MIRO ITO発メディア=アート+メッセージ "The Medium is the message"

写真・映像作家、著述家、本物の日本遺産イニシアティブ+メディアアートリーグ代表。日本の1400年の精神文化を世界発信

「明日よ、目覚めよ、されど、今宵に夢見よ」

2007-01-17 12:44:26 | Weblog
「明日よ、目覚めよ、されど、今宵に夢見よ」

 Emily Bronteの詩「How Clear She Shines」の詩から一節...

  天と地球とが わたしに囁きかける間に、
 「明日よ 目覚めよ されど 今宵に夢見よ」
 そうだ 空想よ おいで わたしの妖精の姿をした恋人よ!
 この脈に震える顳かみに  柔らかに接吻してほしいー
 そして わたしの寂しげな 長椅子の上に屈み
 わたしに 安らぎをもたらし、無上の歓びを与えてほしい。

 この詩は「月」を詠ったものです。タイトルは「How Clear She Shines」を「かくも澄んで輝くひとよ!」と訳してみました。
 ある英文学者の訳では「なんと皓々と 月は照ることか!」となっていました。

 月を語りながら、「月」と呼ばなかったエミリーの奥ゆかしさが、まさにこの詩の象徴性を際立たせ、イマジネーションを掻き立てるのですが、詩のタイトルというのは、実はとても難しい問題といえます。

 絵画にタイトルをつけることの是非と似ていて、観るものの想像力を刺激するのか、あるいは限定してしまうのか、作品によってケースはさまざまです。タイトルが抽象的であればあるほど、それがより強いインパクトを持つ場合もたくさんあります。逆にタイトル次第で、例えば、抽象的な絵画作品も「詩的」な余韻をもつようになります。
 テキストがそのまま芸術作品になる詩では、タイトルにこそ詩のもつ「生命力」というか、エッセンスとしてのエネルギーが集約されています。

 「皓々と月は照る」という事実は、「燦々と太陽が輝く」のと同じくらい自明のことなので、そのこと自体は象徴的力を持ちません。つまるところ、 訳詩の場合の問題は、英語でもドイツ語でも扱う言語に拘わらず、訳者にも「詩人の感性」が求められることです。言語のレベルを越えた、作者のイマジネーションを共有し「想い見る」という作業が求められます。

 逆に現実の世界から想像力の世界へと、想い見る「心の窓」があれば、それはもう詩人の感性の世界です。
 これは写真家についても同じことだと思います。
  写真家は「光の詩人」であってほしい、と私はいつも願っています。

 エミリーの詩の一節に似合う、写真を選んでみました。
 東京の空を撮っているシリーズからの一枚です。

 タイトルは、「明日よ 目覚めよ されど 今宵に夢見よ」__。

 伊藤美露
 2007.1.17
「"赤い月"のような太陽」 (Jan.13, 2007)
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