
世界でいちばん有名なファーストフードチェーンのキャラクターとえいば、ドナルド・マクドナルド(海外ではロナルド・マクドナルド)。
あるピエロのような姿で、多くのマクドナルドファンを楽しませてくれる彼だが、実は初代ドナルドの姿は、いまのドナルドとまったく似ていなかった。
初代ドナルドを見てみると、ピエロというよりは『オズの魔法使い』に出ているカカシのよう。
しかも、頭には常に、マクドナルドのハンバーガーセットが乗っている。
どうやって食べるのだろうか……。
確かに、現在のドナルドとは似ていない。
共通点があるとすれば、シマシマの服装とスマイルくらいだろうか?
また、このドナルドを演じている人も判明。
なんと、現在も健在している人気タレントなのだ。
マクドナルドのコマーシャルで初めてドナルドを演じたのはウィラード・スコット氏で、1963年から約2年間、ドナルドとしてコマーシャルに出ていた。
しかし、現在のドナルドとは似ていないため、定着した現在のドナルドと見比べると、その風貌から、ちょっとワイルドな印象。
もしかしたら、100年後のドナルドは現在と違う姿をしているかも?
未来のドナルドもちょっと見てみたい気がするが、ここまで世界に定着してしまうと、その姿はもう変化しないかもしれない!
やっときましたね~~~
月末!!
月末と言えば、『MeiSTER Party』!!
今回はMeiSTERのMix CDリリースパーティーです!!
シークレットDJもブッキング済みなんでガンガン盛り上げていきます!!!

02/28(SAT) 「MeiSTER -MIX CD RELEASE PARTY!!-」@LOUNGE NEO
OPEN 23:00-
RESIDENT : DJ ATSU
DJ : FUTERI, GOKAN, TAKE, MASS-CUT, SAKI, MINT
MC : KAY [MeiSTER] & IzuMI [S.U.C]
VJ : ACE
TIMETABLE
23:00-23:45 SAKI
23:45-00:30 MINT
00:30-01:15 TAKE
01:15-02:00 MASS-CUT
02:00-02:45 FUTERI
02:45-03:30 ATSU
03:30-04:15 GOKAN
04:15-05:00 SECRET DJ
Kayのゲストのケログで誰でも何人でもケログ価格で入れますよ~~~
個別のゲストが欲しい人は連絡してちょうだいな!!
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いまや叩かれまくってる我らが総理大臣!!
そんな人の若き日の本棚が流出しちゃいました!!



俺の空 / 本宮ひろ志
大ぼら一代 / 本宮ひろ志
昭和極道史 / 村上和彦
野球狂の詩 / 水島新司
特に『俺の空 / 本宮ひろ志』は俺のバイブル的な漫画でもあります!!
チョット麻生が好きになった今日この頃.....
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MeiSTERの新商品が発売されました~~~
みんなこぞってチェックしちゃって下さい!!
Splash


左胸には白地に濃い赤の刺繍を施したワッペンを配置し、バックプリントには『MeiSTER』ロゴをスプレーで描いたように見せた存在感のある1枚。
裏地は吸湿性ばつぐんのパイル仕様なのでこれからの季節に大活躍のアイテムです。
※フード部分にロゴのタグが付いています。
サイズ: M:身丈:65cm、身幅:55cm L:身丈:69cm、身幅:58cm XL:身丈:74cm、身幅:63cm
Dropout


Sexy女性と『MeiSTER』ロゴ、キスマークが目を引くインパクト大のロングスリーブTシャツ。
フロント両サイドには『MAKE YOUR SELF MeiSTER RATHAR THAN DROPOUT!』と落ちこぼれになるならMeiSTERになれ!というメッセージも込められています。
※バック、裾部分にロゴのタグが付いています。
サイズ: M:身丈:70cm、身幅:52cm L:身丈:73cm、身幅:55cm XL:身丈:76cm、身幅:59cm
MeiSTER H.P(Click!!)
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いまや身近な物になった?整形手術!!
でも自分の身体を人工的に変えるって、やはり全てが上手く行く訳じゃない!!





整形をする時はリスクがある事をお忘れなく!!
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技術が発達して写真の修正とかが日常茶飯事になってますよね!!??
でもオリジナルの写真を見ると『マヂで?????』って思っちゃう物も何枚もあります!!(殆どだったりして......)

そんな修正前と修正後の写真を紹介してるのが→コチラ(Click!!)
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パンにゴマがついてるのとついてないのがあるのは何で?
ハンバーカーなどの安い商品にゴマ付きパン使ってたら儲けられないから
ポテトの塩の量の規定ってないの?たまにクソしょっぱい
ポテトに塩をかけるやり方は決まっています
たまに適当にかける人がいるのでそのせいだと思います
ふぃレオフィッシュってなんの魚??
タラちゃんです
モット見たい人は→コチラ(Click!!)
多くの人が知ってると思いますが、今日はBob Marleyの誕生日です!!
色々な偉業をなしとげ、レゲエと言う音楽を世界に広げました!!
名前を聞いたことあるけど、よく知らないって人の為にBobの生い立ちを簡単にまとめましたので読んでみて下さい!!

<ボブ・マーリー誕生>
ボブ・マーリー(本名ロバート・ネスタ・マーリー)は、1945年2月6日ジャマイカ北部海岸沿いの小さな村、ナイン・マイルズで生まれた。
彼の父親ノーヴァル・マーリーは、ジャマイカ駐屯のイギリス軍大尉でも白人ですが、母親は地元ジャマイカの黒人。
白人と黒人との混血であり、支配者と被支配者との間に生まれた子供という彼の境遇は、彼を苦しめたと同時に、その壁を越えさせる運命を彼に与えた。
彼がジャマイカという小さな島国を飛び出し世界を駆けめぐることになるのも、彼の生み出したレゲエが世界中へと広がって行くのも、すべてはこの彼の生い立ちから始まった。
<トレンチタウンからの出発>
ボブの父親は1955年にキングストンで死亡し、彼は母親とともにキングストンのスラム街、トレンチタウンで暮らし始める。
歌手として生活費を稼ごうとボブはタレント・ショーに出るが、その頃バーニー・ウェイラー(本名ネヴィル・オライリー・リヴィングストン1947年4月10日キングストン生まれ)と知り合う。
二人は、ジョー・ヒッグスの指導のもと、コーラスの練習を始める(後に、ウェーラーズとして活躍することになってから、バーニーがコンサート・ツアーをボイコットした際、その穴を埋めることになったのが、彼だった)同じく学生時代に知り合ったピーター・トッシュ(ウィンストン・ハバート・マッキントッシュ、1944年10月19日ウェストモーランド生まれ)が加わり、彼らはコーラス・トリオとして活動を開始。
しかし1962年にシングル・デビューを果たすものの、まったく売れなかった。
<ザ・ウェイラーズ誕生>
1963年彼らはジャマイカを代表するスタジオ「スタジオ・ワン」のコクソン・ドッドに認められ、スカのナンバー1バンド、スカタライツをバックにシングル「シマー・ダウン」を録音、ザ・ウェイリング・ウェイラーズとして発売、大ヒットを記録。
その後、数人のメンバーを加えて、ザ・ソウレッツを結成しますが、結局元の3人に戻り、「ザ・ウェイラーズ」として活動して行く。
そしてこの頃、ボブはラスタファリニズムの長老、マーティモ・プランナーに弟子入りし、ジャマイカが生んだ偉大な思想家マーカス・ガーヴェイから始まったラスタファリニズムに入信。
ザ・ウェイラーズは、ヘアー・スタイルをドレッド・ロックスにした最初のグループとなる。
<ザ・ウェイラーズの完成>
1969年、ジャマイカの大物プロデューサー、リー・ペリーがザ・ウェイラーズのプロデュースをするようになる。
彼はウェイラーズのバックにバレット兄弟(ドラムのカールトン・バレットとベース・ギターのアストン・バレット)を中心とするお抱えのバンド、ジ・アップセッターズを抜擢し、彼らに強力なリズム隊という武器を与えた。
1971年、さらにそこにタイロン・ダウニーという強力なキーボード奏者が加わり、オリジナルのウェイラーズが完成。
<ザ・ウェイラーズ、世界デビュー>
ザ・ウェイラーズは、イギリスに渡り、「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」のヒットで有名なジョニー・ナッシュのバックとしてロンドンで録音に参加。
そこで彼らはジャマイカ出身のアイランド・レーベル社長クリス・ブラックウェルと知り合い、正式に契約を交わす。
当時世界進出を目指していたアイランド・レーベルは、ウェイラーズをレゲエ・ブームの切り札とするべく社運をかけてプッシュすることになり、彼らの世界デビュー・アルバム「キャッチ・ア・ファイヤー」(1972年)が発表。
<レゲエ元年>
この1972年という年は、レゲエの世界進出元年とも言える年だった。
ジミー・クリフが主演したレゲエの伝説的映画「ハーダー・ゼイ・カム」が、この年に公開され、サントラ盤が世界的に大ヒット。
さらに、サイモン&ガーファンクルを解散したばかりのポール・サイモンが、ジャマイカでレゲエ・ナンバー「母と子の絆」を録音、世界中で大ヒットとなった。
この曲は白人によるレゲエ・ヒット第1号。
<バビロンへの出発>
1973年、彼らはイギリス・ツアーを開始します。すでに彼らの人気は、イギリス在住のジャマイカ系黒人層を中心に白人層にまで広がりをみせ始めていた。
そして、彼らは初めてのアメリカン・ツアーに出発し、そこでブルース・スプリングスティーン、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの前座を務める。
<バーニー、ピーターの脱退>
しかし、厳しいスケジュールのツアーが続くうちに、オリジナル・メンバーのバーニー・ウェラーは、突然アメリカン・ツアーをボイコットし、その後すぐにバンドを去ってしまった。
そのため、この年発売のアルバム「バーニン」はオリジナル・ウェイラーズ最後のアルバムとなり、1974年ジャマイカで行われたマーヴィン・ゲイ・コンサートの前座が彼ら3人にとってのラスト・ライブとなる。
<隠遁者バーニー・ウェラーと悲劇のピーター・トッシュ>
バーニー・ウェラー、彼ほど「バビロン的」都会文明を嫌ったレゲエ・アーティストも珍しく、この後彼はジャマイカの田舎にこもり隠遁生活を送るようになった。
しかし、音楽活動をやめたわけではなく、たまに街に降りてきてはアルバムを録音し、着実に素晴らしい作品を世に送り続ける。
それに対し、長身の伊達男だったピーターは、その後ストーンズのキース・リチャーズなどロック系のミュージシャンたちの作品に参加するなど、活発に活動を続け、核兵器の廃絶を訴える作品を発表したりして、ボブの意志を継ぐようなメッセージ性の高い作品を発表。
しかし、1987年9月11日キングストンの自宅で暴漢に撃たれ、悲劇の死を遂げてた(享年42歳)
<ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ>
バーニーとピーターが抜けたバンドは、この後ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして活動することになり、1975年リタ・マーリー(ボブの奥さん)、ジュディー・モワット、マーシャ・グリフィスからなるアイ・スリーズがコーラス隊として加わった。
そして、この年ロンドンで行われたライブの模様が録音され、発売されたのが彼の評価を決定づけた傑作アルバム「ライブ!」。
続けてスタジオ盤の「ナッティー・ドレッド」が発売され、彼の人気は高まった。
さらに、だめ押しとなったのが、エリック・クラプトンがボブの曲をカバーした大ヒット曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」。
<ボブ・マーリー狙撃事件>
アルバム「ラスタマン・ヴァイブレーション」を発表した1976年の12月3日、ボブは自宅で5人組の狙撃者たちに撃たれる。
その2日後、彼はフリー・コンサートに出演することになっており、そのコンサートはジャマイカを二分する野党(JLP)の支援コンサートであったため、与党(PNP)の新派が企てた暗殺計画だったと言われている。
ボブは頭と左肩を撃たれ、マネージャーのドン・テイラーも両足を撃れたが、彼は怪我をおして2日後のステージに立った。
しかし、あまりにも愚かで危険な国ジャマイカに嫌気がさし、ボブはバハマ、イギリス、アメリカへと移り住む亡命生活にをする。(この後12月15日に行われた総選挙では、与党(PNP)が勝利し、マイケル・マンリーが首相の座にく)
<死への旅の始まり>
1977年ロンドンに移り住んだボブは、音楽活動に専念、アルバム「エクソダス 」を発表。
しかし、ボブはヨーロッパ・ツアー中に足を怪我し、それが悪化、アメリカン・ツアーをキャンセルし、マイアミで手術を受ける。
そして、この腫瘍が後に身体中に転移し、彼の早すぎる死の原因に。
1978年、彼はまるで自分の死を予見していたかのような安らかさに満ちたアルバム「カヤ」を発表し、久しぶりに故郷のジャマイカに戻ります。それは、4月21日に行われようとしていた「ワン・ラブ・ピース・コンサート」への出演が目的だった。
このコンサートにおいて、ボブはジャマイカの政界を二分する政党の党首マイケル・マンリー(PNO)とエドワード・シーガー(JLP)を舞台に上げ、数万人の群衆の前で握手をさた。
このシーンは、非暴力それも音楽によって平和を築いた20世紀を代表する素晴らしい場面として、今や伝説となっている。
<心の故郷、アフリカの地へ>
1979年、ボブは最初で最後の来日コンサートを行った。
その後、ボストンで行われた南アフリカ、ジンバブエ、ナミビアのためのコンサートに出演。
アフリカの統一を呼びかけたアルバム「サヴァイバル」を発表。
これがアフリカでも大ヒットし、彼はいよいよジャマイカ、欧米以外、第三世界のヒーローとしての地位を確立。
そして、その貢献が認められ彼はジンバブエの独立式典に出席し、そこで記念ライブを行った。
アフリカへの回帰を呼びかけるラスタマンにとって、それは夢のような出来事だった。
<母のもとでの静かな死>
1980年、ボブは彼にとってのラスト・オリジナル・アルバム「アップ・ライジング 」を発表。
この作品には、かつてアフリカからアメリカへと荷物のように運ばれ悲劇の人生を歩むことになった奴隷たちに捧げられた名曲「リデンプション・ソング 」が収められるなど、彼のラストを飾るに相応しい重く且つポジティブな内容になった。
この年の9月、アメリカン・ツアーの途中で急激に容体だ悪化したボブは、ドイツの診療所に入院。
しかし、そこでの治療も効果はなく、彼は再び母親の待つアメリカのマイアミに戻り、そこで翌1981年5月11日午前11時45分静かに息をひきとった。
彼の遺体は、その後ジャマイカへと戻り、キングストンのナショナル・アリーナで国葬にふされた。
Bob Marley - Redemption Song