福岡出身の松本龍議員。
中央大学法学部政治学科を卒業した後に父の会社に入社し、30歳くらいまで仕事をする。
その後に政界にはいり、あれよあれよという間に大臣にまでなった人物、それが松本龍である。
民主党所属の衆議院議員(7期)。
衆議院国会等の移転に関する特別委員長、衆議院環境委員長、環境大臣(第15代)、
内閣府特命担当大臣(防災担当)などを歴任している。
【松本龍の人物概要】
松本龍復興担当相は福岡市出身。
「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長の孫にあたり、3代続けて解放運動に取り組んできた。
参院議員だった父・英一氏の秘書を経て90年に旧社会党から衆院議員に初当選。
福岡1区では強固な地盤を背景に抜群の強さを誇る。
松本龍は政界有数の資産家で、ジャズ好きで、カラオケでは英語の歌を歌うこともあるという。
環境相時代に仕えた部下の評価は、「親分肌の政治家」で一致する。「チームを作り、失敗しても
その責任を取ることが大臣の役割」と復興担当相の就任会見でそうした姿勢を見せる一方、
単刀直入な発言で、周囲を驚かせることも多かったという。
松本龍の評価を高めたのは、昨年10月の国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で
議長を務め、名古屋議定書の採択など、成功に導いたことだ。
「各国代表の意見を議長の権威で突っぱねることもできたが、その選択をせず、丁寧に声を拾い
上げる手法をとった」と粘り強さを評価する意見も。
【松本龍の父】
福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。父・次吉、母・チエの五番目の子で、
上には兄二人、姉二人がいた。治一郎は後年、60歳のとき「私は被圧迫の貧農の子として
生まれた」と語っている。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業
(履物(下駄、雪駄など)の製造・販売)にも取組んだ。次吉はそれら履物の原材料となる桐の木や
竹の皮を仕入れて売る仲買の仕事をして現金収入を得ていた。次吉は村全体が貧しい中で、
よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。
1900年(明治33年)に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や京都の旧制干城中学校
(現在は廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の錦城高等学校)を中退。
1907年(明治40年)に大連へ渡り、大道易者や偽医者として生計を立てる。
1910年(明治43年)、日本総領事に強制送還されて帰国。
1911年(明治44年)、土建業松本組を創業。配下には高松弥太郎などの九州きっての暴れん坊たちが
揃っており藤田五郎の「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を
瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。
1921年(大正10年)、筑前叫革団を結成。同年、福岡藩初代藩主黒田長政三百回忌に際して
半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは
何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。
1923年(大正12年)、九州の委員長となる。1925年(大正14年)、全国中央委員会議長に就任。
1926年(大正15年)[元号要検証]より福岡連隊差別事件への糾弾闘争を指導。また被差別民が苦しんでいるのは徳川幕府に責任があるとの思想から、1927年(昭和2年)、徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導。のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって懲役4ヶ月の実刑判決を受け、下獄する。なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。
1929年(昭和4年)、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。
1936年(昭和11年)から衆議院議員(当選3回)。
1940年(昭和15年)、斎藤隆夫の反軍演説による衆議院議員除名に反対し、本会議を欠席。所属する社会大衆党党首の安部磯雄・鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎らとともに、書記長麻生久により党員除名処分となる。
1942年(昭和17年)、衆議院議員に翼賛政治体制協議会推薦で当選。これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが[3]、鳩山一郎・三木武吉といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本が公職追放された際にも「翼賛会推薦議員」というのが口実の一つになっている。
1946年(昭和21年)、翼賛議員であったことから一旦公職追放されるが、連合国軍最高司令官総司令部からの「松本と尾崎行雄の2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除[3]。GHQと密接につながり、巨万の富を蓄えた特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣の一人であった[4]。 しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・吉田茂の妨害によって第22回衆議院議員総選挙への立候補届出には間に合わず、翌年の第1回参議院議員通常選挙に立候補することになる[3]。 その間に解放全国委員会委員長に就任する。
1947年(昭和22年)、参議院議員で初当選(当選4回)。初代参議院副議長に就任。日本社会党左派の平和同志会の領袖として知られた。なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「出身の自分を議長にしないために保守派の連中が緑風会をつくって第一党にしてそこから議長(松平恒雄)を出した。衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来衆議院議長が社会党の松岡駒吉になったように、私が出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」と徳川夢声との対談で語っている。
1948年(昭和23年)、参議院初代副議長時代、天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した(カニの横ばい拒否事件)。しかし、その後で内閣総理大臣となった吉田茂によって松本は再び公職追放される。1951年(昭和26年)に公職追放は解除された。
1953年(昭和28年)、日中友好協会初代会長に就任。
1955年(昭和30年)、解放全国委員会を解放同盟と改称し、初代執行委員長に就任。
1964年(昭和39年)、勲一等授与の対象者に選ばれたが拒否。
1966年(昭和41年)に死去するまで、解放運動の中心人物であり続けた。
【松本龍の関連情報】
■Yahoo!みんなの政治 - 松本 龍 - 基本情報
■松本龍(時事コム)
■松本龍(民主党ホームページ)
■松本龍(産経ニュース)
■松本龍(ニコニコ大百科)
■松本龍(youtube)
【松本組の関連情報】
■株式会社松本組 会社概要 - 企業情報サイト「ザ・ビジネスモール」
■株式会社松本組【福岡県】企業理念
【松本優三の関連情報】
■松本優三 プロフィール - あのひと検索スパイシー
■日本海沿岸NO1都市・福岡へ(3)~【対談】伊東順二教授・松本優三会長
■(松本優三会長)は 18 日、西鉄グランドホテルで - 建設ナビ福岡
■松本組[00-007892] - 経営事項審査・財務状況 | Ullet(ユーレット)経審
■第 195回 臨時議員総会 新役員決まる - 福岡商工会議所NEWS 特集記事
■FCCA 福岡建設専門学校:役員・教員紹介
■協会組織 - 福岡県建設業協会
中央大学法学部政治学科を卒業した後に父の会社に入社し、30歳くらいまで仕事をする。
その後に政界にはいり、あれよあれよという間に大臣にまでなった人物、それが松本龍である。
民主党所属の衆議院議員(7期)。
衆議院国会等の移転に関する特別委員長、衆議院環境委員長、環境大臣(第15代)、
内閣府特命担当大臣(防災担当)などを歴任している。
【松本龍の人物概要】
松本龍復興担当相は福岡市出身。
「解放の父」と呼ばれた松本治一郎元参院副議長の孫にあたり、3代続けて解放運動に取り組んできた。
参院議員だった父・英一氏の秘書を経て90年に旧社会党から衆院議員に初当選。
福岡1区では強固な地盤を背景に抜群の強さを誇る。
松本龍は政界有数の資産家で、ジャズ好きで、カラオケでは英語の歌を歌うこともあるという。
環境相時代に仕えた部下の評価は、「親分肌の政治家」で一致する。「チームを作り、失敗しても
その責任を取ることが大臣の役割」と復興担当相の就任会見でそうした姿勢を見せる一方、
単刀直入な発言で、周囲を驚かせることも多かったという。
松本龍の評価を高めたのは、昨年10月の国連生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で
議長を務め、名古屋議定書の採択など、成功に導いたことだ。
「各国代表の意見を議長の権威で突っぱねることもできたが、その選択をせず、丁寧に声を拾い
上げる手法をとった」と粘り強さを評価する意見も。
【松本龍の父】
福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。父・次吉、母・チエの五番目の子で、
上には兄二人、姉二人がいた。治一郎は後年、60歳のとき「私は被圧迫の貧農の子として
生まれた」と語っている。父・次吉は貧しい暮らしを少しでも向上させようと、すすんで副業
(履物(下駄、雪駄など)の製造・販売)にも取組んだ。次吉はそれら履物の原材料となる桐の木や
竹の皮を仕入れて売る仲買の仕事をして現金収入を得ていた。次吉は村全体が貧しい中で、
よく働き、村の中では比較的「上位」の立場にいた。
1900年(明治33年)に住吉高等小学校を卒業後、私塾の粕屋学園や京都の旧制干城中学校
(現在は廃校)を経て上京し、旧制錦城中学校(現在の錦城高等学校)を中退。
1907年(明治40年)に大連へ渡り、大道易者や偽医者として生計を立てる。
1910年(明治43年)、日本総領事に強制送還されて帰国。
1911年(明治44年)、土建業松本組を創業。配下には高松弥太郎などの九州きっての暴れん坊たちが
揃っており藤田五郎の「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を
瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。
1921年(大正10年)、筑前叫革団を結成。同年、福岡藩初代藩主黒田長政三百回忌に際して
半強制的に記念祭費用の寄付が割り当てられようとしたのを「被差別者の子孫に寄付を割り当てるとは
何事か」と抗議運動を実施、任意寄付に切り替えさせる。
1923年(大正12年)、九州の委員長となる。1925年(大正14年)、全国中央委員会議長に就任。
1926年(大正15年)[元号要検証]より福岡連隊差別事件への糾弾闘争を指導。また被差別民が苦しんでいるのは徳川幕府に責任があるとの思想から、1927年(昭和2年)、徳川家達公爵への爵位返上勧告闘争を指導。のち、徳川公爵暗殺未遂の罪によって懲役4ヶ月の実刑判決を受け、下獄する。なお、この闘争に影響された人物が後に徳川邸に放火、全焼させている。
1929年(昭和4年)、福岡連隊爆破陰謀事件で懲役3年6ヶ月の実刑を宣せられ、再び下獄する。
1936年(昭和11年)から衆議院議員(当選3回)。
1940年(昭和15年)、斎藤隆夫の反軍演説による衆議院議員除名に反対し、本会議を欠席。所属する社会大衆党党首の安部磯雄・鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎らとともに、書記長麻生久により党員除名処分となる。
1942年(昭和17年)、衆議院議員に翼賛政治体制協議会推薦で当選。これは政府がカムフラージュとして押しつけ的に推薦したといわれるが[3]、鳩山一郎・三木武吉といった自由主義的議員は非推薦で当選しており、戦後松本が公職追放された際にも「翼賛会推薦議員」というのが口実の一つになっている。
1946年(昭和21年)、翼賛議員であったことから一旦公職追放されるが、連合国軍最高司令官総司令部からの「松本と尾崎行雄の2人は真の民主主義者だ、絶対に立候補させねばならぬから松本の追放を解除し今日中に立候補できるよう手配せよ」との通告によりまもなく解除[3]。GHQと密接につながり、巨万の富を蓄えた特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣の一人であった[4]。 しかし公職追放は解除されたものの時の外務大臣・吉田茂の妨害によって第22回衆議院議員総選挙への立候補届出には間に合わず、翌年の第1回参議院議員通常選挙に立候補することになる[3]。 その間に解放全国委員会委員長に就任する。
1947年(昭和22年)、参議院議員で初当選(当選4回)。初代参議院副議長に就任。日本社会党左派の平和同志会の領袖として知られた。なお、副議長就任の経緯について治一郎本人は「出身の自分を議長にしないために保守派の連中が緑風会をつくって第一党にしてそこから議長(松平恒雄)を出した。衆議院でも参議院でも選挙の時には社会党が第一党だったのだから、本来衆議院議長が社会党の松岡駒吉になったように、私が出身でなければ私が参議院議長になっておったはずなんだ」と徳川夢声との対談で語っている。
1948年(昭和23年)、参議院初代副議長時代、天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否した(カニの横ばい拒否事件)。しかし、その後で内閣総理大臣となった吉田茂によって松本は再び公職追放される。1951年(昭和26年)に公職追放は解除された。
1953年(昭和28年)、日中友好協会初代会長に就任。
1955年(昭和30年)、解放全国委員会を解放同盟と改称し、初代執行委員長に就任。
1964年(昭和39年)、勲一等授与の対象者に選ばれたが拒否。
1966年(昭和41年)に死去するまで、解放運動の中心人物であり続けた。
【松本龍の関連情報】
■Yahoo!みんなの政治 - 松本 龍 - 基本情報
■松本龍(時事コム)
■松本龍(民主党ホームページ)
■松本龍(産経ニュース)
■松本龍(ニコニコ大百科)
■松本龍(youtube)
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