こんばんは。
瀬那みきです。
まず、ウィリアム王子様、キャサリン妃様、ご結婚おめでとうございます。
久しぶりの明るいニュース、嬉しいですよね。
パレードの様子など少しだけTVで拝見させていただきました。
イギリスや日本のように、民主主義の発達した国においてなお君主制を維持する国は、少ないでしょう。
君主制か共和制かのいずれかの政体をとるべきかは、民主主義の実現の目的から、その国の歴史と国民性を充分考慮して決すべきことと思われます。
日本は君主制を採用したからこそ、現在の国民生活の安定と繁栄が実現できたのだと思います。
さて、5月3日は憲法記念日ですね。
そこで今回は、憲法の基本的原理についての概観の素描を試みようと思います。
まず法は、社会生活の規範であって、それは国家概念と必然的な関係を持ちません。
しかし国家は社会生活中もっとも組織化され、多分に法秩序に依存するものです。
国家生活に関する法の中でもっとも重要な部分は国家の制定による法です。
そして国家の組織の基本を定め、国家生活に関する法の中で首位にあり、国家の法制度の権力もこれによって定められるところの法は、国家法即ち憲法です。
憲法は、1つは法的存在としての国家の根本組織を定めるものであり、他は国家社会内における制定法の淵源としての意義をもっています。
憲法の内容は多分に各民族の歴史、伝統、世界観等によって影響され、国によって同じではありません。しかし、各国の憲法中には、普遍人類的原則が存在しています(例えば基本的人権宣言、三権分立、議会制度)。この意味で憲法の範囲において、各国相互の間に継受が可能となってきます。例えば、明治憲法はプロイセン憲法の影響の下にありました。現憲法は民主主義の根本原則、基本的な自由や人権の完全な保障、司法権の独立等において、アメリカ合衆国憲法に負うところが多いのです。
現在国家以上のものが存在し、国際法を強行することがないように、憲法の励行は多くの国では概ね国家機関の政治上の責任、世論の力とによってだけ保障されるに止まり、きわめて不完全といえるでしょう。
憲法に関しては、国によってはその実現を保障する機関がなく、あっても不完全であり、その実現は主として国民の憲法に対する尊重の感情にまかされています。憲法が一国の根本法として最大の重要性をもつとともに、他方それが多分に事実性をもち、社会的実在(例えば、戦前の軍部のような)によってまげられやすいから、その遵守を確保する必要があるのです。ただ憲法の法条はだいたい抽象的であり、それが形式的に遵守されるにしても、種々の政治的内容をとることがあるので、法の理想の実現は容易なことではありません。
国家はそれ自体法的存在であって、法の支配に服従するものであり、決して法の上に超然としているものではありません。
国家は機関を必要とし、分業が行われており、人間性の弱点である支配欲への濫用への対策として考案された社会的技術としての方面をもちます。
いわゆる三権分立、即ち国家活動を立法権、司法権、行政権に三分し、これを別々の機関(議会、裁判所、政府)に司らせる政策です。この政策は三権相互の牽制作用によって広く採用されるようになりました。しかし三権分立の原則は事実においては徹底して行われずに、立法府は性質上行政に属する予算を協賛するという権限をもち、法規の性質をもつ命令の制定が行政官庁の権限まかされ、裁判所は非訟事件のような行政事務を取り扱い、また裁判所に関する行政を自ら司るのです。
憲法は国家構成の根本を定める組織法であるとともに、国家と国民との間の権利義務の関係を定めています。国家は国内においては絶対の権力者でありますが、その権力を無制限に行使することはできず、法規に準じて行わなければなりません。
憲法第3章が国民の権利義務を列挙しているのは、国家権力の限界を定め、もって国民の自由を保障しているからなのです。
この自由権の承認は国家権力に対する国民の生命、身体、自由および財産の保障です。それは、国家が社会的正義の見地から国民の財産関係に干与し、契約の自由を制限することをも不当とするように考えられ、法的に与えられた自由の天地内で著しい経済的不平等に原因する実質的不自由が発生するようになりました。経済的弱者は国家に対する関係においては経済的強者と同じく憲法上の自由権の保障を享受するのですが、これはたんに形式的にそうなのであって、実質的には保障されるべきものをもたないから、憲法の保障はたんに経済的強者だけを保護し、ある場合には不当に保護する結果を生じるようになるのです。このように、経済的弱者は国家に対する自由権の主張以外に、経済的強者に対する自由および平等を獲得しなければなりません。すなわち形式的な法的自由、平等の外に、実質的な経済的自由、平等が要求されました。
現憲法は19世紀憲法の自由と人権の目録にさらに生存権と国の社会福祉増進の任務(25条)、教育権(26条)、勤労の権利(27条)、勤労者の団結権(28条)等を明定しました。
現憲法の根本原理は民主主義と平和主義です。
民主主義の原理はリンカーンの「国民の政治」、「国民による政治」「国民のための政治」です。憲法の前文が、国政が国民の信託によりその権威が国民に由来すること、国政が国民の代表者によって行われること、国政の福利が国民に帰することを宣明しているのは、民主主義の三原理を示すものに外なりません。また、現憲法の下における国会制度は衆議院と参議院の両院の国民代表の性格を強め、憲法は、国民の基本的な自由および権利を一層完全に保障し、かつ福祉国家と文化国家の理想を宣明したのです。
憲法の民主主義の原理は普遍人類的のもの即ち自然法であることは、その前文が宣明しているとおりです。
基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在および将来の国民に与えられています(11条)。それは国家の創造にかかるものではなく、国家以前に存し、国家はそれを確認するに過ぎません。この故に国家的立法はこれを廃止したり変更したりすることができず、憲法改正をもってしてもできないことなのです(憲法前文第1節末段に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」といっています)。尚憲法11条は国民の基本的人権をもって「侵すことのできない永久の権利」と宣明しています。これは基本的人権が国家によって創られまた与えられるものではなく、国家以前に国家を離れて存在し、したがって国家はこれを確認しこれに保障を与えるにとどまることを意味します。これは憲法が自然法の立場をとっていることの証左です。
民主主義と並んで憲法の根本精神をなしているのは、平和主義と国際主義です。これは世界の平和と人類の福祉に貢献することをわが国家の理想として認めたものです。この理想は戦争放棄に関する憲法第9条の規定に明瞭にあらわれています。この規定の真の意義は日本が国権の発動として、すなわちイニシアティブをとって太平洋戦争のような侵略戦争をすることを禁止したものです。しかしすべて国家は自然法上の権利として防衛権を有しますから、日本が超国家的組織体例えば国際連合の一員として集団的安全保障の利益を受けることは可能なばかりでなく必要なことです。この場合においては日本は超国家的組織体の一員として集団的安全保障の目的の達成上、単に自国の安全のためのみならずその成員たる他の諸国の安全のためにも何らかの方法(兵力を含め得る)をもってこれに貢献し、何らかの義務を負担することは平和主義と国際主義を基調とする憲法の精神から当然生ずる要請であります。
憲法第9条は日本が過去において犯した過誤を繰り返さない趣旨に出たものであり、日本と諸国との国際的関連、つまり集団的安全保障の問題を度外視するものではありません。
憲法においては、国内政治と国際政治の両分野における理想が完全に一致しています。
前文第2節に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭とを地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といっているのは、憲法において国際社会の理想が国内社会のそれであることを示すものです。
このような意味における憲法の平和主義と国際主義とは普遍人類的な自然法を基礎とするものです。
自然法こそわが国と国際団体との結合の精神的紐帯なのです。
以上です。
さて、今日からGWですね。
わたしは明日から東京を離れますので、来週のブログはお休みさせていただきたいと思います。
再来週また皆様とお会いするのを楽しみにしております。
皆様もよいGWをお過ごしください。
PS:WEBサイト『瀬那の部屋』本の紹介コーナーに、旧約聖書『サムエル師とサウル王』(サムエル記上)を追加しました。
ぜひご覧ください。
瀬那みきです。
まず、ウィリアム王子様、キャサリン妃様、ご結婚おめでとうございます。
久しぶりの明るいニュース、嬉しいですよね。
パレードの様子など少しだけTVで拝見させていただきました。
イギリスや日本のように、民主主義の発達した国においてなお君主制を維持する国は、少ないでしょう。
君主制か共和制かのいずれかの政体をとるべきかは、民主主義の実現の目的から、その国の歴史と国民性を充分考慮して決すべきことと思われます。
日本は君主制を採用したからこそ、現在の国民生活の安定と繁栄が実現できたのだと思います。
さて、5月3日は憲法記念日ですね。
そこで今回は、憲法の基本的原理についての概観の素描を試みようと思います。
まず法は、社会生活の規範であって、それは国家概念と必然的な関係を持ちません。
しかし国家は社会生活中もっとも組織化され、多分に法秩序に依存するものです。
国家生活に関する法の中でもっとも重要な部分は国家の制定による法です。
そして国家の組織の基本を定め、国家生活に関する法の中で首位にあり、国家の法制度の権力もこれによって定められるところの法は、国家法即ち憲法です。
憲法は、1つは法的存在としての国家の根本組織を定めるものであり、他は国家社会内における制定法の淵源としての意義をもっています。
憲法の内容は多分に各民族の歴史、伝統、世界観等によって影響され、国によって同じではありません。しかし、各国の憲法中には、普遍人類的原則が存在しています(例えば基本的人権宣言、三権分立、議会制度)。この意味で憲法の範囲において、各国相互の間に継受が可能となってきます。例えば、明治憲法はプロイセン憲法の影響の下にありました。現憲法は民主主義の根本原則、基本的な自由や人権の完全な保障、司法権の独立等において、アメリカ合衆国憲法に負うところが多いのです。
現在国家以上のものが存在し、国際法を強行することがないように、憲法の励行は多くの国では概ね国家機関の政治上の責任、世論の力とによってだけ保障されるに止まり、きわめて不完全といえるでしょう。
憲法に関しては、国によってはその実現を保障する機関がなく、あっても不完全であり、その実現は主として国民の憲法に対する尊重の感情にまかされています。憲法が一国の根本法として最大の重要性をもつとともに、他方それが多分に事実性をもち、社会的実在(例えば、戦前の軍部のような)によってまげられやすいから、その遵守を確保する必要があるのです。ただ憲法の法条はだいたい抽象的であり、それが形式的に遵守されるにしても、種々の政治的内容をとることがあるので、法の理想の実現は容易なことではありません。
国家はそれ自体法的存在であって、法の支配に服従するものであり、決して法の上に超然としているものではありません。
国家は機関を必要とし、分業が行われており、人間性の弱点である支配欲への濫用への対策として考案された社会的技術としての方面をもちます。
いわゆる三権分立、即ち国家活動を立法権、司法権、行政権に三分し、これを別々の機関(議会、裁判所、政府)に司らせる政策です。この政策は三権相互の牽制作用によって広く採用されるようになりました。しかし三権分立の原則は事実においては徹底して行われずに、立法府は性質上行政に属する予算を協賛するという権限をもち、法規の性質をもつ命令の制定が行政官庁の権限まかされ、裁判所は非訟事件のような行政事務を取り扱い、また裁判所に関する行政を自ら司るのです。
憲法は国家構成の根本を定める組織法であるとともに、国家と国民との間の権利義務の関係を定めています。国家は国内においては絶対の権力者でありますが、その権力を無制限に行使することはできず、法規に準じて行わなければなりません。
憲法第3章が国民の権利義務を列挙しているのは、国家権力の限界を定め、もって国民の自由を保障しているからなのです。
この自由権の承認は国家権力に対する国民の生命、身体、自由および財産の保障です。それは、国家が社会的正義の見地から国民の財産関係に干与し、契約の自由を制限することをも不当とするように考えられ、法的に与えられた自由の天地内で著しい経済的不平等に原因する実質的不自由が発生するようになりました。経済的弱者は国家に対する関係においては経済的強者と同じく憲法上の自由権の保障を享受するのですが、これはたんに形式的にそうなのであって、実質的には保障されるべきものをもたないから、憲法の保障はたんに経済的強者だけを保護し、ある場合には不当に保護する結果を生じるようになるのです。このように、経済的弱者は国家に対する自由権の主張以外に、経済的強者に対する自由および平等を獲得しなければなりません。すなわち形式的な法的自由、平等の外に、実質的な経済的自由、平等が要求されました。
現憲法は19世紀憲法の自由と人権の目録にさらに生存権と国の社会福祉増進の任務(25条)、教育権(26条)、勤労の権利(27条)、勤労者の団結権(28条)等を明定しました。
現憲法の根本原理は民主主義と平和主義です。
民主主義の原理はリンカーンの「国民の政治」、「国民による政治」「国民のための政治」です。憲法の前文が、国政が国民の信託によりその権威が国民に由来すること、国政が国民の代表者によって行われること、国政の福利が国民に帰することを宣明しているのは、民主主義の三原理を示すものに外なりません。また、現憲法の下における国会制度は衆議院と参議院の両院の国民代表の性格を強め、憲法は、国民の基本的な自由および権利を一層完全に保障し、かつ福祉国家と文化国家の理想を宣明したのです。
憲法の民主主義の原理は普遍人類的のもの即ち自然法であることは、その前文が宣明しているとおりです。
基本的人権は侵すことのできない永久の権利として現在および将来の国民に与えられています(11条)。それは国家の創造にかかるものではなく、国家以前に存し、国家はそれを確認するに過ぎません。この故に国家的立法はこれを廃止したり変更したりすることができず、憲法改正をもってしてもできないことなのです(憲法前文第1節末段に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」といっています)。尚憲法11条は国民の基本的人権をもって「侵すことのできない永久の権利」と宣明しています。これは基本的人権が国家によって創られまた与えられるものではなく、国家以前に国家を離れて存在し、したがって国家はこれを確認しこれに保障を与えるにとどまることを意味します。これは憲法が自然法の立場をとっていることの証左です。
民主主義と並んで憲法の根本精神をなしているのは、平和主義と国際主義です。これは世界の平和と人類の福祉に貢献することをわが国家の理想として認めたものです。この理想は戦争放棄に関する憲法第9条の規定に明瞭にあらわれています。この規定の真の意義は日本が国権の発動として、すなわちイニシアティブをとって太平洋戦争のような侵略戦争をすることを禁止したものです。しかしすべて国家は自然法上の権利として防衛権を有しますから、日本が超国家的組織体例えば国際連合の一員として集団的安全保障の利益を受けることは可能なばかりでなく必要なことです。この場合においては日本は超国家的組織体の一員として集団的安全保障の目的の達成上、単に自国の安全のためのみならずその成員たる他の諸国の安全のためにも何らかの方法(兵力を含め得る)をもってこれに貢献し、何らかの義務を負担することは平和主義と国際主義を基調とする憲法の精神から当然生ずる要請であります。
憲法第9条は日本が過去において犯した過誤を繰り返さない趣旨に出たものであり、日本と諸国との国際的関連、つまり集団的安全保障の問題を度外視するものではありません。
憲法においては、国内政治と国際政治の両分野における理想が完全に一致しています。
前文第2節に「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭とを地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といっているのは、憲法において国際社会の理想が国内社会のそれであることを示すものです。
このような意味における憲法の平和主義と国際主義とは普遍人類的な自然法を基礎とするものです。
自然法こそわが国と国際団体との結合の精神的紐帯なのです。
以上です。
さて、今日からGWですね。
わたしは明日から東京を離れますので、来週のブログはお休みさせていただきたいと思います。
再来週また皆様とお会いするのを楽しみにしております。
皆様もよいGWをお過ごしください。
PS:WEBサイト『瀬那の部屋』本の紹介コーナーに、旧約聖書『サムエル師とサウル王』(サムエル記上)を追加しました。
ぜひご覧ください。