Earthen Vessel

つちのうつわ

久々のまじわりでした。

2007年01月29日 22時04分30秒 | happen
きのうは礼拝のあとに青年会があった。
普段は青年自体いなくて会を開くことすらむずかしいのだけど
久々に若い人が何人か揃ったので少しの間みんなでお祈りした。

にしても、やはり初対面の人に声をかけるのは苦手です。
若干、顔見知りなところがまたビミョー。名前知らないっす。汗
別に相手と話したくないわけじゃないんだよなぁ。
むしろお話ししてみたいなーと思ってるんだけど
なかなか会話の糸口が見つからずに気まずい沈黙が・・・。

でもすぐに牧師先生がやってきたので助かった。
お互いに名前を言って、お祈りしてほしいことを言って
それぞれの顔をようやく憶えられるくらいの本当に短い時間。

みんなで祈れて良かったと思う。
どんなにお互いの接点が見つからなくても
イエスさまを信じてるっていう点は発見できたもの。
またいつ会えるかはわからないけど
名前だけは忘れずに憶えていよう。

あと青年会では受験のことで励まされた。
教会のみなさんにもがんばってきてねと言われてうれしかったぁ。
失敗したときのこともちょっと考えてるけど
今はともかく背水の陣でがんばるしかないっ!
今週末、試験に行ってきまーす。

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
主よ、あなたはすべてを知っておられる。
前からも後ろからもわたしを囲み
御手をわたしの上に置いてくださる。 (詩編139:4,5)




述懐

2007年01月24日 22時58分01秒 | view
≪あなたに背いたことをわたしは知っています。
 わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
 御目に悪事と見られることをしました。
 あなたの言われることは正しく
 あなたの裁きに誤りはありません。 詩編51:5,6≫

詩編51編の但書きにはこう書いてある。

「指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
ダビデがバト・シェバと通じたので
預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。」

旧約、新約を問わず聖書においてダビデは重要な信仰者として描かれている。
実際に彼はイスラエルの神を信仰し、神に任命された王だったし
詩編という形で御言葉を多く書き遺した。

ダビデは祝福の人だった。
しかしその人生は波乱の連続。
特に、さっきの記述にもあるとおりのいわゆる“バト・シェバ事件”。
一国の権威たる王がさかしい策略によって
他人の妻を我が物にするという決してあってはならない出来事だった。
神は真実を携えた預言者を彼のもとに遣わし
王は罪を悔い改めたもののその報いはあまりにもおおきく
そしてまた、ダビデの後悔と嘆きも大いに深いものとなった。

「罪には罰を、因果には報いを」
これは罪に対する当然の情感かもしれない。
だがいつまでその報いを受けなければならないのか。
死に至るまで、病に染まり生きるのか。

信仰があっても時折苦しむことがある。
悔いて、悔いて、悔い改めようとも
罪の傷跡、罪過のわだちが思い出されては
赦された証しをいつまでも乞い求める。
もうささぐべきいけにえは充分だというのに。

打ち砕かれた心。
それが証し。

そして丘の上に立つ十字架を見上げ
福音の訪れを聞く。

キリストを信じるその見えざる力は
日々刻々といのちをとおして
変化し、満ちてゆくのだと思う。
目を背けずに現実と向き合うほどに
なお恵みは与えられる。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。 (詩編51:12~14)




おかげさまで

2007年01月22日 19時46分36秒 | happen
きょう願書を出してきました。
面接資料を書き上げるまで本当に大変でした。
自分自身を分析して相手方に分かるように文章化する。
気を遣いすぎてだいぶ頭が搾られた感じがします。
今後も必要なスキルだろうしさらにプラクティスして
自己をわきまえられるぐらいにはなりたいですね。

さて、最近無為に外に出ることも少ないためか部屋にいることが多いです。
まぁ外出するとしても食糧の調達のために
夕方近くのスーパーまで出かけるくらい。
でもきょうは久しぶりに日の明るいうちに外に出られたので
太陽の光がリアルに眩しかったです。
やはり自然の光はイイ(・∀・)

ひきこもりのような生活をせざるを得ない毎日だけど
もうちょっとで状況が変わりそうなので辛抱してます。
それにしても今年はどうだろうか・・・。
ひとり旅できそうかしらん?
本と音楽を連れてぶらりするのがさしあたり僕の夢。

※ひきこもりやニートの心理も学んでみたい。



焦りが募る

2007年01月18日 23時18分55秒 | view
入試の願書を早く出さねばならない。
さっと書いてしまえば済む問題なのだが
これがいっこうに進まない。
なぜなら「面接資料」があるから。

僕が受けようとしてる大学では試験の一環として面接を行う。
そのため事前に必要事項を用紙へ記入して願書と一緒に提出するというわけだ。
6つの項目があってどれも無駄な質問がない。あたりまえか。
これをもとに面接を受けるのだしいい加減なことは書けないなぁ。
でももうちょっと肩の力を抜いて考えてみようよ
と自分にツッコミを入れてみる。
近づき過ぎて見えるものも見えなくなってしまうのが悪い癖です。

資料の項目と向き合って考えるのは「自分」について。
志望動機なんてすぐ書けるのかと思ってたけど
考えてる事、つまりは自分の内面(意志とか)を文章にするのは案外むずかしい。
ブログは書き物だから良いプラクティスの場になってると思うのだけど。
自分がいちばん自分を分かってるのでもないんだろうか。
改めて自分という存在を思うとき、
知ってると思ってた自分が少し遠いような気がして変な気持ちでいます。
経験がうまく言葉になるといいな。もうちょい努力してみます。

試験前の今、緊張はピークへ向けて上昇中。アゲアゲだっ↑↑
この不安をうまく飼いならせていこう。
日々身も心も備えられていることに感謝しつつ。
準備に戻ります。

※それはそうと、箴言に励まされます。

心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず
常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば
主はあなたの道をまっすぐにしてくださる。 (箴言3:5,6)




性と生

2007年01月13日 23時59分10秒 | view
今夜「未成年の性と生」という番組を後半からだったけどちょこっと見ました。
未成年のお客さん100人に囲まれて
芸能人や一般の方が中央で輪になって討論してました。
最初、教育テレビのあの番組っぽいなぁと眺めてましたけど
議論のテーマが非常にinterestedなものだったので
いつの間にか見入ってしまいました。

まず「性」とは何か。そしてどうあるべきなのか。
そんな事がいろいろとディスカッションされてました。
性の混迷が問い正されて久しい昨今、
なおも議論の必要があろうかと思われる問題です。
僕個人としては積極的に考えたことがあまりないです。
もちろん悩みはあります。みなまで言わずとも、男性であり人間ですから。
しかし個人の問題や社会の問題をトータルに考えるのが難しいんです。
考え始める機会が少ないというのも理由に入るでしょうか。
たとえば、教会の青年会での性や結婚についてのセミナー。
こういうのはイイ機会ですよね。
知識を着け、知恵に育てていくことは自分を造り上げることになります。
そして視野を広げて物事を考えられるようになる。
まぁセミナーに限らず、誰かと語り合うもよし。
男女の関係、人間の関係、社会という関係。
いつも手探りな僕(ら)にはまず関心が必要だと思います。
そのためのしゃべり場というか何というか。

そして次は「生」を考えます。
静的であり動的でもある「生きる」という言葉。
当たり前過ぎていつの間にか忘れているけれども
とても大事なその奇跡。それが生としての「いのち」。
討論の中で話しながら涙ぐむ人が何人か見られました。
聞いてるとその人の苦しみが伝わってくるようでした。
いじめ、虐待、鬱、自殺未遂、他にも筆舌しがたい多くの痛み。
こんな一行では到底及びもしない苦しみの果てに
その人は何を見たのだろう。
相手を見てると自分の姿にも重なって鏡を見てる心地になりました。
自分にもあったドラマ。そしてこれからも続いていくドラマ。
嘆きが嘆きを呼ぶような人生を僕らは生きているのかもしれません。
しかし、それでも僕らは生きています。
与えられたいのちに感謝し、生かされるべく信仰と希望と愛が
いつも心の中にありますように。そう願わずにいられませんでした。

一つの松明が消えうせても、それが輝いたということは意味があったのである。
燃えない松明を永遠に持ち続けていても、それはなんの意味も持たない。
輝くべきものは、燃えることに耐えなければならない。
ヴィクター・フランクル


このフランクルの言葉からも苦難の味を思います。
しかしどこか「やさしさ」を感じる。
痛み、悲しみ、苦しんだからこそ、人の嘆きを感じることができると思います。
やさしさや思いやりもそんな経験から育まれるのではないでしょうか。
おそらく、相手のすべてに共感することはできないでしょう。
それでも相手の肩にそっと寄り添える気持ちがあればいいなと
僕はその瞬間に希望を求めていたいと思います。

・・・感想にもならない感想になってしまった。
とりあえず、またあなたと会って話がしたいと思いました。

太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず
月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり
あなたの神があなたの輝きとなられる。 (イザヤ60:19)




あらすじ×反省=展望

2007年01月04日 23時31分42秒 | view
昨年の春に大学を休学してからだいぶ経ちました。
これからの自分を考えるには長いようで短く、短いようで長い時間。
詰まるところ適当な時の中で「休み」をいただけたことに感謝しています。

学生生活からフェードアウトして地元に戻って来てから
一気に何もかも失ったような感覚が長い間心の中にありました。
大学で出会い関係を築いてきた人たちとの別れ。
大切な場である教会には遠くてなかなか行けないという距離的な壁。
目に見えるさまざまなものが目の前から形を隠してゆく・・・。
喪失と失望という言葉がぴったりな状況を味わいました。

僕はそれほど「現状」に依存していたのかもしれません。
居心地の良さ、あたり前の日常に感けて
僕はモラトリアムの海の中に溺れかけていました。
与えられた生活を自分だけの手中という狭い世界に収め
恵みへの感謝と恐れを失くしていました。
それはいつ取り去られようと決定権は結局僕にはないというのに
現状はいつまでも続いてゆくように
浅はかにも僕は信じていたんです。

「過去に盲目な者は現在にも盲目なのだ」という先人の言葉がありますが
同様に「今を見失うことは未来を見失う」ようなそんな気がします。
自分がなすべきことは何なのか。
使命と言ったら聞こえはいいですけど
とにかく今、自分のいる環境の中で何を最善次善にすべきだったのか。
毎日の繰り返しの中で忘れやすいですよね。
生きる目的が刹那を生きる手段に堕してはいけない。
僕はその失敗を重ねて生きてきたし
今もその嫌いが無くなったとは決して言いきれません。

とりあえず休む中にも自分の必要経費だけはと思って始めたアルバイト。
はじめて挑んだ職種でイイ社会経験になりました。
そして働く中でこれからどうしていくか。
具体的に来年は何をしていこうか考えることもできました。

今、大学に復帰したいと思っています。
復帰というか再チャレンジ。
新しい大学で新しく学問したいです。
2月に受験があるので今はその準備に追われています。
のこり一ヶ月。体調面、精神面が守られ当日を迎えられたらいいな。

家の状況が厳しいのに再びの進学を勧めてくれた両親や家族には
本当に申し訳が立ちません。感謝しています。
支えという犠牲の上に僕は立っている。
半人前にさえなれていない自分だ。
がんばりたい。
たとえくじけたとしても、がんばりたい。
平安な不安の中を僕は生きる。

神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、
悪を行って苦しむよりはよい。 (Ⅰペトロ3:17)




2007年です。

2007年01月01日 23時59分56秒 | view
今年も新しい一年がやってきましたね。
このブログも3年目を迎えました。
よくもまあ続けて来られたなぁと我ながら驚き。
そろそろ潮時かなとも思います。
・・・いえ嘘です。
今年も興味の趣くままに書かせていただきます。
しょーもないことばかりですが
温かく見守っていただき
時にコメントなどをくださるとうれしいです。
2007年もどうぞよろしくお願いいたします。
みなさまに神さまの祝福がありますように。