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偽日と鏡 2(映画MWネタばれ)

2009-08-04 19:49:58 | MW
若干名、読んでくださる方がいらっしゃるようですが(笑)、この二人についてはすでにかなり書いたんで、なかなか難しいです。
全部が個人的視点の上、妄…、いえ想像ですからね。

そこで、演じた俳優さんの言動を思い返してみました。

結城演じる玉木君は、「結城にとって、彼の行動は善でしかない。演じている時は、自分が善だと思っていた」とおっしゃってます。
賀来演じる山田くんは、「賀来は偽善者でしかない。賀来にとって結城はすべて」というようなことを数多くおっしゃってます(笑)
 <あ、君とくんに分ける意味はありません。わたしがそうしたいだけ>

お二人が共通して言っているのは、”善”も“悪”も、個人の立脚点に乗っ取ってのもので、その人の中にあるものだということ。ただ、社会一般のルールやモラルに従えば、それが罪とされ罰せられる。社会の規範がなければ、人はどこまでも自分本位に他者を攻撃しかねない。でも、その社会の規範もまた、大きな権力、国家によって隠ぺいされる闇があり、個人の正義の及ばぬ点で悪でもある。

違うところがあるでしょうが、こんな感じでしょうか。

この点から見たときの、二人の男を思ってみます。

・MW~相反する、半身としての二人

私は結城美智雄を、MWによる神経破壊で狂った男とは思っていない。
彼が常軌を逸する行動に出ているのは確かであり、冷酷であり、手段を選ばない。
でもそれが狂気のなせる技なのか。
彼を「人間じゃなくなった」と言ったのは、実は賀来である。
沢木刑事が言った、「奴がモンスター」というのを否定しなかったのも、賀来。
賀来の中では、優しく思いやりがあり、自分より人のことを先にする結城少年の面影がある。その少年と、いまの結城は別人のように違っている。
けれど、私的結城、賀来論で書いたことを持ち出させてもらうと、結城の中の外側の世界を見る性質は変わっていない。
結城は確かに、島から脱出して村越神父の世話の元、神学校にいた時代に、少しづつ変わっていったのだろう。

機転が利き、賢い少年だったろう結城は、自分なりに起きたことの原因を調べただろうし、そこに巨大なものの力が働いていることにも早々に気付いただろう。
しかし、気付いたからと言って、神に祈ったからといって、原因を作り出したものたちは何も罰せられない。
島民ほぼ全員が虐殺されたことすら、彼と賀来(と村越神父?)のほかに知るものはない。
自分は発作が起きるようになり、賀来は悪夢にさいなまれ続けている。
そのことに、当然怒りは湧いてくるだろう。

けれど、個人的恨みで望月や隠ぺいに関わって出世した奴らを殺したところで、MWを作り出した大元の元凶は何一つ疲弊もしない。それは、国家そのものであり、大国の力であり、もしも日米がしていなくても、これからも他国で作り出される力だ。
人間が、他者と自分を分け、より優位に立とうとする限り、現れ続ける力だ。

結城ならそう考えたのではないか。
だから、彼は終いには世界全体をも滅ぼす方向へ向かう。

「生きるもの、すべて道連れだ」というコピーがある。
彼に私怨で事を起こす気ががなかったとは言わない。ただ、自分の命が残り少ないから他の命も終わらせてやろうという”自棄”な感情が巨大化した狂気になっているには、客観的というか、感情が見えない。
自分のことを“テロリスト”と飛行機上でも言う自覚ぐあいも冷静な感がある。


彼が感情を見せるのは、賀来が落ちたシーンにしか見れない。

孤児院の子供たちをあやし、その子供たちを米軍基地で人質にする結城は、見せかけの演技で子供と接していたのか。私にはそう見えない。
結城は自分も孤児になったから、彼らの求めるものがわかっている。それを与えることもできる。

ただ、その子たちを利用し、場合によっては死なすことも可というのも、結城だ。
彼は個人的な感情をさっくり切り捨て、ためらうことがない。そこが結城の恐ろしいところだと思う。私怨で動くより怖い気がする。
それは、神経が破壊されているから平気なのか? 神経と性質は違うものではないのか。
私事だが、身近に神経性の難病を患う者がいる。言動や行動に相当の障害が出ている。でも、話せなくても、性格というものは少しも変わってないことがわかるのだ。

だから、結城自身が自分がもともと内包していた性格の中で、負の部分をあえて選んだのだと思う。
人間的感情、痛みを振り捨てることで出来る行為を、最終的には選択したのだと。


もう一つ気になるのが、結城自身は一切、賀来を卑怯者とか偽善者呼ばわりはしていないことだ。
玉木君自身もそういうことは言っていない。

裏切り者、説教は沢山だとは言っているが、それは賀来がした行為に対してである。
賀来を偽善者というのは、賀来を演じた山田くんの言葉であり、彼が演じる賀来裕太郎が、自身をそう感じていたということだ。

玉木君が言うように、結城は賀来を、モラルや理性が邪魔して反発しているが、自分と同じように復讐心を持ち合わせていると思っている。その復讐心を抑えて、自分とは別な道をいこうとする賀来がもどかしく、いらついている。
クルーザー上での暴力は、何度見ても双方の気持ちのすれ違いが哀しいのだが、結局は自分と同じ、自分と一体と思っている賀来が、相変わらず彼の言うことに逆らい、彼が賀来を殺すとまで言われて、切れる。

あくまで自分と賀来は一つだと思っている結城。
結城が自分以外の、外にしか目を向けないことを悲しみ、MWによって変わってしまったという賀来。

賀来がえらい小さい男に聞こえるんだが、これも私的論で書いたが、賀来は近しい者の間に生きる男だ。そして結城だけを愛している。
結城が世界全体に目を向け、復讐を図り、自分や人間に感情を向けないことは賀来にとっては耐えがたいのである。
たぶん、仮に事件がなくて二人が島で平和に暮らしていたとしても、いずれ二人の道は分かれていたと思う。結城は外の世界に、賀来は島の中で。

そうはならなかったのは、奇しくもMWが二人を離れられぬ運命に結び付けたからだ。これは「白夜行」の主役二人が、トラウマとなる事件が元で生涯離れられぬ絆を背負うのと似ている。

そして、賀来自身、実はそのことがわかっていると思う。
彼が、牧野京子に話す「結城はMWによって変わってしまった。人でなくなった」という言葉を、私はそのままには受け取れない。そこには、結城のことは自分以外にはわからないという前提のもとで、京子に警告を促すために言った脚色みたいなものが受け取れる。沢木の言葉を否定しなかったのも同じだ。

賀来は、結城と違い、二人が一つのものと思っていない。だから彼に捕らわれる。
MWが存在しなかったら、「平和に」離れていただろう二人の道。
彼を愛し、側にい続けたいという強い想いは、実はMWによって二人だけしか残らない世界に追われたからだ。結城と道を同じくできないのに執着する自分。それを「MWのせいで結城が変わったから」とすり替えている自分を偽善者と思っているのではないのか。

二人の視点はいつもすれ違う。

MWに執着する結城は、結城に執着する賀来の鏡だ。結城だけを思うあまり、世界などどうでもよくなっている。
けれど賀来もまた、結城が振り棄てた人間らしい迷いや弱さを、持ち続けることで、結城という「人間」の半身の役目を果たしている。

賀来の「神」は、結城が捨てた良心。
「人間」でなければ、「相棒」は必要ではない。

結城が賀来を、弱虫、意気地無しで迷うのは無駄だ、と言うことは、少なくとも映画には出てこない。賀来もまた結城自身には、お前は変わった、元のお前に戻ってほしいとも言っていない。映画にあらわれてない部分で言っているのだろうか?

そういう気が、私にはしないのだ。

お互いが違うことを知っている二人。でも一つだと、一緒にいたいと思っている二人。
人としての弱さ、エゴ。
冷酷さ、己の理に従う傲慢さ。
それぞれを鏡にして、互いを必要とする二人。


僕が君の鏡になって その心に突き刺して

ただ君でいて欲しい 自分でいたい

ふたつを結ぶもの ただひとつ愛なら

(主題歌「MW ~Dear Mr. & Ms. ピカレスク~」 flumpool)

詞を書く人というのは、本編を見てから書くのだろうか。ごたごた(こんな風に)言わなくても、本質を突いてくる。それが才能なんだろう。




相当難産でした!
何か、言いたいことは簡単なのに上手く言えずごちゃごちゃした気が(^_^;)
二次創作というのは、人の目に触れさすことは原則としてはいけないことですが、物語としてこういう内容をさくっと上手く表現できる人はいくらでもいますわ。
不満足な文なので、しばらくしたら下げるかもしれません。

でもこうして書いてみると、「白夜行」の二人より依存度は大きい気がします。
亮司と雪穂は互いだけだとしながらも、他の人間が大きく人生に関与はしてくるからね。「罪を隠して生きる」と決めたことで二人の絆は離れられなくなっている。
そこをもしクリアできたのなら、他の人生も歩めたでしょう。
「MW」の二人は、結局結城が肉体的にも行動的にも死に向かっていて、その彼と離れることはできない賀来なので、他の人間の入り込む余地がない。
個人と国家の犯罪の違いもあるし。

続編がなかろうと、もし賀来も生きているとしたら、彼は結城と今度こそ運命を共にするのだろうか。そういう気はしますね。


7月も終わり、MWもいよいよ今週で本格的に終了です。
私もネタは尽きました(笑)
今月、来月とまた見たい映画が続くので、そろそろ通常映画ブログに戻します。
俳優さんの新作、旧作についてなんかは触れていきたいかなと。
明日、仕事次第では、最後のレディスデイ観賞してくるかもしれません(笑)


4 コメント

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愛です愛。 (義父)
2009-08-04 21:41:30
すごいラブレターですよ!!!!これを結城と賀来にみせて校舎の裏に呼び出したい。
ずっと白夜行にとりつかれていてすっかりMWのこと忘れていました・・。結城の子供への接し方、あれはたしかに演技ではなかったと思います。そして利用するのもそれが結城。この2人にはいつも「でも」がつきます。それが弱さでも鏡となって互いを見つめることができるならと思いました(あれ、また亮司と雪穂思い出して書いてる私・・)賀来が生きていたら今度こそ一緒にクルーザーでイチャコラしてほしいです。映画上映も終了が近づきさみしい気持になっていましたがこれから公開する魅力的な映画のお話聞かせていただけると嬉しいですw
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半身と半身 (かなん)
2009-08-05 01:51:18
なんか,せつないすれ違いです。

ノベライズの最後のほうで結城は賀来に,
「お前は俺だからさ」と言ってますね。賀来は,「もうちがう」と言ってます。
「俺はお前だ」と結城はさらにたたみかけるようにいってますね。結城はぶれないですね。
「もうちがう」ということは,かつては,二人でひとつだった幸福なときがあったということでしょうか。(妄想中)

しばらくたっても下げないでね。
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最後、見に行けるといいですね (たまさんファン)
2009-08-05 08:24:54
って、私の望みかな。。(←まだ書いて欲しいらしい)
赤Tあんちゃん結城は、賀来と同じロザリオをかけていたように思いますね。確かめて来て下さい(笑)。
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めん&ういめん (山吹@ラスト行ったどー!)
2009-08-05 23:43:16
>義父さん

結城に凹られる栄誉すら与えてもらえませんよこんな駄文(笑)
R&Y、Y&G、M&W 対になるものはいつでも己の投影ですね。
明るい太陽の下、クルーザーの上で手を取り合い見つめあう二人… 二作品合同のハーレクイン大団円。
若ピカ君ばかり続いて、私の中のオヤジスキー魂が吼えております。さ、びごDVDでも見よ(いそいそ)

>かなんさま
ノベライズ読まれてない方にはわかりにくいかな、と思いましたが、なんの映画の二人を見ていても充分わかりますわ(笑) すれ違いメロドラマぶりにイラッとします(笑)

二人で助け合っていた少年の頃は、互いが互いと賀来も思ってたのでは。賀来の場合、「二人」と意識した時から結城への想いが強くなってると思うんで、まさしく恋は魔物です。はあ(なんのため息)

強引にまとめ入る文の癖は直せぬようで(苦笑)
迷うところですね。

>たまさんファンさま
行きましたよ性懲りもなく(笑)
って、こんな内容でいいんでしょうかね。あとは妄想ばかりですよ(笑)

確かに似てるんですよ! 一体どうなのか…!
結城がロザリオしてるとは考えにくいんですがね。
「ロザリオ・コード」という本でもないのか。
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