かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・春日部八幡神社の「都鳥の碑」

2022-08-18 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/06/18・更新日:2022/08/18

前回書いた記事中の大落古利根川のユリカモメ(都鳥)に因む石碑について、

◆市指定有形文化財「都鳥の碑」

2019年3月26日春日部市有形文化財(歴史資料)に指定された「都鳥の碑」(みやこどりのひ)春日部八幡神社参道入口の鳥居の脇に建っています。碑文は読み難いですが、ご紹介します。

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左側が文化財に指定され石碑

◆都鳥の碑

名称

都鳥の碑

員数

1基

所在地

春日部市粕壁字浜川戸5597番

所有者

宗教法人 八幡神社

概要

本資料は、在原業平(ありわらのなりひら)の隅田川の伝承などを伝えるため、1853年(嘉永(かえい)6年)、粕壁宿名主の関根(せきね)氏らによって建立された石碑です。刻まれた和歌や詞書は千種有功(ちぐさありこと)によるものであり、当時名のある歌人であった京都の公卿(くぎょう)と粕壁宿の住民に国学に関する交流があったことがうかがえることから、粕壁宿民らの文化活動の広まりとその成果の反映といった文化史的な価値が認められる資料です。また、碑の内容が地域を流れる古隅田川に関わる伝承であることや、中世の武士である春日部(かすかべ)氏に関わる春日部八幡神社の由緒を伝えることから、地域の伝承の継承に寄与した資料であることも評価できます。(『春日部市広報』より)

春日部八幡神社表参道入口の左隅に建立されている碑(高さ3. 37㍍、幅1.8㍍の石碑)を「都鳥の碑」といい、江戸時代末期に建立されたもです。

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現地の説明板には

「都鳥の碑」について

 

「名にしおばはいざ言問はん都鳥

   わが思ふ人はありやなしやと」

この歌は、在原業平(平安初期の歌人)が奥州を旅をしたとき、武蔵国と下総との境にある隅田川の渡しで詠んだものである。往古当神社の辺りが両国の境になっており、奥州への通路にもなっていました。この石碑は、その故事を後世に伝えんと、江戸末期嘉永六年(1853年)粕壁宿の関根孝凞が千草正三位有功に依頼し由緒をあらわしたものです。

この「都鳥の碑」を建立した関根(旧姓多田、明治期に関根に改姓)孝凞は、江戸末期、幕末時の粕壁宿名主の関根次郎兵衛孝凞(安政4年5月21日没75歳)のこと。

関根次郎兵衛孝凞は歴史を研究、また書をよくし、粕壁宿近郷にも次郎兵衛の書いた碑文が散見されます。粕壁宿の道標にもその名が刻まれています。

次郎兵衛の子八郎孝純氏(粕壁町初代町長の多田亀十郎氏のこと)も父親と同じく歴史、書を好み多くの事績を残しています。

また、この碑の右側には道標石が、

「参道入口道標石」について

当神社前の道路は、往古下総国より武蔵国向かう鎌倉街道の道筋であり、数多くの歴史が刻まれれてきました。

この道標石は、これまで金山の踏み切りの先、三叉路に当神社の「参道入口道標石」として建立されていましたが、自動車によって倒壊することが多く安全のため去る平成九年二月にこの参道に移設しました。

とあります。

因みに

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金山踏み切り 参道入口道標石の跡が
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参道入口道標石があった跡が残っています。

都鳥の碑の碑文

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表面はこんな感じ、 私には読めません。

実は、次のように刻まれています。

表面

隅田川は むさしと下つふさ(下総)の國の界なり 陸奥に往きかふ道にあたる所を 春日部のうまや(駅)といふ 在原中将の いざこととはん都鳥とよめりし跡ながら ふち(淵)とかはりて 今小川となり むかしのわたりは岡となりしが 元弘の年さが美の国鶴岡の銀杏の一えだ(枝)飛来りて、ひとよ(一夜)のほどの おひ(生)たちけり、其神木のもと(元)に鎮りいます(在)神のみいづ(御稜威)の、いやましに 幸ひ給へる みやしろ(御社)のあたりぞ いざ舟にのれと云ひけん 昔の名残なりけリふ

      

     正三位 有功

 

とはれつるあとだにとめよ都鳥
   むかしは遠きわたりなりとも

 

神垣にたてるひと木をためしにて

   千々にさかえん春日部の里

( 『春日部の文化財』1979.12.1 春日部市教育委員会)

なかなかの名文です。表面に、確かに「正三位 有功」の文字があります。

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裏面は茂みがあり撮影は断念。

裏面には、次のように刻まれているようです。

裏面

新方四十余郷惣社春日部八幡宮は 旧領主春日部治部少輔時賢(かすかべじぶしょうゆときかた)主 隅田川の岡に造立せられたる所なり こたび千種殿に乞い奉りて詠歌を碑面に彫刻す 又放生会再興の為に高田貳反五畝三歩を寄付して永て永世に伝ふる者なり

   嘉永六年五月立
放生祭事いははら住る人々

 

関根八郎以下30名

『春日部の文化財』1979.12.1 春日部市教育委員会

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微かに嘉永六年五月の文字が見えます。

◆千種有功

この都鳥の碑文を書いた千種源有功(ちぐさ みなもとありこと)は堂上公卿で、正三位千種有条の次男、八代目当主。寛政8年11月9日(1796.12.7)生まれ、嘉永7年8月28日(1854.10.19)没。兄有秀の跡をうけて家を継ぎ、左近衛中将正三位に任叙した。和歌に優れて四条派の画をよくし、洒落(しゃらく)な人柄で、また、刀剣の収集家としても知られた人物だったそうです。「都鳥の碑」が建った翌年にお亡くなりになっています。

なお、東京の須賀神社(東京都新宿区須賀町)に肖像・大岡雲峰画、歌・千種有功筆の三十六歌仙図が社宝として残っており、新宿区の指定文化財(絵画)に指定されています。

↓↓

須賀神社の三十六歌仙絵-新宿歴史博物館

※堂上公家とは、公家の家格の一つ。御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲した家柄。

また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる(Wikipedia)

◆最後に

確かに、幕末の頃、粕壁宿の名主と京都の上級貴族(公卿)との交流があったことはとても興味深いですね。

千種有功は歌人であり、和歌に優れていたということですので、業平の故事ことも良く知っていたのでしよう。

そして、京都の上級貴族(公卿)で著名な歌人の千種有功に詠歌を頂き、業平の故事に因んで碑を建てることは、当時の粕壁宿人々にとっては、とても誇らしいことだったのでしょうね。

この碑が残されていることで、地域の伝承が永年受け継がれてきたことを考えると、市の文化財としてもう少し早く指定されても良かったような気もします。

地域の貴重な文化財を大切に護り、次代に受け継がれていくことは、今を生きる私たちの大事な責務なのかも知れません。

【春日部八幡神社】