Xperia押しと言うか、(機種変更で新しい操作を覚えるのが面倒な為か?)画像と音だけは譲れ無いと思い店員さんに希望を話した。
「これ、これ・・」と指差しすると
「それは高機能だから」と店員さんに遮断され、安い方の同機種を勧められた。
「手が小さくても、片手で操作出来ます」
画面が小さくなって大変不便している今、後悔。
大昔のXperiaは形が程良くカーブして、手の平にフィットし、画面がソコソコ大きくても片手で操作出来た・・・買い替える度に上がっていたテンションも今回は涙目。
本来重宝した操作ボタンもgoogleに侵食され使えない使用になっている。音声操作なんて、社会生活の日常で使える場面は多く無い?社内で?公共の場所で?オプションで付けるのは勝手だけれど、また多用する方もいると思うけど、人間の社会生活サイクルで多用出来る時間帯を考えたらメインボタンに仕掛ける操作は邪魔でしか無い。
人それぞれではあるけれど・・。
人は↑この様な事を企業側から押し付けられる度に、活用出来る事を自慢気に話す人を産み、活用出来なければ馬鹿にし見下すを繰り返し、発展と言う心地良い言葉に流され、沢山の汚染や取り返しの付かない肉体的被害を知りながら自分が害を受けなければ内心「ヤバいのでは?」の感覚を見ぬふりをしてきた。
今、声高に「目覚めた人」を自称し、過激な批判をする人々は、この「ヤバいのでは?」を正直に訴える人だと思う。
自立した人として、訴える内容は正しい。
しかし、時が過ぎて、訴えは暴言となり、自己満の正義の暴力になり、負側の粛清を望み、負側の死に歓喜するとしたら・・・第二次世界大戦のムッソリーニの○体を逆さ吊りにし歓喜した民衆や、紅衛兵が知識階級を民衆の前でリン○した昔と・・・同じ行動だと思う。
飲食店で暴言を吐き法を守れと宣う人に、私が感じるのは・・・
勢いで行動し、正当性を主張する場所や相手を間違えていないか。自分の過去の主張を無視された反動であって、個人の自由や店側の経済活動に対する圧力や暴力にならないのか、私は大変不快に思っている。
自称「目覚めた」人は大変利己的で愛が無い。
枠チンを選択した人に、真顔で自業自得と独善的な物言いをするのは、人の命に対し残酷。
ただ、見守り助けを必要とされた時に助ければ良いだけ。
公共機関に訴えたい主張は、組織だった活動をなさる方々と実名で共にどうぞ。その方が有益。
《目には目を歯に歯を》的な思考こそが、自らの霊格を悪側まで引き下げ、自らの魂を穢れに落とす事になる・・・と最近やってしまった私の経験を、自称「目覚めている人」に送りたい。
毛沢東も始めはクリスチャン的な母親の元、良い人だったと記録があるけれど、晩年はズレる。人の分岐点は、社会に向かう時程要注意。