「やろうよ!」
と言い出したのは私です。
だから、今回のむちゃくちゃな「罰則」は、わたしが言い出した、教会にとっては付属的な活動が、責任者からの夫に対する葛藤の、ちょうどいい「餌食」になってしまったという構図が透けて見えます。
共同責任でふたりの鍵を取り上げる、という風に。
(それでいて昼コンサートは人気だからか、廃止にするとは言われない)
つまり、
オルガニストは、そんなに場所を取るな。
(それも、陽の当たる、明るい場所を。)
というメッセージも含まれているのだ、としたら。それが裏の理由その2なのだとしたら。
(「それは嫉妬以外のなんでもない。」とアドヴァイスしてくれる人たちの多いこと…。)
なぜ責任者は今、急にそんなに自信を無くしてしまったのか。そのヒステリーはどこから来たのか。
新しい大司教は、教区長だったときに、神父ではない人たちが聖書学を勉強するための「典礼の学校」を閉鎖したり(一般人は知識は無い方が良い?)、女の子が合唱で歌う事を禁止したりしたことがあります(聖なる仕事は男性のみ)。聖職者ではないわたしたちの教会の責任者が、「責任者であること」をおびやかされているのではなければ良いと思います。
(そこまではわからない。でも不安な空気が絶対的にただよっている)
わたしと夫がふたりで働いている教会という仕事場は、家庭のようになごやかで、だからこそ、家庭のように葛藤のある仕事場です。
そこで、家庭的であることを返上して、「オルガニストの位置」を固守し、その権利を持ち出して、たとえばもっとも象徴的な品物であるところの「鍵」を取り上げる事はできない。と反発することは、果たしてできたのでしょうか。責任者はオルガニストの雇い主ではないので(お互いに違う雇用主に雇われています)「上」もなにもない、と言ってこの罰を受けない、という選択肢が実はあるのです。夫は初め、そんな罰受けない、と言ったのです。それを聞く必要はない。と。でもさらに深く内部でけんかしつづけ、「オルガニストが悪い」という風にうしろゆびをさされながら(かなりいいがかりに近いものを感じるのですが)、同じ職場なのにオルガニストだけ別の世界を悠々と生きる事が可能でしょうか。
そう考えたら、クリスチャンだから、オルガニストをしているのだ、という自己の存在理由からは限りなくかけ離れて行きます。
わたしは、この話の続きをはやく知りたいです。
もっとひどいことになるのかどうか。
一体何の兆候なのか。
なぜ、わたしにとっても夫にとっても、また、教会にとっても、一番活動が実りつつある現在に、こうした事件が起きるのか。
結局、練習の件も、オルガニストは月1回の練習でミサを12回弾く、などというのはとても無理なので、鍵を返した後も、
「例外。」
の名で、鍵を借りて、練習をしています。
ミサも、コンサートも、大勢の人たちが集まり、良い交わりの時を持つ幸せな時間をたっぷり過ごしています。
ただ、わたしも夫も、おそろしく、充分、不幸な気持ちで奏楽しています。
一体この事件は何だったのか、まだまだわからないのです。
「続きの」話し合い、というかたちに何度か持って行ったのですが、表面的には
オルガニストも責任者もみんな同等、という「いつも通り」のスタンスです。
何故か、あの2月の日に私に対してだけ、
「上からの罰」
というものが通ってしまった、と思うと、
「わたしが上下関係を簡単に考えていたのが間違いだったのか」
と考えることもあるこのごろです。
責任者が罰したがっているのだから罰されるべきなのではないか、という風に、家庭的な職場において「責任者に従順であること」は正しかったのか、と。
このような「事件」は実は多いのではないでしょうか。
オルガニストはどちらかというと名誉職のような面もあり、だからこそ、人間としては同等と思っていたのに、いきなり「上からの決定」が下る。こちらとしては、なぜ事前に警告も相談もなしに?と思うわけです。
でもオルガニストや、オルガンの活動が、活発で「目障り」になると、「相談」なんて甘いことは言っていられなくなり、権利を少しずつ剥奪することは「音楽は教会活動の余興なんだから」問題ない、ということになるのでしょう。
つまりオルガンは無くてもいいのか。
オルガニストはいなくてもいいのか。
そこまで考えさせられます。
ついでに、わたしは、この仕事場において夫とは別人格なのか、同人格なのか。
さらには、オルガニストとして、夫がいなくても、ここでこうして生活することを選択しただろうか。
と。
考えても答えはすぐは出ません。
でも考えた事がないか?というとうそになります。
いちど、それをしっかり考えてみたい。と思っていたわたしにとって、そこのところが一番自分の身に残る体験になったと言う事は出来ます。
想像もつかないほどじいいいっと考え込む必要のある要件です(まだ終わってない)。
でも、大事な話だと思うので、心当たりのある方は是非お読みください。
楽しい話題が良いなあ~という方は次の話題をお待ちいただくとして…。
オルガニストの仕事をされている方、教会に連なっている方は、教会で「オルガニスト」の役割をしている人たちの位置づけは案外難しい。ということをご存知だと思います。
まず牧師、又は神父が一番上、その「下に」事務的な仕事をする人たち、そして教会学校など教育的に責任のある人たち、そして信徒たちのグループとが存在する、という風に一般的に受け止められて、そのように機能していると考えられます。
なぜ牧師、神父が一番上か?ということは質問するまでもないのですが、それはさらに「その上」にあたるところから任命されて来ているからです。そのための教育を受けて、その資格を持っているという前提があります。
オルガニストは、そのための教育を受けて、その資格を持ち、教会の責任者である神父ないしは牧師が「うちのオルガニスト」として認めた場合、その教会専属になります。
しかし教会のしごとに携わる、ほかの人々との関係において、オルガニストは一体どこに位置するのでしょう?
この質問は、自分の場合、答えがすぐには出てきません。
わたし個人にとって、教会で奏楽するという事はまず「奉仕」です。お給料をもらっていたとしても、そういう気持ちで弾いています。お給料も、「とても少ない」ということもあり、時間以上の仕事をするということがごく普通に感じられます。それに、練習とか準備のことを考えると、きっちり何時間労働するという風に計算するのは無理でもあります。
だから、給料とか権利という意味でオルガニストの「偉さ」は量れません。
ということは、位置がどこになるのかも決めにくくなります。
教会学校の先生も、教会のお掃除係の人も、「同等」であると「感じながら」仕事をするということが最もキリスト者らしいのではないかという気がします。
これまで何も問題も起きずに、今の教会で10年以上働いて来た私には、音楽家として&クリスチャンとして、うまく折り合いのつく教会生活を送っていました。
ところが。
今勤めているカトリック教会の中で、今年2月以来、いろいろな不協和音が鳴っています。
自分の教会の内部の問題では、大きな、古い、裏の出入り口のたてつけが悪く、きちんと閉まっていなかったことが問題になりました。そして、オルガニスト本人「以外の人たち」が練習しにきたときに限って、戸締まりが悪い。という評判が立ちました。
つまりわたしと夫のふたり以外のオルガニストが来て練習するからいけないのだ。ということになったのです。
その結果、オルガンの月曜日コンサートは練習なしで弾くように。と、いうことになり、
週1回のアカデミーのオルガンレッスンもたくさんの生徒が来るから禁止。ということになり、
オルガニストも月1回しか練習しないように。ということになり、
それなら必要ないから教会の鍵は取り上げ。
ということになりました。
ドアが古いので直すという考えはないのか?とわたしたちには思えたのですが、この10年間これだけオルガン関係の活動があってもひとことも反対されなかったことを考えると、ドアのことは単なるきっかけではないのか、
「オルガンの活動は教会にとって何の役にも立ってないから節約のためにも活動停止。」
という時代になってきたのではないか?という裏の理由その1が浮かび上がってきます。
さて、教会の外の問題としては、ベルギーの大司教が2月に替わったことで、ブリュッセルの教会人事異動が始まりました。
更に世界的な聖職者の小児愛問題が浮き彫りになってきたことも、不安定な空気を作り出すのに一役買っていると思います。
わたしたちの教会では、責任者は聖職者ではありません。一信者でありながら、権限を与えられて、任期決めで責任者として良い働きをしている人です。とても良い働きをしているので、これからの神父の少ない時代のカトリック教会のありかたの「希望の光」的ですらあり、一緒に働くのはとても楽しく、嬉しい事でした。
ところが、上記の様な短絡的な「決定」をいきなり宣告してきたので、わたしからすれば、
「(一応責任者なので)上から来た命令はきくもの。」
という感じで、すごくショックだったのですが直後には受け入れました。「わかりました」と言ったのです。その「宣告」のとき夫はいなかったのと、その直後に子供の合唱練習が控えていて、わたしとしては、どうするべきか考えるすきもなかったというのが本当のところです。
責任者と、夫と私と、3日後に更に話し合いがあって
練習しないでコンサートをするのは無理である。
前日3時間は最低必要。
アカデミーの授業については一度合意していたのに、このような年度の真ん中で教会から追い出されたら全員路頭に迷う。
アカデミーの建物のオルガンは私の教えている日はほかの授業で使っている。
だから試験のある5月迄待って欲しい。
の二点が、外部のオルガニストに「被害」が及ぶ最大の案件、ということで、
ほんとに死ぬ様な思いで談判をして、もうぎりぎりで成就酌量されたのです。
しかししかし、いつの間に、オルガニストが犯罪者の立場におかれているのだろう?
「罰」というかたちで鍵を取り上げられるという、このあたりのやり方は、おどろくほどヒステリックに行われました。
オルガニストは、悪い。ということに、いつの間にか決まっていた訳です。
とにかく責任者は、頭がかーっ!!!となっていました。
ところで2月の初めというのは40日の四旬節に入る時期で、様々な行事に加え、聖週間と復活祭の準備をじょじょにして行くので、仕事は普段の倍になります。そういうときに、裏のドアの鍵を使えなくなったのはとても不便だったし、自転車置き場も外の物を使わなければいけなくなるため、帰る時にはタイヤをパンクさせられていたり、ライトを盗まれたりして、なんだかとても憂鬱でした。
オルガンの月曜日のコンサートに出てくれる人たちにも,日曜日3時間だけの練習で弾いて下さい。と頼まなければならないので、今迄のようにフレキシブルに週の間夜練習したりできなくなり、お互いにとても気まずい雰囲気です。
結果的に、
「教会の将来のために、新しいやりかたで活動してもらいたいので、協力してください。」
というメッセージではなく、
「おまえたちが悪いんだから罰は当然だ。」
というかたちになってしまったまま2ヶ月働きました。
特に困ったのは、「でも、友情には変化ないよね。」と、責任者の人はごく普通に、何もなかったかのように接して来るのです。罪人扱いされたわりには、いつも通りに、心を込めて奉仕して欲しい、自分に対してもフレンドリーにお願いするよ。ということで。
まあ、混乱したわたしは、ミサを弾くたびに、オルガンに上るたびに涙が出ました。
体がヘンになったというか、教会のドアを見たらそれだけで倒れそうになったこともあります。
分裂症の人と会話している様なストレスを感じました。
そして、ひとが納得の行かないしうちをされたらこんな風になってしまうのね。ということがわかりました。
大勢の、リストラで仕事を剥奪された人たちは、どんな気持ちだろうと身に染みました。
そんなわたしに比べ、夫は典礼の勉強をした人なので、もともとあらゆる神父の方たちときちんと論争します。聖書の箇所と歌の関係、典礼の式と歌の関係…「長いからこの聖書の箇所も、歌も省略」してしまう神父さん、間違った内容の歌を「この歌好きだから(一種のノスタルジーか?)」という理由で歌おうとする人、みんなかならず説き伏せて行きます。
この教会には特定の神父がいないので、一年に8人ぐらいの神父さんが回り持ちでミサをしてくれますが、そのひとたち全員ときっちり話を付けます。
夫にとっては、この教会のオルガニストがしなければ他に誰がするんだ?という仕事です。
そのとなりで働くわたしは、その恩恵で「正しい典礼のあり方、さらに豊かな典礼のやり方」を常に体験できます。
しかし、典礼を勉強していない、どちらかというと実用的なことに長けたわたしたちの責任者は、このような視点は持ち合わせていません。
だから、月ごとのミサのための会議には、夫がわたしと「典礼的オルガニストの視点」で整えた歌のリストを準備して相談し、決定して、その日曜日当番の神父さんにはその流れを踏襲していただくというかたちを取っています。
教会の中にあって、必要欠くべからざる典礼の要点を、責任者が踏み外している場合、かならず夫が指摘する、という役割が、いつのまにか出来上がっています。
そのために、教会を出て教区として見たときに、うちの責任者のさらに上に位置する神父さんが、夫の意見を大事に聞いているという事実が、わたしの教会の責任者にはたまらなく悔しい。という感情のわだかまりはあります。
この事件の1週間前には、夫と責任者は日曜日のミサの直前にどなりあいのけんかをしました。
反対に、ミサのとき弾くのが夫ではなく、私が当番だということがわかると、話し合いでは決めていない、「典礼的にはよくないかもしれないけど、センチメンタルにやりたい歌」などをどんどん挿入してくることなどから、わたしはサンドイッチのまんなかだなあ。と思う事もたびたびありました。でもわたし本人は典礼を勉強していないオルガニストなので、ミサの中で責任者が即興的にいきなり歌い始めるのをどうする事もできず、それに合わせて来ました。
責任者は、夫に対する文句なども本人には言えないのか、私に言ってくることがあります。
それをかみくだいて、夫に説明して、わたしから、彼の不満がなくなるように夫に努力してもらうということになります。
どんなことでも、きちんと話し合えば、一応納得し合える、と信じているからです。
それに、どう考えても、夫婦であるということはオルガニストであるということより大事なことだと思うからです。
ただ、わたしが、内心そう思っているという事は普通だと思うのですが、驚くのは、どこでも、共通の考えとして、皆さんそう考えていらっしゃるという事です。
つまり、「わたしと夫は共同責任」なので、夫に対する不満や怒りは妻も受けるべき、ということです。
ところで、月曜日コンサートも、アカデミーのオルガンの授業も、
「やろうよ!」
と言い出したのは私です。
だから、今回のむちゃくちゃな「罰則」は、わたしが言い出した、教会にとっては付属的な活動が、責任者からの夫に対する葛藤の、ちょうどいい「餌食」になってしまったという構図が透けて見えます。
共同責任でふたりの鍵を取り上げる、という風に。
(それでいて昼コンサートは人気だからか、廃止にするとは言われない)
つまり、
オルガニストは、そんなに場所を取るな。
(それも、陽の当たる、明るい場所を。)
というメッセージも含まれているのだ、としたら。それが裏の理由その2なのだとしたら。
(「それは嫉妬以外のなんでもない。」とアドヴァイスしてくれる人たちの多いこと…。)
なぜ責任者は今、急にそんなに自信を無くしてしまったのか。そのヒステリーはどこから来たのか。
新しい大司教は、教区長だったときに、神父ではない人たちが聖書学を勉強するための「典礼の学校」を閉鎖したり(一般人は知識は無い方が良い?)、女の子が合唱で歌う事を禁止したりしたことがあります(聖なる仕事は男性のみ)。聖職者ではないわたしたちの教会の責任者が、「責任者であること」をおびやかされているのではなければ良いと思います。
(そこまではわからない。でも不安な空気が絶対的にただよっている)
わたしと夫がふたりで働いている教会という仕事場は、家庭のようになごやかで、だからこそ、家庭のように葛藤のある仕事場です。
そこで、家庭的であることを返上して、「オルガニストの位置」を固守し、その権利を持ち出して、たとえばもっとも象徴的な品物であるところの「鍵」を取り上げる事はできない。と反発することは、果たしてできたのでしょうか。責任者はオルガニストの雇い主ではないので(お互いに違う雇用主に雇われています)「上」もなにもない、と言ってこの罰を受けない、という選択肢が実はあるのです。夫は初め、そんな罰受けない、と言ったのです。それを聞く必要はない。と。でもさらに深く内部でけんかしつづけ、「オルガニストが悪い」という風にうしろゆびをさされながら(かなりいいがかりに近いものを感じるのですが)、同じ職場なのにオルガニストだけ別の世界を悠々と生きる事が可能でしょうか。
そう考えたら、クリスチャンだから、オルガニストをしているのだ、という自己の存在理由からは限りなくかけ離れて行きます。
わたしは、この話の続きをはやく知りたいです。
もっとひどいことになるのかどうか。
一体何の兆候なのか。
なぜ、わたしにとっても夫にとっても、また、教会にとっても、一番活動が実りつつある現在に、こうした事件が起きるのか。
結局、練習の件も、オルガニストは月1回の練習でミサを12回弾く、などというのはとても無理なので、鍵を返した後も、
「例外。」
の名で、鍵を借りて、練習をしています。
ミサも、コンサートも、大勢の人たちが集まり、良い交わりの時を持つ幸せな時間をたっぷり過ごしています。
ただ、わたしも夫も、おそろしく、充分、不幸な気持ちで奏楽しています。
一体この事件は何だったのか、まだまだわからないのです。
「続きの」話し合い、というかたちに何度か持って行ったのですが、表面的には
オルガニストも責任者もみんな同等、という「いつも通り」のスタンスです。
何故か、あの2月の日に私に対してだけ、
「上からの罰」
というものが通ってしまった、と思うと、
「わたしが上下関係を簡単に考えていたのが間違いだったのか」
と考えることもあるこのごろです。
責任者が罰したがっているのだから罰されるべきなのではないか、という風に、家庭的な職場において「責任者に従順であること」は正しかったのか、と。
このような「事件」は実は多いのではないでしょうか。
オルガニストはどちらかというと名誉職のような面もあり、だからこそ、人間としては同等と思っていたのに、いきなり「上からの決定」が下る。こちらとしては、なぜ事前に警告も相談もなしに?と思うわけです。
でもオルガニストや、オルガンの活動が、活発で「目障り」になると、「相談」なんて甘いことは言っていられなくなり、権利を少しずつ剥奪することは「音楽は教会活動の余興なんだから」問題ない、ということになるのでしょう。
つまりオルガンは無くてもいいのか。
オルガニストはいなくてもいいのか。
そこまで考えさせられます。
ついでに、わたしは、この仕事場において夫とは別人格なのか、同人格なのか。
さらには、オルガニストとして、夫がいなくても、ここでこうして生活することを選択しただろうか。
と。
考えても答えはすぐは出ません。
でも考えた事がないか?というとうそになります。
いちど、それをしっかり考えてみたい。と思っていたわたしにとって、そこのところが一番自分の身に残る体験になったと言う事は出来ます。
想像もつかないほどじいいいっと考え込む必要のある要件です(まだ終わってない)。