Earthen Vessel

つちのうつわ

感謝なこと

2006年04月24日 23時20分21秒 | view
引越しが終わってとりあえず一段落つきました。
今は実家に帰ってきています。
心身が擦り減って何だかボンヤリだ。
手伝ってくれた両親と業者さんに感謝。
引越しのためにお祈りしてくれたみんなに感謝。
そしてはじめからおわりまで守ってくださった
神様に感謝します。

本当に、本当にありがとう。

《私にあなたのあわれみを臨ませ、
私を生かしてください。
あなたのみおしえが私の喜びだからです。》
詩篇119:77





主にある挨拶

2006年04月23日 23時52分35秒 | view
Ⅰコリント16:19~24

コリントの信徒たちに向けられた手紙もとうとう最後の結び。
著者である使徒パウロの挨拶がここに記されている。

≪わたしパウロが、自分の手で挨拶いたします。≫(21)

宣教活動で多忙であった彼が
口述筆記の手法を用いながらもこの手紙を書き終えようとしている。
全体を通して読んでみて気づく。
パウロがどれほどコリントの兄姉たちを愛していたのかが・・・。

この箇所にはひとつの特長がある。
それは「よろしく」という言葉だ。
僕たちもよく「○○さんによろしくね」などと会話で使ったりする。
とても身近な言葉なのでこの箇所でも自然に流して見てた。
しかし、原語であるギリシア語でその意味をみると
「親切に歓迎する」
「安否を問う」
といった意味合いらしい。
んん、なるほど。愛の深みを感じる。

パウロは「○○さんたちがあなたがたによろしくと言っています」
といった感じで挨拶を書いている。
「アジア州の諸教会」(19)、「アキラとプリスカ」(19)、
「すべての兄弟」(20)というようにその挨拶の主体はさまざまだ。
きょうの説教では「アキラとプリスカ」に注目した。

彼らは小アジアの北部ポントス州出身のクリスチャン夫婦だった。
パウロと同じくテント造りの職人であり(使徒18:1~4)
彼と共にコリントからエフェソへも同行した(使徒18:18)。
また、命がけでパウロを守った良き協力者であった(ローマ16:3,4)。
聖書には表立ってこの夫婦は登場しない。
しかし、真実な愛を神さまに、キリストと教会に、
すべての人々に示していたことが
いろんな聖書箇所からうかがえる。

アキラとプリスカは知り得ない全世界の兄姉たちのために祈っていたと思う。

≪・・・あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。≫(20)

口づけは親密な愛の証。
このくちびるは挨拶をするためにあると思う。
相手の安否を気遣い、祈るためにあると思う。

人と交わりをもたないことは気楽かも知れない。
しかし僕たちは、心から相手を歓迎し
真実に安否を問いかける愛の絆を忘れてはならない。

終わりに、兄弟たち、喜びなさい。
完全な者になりなさい。励まし合いなさい。
思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。
そうすれば、愛と平和の神が
あなたがたと共にいてくださいます。 (Ⅱコリント13:11)




手紙

2006年04月22日 22時10分17秒 | happen
きょう一枚の手紙を見つけた。
表には「Happy Birthday」と書かれ
裏には、今や大学を卒業し社会で働いている友だちの名前があった。
全然このバースデーレターには見覚えがない。
でも日付は確かに一年前。
プレゼントは覚えているけれど
「言葉」はその袋の中にずっと眠っていたのか。

letter


あの人を思い出しながら折りこまれている手紙を開いてみた。
すると書き出しには聖書のみことばが記されていた。

≪さあ、喜んであなたのパンを食べ、
 愉快にあなたのぶどう酒を飲め。
 神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。
 いつもあなたは白い着物を着、
 頭には油を絶やしてはならない。≫ 伝道者9:7~8

ハッとした。
僕の行ないは神様に喜ばれるということが約束されている。
そして僕は正しさを着なければならない。
今の自分に語られている気がした。
思わず胸の鼓動が高鳴る。

この手紙をくれた姉妹とはだいぶ長いこと会っていない。
今はどうしているんだろう。
彼女は留学中にキリストを信じて洗礼を受けた。
キリストをまっすぐに愛するその心は
僕を励まし、まわりのみんなを力づける強さがあった。
手紙からも熱を帯びた信仰に励まされた。

何かでがんじがらめになった時、
戦っている時、つまずいた時、
つらくてどうしようもなくなった時、
親しい人からの手紙がはじめの愛を思い出させてくれる。
手紙という祈りは時を越えて今に働く。

この世で富んでいる人たちに命じなさい。
高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。
むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる
神に望みを置くように。 (Ⅰテモテ6:17)





器に賛美をこめて

2006年04月21日 23時52分29秒 | happen
少しずつ引越しの準備が進んでいます。
3年住んだ部屋にはこんな物やあんな物がいっぱい。
よくもこんなにタメ込んだもんだ。特に紙類ね。
数え切れない多くのプリントや書籍たちを見ると
ついつい見入ってしまうからキケン。
いろんな思い出、詰まってます。
引越しが終わったらゆっくり眺めてみたい。
あと半分くらいで片付けが終わるぞ。

作業中はCDを流してるんだけど
やっぱり僕は賛美が大好きだ。
英語も日本語も
古きも新しきもみんないい。
入院中のお姉ちゃんにおすすめの一枚をプレゼントしたけど
聴いてくれてるかなぁ。
いやしと励ましを与えてくれる賛美は
神様が与えてくれるすばらしいギフトだと思う。

まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。
しかし主は天をお造りになった。
尊厳と威光は御前にあり、
力と歓喜はみもとにある。(Ⅰ歴代誌16:26~27)




着替え

2006年04月20日 23時48分13秒 | view
背景をあたらしく変えてみました。どうかな?

今まで使用していた背景はお気に入りだけど

たまには「服」を着替えてみてもいいよね。

うん。(ひとりで納得)


しかし、神は、私の行く道を知っておられる。
神は私を調べられる。
私は金のように、出て来る。 (ヨブ23:10)





お散歩

2006年04月19日 17時59分31秒 | happen
今住んでる所から引越すことになりました。
次に住むのは地元のある所。
4月を越そうとする最中、少し遅れた新生活が始まろうとしています。

というわけで、現在荷造り中。
きょうは少し疲れたので散歩がてら聖研の部室にひょっこり顔を出してみると
数名のメンバーと出会うことができました。
相手の近況、自分の近況を分かち合っていたら思わず話しこんでしまった(^^;
「しばし時間を忘れて交われる」
これが聖研の良さかなと自分は思います。

そして時間は昼下がり。
午前は曇りがちな天気だったけどだんだん晴れ間が見えてきた。
帰り道、何だかこのまま帰るのがもったいない気がして家の近くの公園へ。
ここはちょっとした僕の憩いの場だ。
広場だから空が開けていてすっとするんだよね。


左岸公園a


≪光は快い。太陽を見ることは目のために良い。≫伝道者11:7

・・・と言っても直視はダメ、ゼッタイ。


左岸公園b


光に当たってひなたぼっこしていたら少し元気が出てきたから不思議だ。
花々もすばらしい。
美しいとはこのことだよね。


左岸公園c


さあ、引越しまであとわずか。
休みつつもやることはやっていこう。

従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときの
さまざまな欲望に従わず、
あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、
あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。 (Ⅰペテロ1:14~15)




愛のカタチ

2006年04月14日 01時32分49秒 | happen
うぅ・・・眠い・・・
でも本当に感謝な交わりの時をさっきまで持っていた。
5時間くらい話してたのかな。
道端でたまたま出会ったにもかかわらず
じっくり語り合って、とりなしの祈りをささげて、賛美できるなんてなぁ。
神様の不思議なみちびきと久しい交わりに感謝です。

きょう(木曜日)はイエスさまが弟子たちの足を洗われた記念の日。
そして同時に「最後の晩餐」の日であり
ゲッセマネの園で邪な思いに囚われた祭司長らに捕われた日だ。
大きな出来事があった一日だったんだ。

いま感じるのは、神の子である主イエスが弟子たちの足を洗われたという事実。
彼らの前にひざまずいて手ぬぐいでその汚れを丹念に洗い流したんだろうなと思う。
この世の常識からすれば先生の方が弟子に洗ってもらう立場だろう。
でもイエスさまは時を見計らわれて洗足という形でその愛を示された。
主が身をもって教えてくださった「へりくだること」を忘れちゃいけない。

5時間ちかく語り合った彼とは年齢も性格も趣味もちがう。
特に先輩・後輩という形でそのちがいは顕著に現れるかもしれない。
でも主の洗足日を想い、互いの時間を互いにささげた。
友に仕える喜びを神様に感謝した。
すべての人に愛を示せるように
主を見続け僕らは走る。

さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、
世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。 (ヨハネ13:1)

友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。 (箴言17:17)




十字架の道を選ばれたイエス

2006年04月09日 23時24分51秒 | view
ルカ23:26~43

きょうから受難週に入った。
礼拝における説教からキリストの苦しみを想った。

イエスの生涯は十字架を目指す人生であった。
絶え間なく日に日に増大する苦しみと孤独。
それは僕たち罪人のために味わわれたものだったといえる。

きょう見た箇所のはじめには、さまざまな人々の眼差しが向けられる中
イエスがご自身の十字架を担い“ゴルゴダの丘”を上る様子が描かれている。
民衆はもとより、無理やり十字架を背負わされたキレネ人シモン(26)や嘆き悲しむ婦人たち(27)が印象的だ。
特に、説教の中で注意があったのは27節の婦人たちについてである。

彼女たちはイエスの受難を嘆き悲しんだ。
しかしその涙は信仰によって流されたものではなかった。
当時のイスラエルには死刑囚の精神的苦痛を和らげさせる「泣き女」という慈善習慣があったようだ。
ここで主は彼女らに言う。

≪エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。≫(28)

イエスは本当の悲しみがやって来ることを予告されたのだ。
泣く演技をする余裕すらなく、子のいない不妊の女性は幸いだ(29)とまで言わしめる苦しみの時がくることを。
自分の罪深さのために嘆き、心砕いて御前に立ち返ることが僕たちにも望まれている。
イエスが預言された神殿崩壊(cf.ルカ21:5,6)は紀元70年のエルサレム戦争において成就した。
神のさばきを明らかに警告される主の温かさと厳しさが歴史から伝わってくるようだ。

「泣き女」からも察することができるが
キリストの十字架の姿というのはただその姿に同情するだけで終わってはならないのだ。
僕たちは絶えず「何故、彼は十字架につけられたのか」という一事を静思すべきである。
さまざまな人々がこの世の中にはいる。
十字架のペンダントがカッコイイといって首にかけている人が実に多い。
その身近な奥義を知ることもなく・・・。
昔も今も共通するのは真理への無知だ。

しかしながら、どんなにご自身が愛されている人々から蔑まれても
イエス・キリストは彼ら迫害する者のために一心に祈られた。

≪「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」≫(34)

最後の最後まで人に悔い改めを呼びかけたその驚くばかりの忍耐、寛容、愛。
父なる神に見捨てられ、神との交わりから絶たれたイエスの切なる愛の叫びに
主の受難をしっかりとおぼえつつ応えたい。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 (フィリピ2:9~11)




くちびるの実

2006年04月08日 23時35分54秒 | happen
きょうは開催を5月に控えた教派の信徒大会での賛美歌練習がありました。
教会の青年たちと待ち合わせて向かったのは千葉県松戸市。
ここは電車を2回乗り換え、バスで少し行ったのどかな町。
練習に使用させていただいた会堂は6年前に建てられたばかりだそうで
外側も内側もとてもキレイで麗しい教会でした。
思わずカメラを取り出して記念に一枚。

松戸小金原教会


5月の信徒大会は僕も参加する予定。
10年に一度のメモリアルな集会で
驚くことに全国からおよそ1500名以上の信徒たちが一同に会するみたいです。
ひょえ~(((゜Д゜;))) 数が大きくて想像が追いつかない。。。

そんな中で今回練習した賛美歌は大会の閉会あたりで青年賛美として歌います。
全国の青年たちで歌う賛美歌はどんなにすばらしいんだろう。
きょう練習に集ったみんなで神様を賛美しながらそんなことを思いました。
これからのキリスト教会を担う若い世代が
この声をひとつにして、このこころをひとつにして
ひとりの主に向かって賛美の歌をささげられるってことはすごいことなんだ。
神の国と神の義を待ち望んで備えていこう。

主よ。このくちびるをきよめてください。

わたしはくちびるの実を創造した者。
平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。
わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。 (イザヤ57:19)




きたる時

2006年04月01日 23時44分35秒 | view
≪何事にも時があり
 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
 生まれる時、死ぬ時
 植える時、植えたものを抜く時
 殺す時、癒す時
 破壊する時、建てる時
 泣く時、笑う時
 嘆く時、踊る時
 石を放つ時、石を集める時
 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
 求める時、失う時
 保つ時、放つ時
 裂く時、縫う時
 黙する時、語る時
 愛する時、憎む時
 戦いの時、平和の時。≫ コヘレトの言葉3:1~8

4月になった。
ある人は学生になり、ある人は社会人になった。
また、ある人は学年が進級し、ある人は会社での役割が以前とは様変わりしたかもしれない。
今はあらゆる人にとってこの一年の胎動の時期だ。

それは「転機」とも言える時。
人にはその人生を変えるようなターニング・ポイントがある。
自分のこれまでの旅路を思い返してみるとそのポイントがいくつか散りばめられていて
時空を超えて点と点が繋がり、自分という一本の細い線になっているんだ。
あの時に抱いていたはずの不安は今の自分をつき動かす力となった。
そして、あの時におぼえた失くす痛みはこころ励ます希望に変わった。

でも、人は再び転機に出会うと戸惑うもの。
いつだって将来は分からない。
それに先に何があるかなんて見えやしない。
怖いんだ。どこまでも自分ひとりだ・・・。
そんな恐れに駆られて途方もない道を進まなければならないのか。
いや。不可知な未来にこそ備えられた神の計画があることを忘れちゃいけない。
自分に注がれている恵みを忘れる時があるだろう。
しかしその祝福に気づき、希望を信じられる時もたしかにあるはずである。

自分が遣わされたところで自分ができること。
それは何かを探し求めよう。
主イエスの主権により生かされている今。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。 (イザヤ41:10)