人気の秘密
「交響的前奏曲」と言えば、マンドリン音楽の世界ではウーゴ・ボッタッキアーリのそれを真っ先に思い浮かべる人が多いと思います。
マンドリン・オーケストラにとって交響的前奏曲はボッタッキアーリの中でも最も有名な曲の一つであり、最も演奏されている曲だと思います。なぜよく演奏されるか私なりの考えを申しますと、A.COMELLINIというところから出版されている楽譜がよく使われますが、この版の楽器編成が現代のマンドリン・オーケストラの編成で使いやすい、打楽器のないフル編成で書かれていて、しかも、少し長めで内容も充実していると評価されているためだと思います。ボッタッキアーリに限ったことではありませんが、フル編成でそのまま使える楽譜というのは、実は探すのが大変で、少しばかり小編成でもマンドリン・オーケストラで表現するに相応しいとあれば、低音楽器をつけ足したりして演奏したりします。また、10分弱より長いある程度まとまった時間の曲というのも探すのが大変で、一方で小品をたくさん並べたプログラムにするとしまらない感じがするので、どうしてもレパートリーが偏ってしまいます。そこで、原譜がそのまま使えて内容のある曲は偏重と言ってもいいほど重宝されます。
「交響的」とは
交響的前奏曲の原題は「Preludio Sinfonico」です。「Sinfonico」の部分が「交響的」と訳され、「Preludio」の部分が「前奏曲」と訳されています。どちらも曲の具体的な印象を掻き立てるものではありません。
まず「交響曲(楽)」は森鴎外の訳だそうで、「交響」は「響き合う」という意味です。英語のSymphonyを分解するとSym(共に)とphony(音、声)になりますから間違いではなさそうです。
ところで、Sinfonicoを名詞にするとSinfoniaという語になります。Sinfoniaであらわされるものは歴史的にみても紆余曲折があり、それが何を表すかはよくよく考えてみないとわからないものなのですが、ここでは触れないでおきます。確かにSinfoniaとSinfonicaは関係がありますが、Sinfoniaが形式的な面に着目するのに対し、Sinfonicoはどちらかというと質的な面に着目していると思われます。
「Sinfonico」というのはどういうことなのでしょうか。「交響的~」という言葉はたくさん使われますが、それはその曲によって微妙に意味が異なるようです。いくつか例をあげます。
1.交響的舞曲(ラフマニノフ)
2.歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から交響的間奏曲(マスカーニ)
3.交響的練習曲(シューマン)
1.の用法は近代以降よく使われるもので、「交響曲のように多彩な響きの管弦楽曲」というような意味でしょう。2.については単に「間奏曲」とも言われますが、「交響的」をつける場合があり、これが意味するところは「オペラの中にあって、独立した部分として機能する器楽曲」ということでしょう。3.は純粋なピアノ曲なのですが、表現上の注釈として「多彩な響きを要求する」という意味だと思われます。
このように「交響的」という言葉は、曲によって意味が変わりうることを意識してみないと解釈を見失うことがあります。
「前奏曲」とは
前奏曲というと、オペラや組曲の最初に演奏される曲ということですが、そうでない場合もあります。たとえば、ショパンの「24の前奏曲」やドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」などは何かの最初の曲というものではなく、単独の楽曲です。
同様に最初の曲という意味もありつつ単独の楽曲としても使われるという面では、「序曲」というのもあります。序曲に比べると前奏曲は、構造がはっきりせず自由な構成であることが多いように思います。ショパンの例に見るように、伝統的には短い曲の中に自由な楽想を詰め込んだ小品が典型とされています。
しかし、ワーグナーの楽劇に見られる前奏曲は規模が大きく、機能的には序曲でもいいのではないかと思われるものですが、そこに込められた序曲との違いはその後の作曲家にも影響を与えます。ワーグナーの前奏曲は各幕の前に置かれ、本編と滑らかに繋がるように作曲されているとのことですが、彼の特徴である息の長い旋律がそれまでの序曲のもつソナタ形式やイタリア式の三部構成形式の構築性と一線を画しています。
「交響的前奏曲」といえば
さて、この「交響的前奏曲」という、捉えどころのない一般的な音楽用語で構成される曲名をもつ曲は、有名な曲では少ないようです。少し調べてみますと、プッチーニに同名の曲があり、エルガーに「ポローニア」という交響的前奏曲があるそうです。プッチーニの曲は短い前奏曲ではなく、どうやらワーグナーの影響があるのではないかというような、10分弱といった長さをもつ曲です。ただ、旋律と構成はプッチーニらしさが見られ、ゆったりとしたリズムに祈るような旋律が乗り、徐々にスケールを増す構成が特徴です。この場合の「交響的」というのは「オーケストラの機能を生かした」という意味で使われていると思われます。
マンドリンの世界ではボッタッキアーリの他にトレヴィジオルやデ・ミケーリという作曲家が交響的前奏曲を書いていまして、わりとこの名前は知られているのですが、他の管弦楽の世界であまり多くないところを見ると、プッチーニのこの曲が影響を与えていると考えられるのではないでしょうか。
ボッタッキアーリとプッチーニ
ボッタッキアーリはマスカーニの弟子で、マスカーニといえば「ヴェリズモ」です。ヴェリズモは神話や伝説の物語でなく、より現実的な物語を使用して人間の内面に焦点を当てて作られるオペラの流行で、19世紀の末ごろから20世紀初頭にかけて起こったものです。ヴェリズモはマスカーニとレオンカヴァルロが有名ですが、プッチーニの「ボエーム」もヴェリズモの作品であるといわれます。ボッタッキアーリも直接師事はしていないともプッチーニの影響を受けているという推理はできそうです。
ボッタッキアーリの交響的前奏曲
ボッタッキアーリの交響的前奏曲はプッチーニのそれと比較すると最初から大変印象深い旋律が現れ、その後何度も少しずつ形を変えつつも現れるため、非常に印象に残るようになっています。主題が発展していく変奏曲のようではありますが、動機のリズムを少し変えたり反進行をしたりする発展の仕方で、大上段からの変奏曲ではなく「変奏曲らしく聞こえるところもある」という感覚です。それにボッタッキアーリ独特のやや極端ともいえる速度法も盛り込まれ、構造としての解釈は困難を極めます。これに比べて、プッチーニはあっさりとした速度法で、落ち着いた音楽になっています。プッチーニの方はクライマックスこそありますが、長いディミヌエンドを伴い演奏会の最後にすると物足りないという感じで、「演奏会用前奏曲」という文字通りの役割を果たしえます。これと比べるとボッタッキアーリの場合は、クライマックスが最後の方にあり、演奏会の最後でも演奏されます。
ボッタッキアーリがプッチーニの影響を受けているとしても、それは上に見たように非常に個性的な形で大胆にアレンジされているといえ、前奏曲という自由な形式のなかで彼の個性が凝縮されたものになっています。しかし、演奏会の最後に演奏するには若干弱いと思います。弱いというのは、発展性と盛り上がり方、演奏家の技巧の度合いなどを考えると聴く側の印象は「メイン」とまではいかないのではないかと思います。かといって、前奏曲を真に受けて最初に演奏するのもあくが強いと思います。ですから、あくまで私見ですが中盤にアクセントとして演奏することが妥当だと思います。
アクセントとして演奏する場合の注意点は、テンポ変化や音量の変化を十分に読み込み、ボッタッキアーリの個性を抽出しつつも、ともすれば陥りやすい「力み過ぎ」を防ぐことです。テンポ変化をすっきりさせた演奏というのは面白みがありませんが、各部分を強調しすぎてお腹いっぱいになってしまうのは結果として全体としての印象をくすませます。
最初に書いたように、単に演奏しやすいというだけでよく演奏されているのは寂しい限りです。演奏会の中での位置づけや、そこでなされるべき解釈はどうあるべきかにこだわりを持って演奏される時に、楽曲の取り扱い方や表現しているものについての新たな発見があると思います。
次回(5月2日予定)は、マンドラの位置づけについて考えます。
「交響的前奏曲」と言えば、マンドリン音楽の世界ではウーゴ・ボッタッキアーリのそれを真っ先に思い浮かべる人が多いと思います。
マンドリン・オーケストラにとって交響的前奏曲はボッタッキアーリの中でも最も有名な曲の一つであり、最も演奏されている曲だと思います。なぜよく演奏されるか私なりの考えを申しますと、A.COMELLINIというところから出版されている楽譜がよく使われますが、この版の楽器編成が現代のマンドリン・オーケストラの編成で使いやすい、打楽器のないフル編成で書かれていて、しかも、少し長めで内容も充実していると評価されているためだと思います。ボッタッキアーリに限ったことではありませんが、フル編成でそのまま使える楽譜というのは、実は探すのが大変で、少しばかり小編成でもマンドリン・オーケストラで表現するに相応しいとあれば、低音楽器をつけ足したりして演奏したりします。また、10分弱より長いある程度まとまった時間の曲というのも探すのが大変で、一方で小品をたくさん並べたプログラムにするとしまらない感じがするので、どうしてもレパートリーが偏ってしまいます。そこで、原譜がそのまま使えて内容のある曲は偏重と言ってもいいほど重宝されます。
「交響的」とは
交響的前奏曲の原題は「Preludio Sinfonico」です。「Sinfonico」の部分が「交響的」と訳され、「Preludio」の部分が「前奏曲」と訳されています。どちらも曲の具体的な印象を掻き立てるものではありません。
まず「交響曲(楽)」は森鴎外の訳だそうで、「交響」は「響き合う」という意味です。英語のSymphonyを分解するとSym(共に)とphony(音、声)になりますから間違いではなさそうです。
ところで、Sinfonicoを名詞にするとSinfoniaという語になります。Sinfoniaであらわされるものは歴史的にみても紆余曲折があり、それが何を表すかはよくよく考えてみないとわからないものなのですが、ここでは触れないでおきます。確かにSinfoniaとSinfonicaは関係がありますが、Sinfoniaが形式的な面に着目するのに対し、Sinfonicoはどちらかというと質的な面に着目していると思われます。
「Sinfonico」というのはどういうことなのでしょうか。「交響的~」という言葉はたくさん使われますが、それはその曲によって微妙に意味が異なるようです。いくつか例をあげます。
1.交響的舞曲(ラフマニノフ)
2.歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」から交響的間奏曲(マスカーニ)
3.交響的練習曲(シューマン)
1.の用法は近代以降よく使われるもので、「交響曲のように多彩な響きの管弦楽曲」というような意味でしょう。2.については単に「間奏曲」とも言われますが、「交響的」をつける場合があり、これが意味するところは「オペラの中にあって、独立した部分として機能する器楽曲」ということでしょう。3.は純粋なピアノ曲なのですが、表現上の注釈として「多彩な響きを要求する」という意味だと思われます。
このように「交響的」という言葉は、曲によって意味が変わりうることを意識してみないと解釈を見失うことがあります。
「前奏曲」とは
前奏曲というと、オペラや組曲の最初に演奏される曲ということですが、そうでない場合もあります。たとえば、ショパンの「24の前奏曲」やドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」などは何かの最初の曲というものではなく、単独の楽曲です。
同様に最初の曲という意味もありつつ単独の楽曲としても使われるという面では、「序曲」というのもあります。序曲に比べると前奏曲は、構造がはっきりせず自由な構成であることが多いように思います。ショパンの例に見るように、伝統的には短い曲の中に自由な楽想を詰め込んだ小品が典型とされています。
しかし、ワーグナーの楽劇に見られる前奏曲は規模が大きく、機能的には序曲でもいいのではないかと思われるものですが、そこに込められた序曲との違いはその後の作曲家にも影響を与えます。ワーグナーの前奏曲は各幕の前に置かれ、本編と滑らかに繋がるように作曲されているとのことですが、彼の特徴である息の長い旋律がそれまでの序曲のもつソナタ形式やイタリア式の三部構成形式の構築性と一線を画しています。
「交響的前奏曲」といえば
さて、この「交響的前奏曲」という、捉えどころのない一般的な音楽用語で構成される曲名をもつ曲は、有名な曲では少ないようです。少し調べてみますと、プッチーニに同名の曲があり、エルガーに「ポローニア」という交響的前奏曲があるそうです。プッチーニの曲は短い前奏曲ではなく、どうやらワーグナーの影響があるのではないかというような、10分弱といった長さをもつ曲です。ただ、旋律と構成はプッチーニらしさが見られ、ゆったりとしたリズムに祈るような旋律が乗り、徐々にスケールを増す構成が特徴です。この場合の「交響的」というのは「オーケストラの機能を生かした」という意味で使われていると思われます。
マンドリンの世界ではボッタッキアーリの他にトレヴィジオルやデ・ミケーリという作曲家が交響的前奏曲を書いていまして、わりとこの名前は知られているのですが、他の管弦楽の世界であまり多くないところを見ると、プッチーニのこの曲が影響を与えていると考えられるのではないでしょうか。
ボッタッキアーリとプッチーニ
ボッタッキアーリはマスカーニの弟子で、マスカーニといえば「ヴェリズモ」です。ヴェリズモは神話や伝説の物語でなく、より現実的な物語を使用して人間の内面に焦点を当てて作られるオペラの流行で、19世紀の末ごろから20世紀初頭にかけて起こったものです。ヴェリズモはマスカーニとレオンカヴァルロが有名ですが、プッチーニの「ボエーム」もヴェリズモの作品であるといわれます。ボッタッキアーリも直接師事はしていないともプッチーニの影響を受けているという推理はできそうです。
ボッタッキアーリの交響的前奏曲
ボッタッキアーリの交響的前奏曲はプッチーニのそれと比較すると最初から大変印象深い旋律が現れ、その後何度も少しずつ形を変えつつも現れるため、非常に印象に残るようになっています。主題が発展していく変奏曲のようではありますが、動機のリズムを少し変えたり反進行をしたりする発展の仕方で、大上段からの変奏曲ではなく「変奏曲らしく聞こえるところもある」という感覚です。それにボッタッキアーリ独特のやや極端ともいえる速度法も盛り込まれ、構造としての解釈は困難を極めます。これに比べて、プッチーニはあっさりとした速度法で、落ち着いた音楽になっています。プッチーニの方はクライマックスこそありますが、長いディミヌエンドを伴い演奏会の最後にすると物足りないという感じで、「演奏会用前奏曲」という文字通りの役割を果たしえます。これと比べるとボッタッキアーリの場合は、クライマックスが最後の方にあり、演奏会の最後でも演奏されます。
ボッタッキアーリがプッチーニの影響を受けているとしても、それは上に見たように非常に個性的な形で大胆にアレンジされているといえ、前奏曲という自由な形式のなかで彼の個性が凝縮されたものになっています。しかし、演奏会の最後に演奏するには若干弱いと思います。弱いというのは、発展性と盛り上がり方、演奏家の技巧の度合いなどを考えると聴く側の印象は「メイン」とまではいかないのではないかと思います。かといって、前奏曲を真に受けて最初に演奏するのもあくが強いと思います。ですから、あくまで私見ですが中盤にアクセントとして演奏することが妥当だと思います。
アクセントとして演奏する場合の注意点は、テンポ変化や音量の変化を十分に読み込み、ボッタッキアーリの個性を抽出しつつも、ともすれば陥りやすい「力み過ぎ」を防ぐことです。テンポ変化をすっきりさせた演奏というのは面白みがありませんが、各部分を強調しすぎてお腹いっぱいになってしまうのは結果として全体としての印象をくすませます。
最初に書いたように、単に演奏しやすいというだけでよく演奏されているのは寂しい限りです。演奏会の中での位置づけや、そこでなされるべき解釈はどうあるべきかにこだわりを持って演奏される時に、楽曲の取り扱い方や表現しているものについての新たな発見があると思います。
次回(5月2日予定)は、マンドラの位置づけについて考えます。