フィールドからの手紙

様々なフィールド(=現場)において、気づいたことや驚いたことなどを綴っていきたいと思います。

「がん」がもたらした奇跡~永遠の舞姫に捧ぐ~

2016-09-10 19:52:40 | 日記
親愛なる友人にして、がんサバイバー当事者研究の共同研究者、星槎大学大学院では教え子で、いろんなことを教えてくれた人生のちょっと先輩の、吉野ゆりえ(本名:由起恵)さんが旅立たれました。7月30日の昼前のことでした。

「エンドポイントは『神のみぞ知る』と思っている。その最後の瞬間まで、生かしていただいていることに感謝し、人様や社会のお役に立てるよう、この『いのち』をキラキラと輝かせながら生きていきたいと、『10年生存』を達成した今願っている。」(吉野由起恵、2016、36-37頁)

今年3月に修士号を授与された彼女の修士論文は、こう結ばれています。まさに最期まで、キラキラ輝いていた人生でした。マスコミ、ダンス界、がん患者・がん関係医療者等に、多くの友人・知人がいるゆりえさんなので、各界からの追悼文が出されることと思いますので、本稿では筆者と関わりの深かった、ゆりえさんの当事者研究について書き綴っていきたいと思います。

●出会い

ゆりえさんは筑波大学在学中に「ミス日本」に選ばれ、社交ダンスのプロのダンサーとしてデビューし、イギリス留学などを経て世界的に活躍し、競技ダンスの審査員や指導者としても重要なポジションを務めていらっしゃいました。そのような時「忘れられたがん」(Forgotten Cancer)と呼ばれる希少がん「肉腫」(サルコーマ)に罹患しました。2005年のことです。「5年生存率7%」といわれる中、19度の手術と6度の放射線治療と5クールの抗がん剤治療を克服し、2015年2月には「10年生存」を達成されました。
そんなゆりえさんとの出会いは2010年2月、まだ筆者がボストンに住んでいた頃でした。ゆりえさんの筑波大学での後輩で当時ハーバード大学ケネディ行政大学院在学中の友人が、筆者がアメリカの患者会のアドヴォカシー活動について研究しているのを知り、日本でがん患者として様々な活動をされているゆりえさんを紹介してくれたのでした。

そして2010年3月2日、筆者の一時帰国中に、ゆりえさんからお話を聞かせていただくことになりました。小雪交じりの日でしたが、待ち合わせ場所に現れたゆりえさんは、黒のロングコートにピンクのニットアンサンブルをまとい、大輪の薔薇の花のようでした。サルコーマセンターの設立に向けての活動や視覚障害のある方も参加できるブラインドダンスの啓発と普及、いのちの授業などについて情熱を込めてお話してくださいました。この時、彼女はがんに罹患してちょうど5年目。5年生存率7%といわれているので、この場にゆりえさんがいらっしゃること、そしてその後も生き抜いて、たくさんのご活動をされてきたこと自体が、まさに奇跡だったのだと思い返されます。

●星槎大学大学院へ

やがてゆりえさんは、東京大学医科学研究所の上昌広教授の研究室に籍を置き、東大大学院経済学研究科の松井彰彦教授の「社会的障害の経済理論・実証研究」(REASE)のプロジェクトメンバーとして研究活動を行うことになりました。ある時、ゆりえさんと、ゆりえさんを紹介してくれた友人と筆者の3人で、医科研近くで食事をする機会がありました。当時、友人は博士号取得目前で、研究を続けて大学教員の道を進むか、政界あるいは経済界で活動するのかを考えているなどという話をしていました。その時ゆりえさんは、「私は学部しか出ていないから」と、いつになく弱気なつぶやきをもらしていました。

それは筆者の心にずっとひっかかりとしてありました。こんなに豊かな見識、患者への理解、行動力もある人が、学位を持っていないだけで何か引け目を感じたり、活動が制限されてしまったりするのは、本人にとっても社会にとってももったいないと思ったのでした。そこで、勤務校の星槎大学が2013年から大学院教育学研究科をスタートさせることになっていたので、ゆりえさんに、星槎で修士号を取ったらどうかとお勧めしました。ゆりえさんはその場で、ぜひ挑戦してみたいとおっしゃいました。
いったん決めてからのゆりえさんの行動はいつものように素早いもので、出願書類を整え、入試に臨み見事に合格され、2013年4月からは星槎大学大学院生としての生活がスタートしました。これまでの仕事や活動をすべて継続しながらの院生生活だったので、時間的にも体力的にも大変だったことが容易に想像されます。それでも彼女の頑張りは続きました。

●当事者研究

筆者は、ゆりえさんの修士論文の主査を務める指導教員として関わることになりました。ゆりえさんの入学当初の修士論文のテーマは、「いのちの授業」を行うことによって、児童・生徒たちのいのちに対する考え方がどのように変わってゆくかを分析するというものでした。がん患者であることを公表して以来、ゆりえさんは、患者さんや医療関係者や一般の方々を対象に、病院や学会や講演会・イベントなどで、がんサバイバーとしての話をしてきました。やがて、大人だけでなく次世代を担う子どもたちを対象に、いのちの大切さや今という時間の貴重さ、自分を大切にすることや他者を思いやることを知ってもらいたいという思いが募り、「いのちの授業」を行なうようになりました。

その際には、「授業」であることから、事前学習としてご自身のビデオを見てもらったり、「授業」の事前・事後にアンケートに答えてもらったりしていました。時には自発的に感想や手紙を送ってくれる子どもたちもいて、ゆりえさんを喜ばせました。アンケートや手紙などを見ると、子どもたちが「いのちの授業」から多くのことを学び、病気や障がいのある人たちに対して自分ができることは何かと模索するようになったことが見て取れました。「いのちの授業」はとても重要な取り組みであることが分かり、これをもとに修士論文を書いていこうを話し合っていました。

ただしこの頃、ゆりえさんの活動は「いのちの授業」だけでなく、ブラインドダンス、リレーフォーライフ、社会的障害の経済理論・実証研究など数多くあり、修士論文の研究として表現したい内容を、「いのちの授業」一つに絞り切ることがなかなか難しいようでした。筆者もそのように感じていたので、ある時、「ゆりえさんの生き方自体を研究としてまとめてみたらどうかな」と言い、当事者研究を勧めてみました。

当事者研究には様々な形がありますが、病いや障がいのある当事者が、自らの経験や重要な他者との相互行為の中から、問題解決をしたり、新しい価値を作り上げていったりする主体的な営みのこと、と筆者はひとまず理解しています。当事者研究は、北海道浦河町にある統合失調症などをかかえた当事者たちによる「べてるの家」の活動で有名になりましたが、当事者が自らを語ってゆき、その語ることが本人のエンパワメントにつながり、さらに重要な他者と共助関係になり共にエンパワメントされることが、このアプローチの魅力だと考えられます。

そこで、ゆりえさんの「いのちの授業」も含めたこれまでや現在の活動を、ライフヒストリーの手法でまとめ上げ、がんサバイバー当事者の運動として意味づけ、それが自分にとっていかなる意味を持っていたのか、そしていかなる社会的変化をもたらしてきたのかを分析してはどうかと提案したのでした。ゆりえさんは、最初「私のやってきたことが研究になるのですか」とおっしゃっていましたが、すぐに重要性を理解して「ぜひそれでいきましょう」ということになりました。

●個人と社会の影響循環増幅理論

患者の病いの経験に関しては、ちょうど筆者の博士論文を基にした脳卒中になった方々への聴き取りをまとめた著書がありましたので、ゆりえさんはそれを参照して「病い」についてこれまでになされた先行研究を批判的に検討されました。ちなみに「病いillness」というのは、医療者から見た「疾患disease」と対比される、当事者からみた病気に関わる経験や認識のことを指します。

ゆりえさんは、「病気になることによって個人が変容する」ことは、多くの闘病記などによっても語られ明らかになっているけれど、それにとどまらず「変容した個人が社会に影響を与える」こと、そして「その影響を受けた社会の結果がまたその個人をエンパワメントする」こと、さらに「その循環が多くの人を巻き込んで増幅していくのではないか」という展望を、ご自身のこれまでの活動を振り返って考えてこられました。これらのことは未検証であるので、修士論文ではこの可能性をがん闘病と並行したさまざまな活動の事例を元に検討し、明らかにしてゆくことがテーマになりました。

「がんに罹患した私だからできること、がんに罹患した私にしかできないこと」があると確信するゆりえさんは、サルコーマセンターの設立やブラインドダンスの創設や「いのちの授業」の実施によって、どれだけの患者が救われてきたのか、視覚に障害のある方々の生きがいが創出できたのか、子どもたちが生の尊さを認識したかを知り、それが自身の大きな励みになっていました。そしてそれを、「変容した個人が社会に影響」を与え、「その影響を受けた社会がまたその個人をエンパワメントする」ことにより、活動の範囲は拡大し次第に深くなってゆくと分析し、個人と社会との影響の循環が増幅していくことを明らかにしました。(吉野由起恵、2016、P.36)
こうした研究で2016年1月に修士論文を提出し、口述試験も通過して、修論審査会では副査を含む多くの審査員から高い評価を得て、修士号を授与されました。

●キャンサーギフト

筆者のゆりえさんとの思い出は、これまでに交わした膨大なメイルやFacebookのメッセージを見返すにつれ、尽きずにあふれてきます。ゆりえさんのライフワークであるブラインドダンスを含むインクルーシブスポーツ関係で共著論文を刊行したり、2014年7月の国際社会学会(ISA・4年に1度開催される世界最大の社会学会)では、”Grass-Roots Healthcare Reforms: Collaboration Between Patient Support Groups and Medical Professionals”(草の根的な医療改革-患者会と医療者との協働)と題した、患者アドヴォカシー活動についての共同発表をしたりしました。

抗がん剤はご自身の判断で使わないでいたゆりえさんでしたが、2015年春になるとがんは手術や放射線治療では取り切れなくなり、抗がん剤を使わなくてはならなくなりました。それでもゆりえさんは、これまで通り「いのちの授業」を続け、月刊誌「かまくら春秋」での連載を続け、修士号を取得し、ご自身の本が出版されるのを楽しみにしていました。亡くなる前日の7月29日に、病室の枕元に『三六00日の奇跡ーがんと闘う舞姫』を届けることができ、お祝いの花と共に喜んでいただけました。

『三六00日の奇跡ーがんと闘う舞姫』は、修士論文や「かまくら春秋」での連載がもとになっていますが、がんと共に生き、ますます輝いている姿が行間から見てとれます。このゆりえさんの本には、もう一つタイトルがあります。それは『キャンサーギフト すべてのがん友に捧ぐ』です。いろいろな事情からこちらは採用となりませんでしたが、ゆりえさんの気持ちがこのタイトルに込められています。がんになってからの生を、ゆりえさんは「ギフト」として受け入れ、すべての「がん友」のために活動し、その活動がさらに自分の喜びや楽しみとなっていました。

ゆりえさんの存在自体が、奇跡であり、私たちにとってのギフトだったような気がします。現在の医療と社会に関して、ゆりえさんが残してくださった宿題も沢山あります。その宿題に、ひとつひとつ取り組んでいき、誰もが誇りをもってよく生きることのできる社会に、少しでも近づけるよう努力したいと思います。
ご自宅に戻ってこられたゆりえさんは、いつものように本当にお綺麗で、穏やかなお顔でした。常に自分で納得して選択し、見事に生き切ったゆりえさんのご冥福を、心からお祈りします。

参考文献
・吉野ゆりえ、三六00日の奇跡ーがんと闘う舞姫、星槎大学出版会、2016年
・吉野由起恵、個人の障がい「病い」の経験が社会に与える影響の研究-自分自身のがん罹患体験を検証して-、星槎大学大学院教育学研究科修士論文、2016年
・細田満和子・渋谷聡・吉野ゆりえ、インクルーシブスポーツの課題と可能性-共生社会におけるスポーツについて-、共生科学研究10号、136-144頁、2014年
・細田満和子、脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学、青海社、2006年

インドの今―インクルーシブ・ソサエティに向けて

2016-01-21 19:20:50 | 日記
インド訪問―ソーシャル・インクルージョンに関するワークショップ

厳しい暑さ残るインドのパンジャブ州のアムリトサルを、2014年9月に訪問しました。アムリトサルはパキスタンとの国境の町で、シーク教の総本山があります。100万人の人口を擁し、伝統的に農業が盛んで、近年では工業化が進んできている台頭目覚ましい都市です。
このアムリトサルで、ソーシャル・インクルージョン(誰もが共に生きる社会を目指すことで、社会的包摂などと訳されている)の実現のための建築デザインや社会デザインという観点から展開されるワークショップに参加しました。ワークショップを主催したのは、ディロン・マーティ財団の創始者にして理事長のソニア・ディロン・マーティ。東京大学教授で建築家の隈研吾氏、山口大学准教授でソーシャルデザイン専門の林裕子氏、建築や都市工学を専門とする東京大学やスタンフォード大学の教員や学生など合わせて40名ほどが、アムリトサルの名門総合大学であるグル・ナナク大学に集まりました。
ソニアは、アムリトサル出身で、スタンフォードでデザインや建築を学んだ女性実業家であり、フィランソロピスト(慈善事業家)です。インドの少女や女性へのエンパワメント(生きる力をつかみ取ることへの支援)が、彼女のライフワークのひとつになっています。2013年秋に知り合い、それ以降、家族ぐるみの親しい交流を続けています。

シンボルとしての「公衆トイレ」
 今回ソニアが、ソーシャル・インクルージョンをテーマにしたのは、そうしたインドの少女や女性の生活改善や地位向上という目的がありました。彼女が注目したのは、「公衆トイレ」でした。
インドの公衆トイレは、想像を絶するほどひどい所となっています。これは、インドのひとつの象徴で、IT産業をはじめとした華やかな発展の影で、衛生状態、子育て環境、教育、女性の地位は、旧態依然としてなかなか改善されず、開発一辺倒による自然環境の破壊や大気汚染が広がっていて人々の生活を脅かしています。そこで、清潔で文化的で差別がなく、環境に優しい循環型のまちづくりと人づくりの核として、「公衆トイレ」をテーマにしたインクルーシブ・ソサエティ(誰も排除せずに包み込む共生社会)に向けたワークショップを行うということになったのです。
各国から集まった建築・デザインを学ぶ学生たちは、インドの学生たちと共に5,6人のグループをつくり、公衆トイレを中心とした街づくりの設計図を、数日かけて作成しました。教員たちはアドバイザーとして学生たちの作業を見守り、適宜アドバイスをしていました。また全員参加で、現地で手に入る素材を利用した実物大の公衆トイレも作り、デモンストレーションを行っていました。
 最終日にはコンペが執り行われました。それぞれのグループが、これまでの集大成の設計図を展示し、それに関するプレゼンテーションを行いました。ソニア、隈研吾氏、林裕子氏、在印フランス大使、そして私が審査員となって、評価をさせて頂きました。

インドにおける女子教育
 ソニアが挑戦しようと思っている、インドにおける女の子や女性の地位向上という課題は、女性に対する差別という、この国のひとつの“文化”となってしまっているほど根深く、解消するのが困難な問題の克服でもあります。例えば、教育という面においても、女の子たちが享受するには数々の障壁があります。
 インドは数年前に、世界銀行から貧困国から中所得国へと格上げがされました。2009年には、教育権利法(Right to Education Act)が可決され、6歳から14歳までのすべての子どもたちが無償で義務教育が受けられるようになりました。最近の調査では、98%の子どもたちが、初等教育に就いているという報告もあります。
 このように就学率が高いことは喜ばしいことなのですが、一方で教育の質という観点からは、まだまだ十分とは言えません。例えば学校では、一クラスの人数が多いので常に教室が混み合っていたり、教員が不在のことがあったり、非衛生的な環境だったりするといいます。すると、親たちはそんなところに子どもを行かせる価値はないと思い、学校に行かせないといいます。そして特に女の子は家の仕事をさせられたり、結婚させられたりしがちなのだそうです。
 2010年のインド国立教員教育協議会のレポートによると、教育権利法の基準を満たすためには、あと120万人の教師が必要だと見込まれています。最近の教育権利フォーラムでは、公教育のたった5パーセントの学校しか基準を満たしていないというNGOからの報告もありました。40パーセントの小学校では、一クラスに30人と権利法の基準を上回る生徒がいて、電気の通っていない学校も半数以上あるとのことでした。またこのフォーラムでは、21パーセントの教師が専門職としての訓練を受けてないことも指摘されました。教育の達成度も高いといえず、小学校5年生の生徒の約半数が小学校2年生レベルの教科書を読めないという報告も上がっているとのことでした。
インド政府の出している報告書によると、小学校でドロップアウトしてしまう子どもは25%いて、そのほとんどが女の子、貧困者、障がい者です。入学時は女子も男子も同じ数なのですが、年齢が上がるにつれて女の子は、働かされたり結婚させられたりして教育から遠ざけられてしまうのです。
全体の教育改革が必須ですが、とくに女の子が継続して最後まで初等教育を受けられることは喫緊の課題と考えられます。

代理母
 教育は、女性の地位向上と経済的自立の下支えとなる重要な課題ですが、この課題を考える上で、インドにおける代理母は様々な問題を突き付けています。インドでは、「再生産ツーリズムreproductive tourism」と呼ばれる、外国人がインドに来て生殖補助技術を受けることが流行になっているといいます。
インド人女性が代理母となって出産までこぎつけると、そのためにかかったすべての医療費や代理母への謝礼など一切込みで価格は12,000ドル、約140万円です。ちなみにアメリカで同様のことをすると約70,000ドル、約800万円かかります。インドにおけるこうした代理母に関することは、500億円規模のビジネスになっているとのことです。
 なぜ女性たちは代理母になるのか。大きな理由は、お金を得るためです。彼女たちは通常、どんなに働いても1日に50ルピー程度(100円くらい)の稼ぎにしかなりません。一方で代理母となると、1回の妊娠・出産で60万円以上のお金が入ってきます。自分の家族のために、子どものために、彼女たちは「子宮のレンタルWomb for Rent」をしているのです。
 しかも代理母になることはインド社会において「汚いdirty」ものと見なされているので、代理母たちは親族や近隣には内緒で、一時的に別の町に引っ越したりして、この仕事をしています。差別が助長される危険を冒して、代理母は妊娠・出産の役目を果たしている訳です。遺伝的な自分の血を引く子どもに、よい教育を受けさせるために、場合によっては女の子に持参金を持たせるために。
生命の誕生がこのような状況であることに対して、先進国の安全な場所にいて疑問を呈することは控えなくてはならないかもしれませんが、やるせないものを感じざるを得ません。

教育と子どもの貧困
 アムリトサルでは、最も教育が必要であろう貧困な家庭こそ、教育から遠ざけられている状況に出くわしました。例えばアムリトサルでのワークショップの会場だったグル・ナナク大学の構内には、建設中の建物があって、作業員たちの家族がバラック建ての小屋に住んでいました。小屋の周りには幼児から小学校の低学年くらいの子どもたちがいました。小さい子をちょっと大きな子が遊ばせている様子で、一見微笑ましい光景なのですが、ソニアはこれを見て溜息をつきます。
 「あの子どもたちは、学校にも行かないで、小さな子たちの面倒を見させられているのよ。インドでも公立小学校は無料で開放されているのに、親たちが行かせていない。子どもたちは教育がなく、いい仕事にもつけず、貧しいまま。この連鎖を断ち切らなくてはいけない。」
また、昼食をとりに出かけたアムリトサルの繁華街では、少女が何事かを話しかけながら近づいてきました。ソニアは、「物乞いをしているのだから、お金を渡しては駄目よ。親がこの子に物乞いをさせているのだから、この子のためにならない」といいました。なるほどこの少女の後方には母親らしい女性がいて、視線を送っていました。
初等教育を充実させるだけでは、改善していかないインドの現実があちこちにありました。子どもに教育を受けさせるには、親が働いている間、幼児の面倒を見てくれる保育園のような場所も必要ですし、子どもに物乞いをさせるのではなく、教育を受けさせるように親の意識を変えてゆかねばなりません。ソニアの挑戦は、まだまだ続きます。

尊厳ある人として生きるために
 教育の力を信じ、子どもたちが教育を受けられるために活動している人物で、現在、最も注目されているのは、ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんでしょう。かつてインドの隣のパキスタンに住んでいた彼女は、学校に行くのをやめなかったためにタリバンに頭部を銃撃された少女ですが、回復後、「教育第一Education First」をスローガンに掲げ、子どもたちへの教育を世界の最重要課題とすべきことを訴えかけています。
彼女のノーベル賞受賞のスピーチは秀逸でした。各国の政治家や著名人を前に、「自分は大人ではなくて子どもであるので、大人たちがなぜ軍備や戦争に莫大なお金をかけているのに、教育にほんのわずかしかお金をかけないのか全く分からない」、と言ってのけました。また、「先進国は、初等教育(Primary Education)は支援しているけれど、中等教育(Secondary Education)は支援していない。自分たちの子どもには高等教育までも受けさせているのに。途上国の教育支援は、中等教育まですべき」とも言っていました。世界の人が注目しているスピーチで、お座なりの感謝やおもねりの言葉を言うだけでなく、先進国側にとっては耳の痛い核心を突いた内容にまで踏み込むとは、勇気ある発言だと思いました。
パキスタンにマララさんがいるように、インドにも、その他の国にも彼女のような少女はいつの時代もいると思います。ただ、それが社会的に注目されていなかったり、家族や周囲の圧力で家庭の中に閉じ込められてしまったり、時によっては命を奪われたりしてきたのでしょう。インド人であるソニアこそ、女の子や女性のエンパワメントと地位向上が困難であることをよく知っているはずですが、数々の障壁を乗り越えてきた彼女自身の経験から、女の子や女性が尊厳ある人として生きることのできる可能性も知っています。
 日本でも、未だ男女差別が解消された段階でないことは周知ですが、ソニアと目標を共有しながら、インクルーシブ・ソサエティに向けた活動をしていきたいと思いました。


【参考資料】
Abigail Haworth, Womb for Rent: Surrogate Mothers in India, WebMD.
http://www.webmd.com/infertility-and-reproduction/features/womb-rent-surrogate-mothers-india?page=8 (2015年1月15日閲覧)

Rachel Williams, 2013.March 11, Why Girls in India are Still Missing out on the Education They Need, The Guardian.
http://www.theguardian.com/education/2013/mar/11/indian-children-education-opportunities (2015年1月15日閲覧)

アメリカ国民皆保険 実現への挑戦

2014-09-20 18:40:27 | 日記
本気のヘルスケア改革

アメリカでは2010年にオバマ大統領によるヘルスケア改革法が成立し、国民皆保険の方向性が示されました。これはアメリカに住む人はすべからく健康保険に入る義務があることを規定した法律ですが、なかなか人々の理解を得られず、健康保険に入らない自由もあるという主張も根強くあって、これまで実現するには程遠い状況でした。
ところが2014年5月1日から、特別の例外を除くすべてのアメリカ人は、何らかの健康保険に入らなくてはならないことになりました。健康保険に入らない場合はどうなるかというと、「罰金penalty, fine」を払わなくてはならないのです。
罰金の金額は次の二つの方法から算出されます。ひとつは、1年間の世帯収入の1パーセントというもので、もうひとつは一人につき1年間95ドルというものです。これらのうちから、どちらか金額の高い方が罰金として徴収されます。すると年収が1万9650ドル以上の場合には収入の1パーセントが罰金になり、年収1万9650ドル以下の場合は1年間で95ドル(18歳以下の子どもは47.5ドル)の罰金になります。ちなみにこの計算式では、一家の罰金の合計が285ドルになると、それが上限となります。

年々増加する罰金

この罰金の金額は2014年度のものであり、年々増加される予定になっています。例えば2015年には年収の2%か一人につき325ドル、2016年には年収の2.5%か一人につき695ドルが罰金となり、その後は物価の上昇に合わせた金額になります。年度の途中から保険に入った場合にはどうするかというと、入らなかった期間だけ月割りで罰金が計上されます。ただし、未保険の期間が三か月未満の場合は支払う必要はありません。
こうした罰金は、年度末の連邦税申告の際に一緒に支払うことになります。2014年でしたら、罰金を逃れるためには2014年5月1日から保険に入っていることが必要です。

ヘルスケア改革

ここでちょっと2010年のオバマのヘルスケア改革のおさらいをしたいと思います。ヘルスケア改革は、正式には「患者保護と適正なケア法(PPACA: The Patient Protection and Affordable Care Act)」と呼ばれ、医療ケアと健康保険産業の両方を改革するアメリカの連邦法です。この法律は、4400万人以上の健康保険未加入者がいる中で、新しい規則、税制、加入義務、扶助を含むいくつもの施策を通して、医療の質を向上させ、医療にできることを増加させ、そして公的であろうと私的であろうと健康保険が人々にとって手頃なものとなることを目的としています。
この法律は、アメリカにおいて初めて国民に健康保険への加入を義務付けたことで知られていますが、その他にもいくつかの画期的な改革をしています。それは、かつては既往歴があると健康保険に入ることはできませんでしたが、既往歴があっても健康保険に入れるようになったことや、かつては何らかの病気になったら健康保険を解約させられていたのですが、継続して健康保険に入れるようにしたことなどです。どちらも健康保険会社から患者を守り、適正に医療を受けられるようにするための改革でした。

マーケットプレイス

罰金をいくら払ったとしても、それだけでは保険に入ったことにはなりませんので、医療機関にかかったとしたら、100%自費で医療費を支払わなくてはなりません。こうした事態を避けるために、最小限の基礎的な保険(Minimum essential coverage)でもいいので保険に入ることが勧められています。保険料が支払える人でしたらいろいろな保険会社やNPOの運営する保険が選べますし、保険料の払えない低所得者の人だったらメディケイドや子ども健康保険(CHIP: Children’s Health Insurance Program)に加入することができます。
ただ、そうは言ってもアメリカの健康保険の仕組みは複雑で、契約のプランも様々なものがあり、よほど詳しくないとどんな保険に入ったらよいのか全く分からないという事情もあります。そこで政府は、保険に入ろうと思った人が、どの保険に入ったらいいのかをナビゲイトする健康保険マーケットプレイス(Health Insurance Marketplace)をインターネット上に設置しました。
健康保険マーケットプレイスは「HealthCare. Gov」のホームページからアクセスできます。このページに行くと、住んでいる場所、家族構成、勤務先からの補助の有無、年収などを入力する画面が次々と現れてきます。そこでひとつひとつに答えてゆくと、自分の家族に合った健康保険のメニューの一覧が出てきます。そこには各種保険のプランの毎月の保険料、ディダクタブル(一定額までの自己負担金)、自己負担金の上限、コペイ(毎回の受診ごとの自己負担額)が記されています。
たとえば試しにミシガン州のケント地方に住む 42歳、40歳、15歳、10歳で、年収800万円程度(1ドル=100円で計算。以下同様)の家族で、雇用先からは補助が出ないという条件で入力してゆくと、37種類の健康保険のプランが出てきます。それぞれのプランの毎月の保険料、ディダクタブル、自己負担金の上限、コペイも一覧表になっているので、これを参考にして人々は自分の家族に合った保険を選びます。ちなみに37種類の保険の毎月の掛け金は、12,900円から125,700円までと幅広く、ディダクタブルや自己負担金も様々です。ですので、この中から一つを選ぶのもやはり大変そうではあります。
2014年度に間に合わせるための前回の健康保険マーケットプレイスの利用時期は、2014年3月31日に終了してしまいました。しかし、2015年の為の利用期間は、2014年11月15日から始まり、2015年2月15日まで使えるとのことです。

皆保険への道

2000年9月の国連ミレニアム宣言の中では、極度の貧困や飢餓の撲滅などを目標としたミレニアム開発目標(MDGs: Millennium Development Goals)が掲げられました。この目標の実現のために、人間の安全保障(Human Security)という理念が掲げられ、世界の健康課題の解決に向けての取り組みがされてきました。そこでの重要な対策は何かというと、国民皆保険(UHC: Universal Health Coverage)なのです。
UHCの早期実現は、2012年12月の国連総会でも国際社会の共通目標として決議されていますし、日本も国民皆保険50年の歴史を踏まえて、途上国などの国際援助としてUHCを推進しようとしています。UHCは、人々が基礎的な保健医療サービスを受けられるためのあってしかるべき仕組みと考えられているといっていいでしょう。この度のアメリカでの保険加入の推進は、このような世界情勢の中でアメリカだけ特異にUHCを実現していない事態は改めるべきという牽引力も働いたのではないかと思います。
日本は現在、国民皆保険(=UHC)となっていますが、実際には健康保険への未加入者も少なくないようです。日本にも健康保険に加入していないと国民健康保険法第9条の届け出の義務に違反しているとして罰則もありますが、健康保険の加入率を上げるために罰金や罰則を設けるだけでは、人々の健康を守るというUHCの目標は達成されません。病気やけがで働けずに収入が少なくなってしまって保険料を支払えない人もいるからです。
このような低所得の人々に関しては、アメリカでも日本でも補助や扶助が用意されていますが、審査が厳しかったり、手続きが複雑であったりしてなかなか利用されづらい場合もあるようです。どんな時も理念と現実、制度と運用、それぞれの間に幾分距離があるのは周知のことでしょうが、人々の健康が守られるために、少しでも実践に結びついていけばと思います。

<参考資料>
・アメリカ政府のヘルスケアに関するホームページ
https://www.healthcare.gov/what-if-i-dont-have-health-coverage/
The fee you pay if you don't have health coverage
・オバマケア・ファクトhttp://www.obamacarefacts.com/
・世界保健機関(WHO)のUHCのプログラムの紹介
http://www.who.int/universal_health_coverage/un_resolution/en/



インクルーシブスポーツの可能性:ブラインドダンスを訪ねて

2014-08-05 18:08:06 | 日記
ブラインドダンスとの出会い

音楽に合わせた優雅な動き、軽やかな足さばき、揺れるフレアのスカート、ハイヒールのダンスシューズ。場所は横浜市二俣川にある神奈川県ライトセンター、日本最大の視覚障がい者のための総合施設。そこに属するブラインドダンスサークルの皆さんの練習風景は、和やかな雰囲気を保ちつつ熱気であふれていました。
さわやかな初夏の日、元ミス日本でプロの競技ダンサー、現在は東大医科研で研究員をしつつ星槎大学大学院で学ぶ吉野ゆりえさんのご案内で、このブラインドダンスサークル「野ばら」を訪ねました。「野ばら」では現在、視覚障がい者25名、晴眼者15名の会員さんが、障がいの有無に関係なく、笑顔で一緒にダンスを楽しまれています。
8月31日に開催される全日本ブラインドダンス選手権大会には、競技会の参加だけでなく、ワルツのフォーメーションの発表もするとのことで、練習には気合が入っていました。それでも和気あいあいとした空気が全体を覆っていました。

ブラインドダンスの創設

ブラインドダンスは、吉野ゆりえさんによって、視覚障がいのある方々と晴眼者が共に楽しむスポーツとして2006年に創始されました。なぜ吉野さんがブラインドダンスを始めようと思ったのか。そこには彼女自身の人生の転機がありました。
当時の吉野さんは、プロのダンサーとして国内外で活躍しつつ、プロやアマチュアの競技選手だけでなく、芸能人や一般の方々を対象としたダンスの講師もしていました。ところが、こうしたやりがいのある仕事、素晴らしい仲間に囲まれ、充実した生活を送っている最中、急に腹痛で倒れるということがありました。
最初の検査の結果、良性腫瘍ということで腫瘍を細かく切り刻んで可能な範囲で取り除くという手術をしました。しかし、後に腫瘍は悪性だったことが判明し、肉腫(サルコーマ)と診断されました。肉腫は、希少がんで患者も少なく、5年生存率7%と低く、世界的に「忘れられたがん」と呼ばれています。吉野さんの場合、結果的に肉腫が骨盤中にばらまかれた形となってしまったのです。治療としては肉腫が大きくなったらその度に手術で取り除く、という方法がとられました。ちなみに吉野さんは今までに(2014年7月現在)15回の手術をしてきています。
このような状況になっても吉野さんは、誰を恨むことなく、それもまた自分の運命と受け入れ、「生かされている」と感じたそうです。そして、自分に何かできることはないかとさまざまなことに前向きに取り組んできました。そのひとつがブラインドダンスだったのです。
八王子の視覚障がい者のための学校で、子どもたちにブラインドダンスを教えていましたが、やがて全日本ブラインドダンス選手権大会を開催するようになりました。今年で9回目になるこの大会は、近年では神奈川県二俣川のライトセンターで行われ、全国から沢山のカップルやチームが参加し、ダンスの技を競っています。

インクルーシブスポーツ

 ところで、障がいのある人もない人も共に楽しめるスポーツは、インクルーシブスポーツ(Inclusive Sports)と言われています。年齢の壁を越え、障がいの有無を越え、共に参加し、一緒に体を動かしゲームを楽しめるスポーツは、世界のいろいろな場所で行われていますが、インクルーシブスポーツという言い方は、主にイギリスを中心に使われているようです。例えばアメリカでは、アダプティブスポーツ(Adaptive Sports)という呼び方がよく聞かれました。アダプティブスポーツというと、障がいのある人が、そうでない者に適応してゆくというニュアンスがあるので、むしろインクルーシブスポーツの方がこうしたスポーツの在り方を言い当てているのではないかと思います。
 インクルーシブスポーツと言えるものは、例えば車いすバスケット、やわらかドッヂボール、シッティング・バレーボールなどが知られていますが、スポーツ吹き矢などもインクルーシブスポーツと言えると思います。
 ブラインドダンス競技会も、視覚障がいのある方とない方がペアになって行うので、インクルーシブスポーツと言えるでしょう。ブラインドダンスでは、一般の競技会とほとんど変わらないルールで競技が行われます。通常の障がい者スポーツでは、一般的なルールを変えて競技を行っているケースが多いので、ブラインドダンス競技会は特徴的だと思います。

インクルージョンとは

 インクルージョンというのは文字通り、すべてを包み込む包括的なあり方を指し、インクルーシブソサイエティというのは、今日の福祉や教育の分野を中心に推進されようとしている社会の在り方と言えます。
 かつての福祉の考え方では、1950年代にデンマークのバンク・ミケルセンが唱えたノーマライゼーション(Normalization)という理念が中心的でした。彼は、障がいのある人も普通の(ノーマルな)人と同じような生活ができる環境を用意する必要があるという意味でノーマライゼーションという言葉を使用し、バリアフリーや偏見の除去などで特筆すべき実践的な成果を挙げました。この業績は決して色あせることはないのですが、今日、ノーマライゼーションというだけでは、十分に汲みつくせない現実があることも指摘されています。
 それは例えば、障がいのある人を排除(エクスクルードexclude)しようとする動きに対抗する思想が必要だという外在的理由もありますし、障がいのある人を普通の人に近づけようとすること自体が、障がいのある人を否定することになりはしないかという内在的理由もあります。そこで出てきたのが、ソーシャルインクルージョンやインクルーシブソサイエティという考え方なのです。
 インクルージョンの考え方には、障がいのある方もない方もすべて参加するという意味があります。そしてソーシャルインクルージョンという考え方は、障がいの有無ということだけではなく、年齢や民族などの様々な違いを越えて、誰もが尊重され、排除されない社会ということであり、「共生」の理念と深く通じ合うと考えられます。

インクルーシブスポーツのすすめ

現代の少子高齢化社会においては全ての人が社会参加し、補い合うことが必要と言われています。スポーツは様々な壁を乗り越えて人と人とが関わり合い、交流するための有効な手段のひとつでしょう。
2020年に東京で開かれるパラリンピックやスペシャルオリンピックスは大きな注目を集めていますが、概して障がいがある方たちにとってはスポーツに参加する機会が依然少ない状況です。また、高齢化社会の進展によって身体的に制限を持つ人々の割合が増える傾向にあり、コミュニティの力の弱体化と相まって、老若男女が関わり合って参加するスポーツの機会も多いとは言えません。
子どもに目を向けても同様です。文部科学省の調査では、全児童の約6パーセントに発達障がいの傾向がみられると報告されていますが、一般に行われている学校体育の競技に対して、そうした児童は苦手意識を持ってしまうケースも少なくありません。
このような状況の中で、スポーツの持つ心身の健康維持や健康増進、そして交流、社会参加を促すことが期待されると思います。年齢や障がいの有無を問わないインクルーシブスポーツは、まさにその期待に応えるものになりうるでしょう。
さらにインクルーシブスポーツは、今後のスポーツの在り方を大きく変えるかもしれません。インクルーシブスポーツの考え方に沿うなら、オリンピックとパラリンピックのように2段階に分けていること自体にも疑問を持たざるを得ないからです。実際に、オリンピックをふたつに分けず、ひとつのオリンピック(one-tier Olympic)にすべきという主張もあります。
今から6年後の東京オリンピックでは、こうした問題はいったいどのように解決されていくでしょうか。注目して

スウェーデンにおける発達障がいを持つ子どものサポート

2014-03-04 01:46:56 | 日記
芽生え始めた発達障がいへの関心

 発達障がいを持つ子どもの<生きる>(Life:生命、人生、生活)を支えることは、今日各所で注目されるようになっています。2012年12月に文部科学省から出された調査結果では、全国の公立小中学校の通常学級に在籍する児童生徒のうち、人とコミュニケーションがうまく取れないなどの発達障がいの可能性のある小中学生は6.5%に上ることが示されました。すなわち、40人学級でいうと、1クラスにつき2、3人の割合になります。実数にすると、推計で全国に約60万人の発達障がいの可能性のある子どもたちがいることになります。
 こうした状況に対して、日本の教育現場では様々な取り組みがなされていますが、4割弱の児童生徒は、特別な支援を受けていないといいます。さらに、発達障がいを持つ子どもにとって重要な、教育と医療や地域社会(地域行政)との協働という観点でいうと、まだまだ課題が大きいといわれています。
 スウェーデンでも、発達障がいの分野での取り組みに近年高い関心が集まってきています。そして学校の先生、研究医、臨床医、行政職員、親など、発達障がいに関係する様々な主体が、力を入れて取り組もうとしています。2012年の8月に、スウェーデンの首都ストックホルムを中心に、発達障がい支援を行っている学校、病院、“ハビリテーション”施設、就労支援施設、親の会などを訪ねました。ここではその時の見聞をレポートします。

スウェーデンの医療福祉の概要

 まずスウェーデンという国の概要について示します。人口は900万人(大阪府くらい)で、広さは日本の1.2倍の国です。寿命は男性79.1歳、女性83.2歳です。出生率は1.98人で、高齢化率は近い将来に25パーセントに上がると見込まれています。移民は総人口の19.1%(フィンランド、ユーゴスラビアなどから)で、失業率は8パーセントです。国内総生産量(GDP)のランクは14位で、税金は対GDP比で、45.8%です。ちなみに日本のGDPに対する税率は26.9%です。
 次に医療福祉の制度についてです。スウェーデンは、21のランスティン(県)に分けられていて、ランスティンは医療ケアを担当します。また290のコミューン(市町村)があり、コミューンは福祉ケアを担当します。すなわち、医療ケアは比較的大きな自治体を単位(=県)に、福祉ケアは地域に密着した小さな自治体(=市町村)を単位として提供されているのです。
 議員は4年に1度の選挙で選ばれます。高負担高福祉の国として一般に知られていますが、実際に税金は収入の半分くらいという高負担で、充実した医療福祉を提供することが、国民から求められている状況です。

障がい者・児福祉の概要

 スウェーデンでは、1960年代終わりから、障がい者も高齢者も自立するための支援が始まりました。ノーマライゼーション(障がいを持っていても地域でふつうに生活できるべきという思想と運動)へと、国が率先してかじ取りをしたのです。その理由のひとつとしては、障がい者団体が力を持っていたことが挙げられています。障がいを持つ人々の団体は、デモや政治的ロビー活動などを積極的に行ってきました。
 すでにスウェーデンでは、1944年1月1日に制定されたLSS法(特別援護法。L:権利、S:サービス、S:サポート)があります。LSS法は、一定の機能的な障がいを有する人々の援助とサービスに関する法律です。LSS法では、そうした人々が、普通の人と同じような生活ができるように、行政は環境を整えることを最優先にしなければならないと定めています。また、住居・就労のほか、余暇活動・文化活動においても、差別してはならないということもうたっています。
 たとえばLSS法では、以下のような援助が保障されています。すなわち、アドバイスや個人的な支援、パーソナルアシスタントやコンタクトパーソン、レスパイト・サービス(一時的な預かり)やショートステイ住居、子どもや青少年、成人のための特別のケア、また成人の日常活動へのサービスなどです。
このようなLSS法は、人々の生活条件の平等化と社会への完全参加を促進することを目的とし、その人たちの自己決定権とプライバシーの尊重を基本としています。

医療行政の傾向

 スウェーデンは、近年、高齢者ケアを施設から地域の在宅やグループホームへ移行させようとする政策を掲げてきました。これは、1992年1月に導入されたエーデル改革に表れています。エーデル改革では、高齢者に対する福祉と医療サービスは、統合されて福祉寄りのサービスになりました。医療を担うのが県で、福祉を担うのが市町村でしたから、このことによって市町村の福祉における権限が増えました。
 市町村は、入院や施設介護から在宅介護や看護へと誘導を行いました。その結果、1985年には10万床あった病床が、2009年には2万5千床に減りました。年々高齢者が増えていても、この方針は変りませんでした。
 ここには医療費の抑制も絡んできます。例えば、医療費の支払いは、包括払いになっています。入院が長くなればなるほど、病院の持ち出しになるので、病院側には早く患者を退院させるようなインセンティブが働きます。したがって、在院日数は短縮傾向になっています。例えば85歳の高齢者が股関節手術で入院しても、10日で退院ということになります。出産に関しても、妊産婦は2泊したら家に帰ることになっています。
 その他の医療費削減としては、後発薬である安価なジェネリックの利用が推進されています。実際にスウェーデンでは保険が適用されるのは、基本的にはジェネリックだけになっています。もし患者が先発品を使いたい場合には、差額は患者が自費で負担します。

障がい児福祉の傾向

 スウェーデンは福祉の国ですので、国民は障がいを持つ人々のことをよく理解していると思いがちです。しかし、実は一般の人は、ダウン症とか障がい児のことなどは良く知らないということです。このように話してくださったのは、障がいを持つ子どもの医療ケアの専門家でした。だから、親たち自身も、自分の子どもが障がいを持つと分かって初めて、障がいについて学んでいくのだ、と話してくださいました。
 このような親たちに対して、知識を与えたり、相談したりする専門家がいます。かれらは障がいに関する基本的な知識や、障がいを持つ子どもの支援の方法を知っていて、親たちが安心するように説明をします。
 この頃では、出生前診断で子どもが生まれる前から障がいが分かることが多くなっています。例えばダウン症の簡単な出生前診断が可能になりました。デンマークでは20年後にはダウン症は生まれなくなると言われています。スウェーデンでも高齢出産の人(35歳以上)は、基本的に診断を受けるかどうかが聞かれ、子どもを産む年齢は高くなってきているので、障がいを持つ子どもが増える可能性が高まっているとのことです。ちなみにスウェーデンでは、親は基本的には既定の週数までは自分の意志で中絶を決定できることになっています。
 ただし、出生前診断に関してはいろいろ問題が指摘されています。実際に、近年、スウェーデンもダウン症の子どもの出生は少なくなっており、このような傾向に反対している人もいます。社会の中に、病気や障がいを持つ方々がいてもいいのではないかと、考える風潮もあります。出生前診断に関わることは、専門家にコンサルティングすることもできますが、まだこの問題については大きな議論にはなっていないとのことでした。


発達障がいを持つ子どもの親の会

 スウェーデンでは発達障がい児・者の親の会の方々とも交流を持ちました。発達障がい関係への施策は、2000年になってから急速に整えられてきましたが、その背景には、発達障がいや自閉症やアスペルガー(自閉症スペクトラムのひとつ)の親の会のアドヴォカシー活動(当事者の権利を代弁すること)、当事者によるセルフ・アドヴォカシー活動(当事者自身が権利を主張すること)などがありました。
 ブルシッタさんには、33歳になる発達障がいを持つ息子さんがいます。彼女は、ストックホルム県自閉症とアスペルガー協会の会員で、筆者の親の会に対する質問に丁寧に答えて下さいました。それによると、この会は、1975年に設立され、メンバー同士のサポートをしたり、機関誌を発行したりしています。会員は約3,000人です。
この様な親の会の会員は、全国レベルでは1万2,000人に上ります。国の決定に関わったり、政治的働きかけを行ったりしていて、LSS法の制定にも、こうした親の会が大きな役割を果たしてきたとのことです。
 
親の会と医療者との協働

 スウェーデンでは今日、発達障がいは、早期診断をして、社会性の問題を早く見つけ、その子に合った対応をしていこうという気運になっています。カロリンスカ大学関連クリニックの小児科医によると、自閉症は2~3歳の間に、アスペルガーは5~6歳の頃に見つかるといいます。
 こうしたことが分かってきた背景には、親たちと医療者との協働があったことが指摘されます。これは、カロリンスカ研究所発達障がい能力センター(KIND)のスヴェン・ボルト教授も指摘していました。ボルト氏自身は医師の資格を持っておらず、専門は医療史や医療倫理です。彼は、スウェーデンにおける神経系発達障がい者――自閉症スペクトラム(アスペルガーを含む様々な特徴として現れる自閉症)やADHD(注意欠陥/多動性障がい)など――のケアの向上を目指して、教育的働きかけ、初期診断、各症状への介入をテーマとしてきました。
 センターの特徴は、研究と臨床が両方行われていることです。そして研究を基にガイドラインを作成しています。こうした研究は、医療専門職や福祉や教育の関係者が、互いに連絡を取り合いながら、親の会の支援をしつつ進められてきました。
 逆に医療専門職や福祉や教育の関係者たちは、親の会や当事者の団体を支援することによって、行政からの予算を獲得できている側面もあります。つまり親の会の支持を得ることによって、医療専門職は研究費が取りやすくなったりするのです。また、親の会がニーズを示すことで、障がい児教育や福祉における従事者たちの雇用が生れたりするのです。
 このように今日、障がいを持つ子どもに対して、医療・福祉・教育の連携が取られようとしています。この連携は必ずしも最初からうまくいっているわけではなく、始まったばかりです。今後の課題も多いといいますが、実践しようとする姿勢が見られるところに可能性が感じられます。
 これは、日本においても援用できる態度ではないでしょうか。発達障がいを持つ子の支援における教育・福祉・医療の連携が、今後、さらに充実することを期待します。

発達障がいを持つ子の教育

 ストックホルムには、自閉症スペクトラムの子どもたちのための特別学校として、公立も私立も、それぞれありました。私が訪問したのは私立の特別学校で、スタッフは65名、生徒は85名という規模の学校でした。私立であっても学校への支払いは、親ではなくて市(コミューン)が行います。この学校は、公立では提供できない特別な教育を提供できる所と認められていて、ここでしかふさわしい教育は受けられないと認定された子どもが通っているからです。
 この学校は、6歳から中学3年生までの10年間の教育を提供している、株式会社形式で運営されている学校でした。後に書くように職業訓練校も経営していました。朝や夜の時間帯、または学校の休みの期間などは学童保育もしています。
 ここでの目標は、社会的な立場での協働作業ができるように準備するというものです。そして、スウェーデン教育法を基にした学校づくりを行っています。子どもたちは、本人、先生、親が共同で策定した、個々の発達に合わせたポートフォリオ(記録集)をそれぞれ持っています。これはアメリカなどで行われている、IEP(Individualized Education Program)と近いものです。医師、セラピスト、“ハビリテーション”や特別教授法の担当者など様々な専門性を持つ人々がネットワークも作って、議論や試行錯誤を重ねて今のような形になったのだといいます。学校では、週に1回、校長、副校長、主任教員、心理士、学習担当者でミーティングを行います。そこでは、生徒の持つ問題に対してどんな共同作業を行うべきか、どんなネットワークが必要なのかを話し合って決めています。
 1クラスには6~7人の生徒がいます。印象的だったのは、6歳児クラスの時から、1クラスにつき一人の代表が出て先生たちも出席する会議が、1か月に1回開かれることです。この会議では、実に色々な議論が交わされるといいます。
小さな子どもですから、自分が好きな食事を出してほしいとか、新しい遊び道具がほしいといった要求を出してくることもあります。そうした要望に対し、栄養の観点から好きなものだけを食事に出すわけではない事や、今までにない遊び道具だから来年度購入しましょうとか、話し合いの中で、みんなが納得できる結論を導き出していくというのです。
 「素晴らしい仕組みですね」とその学校の先生に申しあげたら、「これが民主主義の基本になるのです」と答えて下さいました。
 

障がい者と職業教育

 スウェーデンでは、自閉症の子は普通の学校に行くことも多いですが、専門の施設に行く場合もあります。知的障がいの場合は、例えば高校などでは、料理や手工芸などを学んだりします。また、高校に在籍しながら、企業やお店やレストランなどでインターンとしての経験を積むこともあります。インターンの期間は26週間くらいが目安になるといいます。この様な際にタイアップしている企業は、例えば大型家具店のIKEAやマクドナルドなどです。また、職業訓練の学校で料理や手工芸などを学ぶこともあります。
 そこで、前出の特別支援学校と同系列の職業訓練校も訪ねました。そこでは、クッキーを作ったり、ケイタリングやレストランなどでの仕事を学んだりして、就労へ結びつける訓練をしていました。
 こうして学校を20歳くらいで卒業すると3つの道に分かれます。それらは、①就職、②デイセンター、③デイセンターを経て就職、という具合です。高校を卒業しても、すべての人が仕事に就ける訳でなく、就職できる人もいればできない人もいます。あるいは、もう少し訓練をすることで仕事ができる人もいるのです。その子に合った進路を歩み出してゆくのです。ただし、仕事を始められても、続けることはなかなか難しいものだともいいます。
 スウェーデンでは、会社は障がい者を何人雇うべき、という法律はありません。全従業員に対する障がい者の割合を決めた方がいいという人も多いのですが、今あるのは差別禁止法だけです。ただし、障がい者を雇用すると、会社は障がい者の給料の8割までを国から補助されます。それでもスウェーデンでも、障がい者は健常者よりも失業率が高いということでした
 しかしスウェーデンの障がい者は、経済的状態を心配する必要がないといいます。それは、失業したとしても行政が生活の面倒を見ることになっているからです。「障がい者が心配することは、行政のサービスがきちんと行われているかどうかということだけ」。この様に行政当局の方はおっしゃっていました。
 日本でも、幼少期の医療と教育の連携、成人になってからの教育から就労へのスムーズな移行の仕組みが整うのが待たれます。他国の状況を参考にしつつ、日本に合った形で展開されることが望まれます。