フィールドからの手紙

様々なフィールド(=現場)において、気づいたことや驚いたことなどを綴っていきたいと思います。

ブータンの伝統医療

2013-12-29 12:19:43 | 日記
私の勤務する星槎大学は、保育園・幼稚園から中高、大学院、各種教育関連事業やNPOを擁した星槎グループの一員ですが、星槎グループの会長である宮澤保夫氏は、ブータン王国と20年以上前から交流があります。その関係で、ブータン唯一の私立大学であるロイヤル・ティンプー・カレッジ(Royal Thimpu College:RTC)と星槎大学は姉妹校となり、毎年交換留学が行われています。私もブータンへは、2012年5月、9月、2013年3月と3回訪れていて、そのうち2回は学生さんたちを引率した「共生フィールドトリップinブータン」と題した短期留学でした。

ブータンでは色々なところに行って、様々な体験をしましたが、今回は伝統医療院(Institute of Traditional Medicine)を訪ね、関係者にインタビューをしたブータンの伝統医療についてお話しします。

ブータンの伝統医療は、17世紀初頭にチベットの医師によってもたらされたと言われています。これは、チベット仏教の思想や哲学に基づいた医療です。

診察のプロセスとしては、まずは患者の話を聴いてどこが不調の原因なのかを探り、食生活や生活態度を改めるようアドバイスがされます。それでも良くならなかった場合には、薬(=薬草)で治療します。ブータンは山の中の国というイメージがありますが、南部はインド平原に接していてそれほど高くなく海抜は97メートルです。一方で高いところはチベット高原に接しており、7,570メートルにも及びます。この様な高低差のある地形の恩恵で、ブータンにはバラエティに富んだ植生があり、「薬草の宝庫」となっているのです。そして薬草でも良くならなかった時は、さらに侵襲的な介入(=お灸、鍼灸、瀉血など)をします。ブータンの伝統医療の思想は、伝統医療院の入り口に掲げられた曼荼羅の中にも読み取ることができます。

伝統医療の医師へのインタビューでは、伝統医療においては、医師による治療的介入だけが重視されるのではなく、患者と他者との人的関係がその人の健康に大きな影響を与えるという思想が中心に貫かれていることが語られました。また、家族や近しい人との絆、安心して暮らせる環境、助け合い支え合う関係があること、そして生活の中に根付くすべての生き物を尊重する仏教の教えが、人々の心身の健康を守っていることが理解されました。

ブータンは、「国民総幸福量(Gross National Happiness:GNH)という概念で国づくりを行っていて、政治や教育もGNHを基に運営されています。このGNHは国民の行動規範ともなっており、医療も例外ではありません。ブータンの医療行政の特徴は、現代医療(西洋医療)と伝統医療とが対等な位置づけにあることです。双方とも保健省の管轄で、どちらを受診しても患者は無料で医療を受けられる仕組みになっています。

ブータンには現代医療の医学校はないので、医師になるにはインドやイギリスなどに留学することになっています。しかし医師養成が始まり、数年後にはブータンで育った現代医療の医師が誕生します。ちなみに看護の学校はいくつかあり、国内で看護教育を納めることができますが、やはりインドやタイに留学して看護資格を取る人も少なくありません。

現代医療においては、高度化し複雑化した知識と技術の恩恵がある一方で、専門化が極端に進む弊害も指摘されています。そして、統合医療、医食(農)同源、全人的医療といった概念が、それに代わるものとして提示され、伝統医療や代替医療と言われる実践として表れています。こうした概念や実践は、体の部分や臓器だけを見るのではなく、人を包括的に見ようとし、人と人との関わりを重視する医療と捉えられます。そしてこれは、「共生」の概念と実践と極めて近いと考えられます。
ブータンの伝統医療の思想と実践は、従来チベット仏教の影響を受けつつ継承されてきましたが、近年、国民総幸福量(GNH)の概念も導入して発展してきています。ブータンにおける伝統医療の位置づけをみることで、伝統医療に現代医療を補完する示唆を与えうる共生の思想と実践との関連が見出せるのではないかと思いました。
 


『HIKOBAE ひこばえ』と塩屋監督

2013-11-24 13:10:54 | 日記
突然の訃報

 6月初めの未明のメールで、俳優にして映画やお芝居の監督でもある塩屋俊(しおや とし)氏の死を知りました。演劇『HIKOBAE 2013』の公演先の仙台で打ち合わせの最中に倒れ、救急車で病院に運ばれ、懸命の救命医療が行われましたが、残念な結果になってしまいました。原因は急性大動脈解離でした。享年56歳。まだまだやりたかったことがたくさんあっただろうと思います。
 塩屋監督と初めてお会いしたのは、2012年3月の『HIKOBAE ひこばえ』と題された演劇の相馬公演の打ち上げの席でした。『HIKOBAE』は、311東日本大震災直後の相馬市の病院を題材にした舞台劇で、ニューヨークの国連本部や東京での公演の成功の後、相馬市で多くの住民の方々の前で上演されました。その相馬での公演に幸運にも招待されて、終演後の打ち上げにも同席させていただきました。「エンターテイメントの世界から、よりよい世の中になるように発信していきたい」という塩屋監督の熱気のこもったお話は、とても印象的でした。
その後も塩屋監督には、筆者の所属する星槎大学の教員免許更新講習でゲストスピーカーになっていただいたり、新たな演出によって今年の春に天王洲銀河劇場で上演された『HIKOBAE 2013』にご招待いただいたりと、交流が続きました。

『HIKOBAEひこばえ』

『HIKOBAE』は、相馬市の病院を舞台にした塩屋監督の企画・演出による劇です。主人公はサキという名の看護師。サキの恋人のエイジは、サキの勤務する病院の院長の息子で、市の職員として働いています。彼は消防団員でもあり、大地震の後、海辺の住民を避難誘導しているところを、津波にのまれてしまいます。サキは、エイジの行方が分からないまま、次々に運ばれてくる患者の対応に追われます。
やがて、原子力発電所が爆発します。医師や看護師の中には、放射能被ばくを恐れて避難しようとする人たちもいますが、患者さんがいる限りこの病院を動けないと、サキを含む何人もの看護師や医師たちが、身内の安否を心配しつつ、食糧の入ってこなくなった病院を守り続けます。
そんなところにエイジの遺体が確認されたという知らせが入ってきます。彼の遺品は、上着のポケットの中に入っていたサキへのエンゲージリング。サキは、大きな悲しみに包まれます。
そこへ両親を津波で亡くして自分も足を怪我した少年が担ぎ込まれます。隣町でその子を見つけた医師が背負って運んできたのです。懸命の手術や手厚い看護のおかげで男の子の足は治っていきます。しかし、両親を亡くした心の傷はいえません。看護師に当たったり自暴自棄になったりします。
戸惑いながらもその子のケアをするサキでしたが、最後は、「おねえちゃんもいっしょだよ」と悲しみを共有し、共に泣きます。そのことによって男の子も心を開くようになり、サキの心も癒やされてゆきます。やがて登場人物たちは皆、それぞれの思いを抱きながら、未来を見つめられるようになっていきます。

看護師としての責任

『HIKOBAE』には、脇役として何人もの看護師が登場します。ほとんど寝ないで現場を守る看護師長、小さい子どもを夫に託して病院に詰めているベテラン看護師など。全員が自ら被災者でありながらも、患者のケアに当たっていました。
何がそうさせているのか。それは看護師としての責任感なのだと、この舞台からメッセージとして伝わってきます。恋人が亡くなって辛い思いを抱えたサキも、必死で患者のケアに当たっていました。それは、彼女がこれまで辿ってきた看護師養成課程や職業生活の中で、当たり前のこととして身に着けた行為(=慣習化された行為。ハビトゥスという)だったように見受けられます。
登場人物たちは皆それぞれに、大きな葛藤も抱えていたことでしょう。娘として、妻として、母として、家族の傍にいてあげられないことは、さぞ心配だったでしょうし、罪悪感も持っていたことでしょう。
また、病院にとどまることに全く不安がなかった訳ではないでしょう。放射能による被害を恐れて避難しようとした看護師も登場していました。また劇中で、ある患者家族は、遠くに避難するから患者を退院させてほしいという要望を出していました。多くの人々が、事故を起こした原発から少しでも遠くに避難しようと思っていたのでした。
しかしながらそうした思いを超えて、サキたち看護師は病院にとどまったのです。さらに、いったんは避難しようとした看護師も、結局は病院に戻ってきて、みんなに再び仲間として迎え入れられるのです。

看護師という専門職

社会学者のタルコット・パーソンズは、専門職の条件として「他者指向性」を挙げました。自分の利益よりも他者の利益を優先するのが、専門職とそうでない職業との一番の違いだということを示したのです。
自分のことよりも、患者のことを思って病院に残ったサキたち看護師は、まさしくパーソンズの指摘した意味での専門職でした。そしてまた、消防団員であったエイジも、ボランティアという立場であっても消防団員としての責任を背負い、逃げ遅れた人々をひとりでも多く助けようとしていました。まさしく専門職としての条件を備えていたといえるでしょう。
自己の利益よりも他者の利益を優先させることは、口で言うほど簡単ではありません。だからこそ、専門職professionというのは、その他の職業occupationとは異なる、特別なあり方なのでしょう。

医療の不確実性に対処する

パーソンズの薫陶を受けた筆者の恩師であるルネ・フォックスは、医療は人の生老病死に関わっており、切実でないことはなく、しかも不確実性に満ちているといいます。この場合の医療の不確実性とは、どんな治療が一番いいか、どこまで良くなるのか、いつまで生きられるのか、あらゆることは確率統計や過去の経験によるものでしかなく、実際には人それぞれによって大きく異なっているという特徴のことです。
フォックスは、医療専門職というのは、この不確実性によって大きなストレスを感じているので、対処する方法を編み出しているといいます。そしてその方法として、「距離を置いた関わり方Detached Concern」、「ユーモア」、「科学的な魔法」という3つを指摘しています。ここでは特に、「距離を置いた関わり方」に注目してみましょう。
通常、医療専門職が患者に対してよそよそしく、冷淡な態度をとることは、人間味がないとか、共感に欠けるという批判の対象になっています。しかしフォックスは、それは視覚的にも嗅覚的にも尋常ではない手術室の場面や患者の死といった場面などにおいて、感情を乱されずに、冷静に対応することができるために医療専門職がとっている態度なのだと分析して、「距離を置いた関わり方」と呼びました。
ただし、この「距離を置いた関わり方」については、それを貫徹すべきなのか、少しは表出してもいいのかについては、まだ答えが出ていないといいます。「距離を置いた関わり方」ばかりを強調すると、「感情的麻痺」になったり、患者を全人的な人間として見られなくなったりするからです。ある程度の距離を保つことができると共に、離れすぎることなく適度な距離を探ることが求められているのです。この点を十分に研究するためには、看護学や医学など医療系学問のほか、社会学や教育学や心理学など周辺諸学問が協働することが必要だとフォックスは強調します。私もいつか調べてみたいものです。

看護師の社会的役割

1960年代から1970年代のアメリカでは、学校教師や図書館司書などと共に看護師が専門職か否かという議論が高まった時期もありましたが、もはや1990年代以降、看護師が、高度な知識を備え、高等教育機関で教育される「ケアにおける専門職」としての地位を獲得するようになってきたことは明白です。
看護師には、自分の利益より患者の利益を優先する他者指向性、不確実性の中で患者の持つ生きる力を引き出し育むこと、たとえ終末期であっても良い死を迎える手助けをすることが期待されています。こうした看護師への期待が、『HIKOBAE』には反映されていました。また、怪我をした男の子の患者に、看護師サキは、当初は「距離を置いた関わり」の中でケアを行っていましたが、やがて、共に大切な人を失うという悲しみを共有していることを明らかにし、距離を縮めて男の子の生きる意欲を引き出しました。
塩屋監督は、このように演劇というエンターテイメントの世界で、専門職の責任や共に苦しみを分かち合うことで傷ついた心が癒されることを伝えようとしていらっしゃいました。この塩屋監督のメッセージは、私たちの心に残り続けるでしょう。エイジがいつまでもサキの心の支えになるように。
そして、肉体はこの世から去っても、志は受け継がれてゆくこと。人は、たとえこの世から旅立ったとしても、その人を愛した人の心の中で生き続け、呼びかけをしていること。塩屋監督は、これらのことも、彼の人生の舞台で私たちに教えてくれました。看護師は、もしかしたら、この世を去りゆく患者と残された家族の織り成す舞台の演出家の役割も期待されているのかもしれない。ふと、そんなことを思いました。

この文章を、故塩屋俊監督に捧げます。この場をお借りして、心よりご冥福をお祈りいたします。


【参考文献】
Parsons, T., 1951, The Social System, Free Press. =1974, 佐藤勉訳, 社会体系論, 青木書店
Fox, R., Human Condition of Medical Professionals, 2003=2003, 細田満和子訳, 医療専門職における人間の条件, レネー・C・フォックス, 生命倫理を見つめて―医療社会学者の半世紀, みすず書房, 149-174.
細田満和子, 1997, メディカル・プロフェッションの変容―職能集団としてみた看護婦を中心に―, ソシオロゴス, 21, 95-112.

ブータン便り

2013-06-11 10:07:22 | 日記
●星槎とブータンの長いおつきあい

ボストンから日本に活動の拠点を移して約1年になりますが、この間、一番多く訪れた国はブータンでした。昨年5月を皮切りに、今年の3月までに合計3回行 きました。ブータンはそれまでの私にとっては全く縁のなかった国ですが、星槎の一員であるおかげでこのように頻繁に赴くようになりました。
今ではブータンは日本でもよく知られるようになりましたが、星槎グループ会長の宮澤保夫氏が20年以上前に初めてブータンを訪れたとき、ブータンは秘境中 の秘境でした。宮澤氏はそこでたくさんの友達を作り、ブータンとの長い交流が始まりました。初めは宮澤氏の個人的なものでしたが、やがて組織的、継続的な 協力関係を持つものに発展し、1995年には、横浜ブータン王国友好協会が設立されました。また、宮澤氏は先代国王のお姉さまで、現国王の叔母様に当たる アシケサン王女ご一家とも懇意で、アシケサン王女が設立に寄与し、2006年に開校したロイヤル・ティンプー・カレッジ(RTC)と星槎大学は姉妹校にな りました。その際に、両校で交換留学の約束が交わされました。この約束に基づいて、まずは2012年2月に、ブータンから10名の学生が日本に訪れ、日本 の伝統文化や最新技術に触れ、星槎の大学生や高校生、教職員と交流しました。

●ブータン視察旅行

私が星槎大学の専任教員になったのは2012年4月からだったので、実はこの第1回のブータンからの学生さんたちとは直接は会っていません。そして同年5 月のゴールデンウィークに子どもたちを水族館に連れて行っている時に、「ブータンに行かない?」と宮澤氏から突然電話があり、ブータンに視察に行くことに なったのです。
初めて訪れたブータンは、なんとなく懐かしい昔の日本という印象でした。同行した星槎の井上理事長は「建設ラッシュでこの数年ずいぶん変わってきている」 とおっしゃっていましたが、それでも首都ティンプーさえも山間の小さな町という風情でした。新しい建物もブータンの伝統的な建築様式を踏襲していました し、町の至る所に寺院や僧院があり、昔ながらの仏教に根付いた生活が営まれている感じがしました。
このブータン訪問の目的のひとつは、ブータンの高校生に、毎年2名ずつ2年間、日本にサッカー留学の機会を提供する基金-アシケサン宮澤留学基金―に関す る話し合いでしたので、ブータンの教育大臣にもお会いしました。ディナーにも招待していただき、その時に、留学生候補の2名の高校生、ペマ君とキンザン君 に会いました。

●第1回共生フィールドトリップinブータン

そして2012年9月、私を含めた引率教員3名で星槎の学生6名を連れ、ブータンにむけた第1回目の共生フィールドトリップが実施されました。このフィー ルドトリップの一番の目的は、参加者にブータンという国を通して、星槎の標榜する「共生」を学んでもらうということでした。
訪れたロイヤル・ティンプー・カレッジ(RTC)、小学校、高校、教育省、そしていくつもの寺院などでは、国民総幸福量(GNH:Gross National Happiness)が人々の行動規範としてどのように実現されているかという話を伺いました。そして、GNHのことを聞くと、子どもも大人も誰でもその 人なりのGNHについての考えを持っているということに驚きました。印象深かった言葉を以下に記します。「人を幸せにすることが自分の幸せ」、「今を満足 して過ごせるのが幸せ」、「ブータンは、今現在、国民すべてが幸せだということではなく、国民すべてが幸せになれるために努力している国である」。
このようなお話を聞くことも大変有意義だったのですが、なによりもよかったのは、RTCを始め訪れたどの場所でも、現地の方々から熱烈な歓迎を受けたことでした。参加者はこれによっても、「幸せの国(The land of Happiness)」を実感できたようです。
フィールドトリップは全行程が11日間に渡り、自由行動の時間もほとんど取れないような状態でした。また、通信の大学であるがゆえ参加者はほとんどが初対 面で、年齢差も大きく、ライフスタイルや価値観もかなり異なっていました。その結果、見知らぬ者同志が共同生活を営む難しさを浮き彫りにしたと思われる状 況もありました。しかし、このような状況も、気遣いや話し合いを重ねた結果、みんなが一つのチームとなって行きました。こうして難しい状況も乗り越えるこ とができ、いろいろな面で意義深いフィールドトリップになりました。

●第2回共生フィールドトリップinブータン

2013年3月末には、第2回のトリップが開催され、7名の学生と2名の引率者がブータンを訪れました。ここでもまた、ブータンの人々との素晴らしい交流がありました。
前回とはまた別のブータンの姿を見せてくださろうと、RTCの担当者はスケジュールをよく練ってくださり、タンゴ僧院での一日修行体験、「タイガーネスト」と呼ばれる崖の上にそびえ立つタクツァン僧院へのハイキングを楽しむことができました。
タンゴ僧院に滞在中は、ちょうど教育大臣もお見えになっていました。大臣は、私と前年に会ったことを覚えていてくださり、学生たちに、ブータンの教育や文化、日本とブータンの交流について、お話してくださいました。
タクツァン僧院のハイキングは、全員が目的地までたどり着けるかどうか、直前まで、いいえ、ハイキングをしている間でさえ分かりませんでした。ほぼ半数の 参加者が健康や体力に関する問題を抱えていました。そこで、事前にハイキングが可能かどうか、本人たちと話し合ったり、担当者との入念な打ち合わせをした りしました。その結果、登山の時は、行けるところまで馬に乗ってゆき、そこから先の馬が入れない寺院への道のりは、その場所で本人が判断するということに なりました。
結論から言うと、参加者全員がタクツァン僧院までたどり着き、無事に下山しました。これは、健康問題を抱えていたご本人の弁によるとかなり奇跡に近いことでした。この奇跡が起きたのは、互いの励ましや自身の頑張り、そしてブータンという場の力があったからでしょう。
 
●未来世代への希望―「共生」研究の可能性

星槎大学とRTCとの間では、互いにGNHや共生科学を学び合う土壌がだんだん整ってきたように思えます。2013年2月の星槎大学10周年記念プレシン ポジウムでは、ブータンから短期留学中の10名の学生が、ブータンの政治、文化、GNHについてのプレゼンテーションをしてくれました。また、同シンポジ ウムでは、共生とGNHを探求する星槎のブータン学の紹介をする機会もありました。
星槎の理念は「1.人を排除しない、2.人を理解する、3.仲間を作る」というものです。このシンプルな3つの理念を含む共生という思想と実践は、私に とってもとても魅力的なもので、2回のブータンへのフィールドトリップを通して実感したことです。さらに、この理念は、私が従来してきた研究を、さらに敷 衍してゆくものになるだろうという予感がしています。
従来の研究とは、例えば、異なる職種の医療専門職がどのように共同できるかという「チーム医療」や、人生の途中で脳卒中によって障害を持つようになった人 が、いかに自らの<生>を他者との相互行為の中で作り直しているかという「病いの経験」、といったものです。価値観や背景の違うメンバーが共同体として活 動を続けていくことができるか、身体が全く異なる状態になった時に、どのように価値観を変えつつ、いかにこれまでの人生との統合を図ってゆくか、というこ とを、「共生」という切り口から読み替えるのは有意義だと思います。
フィールドトリップの参加者からは、「素晴らしい自然に囲まれた環境、人そして動物。目に入るものすべてが強烈なメッセージとして感じることが出来た気が します」、「盛り沢山な内容に、毎日が本当に早く過ぎると思えるほどの充実感で過ごすことが出来ました」という感想を頂いております。

ブータンへのフィールドトリップは2013年9月中旬にも実施されますので、ご関心をもたれた方は、どうぞ星槎大学までお問い合わせください。

星槎大学のホームページ:http://www.seisa.ac.jp/

紹介:ボストンから日本に活動の拠点を移してしばらく経ちました。この間、新しい出会いや発見がますます増え、訪れた土地もブータン、アルゼンチン、ス ウェーデン、イギリスなど、どんどん広がってきました。関心の範囲も、医療や福祉の他に、教育や発達障がいの世界が加わりました。この度の連載でも、様々 なフィールド(=現場)において、気づいたことや驚いたことなどを綴っていきたいと思います。


相馬の星槎寮

2013-04-05 14:18:44 | 日記
星槎寮との出会い

以前にも書いたことがありますが、私と星槎との出会いは3.11の震災後でした。ボストンから一時帰国していた2011年5月に、被災地で何かできることはないかと相談した東京大学医科学研究所教授の上昌広氏に、星槎グループ会長の宮澤保夫氏をご紹介して頂きました。
そして相馬を訪問するにあたり、震災直後に継続的支援のために宮澤氏が借り上げた相馬市内の合宿所にご厄介になることになりました。それが「星槎寮」と呼ばれる、相馬支援の拠点だったのです。朝日新聞の「プロメテウスの罠」という連載で2013年3月21日と22日の両日とも星槎寮が取り上げられたので、記事で知った方も多いのではないかと思います。今回はその星槎寮について書いてみたいと思います。

星槎寮とは

 3.11の直後から、ボストンで災害医療の専門家たちと度重なるミーティングを行っていたので、被災地を訪ねる際の鉄則として、自分の食べるものは自分で用意し、寝るところも自分で確保するということは肝に銘じていました。そこで相馬に向かった時も、宇都宮の実家から車を借り、水と食べ物、布団と枕を後部座席に押し込み、相馬の知人へのお土産として実家で製造している堆肥をトランクに積めるだけ積んでいきました。
そうしてたどり着いた相馬の星槎寮は、相馬市役所とJR相馬駅の中間地点に位置する雑居ビルの3階にありました。贅沢ではないものの、ここが被災地かと思う程の、清潔で万事整った機能的な施設でした。星槎寮は、6つの居室に2つのトイレと2つのお風呂があり、台所も付いています。布団や枕が用意されているのはもちろん、シャワーも浴びられます。覚悟を決めて準備を整え被災地入りしたので、正直言って拍子抜けしてしまいました。
私は医師や看護師でもなく一介の社会学の研究者にすぎないので、特に何ができるという訳ではありません。ただその後も、現場の方々の声を聴きとり、記述することを自分の仕事と思い、相馬に向かいました。そんな時はいつも、星槎寮に宿泊してきました。

星槎寮を守る人々

これまでに延べ2,034人(2013年3月現在)の支援者たちが滞在した星槎寮。星槎寮では、「元気に働くには朝めしが肝心」という宮澤会長の意向を汲み、宿泊者には、旅館も顔負けのしっかりとした朝食が出されます。基本はご飯にみそ汁、焼き魚、大根おろし、卵、お漬物といった具合です。
シーツやまくらカバーも、糊がかかっていていつも清潔です。毎回クリーニングに出して下さっているのです。各居室はもちろん、トイレやお風呂もいつもきれいに清掃され、支援に入る人たちが、気持ちよく過ごせるようにと細かい心配りがなされています。
 この星槎寮を守っているのが、安倍雅昭氏、尾崎達也氏、山越康彦氏、脇屋充氏などの星槎グループのスタッフです。彼らは宮澤氏から相双地区特命を受け、支援者が相馬を訪れる時は常に星槎寮に待機し、掃除をし、食料品を買い込み、寝具を用意し、朝食を作っておもてなしをしているのです。
彼らは星槎寮を守るだけでなく、実に様々な顔を持っています。安倍氏は、相双地区特命室長ですが、星槎名古屋中学校教頭であり、星槎大学特任講師にしてスクールカウンセラーでもあります。尾崎氏は、相双地区特命室財務総務部長ですが、星槎グループ本部の人財総務課での勤務もあります。山越氏は、星槎グループの財団法人で土屋了介氏が理事長を務められる世界こども財団の事務局も務められており、脇屋氏は星槎グループ本部の経営企画部の仕事もしています。
それぞれ彼らは、星槎グループ内でのとても大事な仕事を担っていらっしゃる敏腕教職員です。そんな彼らが、忙しいスケジュールをやりくりして星槎寮に行き、全国各地から集まる相双地区の支援者たちのためのお世話をしているのです。このような所にも、宮澤氏が相双地区をいかに大切に思っているかが伺われます。

星槎寮のはじまり

震災直後は、郡山と仙台にある星槎グループの通信制高校の学習センターの子どもたちの安否が気遣われました。すぐにグループ内の世界こども財団を中心に、3月17日から郡山、仙台をはじめ、被災地へ生活物資搬入等の支援活動が開始されました。
福島第一原発が爆発した後は、メディアさえも放射能を恐れて近づかず、食料やガソリンなどの生活物資が全く入らなくなりました。この孤立した相双地区に、宮澤氏自ら支援に向かったのです。
安倍氏が初めて相双地区に足を踏み入れたのは、この時でした。通勤中に宮澤氏から電話がかかり、その足で現地に行くことになりました。安倍氏は24時間で使い捨てのコンタクトレンズをしていましたが、そのまま相双地区で1週間を過ごしました。
 その後、相双地区には多くの支援者が集まってきました。医療関係者もいましたが、そうした支援者たちの泊まれるところが圧倒的に不足していました。そこで宮澤氏は支援者たちが宿泊の手配を気にしないで、存分に支援活動ができるように後方支援をしようと、広い寮を借り上げました。4月28日の事でした。


星槎寮を訪れる人々

今まで何人の方が、星槎寮を訪れたことでしょう。職業だけでも、医師、看護師、塾講師、大学教員、大学院生、大学生、高校生、中学生、スポーツ選手、音楽家など、実に多種多彩です。
東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステム社会連携研究部門の上昌広氏と坪倉直治氏は、星槎寮の常連さんです。相双地区での住民を対象とした健康相談会や放射線説明会で、何度も星槎寮を訪れています。上氏と坪倉氏は、相馬市復興会議や相馬市健康対策専門部会でも、重要な役割を担っていらっしゃいます。
東京大学大学院国際保健政策学教室の渋谷健司氏と大学院生の野村周平氏と杉本亜美奈氏も、星槎寮を拠点に様々な活動をしてこられました。ヘドロやがれきの撤去・除去に携わる作業員や住民を対象とした健康対策講演会の他、原発事故後の避難による高齢者の死亡リスクに関する実証的研究を、南相馬市の老人介護施設の方々と協働で行ったりしていらっしゃいます。
そんな星槎寮の宿泊者の中には、私と大学の同窓生で上氏の剣道部の後輩、現在カリスマ予備校講師の藤井健志氏がいます。藤井氏は、こんなことをツイッターでつぶやいていました。

「星槎寮の食堂はそこに集まったメンバーにとってのサロンになっており、情報交換するうちに異なる専門分野の人間が縦横斜めに連携し、思わぬコラボレーションが誕生する。星槎寮という空間、星槎スタッフ、そして地元の高校教員の方々が我々を繋ぎ、育ててくれてさえいる」

東京大学経済学部教授の松井彰彦氏も、「プロメテウスの罠」に書かれた記事の訂正として、このようなことをツイッターでつぶやいていました。

「【プロメテウスの罠:相馬星槎寮】(誤)ときには誰かが酒を持ち込み、みんなで酌み交わす。(正)いつも誰かが酒を持ち込み、みんなで酌み交わす。 本当にお世話になっています。」

たくさんの海外からの支援者も星槎寮に泊まっています。イギリス、ボストン、ニューヨークなど様々な国や地域からきています。また、相馬の地元の方々も、交流の場として使ってくださっています。相馬高校から新地高校に移られた物理教諭の高村先生は、その中心的人物です。星槎寮はグローバルでローカルな交流の場になっているといえるでしょう。
 被災した児童・生徒の精神的ケアを行う相馬フォロアーチームで中心的に活動する星槎の教職員の皆さんも、星槎寮を拠点にしていますが、これは別稿に譲ります。


ブータンの祈り

2013年 2月には、ブータンからの星槎への短期留学生10人が、星槎寮を訪ねました。今ではブータンは、日本でよく知られるようになりましたが、20年前、まだほとんど外国人が入れなかった時代に、宮澤氏はブータンを訪れ、それ以来交流を続けてきました。第4代国王の姉で、現国王の叔母に当たるアシケサン王女とは特に親しい間柄で、彼女が設立したロイヤル・ティンプー・カレッジ(RTC)と星槎大学は姉妹校になっています。そこで両校には交換留学のプログラムがあるのです。
2月19日の早朝、RTCの一行は東京駅を出発し、仙台を経由してバスで相馬に入りました。一行は星槎寮で昼食をとった後、相馬市長の立谷秀清氏を表敬訪問しました。そこで、様々な復旧・復興の取り組みの話を聴きました。
それから第5代ブータン国王が、2011年11月に訪れた相馬の海辺に行きました。そこは、津波によって多くの犠牲者が出たところでした。バスから降りるとすぐ、誰が言いだすともなく、学生たちは海を背にしてその場に一列に立ち並びました。そして、ブータンの言葉でお経を唱え始めました。それは、歌のような呪文のような、美しく厳かな響きでした。
祈りは数分に及び、最後は全員で深々とお辞儀をしました。亡くなった方への心からの哀悼の意が感じられ、一緒にいた私たちの心にも深く染み入りました。


星槎寮のこれから

2013年度もまた、宮澤氏の強い意向で星槎寮を継続することが確定されました。宮澤氏の思いを体現した星槎の理念は、「必要とされることをする」というものです。この理念は、グループ内の保育園・幼稚園から中高・大学・大学院、各種の財団法人やNPOまで浸透しています。その理念の通りに、星槎寮が継続し運営されるというのは、相双地区で必要とされているからなのです。
やがてまた星槎寮に、日本の各地から、そして世界から人々が集まってくることでしょう。ここからどんな物語が生まれてゆくのか、楽しみにしています。

【参考資料】
・プロメテウスの罠「生徒はどこだ⑯ 支援者の宿がない」、朝日新聞、2013年3月21日
・プロメテウスの罠「生徒はどこだ⑰ 怖い顔、だめだよ」、朝日新聞、2013年3月22日
・東日本大震災:世界こども財団活動報告(合宿所活用)、2013年3月(未公開資料)
・さくらビル合宿所における震災による支援活動の後方支援、星槎グループ世界こども財団、2013年3月(未公開資料)
・渡辺由佳里のひとり井戸端会議、「2012年東北訪問記 その7 志を同じくする仲間が集まったからできること」http://watanabeyukari.weblogs.jp/blog/2013/01/tohoku-8.html

フィールドの拡がり

2013-02-09 11:56:24 | 日記
「出会い」が結ぶフィールド

 私とフィールド(=現場)との出会いは、唐突で、偶然のことがほとんどです。現在では医療社会学の研究者ということになっていますが、学部から修士、そして博士課程に入った直後まで、私は芸術や文化の社会学を研究しようとしていました。修士号をとった論文のタイトルも「芸術の社会学―近代における芸術の社会的意味」で、博物館や美術館とも関係するだろうと思い学芸員の資格も取りました。
 博士課程でも芸術社会学をするということで入学を認められたのに、ひょんなことから医療の世界と出会い、医療をフィールドに研究することになってしまいました。この医療の世界との初めての出会いは、准看護師問題でした。当時私の所属していた研究室が、厚生労働省看護課から准看護師問題について全国調査をするよう依頼されたからです。
 この研究室は、それまで全く医療とは関係なく、住民運動や社会問題などを対象に調査研究をしていました。そのような所になぜこのような調査の依頼が来たのでしょうか。その理由は、准看問題というのは、存続を強く主張する医師会、廃止や見直しを検討したい厚生省(当時)や看護協会など、様々なステークホルダーが関わっている争点なので、少しでも利害関係のある人が調査したら信用されず、部外者が中立的に調査することが望ましいと考えられたからだと聞きました。
 その後、様々な出会いがあり、チーム医療、医療事故、生体肝移植、患者会等、医療に関する領域での研究をさせて頂いてきました。やがて夫がアメリカの大学に研究留学することに決まって、2004年に家族でニューヨークに向かい、その後2007年からはボストンに住む事になりました。アメリカではご縁があって、ニューヨークでもボストンでも公衆衛生大学院に所属していました。そしてアメリカ社会や公衆衛生の世界、患者会やアドボカシー活動にも出会いました。

星槎グループとの出会い

 アメリカでの暮らしは7年に及び、2011年になり、そろそろ日本に帰るころだと思っていたところに、東日本大震災が起きました。大変なことになり、何か自分にできることはないかと思いましたが、海外で一部のメディアやツイッターや親しい人からの連絡などからしか情報が得られないまま、もどかしい思いを抱いていました。そのような中で、MRIC編集長の上昌広氏が震災直後に「地震医療ネットワーク」というメーリングリストを立ち上げ、現場の声が流れてくるようになりました。
 そして2011年5月、半年前から予定されていた講演会のため、一時帰国をする機会がありました。すぐに「地震医療ネットワーク」を通じて知己になった相馬市の尾形氏を訪ねたい旨を上氏にも相談しました。この際に、相馬市に行くなら連絡してみるようにと、星槎グループ会長の宮澤保夫氏の携帯電話番号を教えて頂きました。
 宮澤会長にご連絡したところ、震災直後に継続的被災地支援のために借り上げた相馬市内の合宿所を紹介していただきました。こうして星槎グループの被災地での数々の支援を知り、星槎グループがいかなるものであるかを知ることになりました。星槎グループは、一言でいうのは難しいほど、幅広い活動をしているところなのですが、保育園・幼稚園から中高・大学までの学校と、芸術関係のNPO法人や農業法人も含む教育関係の団体です。
 このようにして星槎グループとの出会いがあり、2011年の10月からはグループ内の星槎大学に勤務することになりました。そして、長くなったアメリカ生活から、徐々に活動の場を日本へと移すようになりました。

ブータンを訪ねて

 この星槎との出会いによって私の活動範囲は、地理的にも、専門領域的にもグンと広がってきました。星槎大学では、本当にいろいろなことをやらせて頂いているのですが、例えば、ブータンとのつながりもその一つです。
2012年度の新学期が始まって間もない頃、子ども達を水族館に連れて行っている時でした。突然、携帯に宮澤会長から電話があり、「ちょっとブータンに行かない?」。ブータンと言えば、国民総幸福量(GNH)や震災後に国王夫妻が来日したことで話題になった国、ということくらいしか知りませんでした。しかし、星槎グループは既に20年来ブータンと交流を持っていました。星槎大学もブータンのロイヤル・ティンプー・カレッジとは姉妹校で、交換留学のプログラムが実施されることになっていました。
 2012年5月中旬に初めてブータンの地を訪れ、教育省大臣から環境NPOの代表者、警察庁の長官から家業の飲食店を手伝う子どもたちまでさまざまな方と出会い、すっかりブータンが好きになりました。そして同年9月には星槎の学生さんたちを連れて10日間のブータン・フィールドトリップを実施しました。

アジアの国々へ

 星槎グループ会長の宮澤保夫氏は、今から40年前に塾を始め、一貫して教育分野に関わってきました。「必要とされることをする」という信念で、子どもたちや社会に求められるままに通信制の高校、幼稚園や保育園、通学制中高、そして大学や大学院などを次々に作ってきました。
 また、世界こども財団という、日本を含む世界の子どもたちを支援する財団も設立し、東日本大震災で被災した福島県相双地区の子どもたちの支援や、ミャンマーやバングラデシュなど世界の子どもたちの衛生環境向上の支援などを行っています。2012年末も宮澤会長はミャンマーに大量の石鹸を寄付する為に訪れ、子どもたちだけでなく様々な要人とも会って、支援につなげようとしてこられました。軍総司令官ともお会いし、アウンサンスーチー氏が20年以上も自宅軟禁された背景には、混乱した国内情勢の中で、彼女の命を守るという意図もあったことを打ち明けられたとのことでした。
 これから私もアジアの国々との関係が多くなりそうで、これまでと異なる文化を持つ人々との交流を楽しみにしています。

教育という異文化圏

 大学院博士課程の院生の時に、医療という異文化を社会学的視点から見るような転機がありましたが、今度は教育という、また新しい文化圏の中に巻き込まれることになりました。
 文化人類学の権威マーガレット・ミードは、フィールドワークを「自分自身のいっさいの信念をしばらくは抑えて、自分とはちがう人びとの生活の中にはいり込み、かれらの物の見方を心と体で理解しようとする、繰り返しのきかない体験」と言いました。
 教育は、自分がこれまでの生活の中で最も深くかかわってきた分野であり、小学生と中学生の二人の子どもを持つ親としても、とても興味があります。しかし、社会学の対象として見ることはほとんどありませんでした。まさにミードの言う「いっさいの信念を抑える」ことが難しかったからなのではないかと思います、
 しかし、教育との「出会い」があった以上、それは私にとって大きな意味のあることなのでしょうから、研鑽を積んで、教育というフィールドでおもしろい発見をしていきたいと思います。本当に、人生の中では想定外のことが次々に起こります。ボストン便りで、医療を中心に現場(=フィールド)に足場をおいて見聞したことをお伝えしたように、再び、今の立場で体験し、見聞きした現場の状況を、皆様にお伝えしていきたいと思います。

<引用文献>
Mead, Margaret, 1977, Letters from the Field, 1925-1975, Introduction “World Perspectives” by Ruth Nanda Anshen=1984畑中幸子訳、フィールドからの手紙、岩波現代選書