milima父のブログ/トルコ・ヨルダン・その他

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メルハバ通信その21(2007年10月)

2012年06月03日 | メルハバ通信

メルハバ通信その21

ついこの前まで真夏のように暑い日もあったが、4,5日前から急に寒くなり、アパートでも暖房が欲しくなった。ここカマン、アナトリアではそろそろ短い秋を通り越して冬支度。昨年も11月初めに大雪が降った。もう直ぐカマンでも初雪がありそうだ。

トルコでの生活も残り20日程になってしまった。月日の経つのは全く早いものだ。作業も正真正銘のラストスパート。カマンの日本庭園では完成した藤棚とあずまやの柱基部を小石で補強している間に、ムラムラと作庭意欲が湧いてきた。

一緒に作業しているガリップと近くの川原で小石を探していると、石臼らしきものが転がっていた。臼を回転させる棒を差す穴が開いている。つくばいの手水鉢代わりに使えそうだ。つくばいをポイントに、あずまやの下をちょっとした坪庭風に仕上げてやろう・・・。

しかし、ガリップがこの石臼は相当古いので、考古学的価値があるかも知れないと言い出した。勝手に使うとここトルコでは重罪になる。研究所のM考古学ドクターに聞いてみると、転がっていた所が発掘現場ではないので、使ってもいいだろうということ。庭に利用することにした。地面に転がっているよりも、利用してやったほうがこの石にとっても幸せに違いないと勝手に解釈した。

延べ段に使う石敷きの小石が少なかったので、あずまやの椅子の下には日本で言うピンコロのような角張った切り石を繋げてアクセントに使う。

《坪庭の制作途中》

先日ようやく完成したが、自分でもなかなかの出来だと思っている。カイセリに日本庭園を作成したが、カマンでは庭らしいものを作っていなかったので、ちょっとした私の置き土産である。

《あずまや下の坪庭の完成》

小石の目地モルタルを押さえるのに、小さな目地ゴテがトルコにはない。代わりにドイツで購入した油絵用のコテを利用した。これがなかなか使い勝手が良い。日本に帰ってからも十分使えそうだ。

藤棚の植え桝も角石で縁取り、土の部分が低かったので、中には小石を配置した。

さて、9月13日からトルコではイスラムの一大行事(修行?)であるラマダン(断食月)が始まった。昨年は断念したが、今年は最後なのでちょっと挑戦してやろうと、オロチ(断食)に挑んだ。2日間位は少なくとも続けるつもりだった。

まず1日目、午前3時に街を練り歩く太鼓の音に起こされる。毎日みんなを起こすために太鼓を鳴らすのだ。朝食の準備はできているので少し眠り、太陽が出る前にたらふく朝食を食べる。今年はまだ暑い(年によってラマダンの月は変化する)ので飲めるだけ水を飲んだ。お腹は水ではちきれんばかり。

空腹よりも喉の渇きに耐えられないことのほうが多いと聞いている。アフリカ(タンザニア)ではラマダンでも水は飲んでいいことになっていたが、本来は水も飲めない。

カマンのアパートから日本庭園まで行くのに、体力温存のためバスを使う。仕事も無理をしないよう、また汗もできるだけかかないようにヤワッシュ、ヤワッシュ(スロー、スロー)に徹し、作業終了の5時まで無事に過ごした。

バスでカマンに帰り、イフタル(ラマダンの食事)が用意された市役所のテント(貧しい人々のため、ラマダン月に無料で食事が施される。)で待ちに待った食事である。頂いた食事のそれはそれは美味しいこと。

《テントの中でイフタルを頂く》

《イフタルの食事》

《子供達と一緒にイフタルを頂く》

っていたより簡単にオロチが経過し自信を深め、2日目は無謀にも自転車で日本庭園に向かうことにした。仕事もセーブせずにいつもの様にこなす。ところが昼を過ぎてから、体力的には大丈夫だったのだが、なぜか頭痛がする。とたんに身体もフラフラになり、夕方早々と自宅へ。軽い熱射病だったのだろうか? やっぱり、いつものような作業は無理だと感じた。

周りのトルコ人もできるだけ身体を動かさないようにしている。これでは作業も捗らないし、2日間もやったのだからもういいだろうと私のオロチは終了と相成った。

でも、私がオロチに挑んだことが“日本人が2日間のオロチを経験!”とカマンの新聞に掲載された。少しはイスラムのラマダン時の気持ちが解ったような気がする。

確かに食事のありがたさは実感できたが、1ヶ月はちょっと長すぎるだろう。普段どおりに作業できればいいのだが、その間結局作業効率が落ちてしまう。とにかく2日間のオロチも終了し、その後はいつも通り作業を続けた。

ラマダン中の10月16日はカマンで唯一の祭りらしい祭り、ジェビズ(クルミ)祭りが開催された。昨年は春の晩霜のため、殆どのクルミの芽がやられてしまい、実が成らなかった。お陰で恒例のジェビズ祭りも中止。

今年こそはと期待していたが、あいにくラマダン月と重なり、なかなか催行決定が出なかった。ようやく開催することに決まり、妻や娘またアンカラから同期のSV隊員2名とトルコ人もカマンに来て祭りに参加した。

昼間、クルッカレの街からオスマン時代の衣装を着た人々がやって来た。笛や太鼓の音に合わせて街を練り歩き、市役所前のアタチュルク広場で盛大な開会式があった。クルミやその他の品物を売る物売り達と多くの市民で賑わった。

《祭り会場》

《会場のいたる所でクルミを売る》

陽が暮れて、みんなで市役所設営のテント内でイフタルの食事を頂いた。さあ、外に出てこれからが本番。特設会場には次々と市民が訪れる。カマンにこれだけの人々がいたのかと改めてビックリ。

まず、サズ(トルコギター)の演奏。ベテランと若者の二人が続いて演奏したが、その演奏技術や夜空に響く歌声に感動。

今年、質の良いクルミを栽培した人々等が表彰を受け、誇らしげに喜びを顕わにする。

《誇らしげにクルミの自慢をするおじさん》

そしてステージではコミカルなショーや手品等のアトラクション。会場で盛大な花火が打ち上げられた。トルコで見る初めての本格的な打ち上げ花火である。その迫力に“田舎町のカマンもなかなかやるな!”と思わず感心した。しかし、 費用も大分掛かっているのでは・・・。私も今は一応カマン市役所の職員である。ちょっと市の財政も心配する。

さて、このまま祭りはいつ果てるとも解らない。女性歌手の張りのある歌声を聞きつつアパートに戻る。

日本人同士でアルコールを交え、打ち上げのパーティーだ。アンカラの友人達もカマンの底力にビックリといった所ではないだろうか?念願のジェビズ祭りを体験することができ、これで本望。思い残すことなくカマンを後にできます。

さて、祭りも終わり、ラマダンの最終週にカイセリの日本庭園の仕上げに向かうことにした。8月に日本から来た友人とこの庭園を訪ねた時に、あまりの荒れ果てようにがっかりしていた。何とか整備し、見られる庭にして帰国しなくてはと考えていた。

《池の中は雑草だらけ》

まず、雑草だらけの枯れ池の中で小石を綺麗に取り除き、雑草を抜く。池の下には予め雑草除けのモルタルを塗っていたので、思っていたよりも簡単に抜けた。綺麗になった後に、もう一度小石を並べる。池の姿が見違えるようになった。やはり、日本庭園では日頃の手入れが大切だ。メリカジ市役所の公園長に手入れをきちんとするよう申し入れた。しかし、トルコに来る機会があれば是非見てみたいものである。

制作途中だったつくばい周りでは、予てより依頼していた織部灯篭と手水鉢がとうとう間に合わなかった。結局灯篭は諦め、手水鉢は石材屋に行って、何とか使えそうなものを調達した。そして、ようやくつくばいも完成。なかなか満足とはいかないが、何とか格好が付いたのでは・・・。つくばい周りの植栽も指示した。樹木が植わればもっと雰囲気が出るだろう。

《日本庭園》

《日本庭園、枯れ池》

《つくばい回り》

《延べ段と景石》

《エルジェス山石組み》

《夜の日本庭園》

やっとカイセリの日本庭園を仕上げ、トルコに来た時からの念願であったエルジェス山登頂を目指した。ところが、カイセリでの仕事の最終日、午前中は快晴だったのに、午後から俄かにエルジェス山から雲が湧き出て、不穏な動き・・・。みんなはエルジェス山では雪が降っていると言う。まあ、仕方ないさ、行けるとこまで行くだけさと、みんなの制止を振り切り、写真だけでも撮ろうと、エルジェス山の麓にあるスキー場までドルムシュ(乗り合いバス)に乗る。

一緒に乗り合わせた家族が“エルジェス山は雪だから登山は諦めて私の街まで来なさい。”と言うが、とにかく麓だけでも歩いて来なくては気が治まらない。丁寧に誘いを断り、予定通りスキー場で降りた。

《スキー場からエルジェス山、翌日撮影》

エルジェス山は雲の中で見えないが、雨がしとしと降り続いている。おそらく上では雪が積もっていることだろう。ホテルに着いて、“エルジェス山に登りたい”と言うと、主人はピッケルを貸してくれるということで少し安心。

ジャンダルマ(郡警察)に登山届けを出しに行った。エルジェス山までの時間を聞くと、今はリフトが動いていないので、登りだけで9時間掛かると言わる。まして、ここ最近は誰も登っていないとの事。

スキー場は標高2,000メートル足らず。3,940メートルの頂上まで標高差2,000メートル。宿の主人も往復で12時間は必要だと言う。夜明けを待たず、5時に出発するとし、明日の好天を期待して眠りに付いた。

緊張しているのかあまり眠れず、窓から外を見ると星が瞬いている。天(アッラー)はわれに見方せり!

5時過ぎにカイセリで買った懐中電灯を頼りに宿を出発した。クルト(狼)や野犬が出没すると聞いていたので、自転車に乗っている時にいつも持参している、おもちゃの火薬ピストルをポケットにしのばせ、いつでも撃てるように手も引き金に・・・。

途中犬らしい鳴き声がしたが、姿を見ることも無く辺りが明るくなった頃、リフトの終点2,900メートルに達した。良いペースだ

《エルジェスからの山の夜明け》

ここからいよいよ尾根に取り付く。やっぱり足元の雪が多くなってきた。アイゼンが無いのでスリップに注意して確実に登る。高度感も増してきたが、何とか登れそうだ。スリップしても下まで落ちないように忠実に尾根伝いに登る。

《エルジェス山》

10時頃小さなコブに登り、上を見ると純白の雪に輝く稜線が・・・。地図にある3,700メートルのピークだろうか。

圧倒的な高度感と共にチベットを思わせるような陰影のある雪の美しさが私を待っていた。もしあの稜線でスリップしたら・・・。今までに無いような恐怖感が私の中で湧いてきた。

《最高到達地点より》

悲しいかなこれが歳というものであろうか? 恐怖感で足元がすくむと余計にスリップし易くなってしまう。以前なら恐怖感など感じることも無く果敢に挑戦した私であるが、事故でも起こして家族やJICAに迷惑をかける事になってはと、ここで潔く引き返すことにした。

《登ってきた道を引き返す》

おそらく2日前なら雪も無く、夏山の感じで簡単に登れていただろう。しかし、昨日だったら午前中の快晴で、登頂はできただろうが、きっと午後の吹雪に襲われて下山が困難だったと思う。

“またいつか登りに来るからな。”とつぶやいてエルジェス山を下り始めた。おそらく3,600メートルには達しているだろう。体力的にはまだまだ余裕があった。悔しい思いよりも自分の体力に自身が持てて、いつかは登れるという満足感で一杯であった。頂上には登れなかったけれど、新雪のお陰で素晴らしいエルジェス山の姿も拝むことができた。

エルジェス山が私の耳元で“そんなに簡単には登らせない。お前をずっと待っててやるから、きっとまたトルコにやって来い!”と囁いた感じがした。

 ところで私達親子の帰国日程であるが、トルコを11月7日に発つ。途中オーストリアに寄り、東京(成田)に14日帰国予定。東京で報告会や健康診断等があり、枚方へは11月18日(日)に戻る。次回のメルハバ通信は日本に帰ってから、2年間の報告を兼ねて送りたいと思う。