なんとなく

日常の思うところを綴っております

憲法記念日を迎えるにあたって

2011-04-29 | 日記
こんばんは。
瀬那みきです。

まず、ウィリアム王子様、キャサリン妃様、ご結婚おめでとうございます。

久しぶりの明るいニュース、嬉しいですよね。
パレードの様子など少しだけTVで拝見させていただきました。

イギリスや日本のように、民主主義の発達した国においてなお君主制を維持する国は、少ないでしょう。
君主制か共和制かのいずれかの政体をとるべきかは、民主主義の実現の目的から、その国の歴史と国民性を充分考慮して決すべきことと思われます。
日本は君主制を採用したからこそ、現在の国民生活の安定と繁栄が実現できたのだと思います。

さて、5月3日は憲法記念日ですね。
そこで今回は、憲法の基本的原理についての概観の素描を試みようと思います。

まず法は、社会生活の規範であって、それは国家概念と必然的な関係を持ちません。
しかし国家は社会生活中もっとも組織化され、多分に法秩序に依存するものです。

国家生活に関する法の中でもっとも重要な部分は国家の制定による法です。
そして国家の組織の基本を定め、国家生活に関する法の中で首位にあり、国家の法制度の権力もこれによって定められるところの法は、国家法即ち憲法です。
憲法は、1つは法的存在としての国家の根本組織を定めるものであり、他は国家社会内における制定法の淵源としての意義をもっています。

憲法の内容は多分に各民族の歴史、伝統、世界観等によって影響され、国によって同じではありません。しかし、各国の憲法中には、普遍人類的原則が存在しています(例えば基本的人権宣言、三権分立、議会制度)。この意味で憲法の範囲において、各国相互の間に継受が可能となってきます。例えば、明治憲法はプロイセン憲法の影響の下にありました。現憲法は民主主義の根本原則、基本的な自由や人権の完全な保障、司法権の独立等において、アメリカ合衆国憲法に負うところが多いのです。

現在国家以上のものが存在し、国際法を強行することがないように、憲法の励行は多くの国では概ね国家機関の政治上の責任、世論の力とによってだけ保障されるに止まり、きわめて不完全といえるでしょう。
憲法に関しては、国によってはその実現を保障する機関がなく、あっても不完全であり、その実現は主として国民の憲法に対する尊重の感情にまかされています。憲法が一国の根本法として最大の重要性をもつとともに、他方それが多分に事実性をもち、社会的実在(例えば、戦前の軍部のような)によってまげられやすいから、その遵守を確保する必要があるのです。ただ憲法の法条はだいたい抽象的であり、それが形式的に遵守されるにしても、種々の政治的内容をとることがあるので、法の理想の実現は容易なことではありません。
国家はそれ自体法的存在であって、法の支配に服従するものであり、決して法の上に超然としているものではありません。

国家は機関を必要とし、分業が行われており、人間性の弱点である支配欲への濫用への対策として考案された社会的技術としての方面をもちます。
いわゆる三権分立、即ち国家活動を立法権、司法権、行政権に三分し、これを別々の機関(議会、裁判所、政府)に司らせる政策です。この政策は三権相互の牽制作用によって広く採用されるようになりました。しかし三権分立の原則は事実においては徹底して行われずに、立法府は性質上行政に属する予算を協賛するという権限をもち、法規の性質をもつ命令の制定が行政官庁の権限まかされ、裁判所は非訟事件のような行政事務を取り扱い、また裁判所に関する行政を自ら司るのです。

憲法は国家構成の根本を定める組織法であるとともに、国家と国民との間の権利義務の関係を定めています。国家は国内においては絶対の権力者でありますが、その権力を無制限に行使することはできず、法規に準じて行わなければなりません。
憲法第3章が国民の権利義務を列挙しているのは、国家権力の限界を定め、もって国民の自由を保障しているからなのです。
この自由権の承認は国家権力に対する国民の生命、身体、自由および財産の保障です。それは、国家が社会的正義の見地から国民の財産関係に干与し、契約の自由を制限することをも不当とするように考えられ、法的に与えられた自由の天地内で著しい経済的不平等に原因する実質的不自由が発生するようになりました。経済的弱者は国家に対する関係においては経済的強者と同じく憲法上の自由権の保障を享受するのですが、これはたんに形式的にそうなのであって、実質的には保障されるべきものをもたないから、憲法の保障はたんに経済的強者だけを保護し、ある場合には不当に保護する結果を生じるようになるのです。このように、経済的弱者は国家に対する自由権の主張以外に、経済的強者に対する自由および平等を獲得しなければなりません。すなわち形式的な法的自由、平等の外に、実質的な経済的自由、平等が要求されました。
現憲法は19世紀憲法の自由と人権の目録にさらに生存権と国の社会福祉増進の任務(25条)、教育権(26条)、勤労の権利(27条)、勤労者の団結権(28条)等を明定しました。

現憲法の根本原理は民主主義と平和主義です。
民主主義の原理はリンカーンの「国民の政治」、「国民による政治」「国民のための政治」です。憲法の前文が、国政が国民の信託によりその権威が国民に由来すること、国政が国民の代表者によって行われること、国政の福利が国民に帰することを宣明しているのは、民主主義の三原理を示すものに外なりません。また、現憲法の下における国会制度は衆議院と参議院の両院の国民代表の性格を強め、憲法は、国民の基本的な自由および権利を一層完全に保障し、かつ福祉国家と文化国家の理想を宣明したのです。
憲法の民主主義の原理は普遍人類的のもの即ち自然法であることは、その前文が宣明しているとおりです。
基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在および将来の国民に与えられています(11条)。それは国家の創造にかかるものではなく、国家以前に存し、国家はそれを確認するに過ぎません。この故に国家的立法はこれを廃止したり変更したりすることができず、憲法改正をもってしてもできないことなのです(憲法前文第1節末段に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」といっています)。尚憲法11条は国民の基本的人権をもって「侵すことのできない永久の権利」と宣明しています。これは基本的人権が国家によって創られまた与えられるものではなく、国家以前に国家を離れて存在し、したがって国家はこれを確認しこれに保障を与えるにとどまることを意味します。これは憲法が自然法の立場をとっていることの証左です。

民主主義と並んで憲法の根本精神をなしているのは、平和主義と国際主義です。これは世界の平和と人類の福祉に貢献することをわが国家の理想として認めたものです。この理想は戦争放棄に関する憲法第9条の規定に明瞭にあらわれています。この規定の真の意義は日本が国権の発動として、すなわちイニシアティブをとって太平洋戦争のような侵略戦争をすることを禁止したものです。しかしすべて国家は自然法上の権利として防衛権を有しますから、日本が超国家的組織体例えば国際連合の一員として集団的安全保障の利益を受けることは可能なばかりでなく必要なことです。この場合においては日本は超国家的組織体の一員として集団的安全保障の目的の達成上、単に自国の安全のためのみならずその成員たる他の諸国の安全のためにも何らかの方法(兵力を含め得る)をもってこれに貢献し、何らかの義務を負担することは平和主義と国際主義を基調とする憲法の精神から当然生ずる要請であります。
憲法第9条は日本が過去において犯した過誤を繰り返さない趣旨に出たものであり、日本と諸国との国際的関連、つまり集団的安全保障の問題を度外視するものではありません。

憲法においては、国内政治と国際政治の両分野における理想が完全に一致しています。
前文第2節に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭とを地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といっているのは、憲法において国際社会の理想が国内社会のそれであることを示すものです。
このような意味における憲法の平和主義と国際主義とは普遍人類的な自然法を基礎とするものです。
自然法こそわが国と国際団体との結合の精神的紐帯なのです。

以上です。

さて、今日からGWですね。
わたしは明日から東京を離れますので、来週のブログはお休みさせていただきたいと思います。
再来週また皆様とお会いするのを楽しみにしております。
皆様もよいGWをお過ごしください。

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子供の頃

2011-04-22 | 日記
こんばんは。
瀬那みきです。

先日新聞で「愛する」という言葉は日本人に抵抗がある、との記事がありました。
生まれも育ちも日本の私には、なるほどですね、と大きく頷けるものがありました。

ただ、育ちの方は日本的ではなかったかもしれません。
幼少の頃から聖書を読まされ、またカトリック系の学校に通っておりましたから、朝礼の時は朝の祈りをし、その後聖歌を皆で歌い、食前・食後も神様に祈りを捧げる生活が毎日な上、クリスマス、復活祭等と教会行事も教科の課程に取り入れられていました。
ですから、神の愛とか、慈愛とか、隣人愛とか、内容はともかく、愛という言葉にはすっかり慣れきってしまっていました。
そういう背景を知らない人からみると、私の何気ない言動がびっくりされるということもあったようです。

こんなことがありました。
教会の夏合宿でのこと、当時小学生だった私は、教会の大学生のリーダーの方から
「食後のお祈りを代表でお願いします」
と頼まれ、
「あ、はい」と引き受けました。
とはいえ、何を祈ればいいのか、考える時間もあまりなかったため、学校でいつも使っている食後の祈りで済まそうということで
「父よ、感謝のうちにこの食事をいただきました。・・・」

祈り終えると、しばらくしてから、なにやら周りがざわざわしているので、なんだろうと思っていると、2人組の上級生のお姉さん方が私に走り寄って来、

「『父よ』って言ってたよね。神様とか、主よ、って呼びかけるのが普通なのに、父よ、は驚きだよね。すっごーいって感じだったよね。」
と言われました。
父よ、の呼びかけは私には何ら抵抗がなかったのです。

愛するという言葉を使うのに抵抗があるならば、代替用語を使えばいいと思います。
「好き」なんて言葉は大変便利です。本が好き、中華料理が好き、とんねるずが好きなど、どんな対象に対しても違和感なく使えます。
「大切にする」もやや高尚な感じがしてよろしいのではないでしょうか。その対象から受ける効用のみでなく、そのものの存在に対する尊敬の気持ちを含んでいるからです。

私が「愛する」という言葉を抵抗なく使えるのは、とくに神様で、全知全能者、崇拝すべき者、拝むべき者に対して使う場合です。
ですから、例えば、猫が好きとか、猫を大切にする、ということはできても、猫を愛するということはできないのです。どんなにかわいがっていても、猫は愛せないのです。
なぜなら、猫は拝むべき対象でも、畏怖すべき方でもないからです。
また、対等の者に対しても愛するという感情はいだきにくいようです。

また、神様を愛すると言えることはできても、聖書を愛するということもできないようです。
「本の中の本」ではあっても、やはり本は本でしかなく、何ら人格をもってはいないからです(私見です)。

そんな子供時代の私に唯一抵抗のある言葉がありました。

教会の典礼(いわゆるミサ)はだいたい1時間位かかるのですが、その中では、主祷文や聖母マリアへの祈りや信仰宣言などいろいろ皆で唱えたりします。
そういうことは大丈夫なのですが、なぜかある一文を唱えるのにいつも抵抗がありました。それは

「主よ、・・・・あなたをおいて誰のところに行きましょう(どこへも行きませんよ)」
という言葉でした。
周りの人達はみな平然と唱えているようでしたが、私にはとても無理なこと。
あぁそれだけは勘弁してください、でした。

何か直接的で、心の中で思うだけならまだしも、言葉に出すとなると、この言葉の奥深くに何かズシッとした重みを感じるようでしたし、また、天上的な神様を仰ぎみることだけを求められているのではなく、それ以上に何か過度な要求を突きつけられているかのような感じがして、受け付けられないのでした。
神様を愛しますとか、父よ、あなたを愛しますとか毎日のように祈っているのだから、それで充分でしょうと、それ以上は到底無理ですということで、この言葉だけはどうしても言うことができなかったのです。

仕方がないので、この言葉を唱える箇所では口パクをしたり、口をつぐんだりしていました。
そうすることで、周りから何か言われたりしませんでしたし、先生から注意もされませんでした。
ただ、心の中では罪悪感にさいなまれていました。

しばらくそうしていましたが、いつのまにかこの抵抗感が頭からも心からも消えていったようで、この抵抗感は克服することができました。
それと同時に神様を畏れ敬う相手としてのみではなく、友と呼ぶことができる存在ということに気がつくことができました。

以来、これと似たような抵抗をたびたび受けることになるのですが、それに抵抗し、いつのまにか克服すると、新しい何かが開けてくるのでした。


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停電の時に重宝しそうですよね。
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皆様からのご意見、ご感想等お待ちしておりますので、ぜひお気軽にお寄せ頂きたいと思います。


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宗教と科学【後編】

2011-04-15 | 日記
こんばんは。
瀬那みきです。

今回も前回に引き続き『宗教と科学』をテーマに考えます。

今日の政治は科学的でなければならないことが主張されているのは、それ自体誤りではないでしょう。
実際、科学は政治において重要な役割を演じており、それは生産を増加し、交通通信を容易にし、今まで不治と考えられていた疾病を癒し、社会生活の秩序を確立してきました。
しかしこれらのことが、直接に人類を真に幸福にしたのかというと疑問が残ります。
原子爆弾の発明は太平洋戦争を終結させる重大な契機となりましたし、第三次世界大戦の勃発を牽制することになるのかもしれませんが、それは勢力均衡による平和であって、決して真の平和ではないでしょう。
真の平和は、各民族全人類が心から平和を欲することによってのみ保障されるものです。
優秀兵器の発明が戦争を不可能にさせることに期待をつなぐのは、真の平和愛好者とはいえないでしょう。

もちろん科学者は、真理の探究を全生命とするものであります。
しかし、彼らの探求するところの真理は常に部分的のものです。それは他の無数の真理と有機的に総合されて、世界及び人生を形成するものと思われます。
アリストテレス、ニュートン、カントがどんなに権威あるものと認められていても、彼らの認識は不完全且つ部分的であることに変わりはないのです。
それは彼らが人間であって、神様ではないことに起因するのです。

アインシュタインはかつてこういったそうです。
「我らの時代は人の知的発達においてなした進歩を誇りとしている。しかし我々が知性を我々の神としないように警戒しなければならないことは確かである。知性は勿論有力な筋肉をもっているが、何ら人格をもっているものではない。それは指導することができない。それは奉仕し得るのみである。そうしてそれは指導者を選ぶことに敏感でない。かような特異性はその高い神官である知識人の性質に反映している。知性は方法や道具に対しては目が利いているが、目的や価値に対しては盲目である」

本来、科学技術は理性の働きの結果であり、それ自体よいものでしょう。
ただそれに正しい目的が示され、その目的に奉仕されなかったところに誤りがあったのではないでしょうか。
人間は科学技術において自然法則を征服したかのようにみえますが、人間がそれを正しからざる目的に用いることによって、今度はあべこべに科学技術に征服されるに至ってしまうのです。
科学技術に対する目的が正しいかどうかは、人生の目的、意義、人間の使命から判断されなければなりません。
そしてそれは結局、倫理問題に帰着するのです。

わが国において、教育現場においての知識の修得において自発的態度が欠如しており、自ら思索する訓練が不足していることが教育上大きな欠陥と認められています。
しかしたとえこの欠陥が是正されたとしても、一層大きな欠陥、すなわち知識自体の人生に対する意義についての無知が存在するならば、教育はかえって有害なものとなるおそれすらあるのではないでしょうか。

真に科学者が偉大であるためには哲学者でなければならないでしょう。

結論を言います。
科学は自己自身の人生において有する価値を判断する能力をもってはいません。
それは手段であって、自己目的ではないのです。
人生の究極目的を定立して、その立場から諸価値相互の序列をきめること、それが形而上学乃至統一的世界観の意味における宗教の任務に属するのです。
これは知識と区別される叡智の機能といえるでしょう。
叡智は人間の究極目的の反省から来、宗教によって与えられるものと、わたしは信じております。

以上


PS1:Sさんご質問ありがとうございました。
わたしは避難用のリュックとかそういうの準備していませんね。
今回の震災で家中の懐中電灯をみたら、ほとんどが電池の液漏れなどで使えず、唯一100均の頼りないのが1つとロウソクと水をペットボトルに何本かストックしているくらいですね。
大切なものはパソコンデータ。これが消えてなくなってしまうとかなりの精神的痛手です。
因みに作家の曽野綾子さんは練炭、炭、火鉢を床下に保管し、カセットコンロも常備しているとか。さすが!と思いましたが、真似してません。
すいません、全然参考にならなくて。

PS2:Mさん、最近の映画でよかったのは『天使と悪魔』(2009年米、原作ダン・ブラウン/主演トム・ハンクス)です。実はご存知のとおりこれ先日TV放映されてまして、期待しないで観たのが逆によかったのか、前作の『ダ・ヴィンチ・コード』より楽しめました。『ダ・ヴィンチ・コード』は、関連のドキュメント番組などしっかり事前に見てしまったのがよくなかったのかもしれません。
ユアン・マクレガーは好感のもてる俳優ですし、ローマンカラーの聖職服がなかなかお似合いでした。


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ぜひお立ち寄りください。




宗教と科学【前編】

2011-04-08 | 日記
さくら さくら 今咲きほこる
刹那に散るゆくさだめと知って♪

失礼しました。
こんばんは。
森山直太朗じゃなかった、瀬那みきです。

花に嵐といいますが、今日の昼間は風が強かったです。

さて、今日も皆様と楽しく聖書のお勉強をして参りたいと思います。
「宗教と科学」というタイトルからしてとっつきにくそうと思われてもなあ、ということで、おちゃらけてみました。

今日、主流の宗派をはじめとした多くの宗教は、敬いの心を大切にし、倫理、共同体、家族、慈善のために力を尽くしており、その正当性に疑問を投げかけられているわけではないでしょう。

しかし、保守派や原理主義などの名で呼ばれる宗派は日の出の勢いで、主流の宗派の主張は人々の耳に届かず、その活動も目に触れないほどになっており、すでに反証されているようなことを支持していたりします。
彼らは共通して、自然科学の研究成果に対して警戒心を抱いているといえるでしょう。

しかし、もし、科学が、宇宙は無限に古いことを証明したとすれば、創造主の存在を反証することになるでしょう。
なぜなら、宇宙の年齢が無限大で、宇宙がいつもそこにあったのなら、創造主もいらなくなるからです。
このようにみると、宗教と科学的知見とは対立することがあるようです。

遡って考えて見ますと、宗教と科学の折り合いは、何世紀も前から宗教上の課題でありました。
これに対してカトリック神学が成し遂げた偉業こそ、聖トマス・アクィナスの『神学大全』(Summa Theologica 神学集成)でした。

発端は、12世紀から13世紀にかけて、洗練されたイスラム哲学がキリスト教世界に流れ込んだことでした。
このときイスラム世界からもたらされたもののなかに、古代ギリシャの書物、とりわけアリストテレスの著作があったのです。
そこで、この古代の学問は、聖書と矛盾しないか、という問題を解決するために、トマス・アクィナスは、『神学大全』に取り組んだのです。
それは、キリスト教と、古典文献とのあいだに生じた631の問題に折り合いをつけるという壮大な仕事でした。

1992年ローマ・カトリック教会がガリレオの地動説は正しかったと認めたことは、3世紀ほど遅きに失したとはいえ、勇気ある決断でした。
今日のローマ・カトリック教会は宇宙の年齢が150億年ほどだと言われても異議を唱えないし、最初の生物は分子から生まれ、人間はサルに似た祖先から進化したという説にも反対しません。
プロテスタントやユダヤ教の主流宗派のほとんども、同様の態度を取っています。

ではなぜこのような健全な態度を取り得るのでしょうか。
それは、「宇宙の創造者」という多くの信仰に共通する概念は、正しいと証明することも、間違っているとして捨て去ることも難しい概念です。

つまり、反証しようのない宗教上の中核の教義に関しては、科学の進歩を懸念する必要は、全くないのです。

では意地悪な質問ですが、もしも科学が宇宙が無限に古いことを証明したらどうなるでしょうか。
その時は、神学は大きな改革を必要とされるでしょう。

聖トマス・アクィナスなら、そのような事態になった場合、どのように対処するでしょうか。

彼は、晩年に、こう言い残しています。

「数ヶ月前、ミサを捧げていた時、わたしは神についてある体験をしました。その日、わたしは書きたいという欲求をすべて失いました。実際、わたしが神について書いたすべてのことは、今、とてもつまらぬものに思えてなりません」


PS:WEBサイト『瀬那の部屋』お薦めの本のコーナーにて、旧約聖書『十誡ー約束の地を求めてー』(出エジプト記)を追加しました。
よろしくお願いします。



震災を振り返って思うこと

2011-04-02 | 日記
こんにちは。
瀬那みきです。

東日本大震災の被害や福島第1原発、その関連問題が連日ニュースで伝えられています。

一方、諸外国では、被災者の忍耐強さと秩序立った様子に驚きと称賛の声が上がっているようです。
敬意と品格に基づく文化だからとか、日本国民は高潔である、との分析も出ているようです。
買い占めはあったにしても日本国民は諸外国から、今回の震災における対応について、なかなかの高評価を得ているようです。

それはそれとして喜ばしいことなのでしょうが、では、私たちはまことに高潔な国民性を有しているのでしょうか。
もしそうならば、国民は太平洋戦争のような背理的で無謀な戦争を敢行することを許さなかったでしょう。

憲法によれば、日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓っています。
そこには青年の純真なはつらつとした理想と、壮年の理想実現のたくましい力とが予想されています。

では私たちは、現実的に果たして理想主義者なのでしょうか。
私たちは、理想主義者の代わりに、理想を否定する唯物主義者、懐疑主義者、傍観者、自立性のない事大主義者なのではないでしょうか。

自由主義、修正資本主義、社会主義といっても、すべて経済の世界に限られています。
精神の糧に関係がある文化や教育と、経済との間の先後優劣の判断を可能とさせる、共通の分母である価値の体系、世界観が必要となってくるのではないでしょうか。
そうでなければ、貧困であることからどのような行為をも正当化しようとする傾向を否定できないでしょう。

「進歩」とか「保守」とかいっても、どのような目標に近づくことが進歩的で、どのようなものを擁護することが保守的であるかについて、自覚することが求められているのではないでしょうか。

憲法の力説するところの、国家、民族の上にある普遍人類的理想の存在を認め、その支配に服し、その実現に努力することこそ、求められているのではないかと思うわけでございます。

ご静聴ありがとうございました。

PS:WEBサイト「瀬那の部屋」に、ギリシャ神話『オルフェウスとエウリュディケ』を追加しました。
よろしくお願いします。