
このあいだ家の裏で建設工事が行われていて、いわゆる親方と思しき人間が、怒鳴りながら若者の顔面を蹴っていた。
鉄板入りの安全靴だから、下手をしたら歯を折るぐらいではすまない。
静観していたが止みそうにないので、警察に電話をして来てもらうと親方はニコニコして謝り、その後は怒鳴り声のみになった。
笑って誤魔化していた親方も醜かったが、蹴られていた若者が笑っていたのには腹が立った。
どうして「やり返さない若者」を見ると、腹が立つのだろう。
原子力発電所だけでなく、他発電所や例えば造船所の現場などでは、残念ながら暴力が無くならない。
知人や上司にそのことを話すと、そんなことはよくあることだと笑い飛ばしていた。
私は10年も現場で働いているので、よくあることだというのはわかっている。
もっとひどい現場もあると言われたが、それもよくわかる。そのくらいは想像がつく。
だが暴力について、よくあることだと笑い飛ばすことは、下手をすると暴力そのものよりも大きな問題になるかもしれないとその知人や上司はわかっているだろうか。
一方で、若者にもどうしようもないヤツがいる。
人の話を大切に聞かず、同じことを繰り返し、空いた時間が少しでもあるとスマホを見るために首を垂れるような若者だ。
そういう若者を見ると、いっそ殴られてしまえ、と思うので、やはり暴力は無くならないかもしれない。もちろん若者だけでなく、中高年も標的にされる。
この世の果てのような現場では特に、今までどうやって生きてきたんですか、というほど仕事ができない人がたくさんいる。極端にいうと箸を持てないとか、字を書けないとか数字が数えられないとかそういった人だが、本当によく殴られる。
殴る人も、殴られる人も、まるで運命の恋人のように同じ現場に存在していて、ごく自然に両者の関係は出来上がっていく。
私は暴力に出会う度に不快な気持ちになる。
どうやら振るう人、振るわれる人、そのどちらのことを思っても元気がなくなるようだ。
もちろん、自分が馬鹿にされた時も不快感を覚える。
一日中イライラするばかりか、大抵その人間の悪いところ、気に入らないところを思い浮かべ、腹の中で常に復讐に燃えている。
そうは言っても、ほとんどの場合実行には移さない。
だが例えば安全靴で顔面を蹴られていて、目の前に警察が来たとしたらどうだろう。
私だったら実際に負った傷を警察に見せて、必ず被害を訴える。
本人曰く熱い指導だろうが、それが業界の「よくあること」だろうが、腫れ上がった傷を見せればその親方は職を失う。
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若者よやり返せ、と言いたいわけではない。
私もギリギリ若者だが、通り魔や犯罪に走る若者は大勢いても、やり返さない若者は非常に少ない。どうしてだろうか。
以前有給休暇がとれないと悩む歯科衛生士の女友達がいて、組合に相談したらと言うとその女友達は組合という言葉自体を知らなかった。
明日職を失うと自殺しかない、というところまで追い込まれている人は別として、組合を知らない、というような若者に「やり返す」という概念が生まれるわけがない。
「やり返さなければ」と思うと、何かに対する飢えが生まれる。
ありとあらゆる方法で、強者に勝たなければいけないと思う。そのためには何が必要か考えることになる。
飢えの対象は、多分人それぞれだが、土曜の夜と日曜の朝にかけて小説でも読んでみるといいかもしれない。
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