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"again" dodo (released, 2022)

2024-12-13 23:26:00 | 音楽
「またいつもと同じ」「でもまたやる」
日々揺れる二つの想いに架ける橋
by mojaraw (wrote, 2022)

 一見Bボーイには見えないが、いざとなればビーフも辞さず、他のラッパーと渡り合って見せる。強さはないかもしれないが、強かさはある。ベイビー・ボーイ、なぜラップを始めたのか?サラサラ・ヘアーのまだおぼこい少年のようなラッパー、dodoのわくわく冒険&成長譚、これが3枚目のアルバムである。
 ワルやイルでなく、イエロー・トラッシュというほどでもない。はたまた優等生やナード、オタクというわけでもない。バトルのような武器や、いわゆるストリートの感覚も強くない。じゃあ一体何たるかと問われれば、ナルやニルをレペゼン、何もない普通な自分のリアル。いかにリアルかがヒップホップならば、間違いなくこれもそれ。休み時間に教室でサイファする時代、彼のような存在もラップ界における多様性の発露に数えられてよいはずだ。普通であることはヒップホップでは異端と見られがち、それが故に溜め込んだ毒も少なくないのは想像に難くない。が、このことが彼の武器であり、命綱ではないだろうか(2nd ALのタイトルはずばり『normal』、彼は、その存在をもってして常に「普通」とは何か、「普通」に何ができるかを問うているかのようだ)。
 彼は身一つと最小限の機材で自室を天国へと仕立てる。最後には上を向くリリック。素朴でrawな、流暢でないが故に聞き取りやすく耳の中でコロコロと転がるフロウ。独特のユーモアと愛嬌のある韻、遊び心あるワードセンス。ヒップホップに触れる時、ある種の実験性やドープさ、アンダーグラウンドの匂いを求めてしまいがちだが、dodoを聞くときのポイントはそこじゃないだろう。さながら天性のSSW、フォーク・シンガーがそうであるように、彼は現代のこの国に生きる、顔の見えない無数の持たざる若者たちのための言葉を紡いでいく。直接的に政治性を喚起する言葉は少ないかもしれないが、その無邪気さゆえに現代の写し鏡となり得ているのだ。彼の組む叙情的とも言えるトラックは、体を踊らせるより少し先に気持ちを動かし、その、言わば寄る辺ない、独りぼっちだと思っている彼ら「孤のマジョリティ」を反転させ、彼らに、そして翻って自らに勇気を与える力を有している。「普通」とは、悩みや弱さの源泉じゃないのだと。彼は「一人は嫌いじゃない」と言いながら、同時に手を伸ばしてもいる。「日本特化型サバイヴ民謡」とはまさに。そして彼のインタビュー、ジャケ、MVはそれぞれ、勇気、アイデア、フットワークの軽さ、つまりパンク的D.I.Yという生き方も彼らに提示して見せている。

"それでも明日を諦めない/昔からいつも何かに遅れているという感覚/間違うことへの過剰な恐れ/特別なものは何も持ったことがない感覚だけを持っている/ぎりぎり生きられているという洗脳/満たされる=大人になる?"

 例えば、家庭と仕事を背負う覚悟も、追い込まれたが故に成り上がってやろうという感覚も、dodoには鮮明なものでなく、時間の深みもまだこれから。彼の、人生、生活、日々の暮らしとの向き合い方とラップの関係には、まだ良くも悪くもモラトリアムのフィールがある。必死にイメージを翔ばし、スキップで追いかけながら、時に諦めながら、子供のように飛躍する連想で二音・三音・四音ケンケンパッと確かめるように、直感的なバランスで重ねていく積み木のように韻を踏んでいく。レオパレス、ネカフェ、ワンオペ、すき家、コロナ...。そんなワードが転がる世界を、彼は、私たちは今日も生き延びようと試みる。その狭間に小さな希望を見つけるのはそんなに難しいことじゃない、まずはほんの少しの希望で十分であることを彼の作品は教えてくれる。そして一枚目、ニ枚目、三枚目と作を重ねるにつれ、その希望の明度を、自然に、少しずつだが確実に上げている。
 今朝もまた、スマホのイヤホンを耳に突っ込んだ若者たちを乗せ満員電車は走る。彼らはまるで、小さな希望と、か細いコード一本で繋がっているように見える。それぞれの無数のコードが、いつか何かの拍子に互いに絡み合ったなら。春に生い茂る草木のように、個と個が個のまま結ばれ、真っ直ぐでなくとも、高く遠くへ伸びゆく季節を夢想せずにはいられない。
 今また激しく揺れるこの世界、dodoの表現はどう成長し、どう子供のままで、どう共振していくのだろう。自作にその答は実っているだろう、今からとても待ち遠しい。でもそれまでは、少なくとも今作に於いては、世界の価値観がニュー・スタンダードへ向かい行く、一人の人間の行為が無邪気な遊びから苦楽を伴う営みへ移り行く、皆に等しく訪れるこの季節の狭間の香りを、メランコリックでどこかコミカルなムードを、幸運にも私たちはまだ嗅ぐことができるのである。


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