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日々のスピリチュアル日記です。

久々に投げかけられた言葉

またご無沙汰してしまいました。

過去に心臓を痛めた事があり、地震が多い昨今体調を維持しずらくblogを書く気力がなかった。

体調不良は安定した祈りも思考も乱し、特にカトリックの復活祭(イースター)前の1ヶ月程の期間は耐え忍びの時期でもあり、問題も抱えやすい。

今現在、幾つかの神々へのおねだり的な願いは、時間経過とともに疑問を抱いたり、不安感を持って願う中にも神々の導きで回答を頂き、形や方向性が変化している。

最近一つの印としての回答を得たので記録したい。

上記疑問に思っていたのは、
「高々数十年の寿命、砂漠の一粒でしかない自分が願って良い事なのだろうか?」
「エゴではないか?」
「この願いは、地に破壊をもたらす願いではないのか?」

引き気味の思考だったが、
「許す」の回答を数ヶ月に頂き、今は疑う事なく願いの一つとなっている。他の願いもこうしたやり取りが神々様との絆と信頼を強めてくれる通常の回答を得る経過。

それとは別に自分の祈りに対する、良し悪しを知るパターンがある。
以前の記録にも時折書いたが、霊戦によって得る回答がある。

多分神々を背景に持つ霊能者、修行僧、修道者の方々はこの霊戦を自覚無くとも経験し修練させられて現在があると思う。
(人霊、動物霊の力を背景にしている方は私には解らない)

神々様の御加護を背景に戦いを通して経験値と戦う手法を学んでいく。霊体あり、憑依した人を介し、肉体的な不調を通し、四方八方からの攻撃によりより敵を深く理解しながら、同時に神々の御加護で霊的に育てられていく。

そして、酷い時には命も狙われるのだけれど、これにより
「ああ、私が邪魔なんだ」と理解し
以前以上に神々の御加護を願う結果に至り、

「邪魔にするなら、私のしている祈りが間違っていない証拠」とより一層祈りに励む結果となる。

過去祈りの集団に身を置いていた時、余りの混乱に育った教会を後にしたが、今の地に来ても攻撃は止まず、2度車が私の近くに飛び込んで来た事があった。その1度はハンドルを切る角度がズレていたら私を確実に跳ね殺していたと思う。
また、魔が憑依した人からその本人の声ではない声で「死ね」と言われた事もあった。
この頃は修道者育成基金活動をして祈っていた事も、魔には邪魔だったのだと思う。 

数年間はあってもビジョン止まりだったが、久々の事故は数ヶ月前の骨折した件が魔によるものと思っている。メイン事故ではあったが、
数日前にも言葉によるそれがあった。

「この祈りは意味があるのか」と身動きが取れない生活や後遺症的な心臓痛で悩み苦しむ中、
「殺す」が目にはいった。
シンクロと言って良いのか、明確な回答だった。
「殺す」程邪魔なら、今の私の祈りは意味があるし、神々の前に受け入れられている。そう私は確信した。
《継続確定》

祈りにより創造主の愛を地に頂く願いは、神々様の御前に置いての私の仕事であり、私の真我(願い)であって、他の方々に同じ経験を求めるものでは無い。

*************

宗教を嫌う人は多い。
しかし、その嫌いの視点は集団の動きで過去成してきたその集団の悪行でしかない事に気づいて頂けたらと思う。

人や集団では無く神々と御縁が繋がり、その恩恵や愛の深さに一人でも多くの方が心や魂の癒しを頂ける事を願っている。

宇宙意識ばかりがフォーカスされるスピリチャル界ではあるけれど、基礎になる癒された心を持つ為、また善悪を無視した波動一点張りのフワフワ思考に足元を掬われない様、神々様の元に愛と心の避難所を頂きながらエゴを見極め、宇宙意識を求める備えをして頂ける事を願っている。















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