フィールドからの手紙

様々なフィールド(=現場)において、気づいたことや驚いたことなどを綴っていきたいと思います。

フィールドの拡がり

2013-02-09 11:56:24 | 日記
「出会い」が結ぶフィールド

 私とフィールド(=現場)との出会いは、唐突で、偶然のことがほとんどです。現在では医療社会学の研究者ということになっていますが、学部から修士、そして博士課程に入った直後まで、私は芸術や文化の社会学を研究しようとしていました。修士号をとった論文のタイトルも「芸術の社会学―近代における芸術の社会的意味」で、博物館や美術館とも関係するだろうと思い学芸員の資格も取りました。
 博士課程でも芸術社会学をするということで入学を認められたのに、ひょんなことから医療の世界と出会い、医療をフィールドに研究することになってしまいました。この医療の世界との初めての出会いは、准看護師問題でした。当時私の所属していた研究室が、厚生労働省看護課から准看護師問題について全国調査をするよう依頼されたからです。
 この研究室は、それまで全く医療とは関係なく、住民運動や社会問題などを対象に調査研究をしていました。そのような所になぜこのような調査の依頼が来たのでしょうか。その理由は、准看問題というのは、存続を強く主張する医師会、廃止や見直しを検討したい厚生省(当時)や看護協会など、様々なステークホルダーが関わっている争点なので、少しでも利害関係のある人が調査したら信用されず、部外者が中立的に調査することが望ましいと考えられたからだと聞きました。
 その後、様々な出会いがあり、チーム医療、医療事故、生体肝移植、患者会等、医療に関する領域での研究をさせて頂いてきました。やがて夫がアメリカの大学に研究留学することに決まって、2004年に家族でニューヨークに向かい、その後2007年からはボストンに住む事になりました。アメリカではご縁があって、ニューヨークでもボストンでも公衆衛生大学院に所属していました。そしてアメリカ社会や公衆衛生の世界、患者会やアドボカシー活動にも出会いました。

星槎グループとの出会い

 アメリカでの暮らしは7年に及び、2011年になり、そろそろ日本に帰るころだと思っていたところに、東日本大震災が起きました。大変なことになり、何か自分にできることはないかと思いましたが、海外で一部のメディアやツイッターや親しい人からの連絡などからしか情報が得られないまま、もどかしい思いを抱いていました。そのような中で、MRIC編集長の上昌広氏が震災直後に「地震医療ネットワーク」というメーリングリストを立ち上げ、現場の声が流れてくるようになりました。
 そして2011年5月、半年前から予定されていた講演会のため、一時帰国をする機会がありました。すぐに「地震医療ネットワーク」を通じて知己になった相馬市の尾形氏を訪ねたい旨を上氏にも相談しました。この際に、相馬市に行くなら連絡してみるようにと、星槎グループ会長の宮澤保夫氏の携帯電話番号を教えて頂きました。
 宮澤会長にご連絡したところ、震災直後に継続的被災地支援のために借り上げた相馬市内の合宿所を紹介していただきました。こうして星槎グループの被災地での数々の支援を知り、星槎グループがいかなるものであるかを知ることになりました。星槎グループは、一言でいうのは難しいほど、幅広い活動をしているところなのですが、保育園・幼稚園から中高・大学までの学校と、芸術関係のNPO法人や農業法人も含む教育関係の団体です。
 このようにして星槎グループとの出会いがあり、2011年の10月からはグループ内の星槎大学に勤務することになりました。そして、長くなったアメリカ生活から、徐々に活動の場を日本へと移すようになりました。

ブータンを訪ねて

 この星槎との出会いによって私の活動範囲は、地理的にも、専門領域的にもグンと広がってきました。星槎大学では、本当にいろいろなことをやらせて頂いているのですが、例えば、ブータンとのつながりもその一つです。
2012年度の新学期が始まって間もない頃、子ども達を水族館に連れて行っている時でした。突然、携帯に宮澤会長から電話があり、「ちょっとブータンに行かない?」。ブータンと言えば、国民総幸福量(GNH)や震災後に国王夫妻が来日したことで話題になった国、ということくらいしか知りませんでした。しかし、星槎グループは既に20年来ブータンと交流を持っていました。星槎大学もブータンのロイヤル・ティンプー・カレッジとは姉妹校で、交換留学のプログラムが実施されることになっていました。
 2012年5月中旬に初めてブータンの地を訪れ、教育省大臣から環境NPOの代表者、警察庁の長官から家業の飲食店を手伝う子どもたちまでさまざまな方と出会い、すっかりブータンが好きになりました。そして同年9月には星槎の学生さんたちを連れて10日間のブータン・フィールドトリップを実施しました。

アジアの国々へ

 星槎グループ会長の宮澤保夫氏は、今から40年前に塾を始め、一貫して教育分野に関わってきました。「必要とされることをする」という信念で、子どもたちや社会に求められるままに通信制の高校、幼稚園や保育園、通学制中高、そして大学や大学院などを次々に作ってきました。
 また、世界こども財団という、日本を含む世界の子どもたちを支援する財団も設立し、東日本大震災で被災した福島県相双地区の子どもたちの支援や、ミャンマーやバングラデシュなど世界の子どもたちの衛生環境向上の支援などを行っています。2012年末も宮澤会長はミャンマーに大量の石鹸を寄付する為に訪れ、子どもたちだけでなく様々な要人とも会って、支援につなげようとしてこられました。軍総司令官ともお会いし、アウンサンスーチー氏が20年以上も自宅軟禁された背景には、混乱した国内情勢の中で、彼女の命を守るという意図もあったことを打ち明けられたとのことでした。
 これから私もアジアの国々との関係が多くなりそうで、これまでと異なる文化を持つ人々との交流を楽しみにしています。

教育という異文化圏

 大学院博士課程の院生の時に、医療という異文化を社会学的視点から見るような転機がありましたが、今度は教育という、また新しい文化圏の中に巻き込まれることになりました。
 文化人類学の権威マーガレット・ミードは、フィールドワークを「自分自身のいっさいの信念をしばらくは抑えて、自分とはちがう人びとの生活の中にはいり込み、かれらの物の見方を心と体で理解しようとする、繰り返しのきかない体験」と言いました。
 教育は、自分がこれまでの生活の中で最も深くかかわってきた分野であり、小学生と中学生の二人の子どもを持つ親としても、とても興味があります。しかし、社会学の対象として見ることはほとんどありませんでした。まさにミードの言う「いっさいの信念を抑える」ことが難しかったからなのではないかと思います、
 しかし、教育との「出会い」があった以上、それは私にとって大きな意味のあることなのでしょうから、研鑽を積んで、教育というフィールドでおもしろい発見をしていきたいと思います。本当に、人生の中では想定外のことが次々に起こります。ボストン便りで、医療を中心に現場(=フィールド)に足場をおいて見聞したことをお伝えしたように、再び、今の立場で体験し、見聞きした現場の状況を、皆様にお伝えしていきたいと思います。

<引用文献>
Mead, Margaret, 1977, Letters from the Field, 1925-1975, Introduction “World Perspectives” by Ruth Nanda Anshen=1984畑中幸子訳、フィールドからの手紙、岩波現代選書

2 コメント

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Unknown (うさうさ)
2013-03-01 07:58:17
はじめまして。記事とは関係のないコメントでもうしわけありません。

下記のブログで、先生が撮影されたと思われる写真が、まったく事実と異なるキャプション付きで掲載されております。デモに参加された方々の思いと正反対の主張であり、非常に腹立たしく思いました。

「すべてのワクチンは、おぞましい民族断種ワクチンであると宣言する!日本民族は、地上から消失してしまう!」
http://blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/80649a09f45d44510337b283762f432d
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Unknown (細田満和子)
2013-04-05 14:26:00
うさうささん

お知らせをありがとうございます。
色々な考え方の人がいるのは事実でしょうが、煽動的に意見を押し付けるような状況にあるのは悲しいことですね。
自分で調べて考えるリテラシーを身に付ける必要性を益々感じます。
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