映画“Paradise Now”を観る。
以前のエントリーにも書いたように、この映画は、今年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされていながら惜しくも受賞を逃している。なんでも、アカデミー賞直前には、“Paradise Now”にオスカーを取らせないで!という嘆願書が3万人分にも及ぶ署名とともにアカデミーに提出されたという。
この映画は、イスラエルに自爆攻撃を行うことになった2人のパレスチナ人青年が主人公である。
ナブルスに住む若い二人の青年、サイードとハレードは、多くのナブルスの若者たちがそうであるように定職を持たない。彼らは日銭を稼ぎながら、一日の大半を小高い丘の上でプカプカと水タバコをくゆらせながら過ごすのだ。時折、遠くにこだまする爆発音や銃声に耳を傾けながら・・。
そんなある日、彼らは、地下活動組織のメンバーから自分達が攻撃要員に選ばれたと聞かされる。彼らの使命はテルアビブで自爆攻撃を行うことだった。
「やってくれるかね」という組織幹部の問いに、
彼らは迷うことなく「それが神のご意志であるのなら」と答える。
彼らはビデオカメラの前でパレスチナ人同胞および家族にむけて声明文と遺言を読み上げ、それが終わると今度は体中にぐるぐると爆弾を巻きつけてゆく・・・。
自爆時には出来る限り多くのイスラエル人をひき付けろ、と幹部が何度も念を押す。
イスラエルの占領終結のためにパレスチナがなすべきことを議論しようとした女が口ごもる
「やめましょう。この議論にはゴールがないわ・・」と。
男は言う「生きて辱めを受けるか、死んで英雄になるか、選択肢が二つしかないのなら・・・僕たちは死を選ぶしかないんだ」と。
「それじゃまるで、イスラエルにパレスチナ人殺害の口実を与え続けるようなものだわ」と女。
「じゃあ、僕達はどうすればいいんだ?他に方法があったら教えてくれよ!」
「・・・・」
世界が何千回、何万回と繰り返してきたに違いない、行き着く先のない絶望的な議論が蒸し返される。
時に死すらも、恥辱に満ちた終わりなき日常に優先するこの現実を目の当たりにして僕は暗澹たる気持ちになる。
この映画には夢も希望も描かれてはいない。
そして同時に、この映画は我々に何の解決も与えてはくれない。
しかし、僕は思うのだ。
夢も希望もないこの映画の存在こそが、逆に世界にとっての微かな希望になり得るのではなかろうかと。
先日、職場で偶然に、イラク系アメリカ人の友人とこの映画の話になった。
彼は、“Paradise Now”は非常に重要な映画だ、と言った。パレスチナ人が絶望的な状況にあることを、多くのアメリカ人がこの映画を通して初めて知ることになった、と彼はいう。
確かに、普段ここアメリカでパレスチナに対する同情的な報道を目にすることは非常に稀だ。頼みの綱であるはずのリベラル系メディアでさえ、ユダヤ系アメリカ人に気を使うあまり、そのような報道をほとんどしてこなかった。
しかし、だからこそ、この映画の存在は大きいのだ、と彼は人目を憚るように声を潜め、しかしはっきりとした口調で僕に言った。
声を押し殺して話すそんな友人の姿をみて、僕はこの問題の根深さを改めて思い知らされたような気がした。
以前のエントリーにも書いたように、この映画は、今年のアカデミー外国語映画賞にノミネートされていながら惜しくも受賞を逃している。なんでも、アカデミー賞直前には、“Paradise Now”にオスカーを取らせないで!という嘆願書が3万人分にも及ぶ署名とともにアカデミーに提出されたという。
この映画は、イスラエルに自爆攻撃を行うことになった2人のパレスチナ人青年が主人公である。
ナブルスに住む若い二人の青年、サイードとハレードは、多くのナブルスの若者たちがそうであるように定職を持たない。彼らは日銭を稼ぎながら、一日の大半を小高い丘の上でプカプカと水タバコをくゆらせながら過ごすのだ。時折、遠くにこだまする爆発音や銃声に耳を傾けながら・・。
そんなある日、彼らは、地下活動組織のメンバーから自分達が攻撃要員に選ばれたと聞かされる。彼らの使命はテルアビブで自爆攻撃を行うことだった。
「やってくれるかね」という組織幹部の問いに、
彼らは迷うことなく「それが神のご意志であるのなら」と答える。
彼らはビデオカメラの前でパレスチナ人同胞および家族にむけて声明文と遺言を読み上げ、それが終わると今度は体中にぐるぐると爆弾を巻きつけてゆく・・・。
自爆時には出来る限り多くのイスラエル人をひき付けろ、と幹部が何度も念を押す。
イスラエルの占領終結のためにパレスチナがなすべきことを議論しようとした女が口ごもる
「やめましょう。この議論にはゴールがないわ・・」と。
男は言う「生きて辱めを受けるか、死んで英雄になるか、選択肢が二つしかないのなら・・・僕たちは死を選ぶしかないんだ」と。
「それじゃまるで、イスラエルにパレスチナ人殺害の口実を与え続けるようなものだわ」と女。
「じゃあ、僕達はどうすればいいんだ?他に方法があったら教えてくれよ!」
「・・・・」
世界が何千回、何万回と繰り返してきたに違いない、行き着く先のない絶望的な議論が蒸し返される。
時に死すらも、恥辱に満ちた終わりなき日常に優先するこの現実を目の当たりにして僕は暗澹たる気持ちになる。
この映画には夢も希望も描かれてはいない。
そして同時に、この映画は我々に何の解決も与えてはくれない。
しかし、僕は思うのだ。
夢も希望もないこの映画の存在こそが、逆に世界にとっての微かな希望になり得るのではなかろうかと。
先日、職場で偶然に、イラク系アメリカ人の友人とこの映画の話になった。
彼は、“Paradise Now”は非常に重要な映画だ、と言った。パレスチナ人が絶望的な状況にあることを、多くのアメリカ人がこの映画を通して初めて知ることになった、と彼はいう。
確かに、普段ここアメリカでパレスチナに対する同情的な報道を目にすることは非常に稀だ。頼みの綱であるはずのリベラル系メディアでさえ、ユダヤ系アメリカ人に気を使うあまり、そのような報道をほとんどしてこなかった。
しかし、だからこそ、この映画の存在は大きいのだ、と彼は人目を憚るように声を潜め、しかしはっきりとした口調で僕に言った。
声を押し殺して話すそんな友人の姿をみて、僕はこの問題の根深さを改めて思い知らされたような気がした。
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