「マンドラ」のいろいろ
「マンドラ」といえば、今ではマンドラ・テノールを指すことが多いですが、テノール(イタリア語読みでは「テノーレ」)とあるように、他にも種類がありコントラルトとかアルトといった楽器が、昔の楽譜にも書かれています。私自身テノール以外のマンドラを見たことも聴いたこともありません。なぜテノールだけが残ったかは知りませんし、どういう歴史があるのか知っている方がいらっしゃれば教えていただきたいのですが、ここではなぜかという話には触れずに行きたいと思います。しかし、別の可能性があったということは押さえていただきたいと思います。
マンドラの音域と楽譜
マンドラ・テノールの音域はマンドリンの1オクターブ下です。調弦も全て1オクターブ下で5度間隔です。マンドリンの調弦はヴァイオリンと全く同じですが、ヴィオラの調弦はヴァイオリンの5度下であってマンドラ・テノールとは異なっています。つまり、マンドラ・テノールの音域はヴィオラの4度下ということになります。
楽譜に関しては、マンドラ・テノールの楽譜はト音記号で書かれ、実音より1オクターブ高く書かれます。これにより楽譜の見かけと運指の関係がマンドリンと同様になります。これに対しヴィオラの楽譜はハ音記号のアルト記号によって実音で書かれており、運指に関してもヴァイオリンとの共通点がありません。
このように、マンドラ・テノールとヴィオラは同じ位置づけとされていますが音域と楽譜において異なっています。
弦楽セクションにおけるビオラの位置づけ
ヴィオラはヴァイオリンの5度下であり、チェロはヴィオラの1オクターブ下です。ヴィオラとチェロとを比較すると、ヴィオラの方がその楽器より高い音を出す楽器までの音域がせまいことになります。さらに、ヴィオラはヴァイオリンと同様に方に挟んで演奏するため楽器の大きさが制限され、チェロと比べると音が小さくなります。この二つから言えることは、ヴィオラはチェロより目立たない存在になるということです。
実際、第1ヴァイオリンとの対比で旋律を弾くのはヴィオラよりもチェロの方が多いと思います。第2ヴァイオリンとヴィオラはその間にあって和声的な間隔を埋めます。ヴァイオリンとチェロの方が、ヴァイオリンとヴィオラよりも音質的な対比がくっきりとします。
マンドリン・オーケストラにおけるマンドラ・テノールの位置づけ
マンドラ・テノールはマンドリンの1オクターブ下であり、マンドロン・チェロはマンドラ・テノールの5度下です。さらに言えば、ギターはマンドラ・テノールの3度下で、マンドロン・チェロはギターの3度下、マンドローネはマンドロン・チェロの3度下で、四弦コントラバスはマンドローネの4度下です。つまりマンドリンとマンドラ・テノールの間の音域差が最も広く、ぽっかりと空いているという感じです。
マンドラ・テノールはこの広い間隔をのなかでさまざまな仕事をしなくてはなりませんが、幸い、和声的な間隔を埋める役割はギターに任せることができます。そこで、第1マンドリンと対比的な旋律を弾くのがマンドラ・テノールの役割になります。これはビオラの仕事ではなくチェロの仕事に近いといえます。このためマンドロン・チェロは専ら和音を支えたりリズムを刻むなど、低音としての役割がほとんどになります。
作曲・編曲の中での取扱い
和声をギターに任せられる時は、ある程度安心して旋律を弾かせることが出ますが、例えばトレモロで和音を作りたい時に、マンドラ・テノールをいくつかに割って旋律を弾くパートと和音を弾くパートに分けたりしますと、旋律がぼけて何をやっているのかわからなくなります。また、マンドラ・テノールとマンドロン・チェロとは音色としての対比がつけにくいため、音域が近いところでは旋律を弾かせない方がいいでしょう。
ヴィオラのような影のように働くパートをマンドラ・テノールに任せて、マンドロン・チェロに旋律を弾かせるということも考えられます。ところが、マンドロン・チェロは楽器が大きく弦も太いので、うまく旋律を弾くことが難しいといえます。ですから、相当優秀なマンドロン・チェロパートがないと効果的にならない可能性があります。
第3マンドリンというアイデア
古い楽譜のなかで、たまに第3マンドリンを置いているものがあります。しかもそれが編曲ものだったりするのです。作曲で第3マンドリンを置くということは、新しい響きの探求と捉える事ができますが、編曲ではオリジナルの音楽をいかに再現するかということが主眼になっているはずですから、その理屈は通りません。編曲において第3マンドリンを置く狙いは、マンドリン・オーケストラを、管弦楽を再現するシステムとして捉えた場合に必要と考えたためであると思われ、その根底にはマンドリンとマンドラ・テノールとの音域差があると考えられます。
シルヴィオ・ラニエーリは編曲で第3マンドリンを好んで描いた人ですが、彼の編曲は高く評価されています。彼の編曲がよくできているのはシステムとしてのマンドリン・オーケストラに対する深い洞察の賜物であると思います。
マンドリン・オーケストラというシステム
作曲家の壺井一歩氏は「渚と詩人の三章」の解説で「マンドリンオーケストラの形態は、シンフォニーオーケストラの弦5部にギターを加えたもの、のように作曲家をあざむく。」と述べています。壺井氏のおっしゃることが私の議論とどう関わるのかは分かりませんが、ここまで読まれた方はマンドリン・オーケストラに関して、もうすでにそんな単純な形ではないと思っていらっしゃることと存じます。音色的にも音域的にも高音よりのビオラと違って、低音よりのマンドラ・テノールの位置づけは、管弦楽との大きな差異の一つです。マンドラ・テノールに限らず、とにもかくにも定着してしまったマンドリン・オーケストラをシステムとしてどう機能させるか、これはマンドリン・オーケストラにかかわるすべての人に突き付けられている問いでしょう。
次回(5月9日予定)は、室内楽的なマンドリン音楽について考えます。
〈雑記〉
今回から始めますこのコーナーですが、毎週書くネタがあるとは思えませんので(本編についても、正直申し上げて無理やり毎週書いている感じですが)、不定期でやろうと思っております。内容はタイムリーな話題を中心にしようと思います。最近の演奏会や購入した書籍や楽譜、CDなどで紹介できるものがあれば、気の向くままに書いてこうと思います。
さて、今回は先週末の4月26日(日)に開かれた「平上元子マンドリンコンサート」について取り上げます。
ある掲示板に掲載されていて、どんなものか興味がわき、ふらっと聴きに行ってみました。会場は大学の中くらいの教室程度の広さで、席はパイプ椅子で80席ほどでした。奏者は平上元子さん(マンドリン)と永田参男さん(ギター)のともに20代中ごろの若い方でしたが、若い方からお年を召した方までマンドリンが好きそうな方々が聴きに来られていました。
演奏は溌剌とした発音で、カラーチェのオールド・マンドリンの威力を堪能できました。全体として、所々音が抜け、ピアニッシモのトレモロが安定せず、フォルテ一つがフォルティッシモに聴こえるといった荒削りな部分があり、後半に従って息切れする感がありました。しかし、平子さんの初めての自主公演だそうで、一曲一曲本人の解説があり、1曲目の第一声が力んで乱れるほどの極度の、様々な意味での緊張状態にあった中、最後の方には盛り返す場面もあったのは聴いていて好感が持てました。
特に良かったと思ったのは、3曲目に演奏した桑原康雄の「月と山姥」です。各部分が丁寧に表現され、音の温度や湿度といった特徴を聴きとることができました。奏者の楽曲に対する思い入れが感じられました。
初めての自主公演という挑戦に共鳴し、それほど広くない会場が一体になっていく感覚は大変爽快でした。彼女には小さくまとまらず、挑戦を続けてほしいです。また、彼女以外にも多くのこのような挑戦がなされることを期待したいです。
「マンドラ」といえば、今ではマンドラ・テノールを指すことが多いですが、テノール(イタリア語読みでは「テノーレ」)とあるように、他にも種類がありコントラルトとかアルトといった楽器が、昔の楽譜にも書かれています。私自身テノール以外のマンドラを見たことも聴いたこともありません。なぜテノールだけが残ったかは知りませんし、どういう歴史があるのか知っている方がいらっしゃれば教えていただきたいのですが、ここではなぜかという話には触れずに行きたいと思います。しかし、別の可能性があったということは押さえていただきたいと思います。
マンドラの音域と楽譜
マンドラ・テノールの音域はマンドリンの1オクターブ下です。調弦も全て1オクターブ下で5度間隔です。マンドリンの調弦はヴァイオリンと全く同じですが、ヴィオラの調弦はヴァイオリンの5度下であってマンドラ・テノールとは異なっています。つまり、マンドラ・テノールの音域はヴィオラの4度下ということになります。
楽譜に関しては、マンドラ・テノールの楽譜はト音記号で書かれ、実音より1オクターブ高く書かれます。これにより楽譜の見かけと運指の関係がマンドリンと同様になります。これに対しヴィオラの楽譜はハ音記号のアルト記号によって実音で書かれており、運指に関してもヴァイオリンとの共通点がありません。
このように、マンドラ・テノールとヴィオラは同じ位置づけとされていますが音域と楽譜において異なっています。
弦楽セクションにおけるビオラの位置づけ
ヴィオラはヴァイオリンの5度下であり、チェロはヴィオラの1オクターブ下です。ヴィオラとチェロとを比較すると、ヴィオラの方がその楽器より高い音を出す楽器までの音域がせまいことになります。さらに、ヴィオラはヴァイオリンと同様に方に挟んで演奏するため楽器の大きさが制限され、チェロと比べると音が小さくなります。この二つから言えることは、ヴィオラはチェロより目立たない存在になるということです。
実際、第1ヴァイオリンとの対比で旋律を弾くのはヴィオラよりもチェロの方が多いと思います。第2ヴァイオリンとヴィオラはその間にあって和声的な間隔を埋めます。ヴァイオリンとチェロの方が、ヴァイオリンとヴィオラよりも音質的な対比がくっきりとします。
マンドリン・オーケストラにおけるマンドラ・テノールの位置づけ
マンドラ・テノールはマンドリンの1オクターブ下であり、マンドロン・チェロはマンドラ・テノールの5度下です。さらに言えば、ギターはマンドラ・テノールの3度下で、マンドロン・チェロはギターの3度下、マンドローネはマンドロン・チェロの3度下で、四弦コントラバスはマンドローネの4度下です。つまりマンドリンとマンドラ・テノールの間の音域差が最も広く、ぽっかりと空いているという感じです。
マンドラ・テノールはこの広い間隔をのなかでさまざまな仕事をしなくてはなりませんが、幸い、和声的な間隔を埋める役割はギターに任せることができます。そこで、第1マンドリンと対比的な旋律を弾くのがマンドラ・テノールの役割になります。これはビオラの仕事ではなくチェロの仕事に近いといえます。このためマンドロン・チェロは専ら和音を支えたりリズムを刻むなど、低音としての役割がほとんどになります。
作曲・編曲の中での取扱い
和声をギターに任せられる時は、ある程度安心して旋律を弾かせることが出ますが、例えばトレモロで和音を作りたい時に、マンドラ・テノールをいくつかに割って旋律を弾くパートと和音を弾くパートに分けたりしますと、旋律がぼけて何をやっているのかわからなくなります。また、マンドラ・テノールとマンドロン・チェロとは音色としての対比がつけにくいため、音域が近いところでは旋律を弾かせない方がいいでしょう。
ヴィオラのような影のように働くパートをマンドラ・テノールに任せて、マンドロン・チェロに旋律を弾かせるということも考えられます。ところが、マンドロン・チェロは楽器が大きく弦も太いので、うまく旋律を弾くことが難しいといえます。ですから、相当優秀なマンドロン・チェロパートがないと効果的にならない可能性があります。
第3マンドリンというアイデア
古い楽譜のなかで、たまに第3マンドリンを置いているものがあります。しかもそれが編曲ものだったりするのです。作曲で第3マンドリンを置くということは、新しい響きの探求と捉える事ができますが、編曲ではオリジナルの音楽をいかに再現するかということが主眼になっているはずですから、その理屈は通りません。編曲において第3マンドリンを置く狙いは、マンドリン・オーケストラを、管弦楽を再現するシステムとして捉えた場合に必要と考えたためであると思われ、その根底にはマンドリンとマンドラ・テノールとの音域差があると考えられます。
シルヴィオ・ラニエーリは編曲で第3マンドリンを好んで描いた人ですが、彼の編曲は高く評価されています。彼の編曲がよくできているのはシステムとしてのマンドリン・オーケストラに対する深い洞察の賜物であると思います。
マンドリン・オーケストラというシステム
作曲家の壺井一歩氏は「渚と詩人の三章」の解説で「マンドリンオーケストラの形態は、シンフォニーオーケストラの弦5部にギターを加えたもの、のように作曲家をあざむく。」と述べています。壺井氏のおっしゃることが私の議論とどう関わるのかは分かりませんが、ここまで読まれた方はマンドリン・オーケストラに関して、もうすでにそんな単純な形ではないと思っていらっしゃることと存じます。音色的にも音域的にも高音よりのビオラと違って、低音よりのマンドラ・テノールの位置づけは、管弦楽との大きな差異の一つです。マンドラ・テノールに限らず、とにもかくにも定着してしまったマンドリン・オーケストラをシステムとしてどう機能させるか、これはマンドリン・オーケストラにかかわるすべての人に突き付けられている問いでしょう。
次回(5月9日予定)は、室内楽的なマンドリン音楽について考えます。
〈雑記〉
今回から始めますこのコーナーですが、毎週書くネタがあるとは思えませんので(本編についても、正直申し上げて無理やり毎週書いている感じですが)、不定期でやろうと思っております。内容はタイムリーな話題を中心にしようと思います。最近の演奏会や購入した書籍や楽譜、CDなどで紹介できるものがあれば、気の向くままに書いてこうと思います。
さて、今回は先週末の4月26日(日)に開かれた「平上元子マンドリンコンサート」について取り上げます。
ある掲示板に掲載されていて、どんなものか興味がわき、ふらっと聴きに行ってみました。会場は大学の中くらいの教室程度の広さで、席はパイプ椅子で80席ほどでした。奏者は平上元子さん(マンドリン)と永田参男さん(ギター)のともに20代中ごろの若い方でしたが、若い方からお年を召した方までマンドリンが好きそうな方々が聴きに来られていました。
演奏は溌剌とした発音で、カラーチェのオールド・マンドリンの威力を堪能できました。全体として、所々音が抜け、ピアニッシモのトレモロが安定せず、フォルテ一つがフォルティッシモに聴こえるといった荒削りな部分があり、後半に従って息切れする感がありました。しかし、平子さんの初めての自主公演だそうで、一曲一曲本人の解説があり、1曲目の第一声が力んで乱れるほどの極度の、様々な意味での緊張状態にあった中、最後の方には盛り返す場面もあったのは聴いていて好感が持てました。
特に良かったと思ったのは、3曲目に演奏した桑原康雄の「月と山姥」です。各部分が丁寧に表現され、音の温度や湿度といった特徴を聴きとることができました。奏者の楽曲に対する思い入れが感じられました。
初めての自主公演という挑戦に共鳴し、それほど広くない会場が一体になっていく感覚は大変爽快でした。彼女には小さくまとまらず、挑戦を続けてほしいです。また、彼女以外にも多くのこのような挑戦がなされることを期待したいです。
ちなみにバイオリン属にテノールがないのは肩に担ぐには大き過ぎ、チェロのように持つには小さすぎるためだそうです。
コメントありがとうございます。
同じ系統の楽器の中でも何かしらの個性があるものですが、差があまりないと「認められる」というのは、興味深いですね。必要なら改良という方向性もなかったのかと思ってしまいます。