一人一人が輝く 夢はるか音楽教室

夢はるか音楽教室は一政さつきさんが主宰する音楽教室で、主に障害を持っている子供を受け入れて、その子らしさを表現する個人指導の音楽教室を目指している。そしてその子どもたちの発表会を1年に1度開く。今年は10月18日、通算5回目になる発表会を川崎市中原市民館で開いた。
 発表会は3部構成で、第1部は子どもたちのソロ演奏で、ピアノ演奏があったり、独唱があったり、ハープを弾いたりと、おもいおもいの発表をする。どの子もこの日のために用意したドレスやスーツを着て一生懸命に舞台に立つ。晴舞台だ。一人一人が精一杯の気持ちで舞台表現をして、家族やお友達に観てもらうのだが、どの子もまぶしいくらいキラキラ輝く。この発表会をみていると、音楽をするということってこういう事なのか、一人一人が輝くと言うこととはこういう事なのかと改めて考えてしまう。
 一政さんは舞台が終わった後のカーテンコールで話されていたが、ご自身が歌い手として音楽をすることを楽しんでいた日常に、自分が障害を持った子供を授かったことで、障害者がもっと豊かに生きられるバリヤフリーの日常を取り戻したいと考えられたようだ。障害があろうがなかろうが、誰だってみんな同じように輝きたいのだと思ったし、誰だってみんな輝けるのだとも思ったようだ。そして1年に1度、子どもたちの晴舞台を用意するようになった。
 わたしもひょんな事から一政さんと知り合い、時々だがその仕事にちょっとだけ関わらせてもらうようになった。1度目は、平間わんぱく少年団の子どもたちの太鼓の演奏を、その発表会でさせてもらった。2度目は、夢はるか音楽教室の子どもたちに豊年太鼓を教え、お芝居がらみの舞台づくりに関わらせていただいた。その時のお芝居は絵本の「てぶくろ」をもとにしたもので、動物に扮した子どもたちが、村祭りで太鼓を叩いた。そして今回の舞台でもまた、お芝居がらみの演目を入れ、そのなかに太鼓演奏を入れたいと言われた。そのための太鼓のレッスンに数回加わることになった。
 第2部はゲストによる合唱の発表で、一政さんが指導する合唱団3団体が出演した。第3部が太鼓演奏入りのオペレッタ「ヘンデルとグレーテル」である。洗足音楽大学の教師をしながら、川崎市民オペラの代表をするなど多面的な活動をする人脈をフルに使って、オペレッタは上演された。子どもたちは魔女の手下になったり、魔女にとらわれた市民になったりしてお芝居に登場したが、こういう作品に和太鼓が登場する自由さは楽しい。子どもたちはそれぞれの役を大いに楽しんでいるようでほほえましかった。

 この一政さんの企画がいつまでも心に残るのは、子どもたちの輝く笑顔と、充実感を感じてほしいという願いで一貫していることだ。そしてこういう企画を何のてらいもなくさわやかに推し進めている一政さんの意気込みに圧倒される。こうした企画がなかったら一人一人が舞台に立って演じることも、舞台の主人公になって輝くことも多分ないだろうと思うと、これはすごい企画だとなあ・・と実感する。同時に、音楽って誰のために、何のためにあるのかということを改めて考えさせられる。
 最近、作曲家の岡田京子さんが「誰でも音の種を持っている」という本を出して、「生きるために必要な音楽」について発言している。私もこの考えにはとても共感しているのだが、一政さんの指導する音楽教室とこの発表会は、そのまま「生きるために必要な」音楽活動の実践だと思うのだ。上手いとか上手くないとかという価値観はここにはない。一人一人が音楽と関わることでキラキラ輝いている、感動の余り泣き出してしまう子供もいるし、手を振って誇りを表す子もいる。自信を持ってコンサートの主役を演じていることがとても印象的ですべてだ。そして、もしこの子たちにこの音楽がなかったらと思うと、大袈裟に言えば愕然とするくらいだ。夢のある生活と、夢のない生活くらいの違いがあるように思うのだ。
 しかし、こういう舞台を発想し、準備し、公演を設定するまでには、恐ろしく大変な作業が必要になる。私もお芝居をしたり太鼓の公演をしてきたから少しは分かるのだが、何となく出来ることでは決してないし、自然に誰かが助けてくれることもない。こういう企画を考えて実践しようとする人は、その全てを自分で受け持ち、解決しなければならない。一政さんは、「私は前を向いてしか生きられないから」と話していたが、そういう姿勢が周りの人に伝搬し、協力者が集まり、成り立つことになる。それでもこんなことは誰にでも出来ることではない。ただひたすら子供を思う気持ちを持ち続け、そこに生きる価値を見出さないと、とても出来ることではないと思う。実際にこの発表会に関わっているボランティアの皆さんは、一政さんの姿勢に共感して集まっているし、その人脈で成り立っている。この人たちも、こういう事業に関わることで、生きるために必要な音楽について自覚していくのだろうか。そうだとしたらすごく嬉しいことだ。

 私も、一政さんと、この子どもたちに少しだけだが関わることで、生きるための音楽について学んでいこうと思う。和太鼓の演奏は何人かが一緒に叩く曲が多くて、そのままでは一政教室のみんなが同じように演奏するのはなかなか難しいし、ここでは多分一律に演奏することの意味は殆どないように思える。ようは太鼓を楽しめればいいのだから、強く打ちたい人は強くうち、軽く打ちたい人はかるく打ち、セッションしたい人はセッションすればいい。その人の体力と感性にあった打ち方、リズムを探ればいいのではないか。そんな思いから、全くこれからの課題だが、障害者と共にある和太鼓演奏について少し考えてみたいと思う。今回の発表会の、一政さんの個性を活かした発表会をみながら、そんなことを考えたのです。
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生きるために必要なこと

 平間わんぱく少年団の30周年記念公演が8月3日終わりました。1500人の方が観にきて下さいました。参加した子どもたちと、父母会、みんなで公演の感想文集を作る準備をしています。少しの感慨もあって、そこにこんな文章を書いてみました。

 生きるために必要なこと

 少年団とは何なのか? 太鼓の集団というのは何か? 何のために今あるのか? そんなことを時々考える。そこで私は何をしているのかとも。
 ずっと昔から、つまり平間わんぱく少年団が生まれた頃からの魅力とは何なのか? それは、少年団を作ったときの大人たちのある種の情熱だ。きっとそうだ。あのころ、関わった親たちはデカガキと言われるような、何かにぶち当たっていく熱を持っていた。自分の生き方でもあり、子どもたちへの使命感のようなものでもあった。
 それが薄れたからか、自分の子どもがいなくなったからか、状況がゆるさなくなったからか、親たちが離れて太鼓の集団になった。それは何故か。何故太鼓だけが残ったのか?
私が太鼓が好きだからか? 私が子供が好きだからか? 子どもたちと太鼓をしていると生きている気がするからか。そのどれかかもしれないし、全部なのかも知れない。

 30年続いて、正直疲れたと思うこともある。でも辞めようとまではまだ思わない。いつかその日が来ることは間違いないが、まだそうは思わない。
 30年の間の気持ちの変節はよく分からないが、今なお子どもたちと太鼓を叩き続けているのは、今は彼等と一緒に一つの世界が創れる喜びがあるからだと、たぶん思っている。
 彼等とは少年団の子供であり、その親であり、祭音の若者たちであり、ちょっと前の若者たちである。生きると言うことは充実感を何処かで満たしていないとうまくいかない。たぶん、そう思う。ここにいて、挑戦することが出来るならそういう充実感を手に入れられる・・そう思っているからかも知れない。
 それは私にとって必要なことだが、同時に子供にとっても、親にとっても、若者にとっても必要なことに違いないという思いこみがある。それは思いこみあって、確かな事ではないが、とりあえずそれを梃子にしている。
 楽な課題での挑戦は、その程度のものしか伝わらない。まさか出来るとは思わないことをしたときには、まさかと思う感動を受け取るし、伝えられる。子供のようだがそう信じている。そういう充実感を時々で良いからしっかりつかみ取りたいと思っている。

 今回のテーマは、「ぼくらは太鼓の少年団だが、平和のこともちょっと考えてみた」・・と言うことにつきる。ぼくらは普段、そういうことをきちっと考えているわけではないが、今度はそういうことをしてみたい・・ということである。それを、とても無理と思う程ではないが、ちょっと手強いかなと言うほどの課題を据えてぶつかってみた。
 100人の合唱、初めての体験、本当に出来るの?・・出来るさ、そういう力をみんな持っているんだから。ほとんど迷いなくそう思っていた。
 みんながはじめから乗り乗りだった訳じゃない。でも結構面白そうな曲だと思ったと思う。少年団の30周年じゃしょうがないかと思ったかも知れない。とにかく結果として証明されたことはみんなすごい力を持っていたと言うことだ。会場を埋めた千数百人の観客はその力に圧倒され感動してしまった。それはアンケートの感想に集約されている。アンケートの感想は共感した人しか書かないから、当てにならないとも言われるが、そこから伝わる熱はかなりの重さを持っていると思う。多分太鼓だけの舞台の感動とは何倍も違う重さを持っている。
 普段平和について余り考えない集団が、今度は真面目に考えてみた。子どもたちの気持ちには決して意図的なものはない。そうでないから伝わる予期しない感動・・の重さ。
こういうことを一緒にやってくれる少年団だから、その親たちだから、祭音だから、多分まだ私はここにいるのだろうと思う。

 はだしのゲンの合唱曲の作曲者・安達元彦さんの奥さん、岡田京子さんが「誰でもみんな音の種を持っている」という本を出された。そこで岡田さんは、プロでもアマチュアでもないもう一つの音楽世界があるはずだと書いている。単なる習い事でもない、専門性を追求していくと言う程でもないが、生きていく上でなくてはならないものとしての音楽についてである。そしてそのエリアは圧倒的に広く大きい。
 少年団も祭音もそのエリアの中で太鼓を楽しみ、民謡や民舞や、子守り唄や、童歌を楽しんでいる。そしてそういう存在の仕方が当事者だけでなく回りにまで感動を波及させているとしたら、これはとてつもなく素晴らしいことだ。私の中では少年団も祭音も、つまり子供も大人も太鼓や歌や踊りを通して生き合う場所になっていることが、何よりも大事だと思っていて、岡田さんの気持ちにぴったり一致してしまった。と思いこんでいる。
 安達さんはそういう問題提起のあるこの本を「ひょっとしたら、とんでもない革命的な本かも知れない」という。
 この本にはその他にも伝統文化の伝承について、何が大事かをどかんと教えてくれていたり、自分に必要な歌は自分で作るという提起をしていて、その実践報告をしている。要するに音楽は誰のものかということと、与えられるという環境から自分たちの手に取り戻すという役割の大事さについて語り続けている。

 私が30年やって来た少年団と、そこから生まれた和太鼓集団祭音に身を置いて、しようとしていることは、一緒に生き合う場を創ろうということだ。生きるために必要な広場だから、行ける所まで行こうと言うことにもなる。若い力からエネルギーをもらって、年齢にふさわしい生きる理由を教えてもらいながら。
 生きることに必要な音楽(太鼓も芝居も)ってすごく刺激的な言葉だと思うが、そのために何をするか、何が出来るか、また模索してみようと思う。
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たつの素子コンサート

 東京大泉学園のゆめりあホールで、たつの素子コンサートがあった。今回は作曲家安達元彦さんのピアノをたくさん聞いてもらう企画にした、という趣旨のことがチラシに書いてあった。
 安達元彦さんは私たち和太鼓祭音の音楽監督をお願いしているとても大事な人ということ以上に、安達さんがいないと祭音のレパートリーにしている民謡や合唱や子どもたちとの小さなミュージカル、わらべうたも何も出来ない。まあ祭音の音楽部門を支えてくれている神様のような人だと私は思っている。
 安達さんの回りには安達さんの曲やピアノが大好きな人がたくさんいて、たつのさんもその1人、ずっと安達さんと一緒にコンサートを開いてきた。大分以前に1度私もたつのさんのコンサートを聞かせていただいたが、その後はなかなか日程が合わず参加出来ないでいた。どうしても週末になるコンサートが、和太鼓の練習日と重なり、聞きたい気持ちとは別にどうにもならず失礼していた。
 今回も練習日だったが、たつのさんと安達さんのコンサートということで、これはどうしても聞いておかなくてはと、練習を中止して参加した。 
 そして安達さんからは、たつのさんが“今回のコンサートでは、久しぶりに荒木栄を歌いたいといっている”と聞いて、どんな世界が生まれるのか興味があった。
 1960年代、労働争議が日本中に溢れ、その最も大きな、総労働対総資本の対決とマスコミがかき立てた三井三池炭坑の闘いもあった。そしてその炭坑労働者の中から生まれた労働者作曲家が荒木栄で、歌のうまく歌えない私もみんなの中でいくつかの歌を歌った。特に私自身が1963年に東京電力を不当解雇され、その後13年に及ぶ争議を余儀なくされた時代であり、そういう仲間の集まりでは、荒木栄の“がんばろう”が歌われ続けた。そんな時代と重なる興味もあった。

 久しぶりに聞いたたつの素子さんの歌は、以前にも増してしっとりと心に響いた。ずっと以前のコンサートの帰りの“ちょっと元気良すぎてついていけない所もある”なんて話した妻との会話が思い出されたりもしたが、今回のコンサートで選んだ曲がわりとしっとりとしたものが多かったこともあるのだろうが、人は歌を支えの生きているという思いを強くした。そして、たつのさん自身がコンサートの途中で、“ここまで歌ってきて、荒木栄の歌はやっぱりみんなで歌う歌だと思った”と語った感想に共感する所もあった。お客さんの多くが、たつのさんのうたごえに共感して、気持ちの中で一緒に歌っていたように感じたことにもよる。
 私と一緒に行った2人は、荒木栄もたつの素子も知らない。はたしてみんなと同じように受け止めてくれたのだろうかという心配もちょっとあったが、気持ちに残る良いコンサートだったと云ってくれたことでほっとした。しかし、どうしてみんなこの歌知っているんだろうと不思議がるところもあって、一緒に歌い続けてきたコンサートの常連の方に比べると初めての参加者には不思議な雰囲気の客席でもあったようだ。
 私にとっては今回のコンサートはいろいろ複雑な刺激があった。それは自分が生きてきた時代と生き様と重なることが多すぎたからでもある。
 私自身の争議の中で“がんばろう”を歌い続けたことだけでなく、20才で地域の劇団に入って最初に出会った演劇が“三池の闘い”という、まさにその時代を反映した創作劇だった。せりふは何もなかったが労働者の1人として舞台に初めて立った。労働組合の幹部が東京の労働団体との会議のついでに劇団にも寄って、現地の闘いの模様を話すのを、後ろの方で聞いた。“三池の主婦の子守り唄”も“わが母のうた”もとても優しい歌だが、背景にそういう巨大な争議があって、優しさだけでない強さと怒りがあった。
 荒木栄だけでなく、キム・ミンギの“ひでり”も安達さんのピアノソロで聞かせてくれた“アリラン”も強烈なインパクトで迫ってきた。
 私のいた劇団では朝鮮半島の複雑な国情に視点を当てたいくつかの作品を上演している。私が劇団に入るきっかけになったのも、“炉あかり”という在日朝鮮人の生きる姿を黒沢参吉が執筆したものであった。この芝居に出会わなかったら、演劇や太鼓の世界に私はいなかったかも知れない。その上、劇団に入った研究生の同期に、李君という在日朝鮮人の若者がいて親しくしていた。北朝鮮への帰国が進んでいた頃で、李君も帰国するとかしないとか云っていたが、帰国しないまま劇団からもいなくなった。
 私の13年続いたの争議の終わり頃、韓国の詩人金芝河の“金冠のイエス”という作品を上演した。争議中であった私は再々演の最後の舞台に出させていただいたが、劇団の中でも代表作としていまでも語り継がれている。この作品は音楽劇で、たくさんの合唱曲、ソロの曲が歌われるが、すべて安達さんの曲で印象深いものばかりだ。
 そうした記憶が一気に吹き出したというか甦ってきた。それに韓国の映画「風の丘を越えて」というパンソリの家族を描いた映画が重なって迫ってきた。特に安達さんの“アリラン”は「風の丘を越えて」そのものであった。

 その他の“いのち”も“花を送ろう”も生きていく上で何が一番大切なのかと問われているようで、息苦しくなるほどであった。
 しかし、こうしたたつのさんの歌声を聞きながら、思い続けたことがもうひとつあった。それはたまたまだが、会場に向かう電車の中で読んでいた鶴見俊輔さんの「詩と自由 恋と革命」という本の一節で、奇妙に甦って離れなかった。鶴見さんはこの本の中で秋山清について書いていて、その中に「秋山さんは、ほらふきと、ほらをふかないものとの区別を私に伝えた」と書いていた。それは多分うそつきはいけないなどと云う一般的な話でなく、生き方として、淡々とすべてを晒してありのままにということだと思うが、建前や地位、立場を守り、自分の存在を大きく見せようとして人を傷つけている事例に、何度も遭遇してきたことからくる共感であったように思う。そしてたつのさんのコンサートは秋山清が伝えたというものと同じ思いを私に伝えたのだと思うのだ。

 私はいま「平間わんぱく少年団」の30周年を記念した“和太鼓と平和のねがい 大空へ”という舞台を創っている。その中で、18年前にマンガ「はだしのゲン」を脚色して初めてお芝居にした「麦の穂のように」の中で歌った合唱を、もう一度歌う準備をしている。作曲は安達さんで、18年前の劇の終演時から、いつかまた歌いたいと思い続けてきたものである。
 いまの子どもたちはマンガ「はだしのゲン」を読む機会もない。30年に1度だが、子どもたちとこのマンガを通して平和を語り合ってみたいというのが取り上げた理由で、何処まで出来るかは別にして、とにかく格闘してみたいという欲望がある。8月3日がその公演の日で、それはヒロシマの原爆投下の3日前である。
 嬉しいことに、5月の連休にヒロシマに子どもを連れて行ってきたという家族が2家族あった。公演前にぜひ連れて行きたいと話してくれた家族もあった。小さな一つの試みだが、生きていく上で一度は通過したいもの、体験しておきたいことを、大勢の仲間たちと一緒に楽しみながらやってみたいというのが私の気持ちで、それは今度のたつの素子コンサートと共通する基盤があるようにも感じている。ぜひ大勢の人に観てほしいものだ。

 コンサートは図らずも自分の人生を振り返る機会になってしまったが、いまはまだ前を向いて生きていきたい。コンサートもそういうメッセージであったと思うが、あまりにも重なる部分の多かった内容についつい振り向いてしまった。様々な思いを交錯させながらだが、ときどきたつのさんの歌声を思い出していこうと思う。感謝である。
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「はだしのゲン」100人の合唱

今から18年前、私が所属していたアマチュア劇団で、マンガ「はだしのゲン」を舞台化した。「はだしのゲン」はまだ何処の劇団でも劇化していなくて、広島でオペラにしたという話が伝わってきました。交流していた劇団月曜会の代表土屋清さんがそのオペラの台本を書いたというので、今度は演劇の脚本を書いてほしいと土屋さんにお願いしたのです。
その一方で、原作者の中沢啓治さんに、私たちに上演の許可を頂きたいとお願いした。中沢啓治さんは初演はプロの劇団に劇化してほしかったようですが、何度かお願いするうちに許可を下さいました。
ところが、脚色をお願いした土屋さんが、その後病に倒れ、執筆半ばで逝去されてしまったのです。まだ働き盛りのこれからというときで、ご家族はもとより多くの関係者が無念の思いをかみしめました。そして私たちは、これで劇化を断念するかどうかという課題を突きつけられ、もともと劇化したいという意志を持ったのは自分たちなのだから、何とか自分たちで書き上げようと、決意を固めたのでした。
その時の私の役割は制作でした。創作からの制作は、担当者に何としても書いてもらう、まあ、書かせることが最初の仕事です。新しい脚色担当には劇団の役者で演出家の中沢研郎さんにお願いしました。しかし担当したからといって簡単にかけるものではありません。呻吟しているのですが何時になったら書き始めるのか、日にちばかり過ぎていきます。仕方なしに、私もまねごとで一緒に書くのを付き合うから、私の家で一緒におしゃべりしながら書こうと誘ったのです。
そんなことからマンガ「はだしのゲン」を読み、土屋さんの集めた資料を読み、原爆投下に至る資料などを読みあさることになったのです。つきあいですが、せっかく書くのだからどんなものが書けるか自分を試してみる気持ちもちょっとありました。
結局、中沢研郎さんの作品は仕上がらず、不十分なものでしたが私の本が一応“幕”までいったので、改稿しながらこれで行こうということになりました。中沢研郎さんは演出者として上演に責任を持つことになったのですから、実はもっと大変な役割を引き受けたことになります。まあ、悪戦苦闘をしてきたつづきを、また二人でやろうと言うことでした。

私にとっては始めて書いた脚本になりました。「麦の穂のように」というのがその作品です。考えてもいなかったことがおこり、中沢研郎さんとの壮大な芝居創りに入っていきました。当然のことですが何度書き直したか知れません。本当に舞台に上げられるのかなあと半信半疑でしたが、子どもの役は子どもにやってもらうという信念で子役を集め、100人の「麦の穂合唱団」を組織して盛り上げるという演出が、脚色を越えて感動的な舞台を創りました。川崎、横浜、茅ヶ崎の3会場で公演し8000名の人が観てくれました。劇団にとってはそれ以前にもその後にも、この数字を越える公演はまだありません。

この公演が終わったときから、お芝居を全部再現するのはとても出来ないとしても、100人の合唱を生かした「麦の穂組曲」が出来ないものかとずっと思い続けていました。実際の舞台を見た人からも、“あの100人の合唱を取り出して歌えたらいいのに”という声を聞きました。そんな思いをずっと引きずってきていたおかげでしょうか、今回ようやくその思いが実現することになりました。

私は劇団とは別に地域で子どもたちに和太鼓を教えています。「平間わんぱく少年団」というのがその集団の名前ですが、もともとは太鼓の集団ではなく、何でも体験してみようという少年団でした。学童保育を卒業した子どもたちに、親たちが伝えたいことがある。それを伝えるのだというのが設立の趣旨でした。劇団の中沢研郎さんもメンバーの1人で、彼は子どもたちと「三年寝たろう」の芝居を創り農家の炉端で上演したことがありました。しかし少年団を始めた親たちもいつの間にかいなくなり、太鼓を教えていた私だけが残って、いつの間にか太鼓の少年団になってしまっていたのです。
月日は流れ、いつしか30年が過ぎていました。30年間少年団の子どもたちと太鼓を叩き続けて、30周年記念の公演をしようと思ったとき、この子どもたちと「はだしのゲン」の「麦の穂合唱組曲」を歌いたいと思いたったのです。100人の合唱団つくって歌いたいと、半ば決意に近い気持ちで思ったのです。
そんなことが出来るだろうかというのが、そう思ったことと裏腹に湧いてきました。今の子どもたちは「はだしのゲン」のマンガの存在すら良く知らないし、親たちどころか、おじいさんも戦争を知らない世代になってきている。しかし世界ではこの60年余、戦争の火が消えたことがないし、ますます不穏な動きが世界の各地に、そして日本にも現れていることを考えると、ささやかだけれど、子どもたちと原爆を考え合うことは必要なのではないかと思うのです。

8月3日の日曜日、少年団の子どもとそのお母さんたち、そして若者の太鼓集団「和太鼓祭音」と地域の協力者も入って、100名の合唱ではだしのゲンの「麦の穂合唱組曲」を歌います。さすがにお芝居は出来ないので、お芝居の代わりに子どもたちのマンガを読んだ感想を基にした構成劇を創りました。「はだしのゲンを旅する」と題した構成合唱組曲は、まだまだ未完成ですがだんだん18年前のお芝居で聴いた、確実にうねるような響きになってきています。子どもたちもお母さんたちも若者たちも、まっすぐにはだしのゲンの世界に向き合っているように思います。
「ぞう列車」の合唱曲が日本中で歌われましたが、同じように「はだしのゲン」の「麦の穂合唱組曲」が日本中で歌われたら凄い力になるだろうなと思いながら、そういう力をいつか誰かが発揮するためにも今回の公演を何としても成功させて、聴いてくれた方々の心に深く残るものにしたいなあとも思うのです。
それに、30年積み重ねられた子どもたちの和太鼓演奏もなかなかのものです。8月の太陽の輝く日に、ヒロシマを思い、和太鼓に心はずませ、平和を願いたいと思います。
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保育園のこどもと共に

3月は卒業式シーズンで、毎年進学や就職に必死になる子どもたちが祭音にもいる。今年も高校進学を目指す子どもの悲喜こもごもをかいま見た。「15の春を泣かせない」と言う言葉は京都知事だった蜷川さんの名言だが、いまここに書きたいのは、もっとずっと小さい子どもたちのことである。
私は保育園の年長児に和太鼓を教えてかれこれ30年になる。自分の子どもが保育園に通っていた頃、私が太鼓を叩いていることを知った園長が、保育園でもやれないかと言い始めたことが始まりで、まだ川崎市の保育園では太鼓を保育に取り入れているところは何処にもなかった。父母会でバザーをやって太鼓を買い、豊年太鼓の練習を始めたのは2番目の子どもが卒園した次の年で、その子は保育園では太鼓が叩けなかった。3番目の子どもだけが一緒に豊年太鼓を叩くことが出来た。教えることと教わる親の気持ちを一緒に体験した。
 それ以来、保育園を移動する職員が新しい職場から「ここでも太鼓をやりたい」と声をかけてきてくれて、ずいぶんいろいろな保育園をめぐり、新しい子どもに出会うことになる。
 そして昨年も3つの保育園で太鼓を教えた。そしてその一つ、有馬保育園の卒園式に参加した。有馬保育園は途中3年程中断したがほぼ20年ぐらいの長いおつきあいである。とくに今年定年を迎え、園児と共に保育園を去るT園長が6年前に赴任してからの太鼓を通してのかかわりは大変刺激的で面白かった。

 30年も保育園に通っていると、保育園の在り方や指導や職員の姿勢、特に園長の構え方などいろいろなことにぶつかり、保育園の存在や子どもについて考えさせられる。それと今日の親についてもである。生まれてくる子どもは何時の時代も無色で、その子どもたちを取り巻く親たち、家族、地域、保育園など、育てる側の様々な人たちが子どもに影響を与えているわけだが、子どもを見ると社会のひずみが見事に投影されるのが分かる。
 「うちの子は友達はいなくてもいいですから」という親に出会ったり、「今朝悪さをしましたから、昼食を抜いてください」という親がいたり、晴の卒園を前にした発表会で時間になっても集まらず親子で寝ていたり、さまざまなゆがんだ家族をかいま見た。じっと座っていられなくて、ふらふら動き回る子どもはもう特別な存在ではない。
 しかし、すべての保育園児がそうだというわけではない。子どもらしく、しっかり躾られている子どもたちがいる園もある。有馬保育園はそういう保育園の一つで感心させられる。太鼓の練習が終わったあと園長や職員といろいろのことを話し合うのだが、子どもにとってどうも何が本当に必要かを考え続けている人がいるかどうかがポイントのように思える。
 この保育園も初めからそうであったわけではないと言う。あるとき子どもの1人が怪我をする事故があり、その原因を解明する話し合いの中から、子どもの身体の発達が豊かに育って異な事に気づいたのだそうだ。それからハダシ保育を始めて足裏の扁平足をなくし、リズム体操を通して体のバランスをつくり、さらにお芝居や歌のコンサート、太鼓の教室を始めて集中力、聞く力を育てているのだそうだ。

 子どもの成長にとって何が本当に大事かを探すことを、何の先入観もなく出来るかどうかがとても大事だと、その話を聞きながら私は思った。新しいことは何となく不安で、何かあったらとどうしようという心配がつきまとうが、専門家の意見を聞きながら必要なことに突き進んでいく勇気がなくては出来ない。
 いつも感動的で刺激のある魅力的な生き方がしたいと思う私の生き方に似ているとも思うのだが、どうせやるのなら一寸ぐらい手間暇かかっても感動が大きい方がいいと考えることは楽しい。
 有馬保育園での取り組みで忘れられないのは、もう4年前になるが「有馬っこまつり」を父母会と園と一緒に開催したこと。有料公演は認められないという行政の介入などもあったが、800人の観客を組織し、子どもたちと職員の「はっぱのフレディ」というお芝居、小さい子どもたちを舞台に上げて一緒に聞いた専門家のコンサートと昔語り、子どもたちの太鼓の演奏とバラエティー豊かな感動的な文化行事になった。祭音の太鼓も聞いてもらい、全体の演出もさせてもらったが、保育園にこういう力があることが不思議だった。どこかでいいことは何でもやろうという決心がないと出来ない。

 今年の卒園式は寒かった。しかし子どもたちは元気だった。裏打ちも自分たちでやり、リズムも自分たちで好きなリズムをつくった。演奏も元気いっぱい大声を出して楽しんでいた。昨年までここにいた職員が何人も古巣の卒園式を見に来たが、終わったあと園長を交えてお喋りをした。ここを出ていった人たちから、なかなかこの園のようにはいかないと言う話が共通して出された。なぜ?と聞いてみた。
 私は結局トップの構え方だと思うと言う話をした。とりあえず何事もなく過ごせればいいと言うサラリーマン意識では人を育てる仕事は出来ないし、新しいことを始めるにはものすごいエネルギーが必要だ。エネルギーがあっても専門家を集めたり、創造性を発揮するにはそういう方面での感性が求められもする。職員が持っている、あるいは内在している可能性を生かすことも大事だ。そういうトップにはなかなか巡り会えない。
 そういえば「有馬っこまつり」を引っ張った1人にIさんという看護婦さんがいた。彼女は「有馬っこまつり」のあと他の保育園に移ったが、同じように今年で退職する。T園長とI看護婦の猛進する2人がいたことで、1人では出来ない可能性への挑戦が出来たのかもしれない。丁度その時期の父母会のメンバーに恵まれたこともあるだろう。そう思うとトップは何より大事だが、そういう可能性を開かせる条件が揃っていたこともあるのかなとも思う。未来を作る子供を育てるのためには、未来を夢みるい大人が絶対に必要だと思うのだがどうだろうか。

 来年も有馬保育園の太鼓指導は続くことになるが、その後はどうなるか不明だ。新しい園長が何を考え、どうしようとするかは未知だから、何とも言えない。夢を語れる人であってほしいなと思う。
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不都合な真実

映画「不都合な真実」を観た。ちょっと話題になっている映画だということで、気晴らしに出かけた。
アメリカの元副大統領アル・ゴア氏が、地球温暖化を防止するために世界を駆けめぐり講演して歩くのだが、その講演の内容をそのまま映画にしたものだ。延々と2時間映像を使って、映像を通してしゃべり続ける映画だ。
映像を観ながら、息づかいがすごく自分に近いのを感じた。それは何だろうというのが、映画を観ている間の、映像の中身とは別のもう一つの興味だった。

アル・ゴア氏は、かつて現アメリカ大統領ブッシュと大統領選挙を争った。そして一瞬勝利した。開票結果に疑義が出て再審議した結果逆転、敗北した。その彼が自分の子供の交通事故に直面し、子どもと生死を共有する時間を経て、子どもに残す地球はこれで良いのかと地球温暖化防止の活動を始めたのだという。

彼の活動は世界を駆けめぐり映像を使い雄弁に地球の危機を話し続ける。今年は温暖化ですごしやすい冬だが、同時に地球の未来が心配だという記事を多く目にする冬にもなった。ものすごく大きい課題が、一般論として理解される事と、それにどう立ち向かうのかは、1人1人の小さな立場からすると大きすぎて、危機的な課題にはなかなかならない。たぶんそれは、主要国が本気でそれに取り組み、国家を上げてそういう姿勢を示し、その活動の一部として1人1人の課題を提起しないと進まないのではないかと思うのだ。

アル・ゴア氏の国アメリカを始め、先進国が国として積極的かと言えばNOである。発展途上国も先進国に追いつくためにはそんな事は言っていられないと言うのが本心のようだ。
ものすごく巨大な課題は一般論では誰も否定しないが、実際にはなかなか進まない。世界の核兵器の廃棄の問題とよく似ている。死の商人がいてそれこそ「不都合な真実」で巨額の富を手に入れる人がいる。いつも戦争の危機が必要な人がいる。世界を支配する事が世界の全ての人が幸福になるより素晴らしいと考えている人がいるのだから戦争はなくならない。

アル・ゴア氏の活動はそういう茫漠とした世界に挑み続けているように思う。少なくとも1000回の講演をしたという。大統領選があり、子どもの事故があり、それから意を決してから数年の間にだから、それは驚異的な数字だ。
彼はひたすら自分の思いを語り続けている、日本流に言えば現代の語り部なのだろうと思う。それがどれだけ世界を動かしたかは知れないが、ひたすら語り続ける事で何かが動くと信じているのだろう。それが映画になり、今度はこの1本の映画で1000回分の講演と同じ人々を説得しているかも知れない。だから確かに世界を動かしつつあるのかも知れない。

ああそうか、自分がやっている事と何か似ていると直感したことが、なんだかちょっとだけ繋がったように思う。人は、信じた道をひたすら歩み続ける事が大事だということを、彼の生き方から教えられたように思うのだ。ただひたすらという生きる姿勢の意味。

彼の姿勢、子どもたちにどういう地球を残すのかという責任感は決して1人では背負いきれるものではない。だからこそ行脚を続ける。

私の中にどれほど彼のその責任感に共通するものがあるのだろうか。アメリカの大統領を争ったエネルギーを持つ彼に比べるのは、これはちょっと大きすぎるが、人それぞれの器の中で、自分が生きる世界にどう責任を持つのかを意識して生きられるかはひょっとしたら生きる価値基準のひとつかもしれない、と気づかされたりもする。

子どもたちと和太鼓を打ち続けて来て30年になる。今年は大人の太鼓グループ「和太鼓祭音」の舞台公演が7月にあるが、来年は子どもだけの30年を記念する太鼓の舞台を創ってみようと考えている。アル・ゴア氏の比ではないが、ひたすらという思いでは、この30年もそれなりのひたすらな生き方だと自分を納得させられる。継続は力なりという言葉もあるけれど、ひたすら子どもたちと向き合い関わり合ってきた30年が生み出したものは決して小さくない。
子どもたちの未来に何を残すのか。豊かな地球である事に間違いない。豊かな地球とは戦争もなく、いじめもなく、助け合い、分かち合い、文化が息づく街を作る事も同じように大事な事。そして同じように終わりのないこと。
ここまで来た人生を今更変えられはしないが、お正月に観た映画「不都合な真実」はそれで良いんだよと言ってくれているような気がした。うん、ありがとうだ。

それにしても、今日のアメリカ大統領がブッシュ氏でなくアル・ゴア氏だったら世界はだいぶ違う方向に動いていたのではないかと、ちょっと思ったりするのは、期待のしすぎだろうか。
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親父の死

親父が死去した。90才と10ヶ月生きた。
松が取れて間もない1月13日、食欲がなく熱があるので救急車で病院に運んだと、入所していた特別養護老人ホームから電話があった。深夜に近い時間であった。その日に病院には行けないので、近くの妹に頼んで病院に行ってもらい、自分らは翌日面会した。酸素吸入器をつけて眠っていた。
医師の説明は肺が真っ白になっていて肺炎のかなり進んだ状況だという。これはひょっとするとひょっとするかも知れないと直感した。その後の面会では血色も良く、一見元気に見えた。そして17日の夜、10時過ぎに危篤の電話が入り、10時30分には心停止したという電話が入った。あっけない死であった。
人の命は限りがあって、誰でもやがて迎える宿命だが、そうとは分かっていても、死に直面するといろいろの思いが交錯する。

親父の最後の6年半は脳梗塞による半身麻痺で言葉もなくほとんど寝たきりに近い、要介護度5の身体で生を繋いだ。その前5年間連れ合が入所した特別養護老人ホームに通い続けた。そう、連れ合いと同じホームで親父も生涯を終えた。
従って私らも12年余にわたって、特別養護老人ホームとそれに繋がる老人施設、病院に通い続けた。
いつも思う事は、生まれてくる事も自分の意志ではないが死ぬのも自分の意志で自由にする事は出来ない。だから人は生きているうちに悔いなく精一杯生きたいものだと思う。
そんな死に直面して、こんな詩を書いた。山のようにある思いや、思い出や、記憶の中から取りだした今の気持ちである。

ひょんとしぬるや
山本辰次郎に死に際して

山本忠利

ひょんと死ぬるや
竹内浩三が兵隊をうたったことば

人はみなひょんと死ぬるか

昨日までたしかに臥せていたあなた
6年余の年月を半身で生きてきたあなた
肺炎を病んで今度は危ないかも知れないと
危惧したあなただったが

でも昨日はあんなに元気だったのに
いつものように笑い手をまさぐり
なんども私と妻の顔を見比べていた
酸素吸入を払いのけ
それしか動かせない左手で
抱え込んでしまったあなた
うっとうしいんだよきっと
俺たちがいると眠れないから
また来るからねとそこを離れた
今朝だって昨日より元気に見えたよ
妹の電話に不安はなかったのに
その日の夜にはあなたは
不帰の人となった

ああ
ひょんと死んでしまった


人はみなひょんと消ゆるや

6年半ぶりに帰ったあなたの家は
今は住む人もないが
あなたが植えた庭木は今も茂り
荒れてはいるが確かにあなたの建てた家
30数年前三保から移り住み
新しいふるさとにしたあなた
ここに子どもたちを迎え
ここに孫たちを迎え
ここで妻を送り
ここで1人で暮らし
病に臥してここを離れた

ある年一度だけ正月に帰ってきた
おすしをむさぼるように食べ
子供等にかこまれ笑顔をたやさず
施設に帰るのが嫌だと
悲しそうな眼をしたあなた

ただ横たわるしかないあなたは
三途の川を渡る旅支度で
棺に入れられ
火葬にふされる
もうどこを探してもあなたはいない

ああ
ひょんと消えてしまった


あなたはひょんと現れる
どこにもいないはずのあなたが

それは眠られぬ夜であったり
ふと物思いにふける午後であったり

戦争から帰ってきた日のあなた
熊のようなひげ面を
御殿場の妻の実家でそり上げたと
あなたの葬儀に日に聞いた

あなたに手を引かれて
横浜の万国博覧会に行った
テレビの試験放送が初めて公開されていた
私が小学生のときのことだ

また会社に呼ばれたよとあなたは言った
同じ会社で私が争議を始めたときのことだ
悲しそうな眼で辞めないかと言った
強くいきたいと思う私は拒否した
10数年後私が勝ったとき
あなたも
あなたの妻も祝いに来てくれた
女優の佐々木愛さんと
握手していたあなたを忘れない

ああ
あなたはひょんと現れる

あなたは今小さな遺影となって微笑む
あわただしく日々が過ぎ
がたがた どんどんと日を送る
ひょんと消えてしまったあなたが
ひょんと現れるのはいつ
歴史を繋いだあなたを
忘れないでいたいと思う

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論争

 私と誰かの論争ではない。
 本を読んでいて、ちょっと気になる論争に出会ったので紹介してみたいと思ったのだ。

 「対話の回路 小熊英二対談集」という本がそれである。
 小熊英二という人は慶応義塾大学助教授で『単一民族神話の起源』『<民主>と<愛国>』などの大書を著している若手の超エリート。
 この本で対談しているのは村上龍、上野千鶴子、姜尚中といったそうそうたるメンバーだが、その対談者の一人に谷川健一という民俗学者がいる。その谷川健一と、「柳田の経世済民の志はどこにいったのか」という命題の話をしている。

 民俗学の世界では柳田国男とか宮本常一とかという知の巨人がいて、そういう人の足跡を受け継ぎながら次の時代の知の巨人たちが新しい仕事をしていくという、民俗学の世界の話だ。谷川健一はこの対談の時に80歳といっているから、もう若くはない。
 柳田国男とも宮本常一とも一緒に仕事をしているから今日への橋渡しをする世代と言うことにもなる。
 しかし谷川健一は民俗学会にも入らず一人我が道を歩んできた学者なのだという。そして谷川健一が課題にしてきた「小さき美しきものへの執着という路線」では、これからの民俗学は衰退していくのではないかと、小熊英二が切り込んでいるのだ。
 小熊は言う。「私は今の民俗学が人びとから信頼を得ていないのは、一言でいって役に立たないからであると思っています。二,三十年前ならまだしも、庶民にとってみれば、祭りを調べにきたり、昔話を聞きに来る民俗学者が、結局自分たちにとっていったい何になるのか、彼らはただ物珍しいものを調べにきているだけではないのか、という疑問があるだろうと思うわけです。」と。
 そして、柳田国男が考えていた民俗学には、農村の貧困をどうするのかという意識を常に持っていた、そういう政治的関心を持ちながらの経世済民の志という側面があった。それを谷川らの民俗学は欠落させてきたのではいかというのだ。
 「思うに谷川さんをはじめとして、戦後の民俗学は、柳田民俗学の政治的な部分を切り落とすことで、平和な文化の学問としての民俗学を」救い出してきた。しかし今日、「昔の伝統を守れとか、美風が失われてゆくとか、そういう単純な議論ではない。むしろ経世済民のために、近代化に伴う風俗の変化を認めていこう。それは西洋文化に飲み込まれるということではなくて、柳田のいうことを思い切り好意的に解釈すれば、民衆のイニシアティブで文化を創造するという」ことで、これは現代風にいえば『伝統の発明』というコンセプトに近いものだ、というのだ。

 もとより私に民俗学などを論じるほどの知識もないし、この論争自体何が真実で何を是とすればいいのかすら定かではない。しかしどうも、何とはなしに気になるのである。

 伝統芸能を伝承しそれを舞台に上げるという作業は、伝統をどう受け継ぐかという課題をいつも問われている。それでも舞台に乗せようという芸能はわりと見栄えのする、力のあるものが多いから、それが消えてしまいそうになる事態に直面でもしなければ、さほど気にならないですんでしまっている。ところがこんな問題提起を受けて思い起こしてみると、私たちがやっている芸能でも既に消滅してしまったものがあったりするし、それぞれの芸能の保存会に話を聞くと、どう伝えどう後世に残していくかはかなり難しい問題を内在しているのだという。

 神奈川県の三崎に伝わる「ぶち会わせ太鼓」の話を聞きに行ったことがある。その時に「もうぶち合わせ太鼓という太鼓はないんです。お囃子の最後に〝ぶちあわせ〟という曲としては残ってはいますが」といわれて驚いた記憶はまだ生々しい。確か昭和34年頃全く消滅したのを、祭囃子として復活したのだと伺った。しかし神奈川の伝統的な太鼓としてはこの曲は大変知られていて、様々な形で演奏されている。もはや伝えるもの、視覚で確認できる原型がないから、何とはなしにそれぞれの解釈でそれぞれの集団による編曲で演奏されているようだ。話をしてくれたMさんは「いいんですよ、サントコドッコイの裏リズムで打たれる太鼓があって、それぞれがこれがうちの〝ぶち合わせ太鼓〟というなら良いじゃないですか。」と至極寛大であった。

 銚子のはね太鼓を伝承させていただいているが、祭音は最後の弟子だと言われている。銚子はね太鼓保存会は、かつてはいろいろ教えていたが、今はもう何処にも教えていないのだそうだ。私はわりとおつきあいが長くて、祭音結成よりだいぶ前に、京浜協同劇団の一員として太鼓のフランス公演をしたときにこの太鼓に出会い教えを乞うた。もう16年ほど前になる。祭音でやるようになり改めてお願いしたとき、古いつきあいだから祭音には教えるけれど最後の弟子だからと念を押された。そして理由をこんな風に話された。
「広げると言うことはどんどん中身が薄くなる。原型とは似てもにつかないものが、これが銚子のはね太鼓ですと言われてやられている。それが困るのだ。広げないと保存会自体が先細りになりがちだが、そこを踏ん張って、地元が最高のレベルを維持して行かないダメなんだ」と。

 そして様々な芸能を切り取って舞台に乗せると、本来伝統芸能はこんな風にやられるものではない、地元の風土の中で生活の中で踊られ受け継がれるものなのだ。舞台でやるのはそういう地元の伝統に反する、むしろ伝統を壊すことになる、と批判を受けることもある。
 確かに丸1日、いや2日も3日も踊り続け、歌い続け叩き続ける現地の祭りをそのまま舞台に乗せることなどとうてい出来ないことだが、そういう祭りが日本中にあって、そのエキスの一部を舞台に乗せることで、伝統を意識し、少なくとも祭りらしい祭りのない私たちの町で、そういう祭りの息吹を共有できたらそれはそれとして良いことではないかと、私などは思うのだ。

 そんなこんなを日々考えている私には、小熊英二が仕掛ける民俗学に関する論争が、ちょっとだけ気になったということの話である。
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好色夜話

 今東光といういう作家がいる。古い作品に好色夜話という、まあ今時の週刊誌を読めばなんだこの程度かという男と女の睦言を書いた短編集だ。その中の一遍「津軽むがしこ」という作品にこんな状況描写がある。

 「練武多(ねぶた)流しが終わると岩木河原に秋風が吹き始める。透明な冷たい水の中をすいすいと鮎に似た魚が泳ぐのが見えた。」

 練武多(ねぶた)とは、弘前の〝ねぷた〟のことであろう。青森県に伝わる夏祭りで、青森の〝ねぶた〟と弘前の〝ねぷた〟はともに勇壮な祭りとしてよく知られる。
 〝ねぶた〟は武者絵ではなく立体的に形作られた大きな紙貼りの像で、中に明かりが仕込まれていて何百人も人が大通り引き回す。それに比べて〝ねぷた〟はちょっと上品に大きな扇形の行燈のような灯籠に絵を描き、やはり中に明かりを仕込む。その〝ねぷた〟祭りの描写だが、今東光の筆ははこんな風に続く。

 「お盆になると町内で練武多を造り始はじめる。恐ろしく大きな扇形の万灯籠に勇ましい武者絵を岩絵具で描くのだ。花和尚魯智進が目玉を剥いている図とか、児雷也が烟りの中から現れるとか、鎮西八郎が強弓を曳いているとか、何でも彼でも勇壮な図柄が選ばれた。素敵に大きな練武多になると空中を張り渡した電線を切って通さなければならなかったほどで、笛や太鼓ではやしながら町から町へ練り歩くのだ。夕かたまけて陽が沈みかけると諸方の街角から練武多ばやしが聞こえてくるのだ。子供らはそれを聞くと夕食の箸を置くのもそこそこに外へかけ出していくのだ。まだその時間には大きな練武多は動く気配もなく、ただ若い衆が細長い太鼓を肩から斜めに吊って漫然と歩き廻っているのだ。彼らは太鼓を鳴らすことが楽しく、楽しいから町内を歩き廻るに過ぎない。それでも子供等はその太鼓の跡についてぞろぞろと流れるように歩くのだ。女の子等まで金魚の形をした派手な練武多を持って太鼓に合わせてそぞろに歩いていた。」
 さすがに作家の筆は祭りの模様をわくわくさせながら伝えている。

 私も弘前をふるさとに持つ友人がいて、かつてその祭りを案内してもらったことがある。彼は子供の頃から親しんだ祭りが自慢で、よく金魚ねぷたを自分で作った。細い竹ひごで骨組みを組み、そこに和紙を張り絵を描くのだ。蝋で透けるように描いた輪郭を残して赤で染めると風情のある金魚ねぷたが出来上がる。
 もう少し作家の話を聞こう。

「大きな練武多が動き出すのは夜も更けた9時頃からで、それは物々しく町内の人に囲まれ、ゆさゆさと練って来る。見物する人達はそれ等の出来栄えを鑑賞し、沢山の蝋燭の灯で真っ光に輝いた練武多に見惚れるのだ。名もない町の絵師は本業は傘や提灯に字を書いたり、芝居の看板などを描く人々で、彼らは皺くちゃになった絵手本によって武者絵を描くことが出来るのだ。こういう武者絵は浮世絵師の系統に属する粉本で、何時頃から津軽地方に伝わったのか判然としない。下絵は蝋をとかしたので素早く描き、隈取りは版画の板ぼかしの手法を採り入れている。
 大練武多が町内を経めぐって元の場所に納まる頃には、あれほど出揃った見物の衆も大方家に戻り、篝火のぐるりには町内の顔役だけが残って茶碗酒をあおるばかりだ。真夜中になっても万灯籠が火を発したり悪戯されたりしないように見張りが立ち、その捨て篝がめらめらと闇を焦がしているのだった。
 そういう時刻になると何処からともなく喧嘩練武多が現れる。喧嘩練武多は直ぐにわかった。小さな灯籠がたった一つ、それも女の生首などが不気味な色で描いてあって、笛も太鼓も低音で、唯黒々と武装に近い屈強の若者が数十人ひとかたまりとなって静々と通り過ぎていくのだ。」

 そして湖の喧嘩練武多に絡まれながら、闇に消えていく若い男女の物語が紡がれるのだが、それはまあいい。
 ところで灯籠の中の灯りが蝋燭だというから、かなり古い時代のねぷた祭りを書いているのだと思われる。見物衆もいつの間にかそれぞれの家に帰ったというから、みんな地元の町の見物衆で、今のようによそ者がわんさと押し寄せる祭りではなかったのだろう。
 本は昭和39年の出版で、それよりも以前に何かの雑誌に連載されたのだろうから、40数年前のことになる。
 それにしてもこの祭り描写が好色夜話の導入部だというのだから嬉しくなる。こんな粋な祭りを背景に語られる睦言もなかなか味わいがあっていい。

 え、こういう本が愛読書かって? まあ、特別嫌いでもないが、愛読書というほどでもない。じゃあ何故こんな本に出会ったかというと、テレビで瀬戸内寂聴の苦労した話があって、その中で、瀬戸内晴美が得度して坊主になる決意をするとき最後に相談したのが先輩坊主の今東光だったと語っているのを聞いて、ちょっと彼の作品を読んでみたくなったのだ。瀬戸内寂聴といえばかなりの強者である。その彼女が最後に相談したい人とはどういう人なのか、それはかなりの興味をそそった。そして古本屋で出会った本がこの好色夜話だったわけだが、まさかそこでこんな素晴らしいねぷたの話に出会えるとは思いも寄らなかった。
 ここに紹介したのも、祭りは何時の時代にも、そして子供にも大人にも、気持ちを沸き立たせる麻薬のような作用をしながら受け継がれている、そんなことをみんなで共有してみたかったからなのだ。
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中国公演から1年

 去年だったら中国公演は中止になっていたかもしれない。そんな気持ちで今年、2006年の小泉総理の靖国神社参拝を報じるテレビを見た。
 今年は中国側もデモであれるようなこともなく表向きは平静だったが、昨年は反日感情をあらわにした動きが報じられて、もし首相が靖国参拝していたら祭音の中国公演は本当にどうなっていたかわからなかった。もちろんそんなことはおくびにも出さず、「大丈夫ちゃん落陽にも西安にも行くから」と強気の気持ちを持ち続けてはいたが、実は内心はハラハラドキドキであった。
 結果として靖国参拝はなく、予定通りの中国・落陽と西安の公演の旅は実現した。

 あれからちょうど1年がたった。出発したのが8月25日。帰国が31日6日間の旅で、世界遺産竜門石窟まえでの公演など、歴史遺産の真ん中などで4回公演を行い、落陽市のプロ舞踊団、十万宮廷舞踊団との交流公演を1回、歓迎レセプションでの演奏1回という充実した公演旅行であった。

 そのちょっと晴れがましい公演の記録写真集が1年ぶりに出来上がった。
 これは参加した全員が旅の感想を書いて記録に残したことと、写真班として同行した清水武氏の写真を中心にカラーページで編集した56ページの、文字と写真で見る記録集だ。感想はどれも充実した感動に日々を伝えている。参加したメンバーは小学5年生から中学生、高校生、大学生と圧倒的に若者が多く、42名の参加者だったが、とてもお世辞など書ける年齢ではないから、感じたままの生の中国印象記と言っても良いと思う。同じように記録された写真の表情も躍動し高揚する気分をストレートに写し出していて、心から歓迎されて、何のわだかまりもなく気持ちよく演奏している様子が読みとれる。

 実は私は今年3月に横浜で開いた「横浜世界演劇祭2006」の迎える側の実行委員会のメンバーとして、海外からのアーチストを招聘する苦労を実体験した。そういう体験をしてみたことから、あらためて中国のみなさんが日本からの一行を迎える準備にさぞかし大きなご苦労をおかけしたのではなかったかと思いをはせたのである。
 旅の記録発行が遅れに遅れ、あれから1年が過ぎての発行になったので、1年前には及びもつかなかった迎える側のご苦労に、私なりの体験を重ねて得た感謝の気持ちをあらためて記し、巻頭の言葉にした。

 実際に、招待してくれた落陽市文化協会の載保安先生は、政府からも「絶対の事故を起こすな」といわれていて大変だったと、旅の終わりの語ってくれた。しかし日本の総理大臣の靖国参拝もなく事態が無事に進行し、中国を旅する私たちはただひたすら歓迎歓迎と迎えてくれる友好の中で気持ちよく演奏旅行をつづけた。当初の心配は杞憂だったということで、たいしたことのない普通の旅だったような気持ちにいつのまにかなってしまっていた。
 しかし迎える側の実際の日々のご苦労はそんなことで気がゆるむこともなく、無事帰国するまで身も細る気持ちだったのではなかろうか、と、今改めて思うのだ。

 旅の一つ一つを思い起こしてみるとその歓迎準備の完璧さと規模の大きさは、いかに中国とはいえそう簡単なものではなかったに違いないと確かに思う。
 世界遺産竜門石窟前での公演はプロの舞踊団十万宮廷舞踊団数十人による則天武皇の再来を演じる壮大な歴史絵巻とセットにした舞台を用意してくれていたことに、脳天気な我々は「ワッ! スゲエ!」などと叫んでいい気になっていたが、準備する側にとってはとてもそんな簡単なことではなかったはずだ。
 歓迎レセプションにおける落陽市の名士の方々を多数招いたのも、大歓迎を意思表示するためにご苦労されたに違いない。落陽第1高校で1500名の生徒が鑑賞し学校をあげて迎えてくれたのもそう簡単に「スゴイ」だけではすまされない。
 さらに思い起こせば、三蔵法師の旅の始まりであり、持ち帰った万巻の経典が収納されている大願塔での公演も、関羽将軍を祀る関帝廟での公演も、どれもこれもみな最高のもてなしだった。
 日本と中国の政治的な荒波が伝えられているときだけに、「トラブルは絶対起こしてはいけない」という指示は、同時に気持ちよく公演し、友好的な交流を果たし、満足して帰っていってもらおうという心血を注いだ用意として私たちを包んでくれた。

 あれから1年を過ぎ、再び総理の8月15日の靖国参拝がマスコミの協奏曲となって喧伝される中で、改めて私はそう思った。

 そうなんだ、日本と中国の政治的なトラブルの陰で載先生には思いも寄らないご苦労をおかけしたのだ。載先生は娘さんも日本におられるそうだが、それだけの理由ではなく本当に日中友好、文化交流に大きな情熱をかけていて、それは並大抵ではない。そういう人が居て、招いてくれたからこそ実現した中国公演だったことを、私たちは忘れてはならないと思う。

 1年ぶりに発行することが出来た記念誌を見ながら、楽しかった旅の日々を思い起こし、熱烈歓迎の人々の笑顔に胸を熱くしながら、改めて大いなる感謝を捧げたいと思う。

 中国公演の記録集に興味を持たれた方は、ぜひ手にとってご覧下さい。
 頒価1000円。
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蟻の兵隊

 今話題になっている映画「蟻の兵隊」を渋谷のシアター・イメージフォーラムで観た。ドキュメンタリー映画である。私も知らなかったが第2次大戦の終戦後中国で終戦を迎えた奥村和一さんらの部隊が、戦争が終わったにもかかわらず上官の命令で山西省に残され、蒋介石軍の兵士として毛沢東の共産軍と戦うことになる。2600名が残され。550名が死亡し、捕虜となり敗戦から9年後にようやく返される。
 ところが戻った日本では「逃亡兵」扱いされ、軍人恩給も出ない。上官の命令で残ったのに、命令した上官はさっさと帰国し、おまけに「彼らは勝手に残ったと」言い逃れて知らん顔をする。奥村さんらは裁判を起こす。そしてその証拠を探しに中国への旅に出る。
ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」はこの奥村さんの執念の旅を追ったものだ。

 私はこの映画を知らせる文章を読んでこれはぜひ観たいと思った。そういうことを知らなかった不明とともに、今なお何故と問い続ける気持ちを知りたいと思ったのだ。

 奥村さんは自ら中国人を殺したことを明らかにして、わびながらかつての戦闘の地を訪ね少しでも手がかりを知る人を探して歩く。その会話の中で、自らが帝国軍隊の軍人であった立場にたってしまうこともある。それを悔いながらまた歩き続ける。無念が晴れる証拠を求めて。しかし最高裁判所も上告を棄却する。

 今私はこの映画をどう受け止めればいいのか、いらだつような思いで困っている。それは映画が伝える事実を受け入れるかどうかというようなことではない。映画の説得力は確かで、中国に保管されている歴史資料は軍の命令だったことも蒋介石軍との取引であったことも白日にさらしていく。奥村さんの執念もよく解る。こんなに明白なのになぜ国は事実を事実として認めないのか。そのいいようのない怒りだけで歩き続けているのだろうと思う。
 しかしそういうことが多すぎるのだ。戦争という最大に理不尽な行為が生み出した一つの結果だが、弱者が全く虫けらのように放り出され、省みられない事実が多すぎる。残留孤児の問題しかり、戦後の謀略事件しかり、レッドパージと名誉回復の問題しかり、そういう翻弄された背中を見せられて、どう応えればいいのだろうか。

 国はひどい、裁判所もひどい、今日まだ生きているという当時を当事者たちの証言拒否、どうにもならない壁のような相手に向かって、ひたすら歩く背中だけを見せるドキュメンタリーは、もちろん結果もあるが、そういうことをしてしまった当時の軍指導部とそれを追認した国に謝らせて、遅ればせながら補償させるという結果もあるが、それ以前に、とにかくおかしいのだから、納得行くまで調べる、追求する、生きている限りそう生きるしかないのだよと言うのだろうか。

 しかし私は奥村さんはこの映画を撮ってもらうことで、事実を認めさせ補償させるという結果意外の多くの目的を果たせたのではないかとも思っている。弱者のたたかいというのはこんな風にしか構築できないのかもしれない。
 戦後60数年を経てまだ知られていないこんな事件があったことは衝撃だが、何百万もの人々を死地に追いやった戦争という不条理が無数の同じような衝撃的事件を引き起こし、いつも誰も責任をとらないで来た。どれほど白日にさらされても731部隊はなかった、南京事件はなかった、侵略戦争ではなかった、などと開き直る人たちはいるのだ。

 結局それぞれが関わることで、知り得た歴史の実相を伝え合うことをするしかないのだろうか。こういう映画を創り、多くの人に観てもらおうという人々のいることに感謝したいと思う。

 中国、落陽・西安公演から1年が過ぎた。様々な中国への旅があるが、旅はやはり心を通わせるものが良い。
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M資金

 以前にMファイルについて書いた折り、M資金について触れた。そのM資金について最近読んだ本で出会った。「下山事件」という柴田哲孝氏の著書だが、450ページの大冊で遅読の私は読了まで苦労した。苦労したけれど大変面白かった。面白かったという表現は正しくないかもしれないが、日本の戦後史の魑魅魍魎たちのうごめきが聞こえてくるような、背筋がぞっとする本だ。だから面白いというより気味の悪い本かもしれない。しかし面白いと思ったのは、次々に掘り起こされる奇怪な事件が著者の豊富な資料によって薄皮をはぐようにあぶり出されてくる様の見事さだ。

 実は日本の戦後史に少なからず興味があって、下山事件など戦後史の闇といわれた謀略事件について若干の本を読んだことがある。どの事件も核心には迫りきれず、歯がゆい思いをしながら読んだ。その同じ事件の一つを柴田氏は克明に精査して追い続ける。
下山事件とは昭和24年、1949年7月5日に起こった事件だ。今のJRの前身日本国有鉄道、国鉄といわれた時代の、それも太平洋戦争直後のまだ日本がGHQ(連合軍総司令部)の占領下にあった時代だ。そういう時代だからこそ起こった事件ともいえる。

 さて、これまでの著書と違うのは、著者のおじいさんがその真犯人かもしれないという、かなりきわどいところから出発していることだ。そしてその人物と、彼を取り巻く人脈を掘り起こしていくのだが、これはそういう一族に関わっていないととても出来ない作業だなあと感心するばかりであった。たまたま柴田哲孝というジャーナリストがそういう曰くを持つ一族に生まれたからこそこの本が生まれたのかもしれない。興味のある人はぜひ一読を勧める。ありきたりの推理小説よりは遙かに面白い、と私は思う。

 前の原稿で、M資金とは「マーカット少尉の頭文字Mをとったとされる秘密の資金で、旧日本軍から連合国軍総司令部が接収した物資のうち、貴金属などの一部をあてた戦後復興のための秘密資金だとされている」と書いたが、そういう資金が本当にあったどうかについても言及している。
 著者の祖父がつとめていた会社のトップ矢板玄(くろし)という右翼の大物がいて、その矢板を著者がインタビューする会話の中に出てくるのだが、戦争中日本国はネックレス、指輪など金銀・宝石を供出させた。つまり無償で取り上げた。それを金銀運営委員会というところが管理していたようだが、これが全く自分の財産のように自由に私物化、使用していたようだ。そういう金だから訳の分からない輩がうようよと集まってくる。

 下山事件を追っていくと戦後の政治を動かした吉田茂、岸信介といった総理大臣をはじめ、どこかで聞いたことのある、それも紳士然とした多くの要人が登場する。みなこの闇の資金をねらって群がってきたのだそうだ。

 柴田哲孝の質問に矢板玄は「金に関しては元々日本のものだし、金銀運営会っていう正式な団体が管理してるんだからGHQも手出しできなかった。政治に使ったんだ。吉田(茂)内閣の政治資金だよ。吉田はうちの金を使って追放(GHQによる公職追放)を逃れて、首相になった。つまり吉田内閣を作ったのは、うちの親父と三浦義一(当時の右翼の大物)なんだ。その後、岸信介の内閣まで、ほとんどその金が使われたね」と話している。
 そして「その金やダイヤモンドは、もしかして“M資金”?」という続けての問いに、「そうだ。M資金の一部だよ。まあ、あの話は半分は作り話だけどな。」と。さらに“M”のいわれについて「本当はマーカットでもマッカーサーでもない。ウイロビーだよ。ウイロビーのWを裏っ返したら、Mになるだろう。M資金はウイロビーの裏金という意味だ」
ウイロビーはGHQの中の右派で占領初期の民主化路線を覆し、戦前の右翼的な人材を掘り起こし右派政権づくりへの道を開いた中心人物であった。

 「下山事件」にはこんな話がいくつも出てくるのだが、あらためてM資金について触れたくなったのは、朝の連続テレビドラマで、ちょうど戦争中の金銀どころか台所の鉄製品、さらにはピアノ線まで金属なのだから全て外して供出しろ、という当時の戦時下の様子が放映されたのを観て、その落差に無性にいらだたしさを感じたからだ。
 小学校にあった二宮金次郎の銅像も鉄砲の弾にするために運び出された時代の、釘一本お国のために役立てよと、供出という略奪行為を通じて、同時に人々を精神的にも戦争意識で一色に塗り込めつつ集められた金銀財宝を、少数の右翼政治団体によって自由にされ、小遣いにされていたことを改めて認識しておきたいと思ったこともある。

 祭音の機関誌「Mファイル」の次の発行は本当は8月1日である。もう期日を過ぎていて少し遅れている。この号では保育園での演奏会の模様や“さんさ踊り”についてのレポートなどが載っている。金銀財宝の話はないが、人々が生きていく縁にしている伝統芸能について、若者たちがつづった“あこがれ”が気持ちを豊かにしてくれる。
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アフリカの太鼓

 西アフリカ・セネガルが世界に誇るアフリカン・パーカッション軍団だという「ドウドウ・ニジャエ・ローズ・パーカッション・オーケストラ」の公演を聞きに行ってきた。
ドウドウ・ニジャエ・ローズという人がリーダーで世界を股にかけて活躍している集団だという。

 この日は19人の編成での演奏であった。細長いらっきょうのようなサバールという太鼓を肩かけたり腰につるしたり、両足に挟んだり、或いは床においたりしながら叩くのだが、特徴的なのは片手に細い撥を持っていることだ。どうも竹のようだが利き腕の撥と素手のもう一方の手を使って演奏する。撥で叩いた音は鋭い音を発し、手で叩く音は柔らかい。この2つの音を組み合わせ、巧みなリズムを生み出す。

 大きな曲の流れは決まっているようだが、その場の雰囲気、流れで延ばしたり、繰り返したり自在にやっているように見えた。その一つに客席から踊りの出来る若者を舞台に上げ踊らせたりというパフォーマンスも見せた。全体を取り仕切るのはドウドウ・ニジャエ・ローズの指揮である。指揮といってもタクトを振るなんていうのではない。それこそ身体全身を使ってのこれもまたすばらしいパフォーマンスである。というより半ば踊りである。いや踊りそのものなのかもしれない。半円形に列んだ奏者の間を自由に動き回り、身体全体でリズムをとり、踊り、腕を振り上げ、時には太鼓に足をかけたりソロ奏者の近くに寄り添ったり、とにかく自由自在である。

 たぶんどのこの曲は何という名前の曲とか、それぞれ曲名があるだろうが、そんなことは一切紹介もないし、チラシにも何も書いていない。プログラムもない。ただ少し長めの演奏が終わると、また次の曲が始まるだけ。それが延々と続く。新しい曲が始まると、曲の基本リズムや基本のテンポが変わる。それでこれまでと違う演目になるのだなということは分かる。そのうちに盛り上がってくると、前の曲とどこが違うのかよく分からなくなるのだが、とにかく盛り上がる。所々にソロ演奏を入れながらただひたすら叩き続ける太鼓は、アフリカの大地の祭りそのものなのだろう。

 演奏は2時間続いた。途中衣裳を着替える間ソロ演奏があったが、ほとんどが全員による合奏だ。アフリカの大地の本物の祭りはきっと一日中叩き続け踊り続けるのだろうと思うし、きっともっと泥臭いのかもしれない。舞台の演奏となり、世界を回るとどうしても洗練されてくるのだろうと思うが、それでも自由な即興部分を感じることで、パーカッションとしての演奏会以上に、アフリカの大地の祭り気分を振りまき、盛り上げてくれる。そんな演奏会であった。

 演奏を聴きながら、祭音の今後の取り組みにもたくさんの示唆を受けた。なにより即興的な雰囲気というか,実際に即興で演奏する部分を含むことが出来ると、舞台の雰囲気はずっと変わってくるのだろうと思う。祭音の舞台も日本の祭りのある瞬間を切り取ったものだから、本来即興を前提としている。それをどうしてもある形にはめ込んでしか表現できない弱さ、未熟さを持っている。自由な発想と自由な表現にまで行き着くことは、それこそより本物の表現者に一歩近づくことかもしれないが、そういうこととしてでなくても、まあ祭りの最も自然なあり方の表現としてこれからの課題にしなくてはならないかなあと思ったのだ。
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キルギスの旅

全く知らなかったキルギスという国に少しなじんだのは、昨年7月31日川崎市国際交流協会でキルギス民族音楽の演奏を聴いてからである。愛知万博に招聘された楽団が、日本のほかのところでも演奏したいと希望されたことから、川崎公演が決まり、川崎国際交流協会ホールでの演奏会になったのだが、その話を聞いたときからこれはぜひ聞いてみたいという期待を持っていた。
演奏は草原の風を感じるさわやかなものだった。しかしまあ普通の演奏会で、ものすごく感動的だったというほどでもなかった。むしろ印象に残ったのは演奏に先立ってキルギスの宣伝ビデオが放映されたことである。キルギスという国が日本の本土と同じくらいの広さがありながらそこにすむ人は横浜市の人口程度というから、人口密度はきわめて低い。それもそのはず、ほとんどが5000メートル以上の山に囲まれた自然豊かな国で、スクリーンに映された映像はその豊かな山なみを大写しにしていて圧倒された印象が今でもよみがえる。
コンサートの後レセプションが行われ、キルギス日本大使を始め関係者との交流があったが、一堂に会してみると誰がキルギス人か見分けることが困難なほど日本人によく似た顔の人が多い。近くにいたキルギス大使館の人と話していたら、同席した妻に「あなたはキルギスに来たら間違いなくキルギス人と言われますよ」と日本人と酷似していることを強調された。そして元々ルーツが同じだという説があるのですと、お尻の蒙古斑が共通していることなども教えてくれた。
このことがあって、国際交流協会の中でも俄にキルギス旋風が吹き始め、向こうでも川崎との交流を強化したいと言っているのだから、こちらとしても前向きに考えようと、夏になったらキルギス旅行でも組もうかという話になったのである。この話は時期とか旅行費用とかで結局頓挫するのだが、全く同じ時期に今度は別のところからキルギスへの誘いがきた。
妻の友人に、キルギスの大学で日本語を教えていたという人がいて、清水陽子さんというその人から、キルギスの民話を取材して翻訳しているグループで行くのだけれど、一緒に行かないかと声がかかったのだ。
私は何も知らなかったが、清水陽子さんは「女たちが極めたシルクロード」という本を最近上梓したり、地球の歩き方の中央アジアの国々について執筆したりしていて、キルギスとの関係では日本でも数少ない先駆的な紹介者であることがわかった。
という次第で急遽キルギスに旅することになり、6月9日から21日まで出かけた。
キルギスの旅といっているが実際にはウズベキスタンにまず入国して、ここで5日間観光してから空路キルギスに入る。最後はカザフスタンを陸路経由してウズベキスタンに戻り帰国するという、中央アジア3カ国の大地を踏みしめる旅なのだ。
ウズベキスタンはシルクロードのほとんど真ん中で、交易の中心にもなったが同時に、この辺の国はみんなそうなのだと思うが、世界の国盗り物語に翻弄された歴史も持つ。
ウズベキスタンで見たものはものすごく大きな門とドームと塔である。イスラム国特有の細かいモザイク模様の建物で、ものすごく大きな門はアーチと呼ばれ、大事な建物はすべてこの大きなアーチをくぐるところから始まる。ドームは要するに大きな建物の天井を外から見た形だが、ドームの中の部屋はモスクだったりイスラム教の学校だったりする。そして空に聳える塔はミナレットと呼ばれる、かつてはそこから大声でおふれを出したところだという。まあ、ウズベキスタンの観光はこの巨大なイスラム寺院を見て歩くのが主であった。
そしてウズベキスタンは暑かった。36度とか40度とかという気温で、いくら水を飲んでも全部蒸発してしまう砂漠の中の都市という感じだ。
これに反して隣の国キルギスは草原と高い山に囲まれた緑の国だ。従って観光に向かうところも湖だったり山だったりということになる。イシクル湖という湖は琵琶湖の7倍の広さがあるという。長い方の直径は170キロメートルといっていた。ソンクール湖は標高3660メートルの高地にあった。それぞれの目的地まで7時間8時間という車の旅をしなければならないのがちょっとしんどい。しかし到着した湖はどちらも最高の風景を見せてくれた。イシクル湖はキルギスでは最も有名な観光地で、ソビエトの時代は全ソビエトから高級官僚が避暑に来たところだそうだ。
ソンクール湖は富士山の頂上と同じくらいの高さまで車で走り続けるのだが、どこまでもどこまでも草原で、羊の群、山羊の群、牛の群を追いながら山に登っていく牧畜を営む人たちを何度も見た。というより彼らの生活圏なのだから、こっちがおじゃま虫ということだ。クラクションを鳴らしてもそんなものは無視してゆっくり歩いていく牛たちを、馬に乗った牛追いたちが笑いながらあけて通してくれた。
ユルクというテント(モンゴルではパオという)が牛や羊を放牧して暮らす人たちの住まいだが、今回はソンクール湖のほとりに建てられたユルクが旅のホテルとなった。牧畜は家族ぐるみで秋までそれぞれの草原が生活の地になる。家族だから子供たちもいて、私たちをもてなしてくれたところにも4歳の子供ら4~5人がいて、誰もが馬に乗れる。中でも4歳の子供が得意げに大きな馬を乗りこなしていたのには、まさに遊牧の民を感じたものだ。そして湖畔の朝は零下で、ユルクのそばを流れる小さな川の岸は氷に覆われていた。
こんな具合に旅の全部を書いていくときりがないのでこの辺でやめるが、最後に、まさかキルギスで太鼓談義をするとは思わなかったことについてだけ書いておく。
私は知らなかったのだが、私たちを連れて行ってくれた清水さんが事前に連絡しておいてくれた人がいた。ソンクール湖のユルク宿泊の体験を終えて下山したまちでの夕食にそのお客さんが来られた。Hさんというその人は外務省の出先機関の事務所の所長さんで、清水さんに「こちら和太鼓の山本さん」と紹介された後の最初の会話が、「キルギスに太鼓の指導に来てくれませんか」という衝撃的なものあった。
話を聞くと、すでに10台以上の和太鼓を買いそろえ、現在は語学研修に来ている人の中に「大江戸助六太鼓」の打ち手がいて、その人が太鼓を指導しているのだそうが。ところが来月で帰国してしまうので、その後をやってくれないかというのだ。まあ藪から棒という話はこういうことを言うのだと思うが、話はおもしろい。しかし現実はなかなかそんなわけには行かない。でもまあ、面白そう、ちょっとやってみようかなと瞬間思ったのも事実だ。期間は3ヶ月、魅力的ではある。
でもまあ、やっぱりそうはいかないでしょうという話になって、次は「実は来年キルギスと日本の交流15周年になるんです。フェスティバルをしたいと思っているのですが、太鼓を打ちにきませんかね」という、これまた別の話が出てきた。
キルギスという国が自然に恵まれたすばらしい国だということはちょっと触れましたが、しかしなかなかちょこっと飛んでこれる所でもない。さてどうなるか。「帰ったら、ビデオ送ってくださいよ」「わかりました、送ります」そんな会話でひとまず終わった。
Hさんとは次の日も夕食をともにすることになった。ビデオを送る話を再確認することになったが、「これは日本から持ってきたお米のおにぎり」という差し入れをしていただいた。これは次の日のお昼のお弁当になったが、まあこんな太鼓談義が遙かな国されていたことだけ紹介しておくことにする。

日本に帰ってきて、さっそくビデオを送った。
Hさんからは「届いた、これから見る」というメールが来たところまでがその後の話だ。
さてどうなるかは、それは今も全くわからない。
本当にキルギス公演が実現するかもしれないし夢ものがたりに終わるかもしれない。でもそれはどちらでもいい。子供たちと太鼓を始めて27年、祭音が出来、海外公演が始まり、少しずつ知られるようになってきた流れから生まれた、ちょっとロマンのある話である。
ドイツやトルコ、中国に太鼓を打ちに行ったという話に興味を持ってくれる人は意外に多いが、そんな人の口伝えの話が風に乗って広がっていく感じがする。こういうのを人間のつながりのおもしろさと言うのだろうか? と、キルギスで食事をしながら太鼓談義をした記憶を蘇らせつつ実感しているところである。
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世界演劇の刺激

横濱世界演劇祭が3月5日終了した。
祭音の太鼓の合間では間に合わず、ここ2週間ほどは専従者のように毎日おいまくられていたが、それだけの価値ある演劇祭でもあったので、ちょっと経過報告も兼ねて記録しておこうと思う。
この演劇祭の直接関わって始めたわけだが、何もかもが初体験のスケールの大きな仕事で、右往左往しながら手探りでやってきた。具体的仕事としては、助成金の申請から招聘する劇団の選考、資金集め、チラシ作り、お客さん集めなど必要なこと全てである。
この横濱世界演劇祭を復活させようと提案したのは4年ほど前になる。今から14年前までアマチュア国際演劇フェスティバルというのが横浜で解されていて、3年ごとに3階まで開催された。4回目を企画して、いざ本番という年にバブルの崩壊で運営不能になり中断した。復活を提案した4年前というのは前回開催から10年目、何とか復活したいという当時の関係者の思いを叶えようという気持ちからだった。
世界演劇祭を復活させるとどういう可能性が開けるのかは良く分からなかったが、その頃話し合ったことの一つに、戦場の下にも演劇はあるに違いない、ということだった。つまり、何かどうしても伝えたいことがあり、それが演説する言葉よりも文化的な手段による方が人の心を動かす力を持っているとしたら、どんな状況に置いても演劇的行為は必要になるだろうと考えたからであった。
実際その後いくつかのそういう状況下の劇団が来日して生々しい演劇を見せてくれた。
この世界演劇祭の直前にも南アフリカから「モローラ・灰」という作品が横浜に来て、南アフリカでの政治的背景を背負った、暴力の連鎖を断ち切る苦痛をテーマにした強烈な作品が上演されたりもしている。
今回の演劇祭にはそういう劇団を招くことは出来なかったが、それの劣らず素晴らしい作品、世界で活躍するとてもステキな劇団を呼ぶことが出来た。
スコットランドからは「コルチャック先生の選択」というナチスに支配されたポーランドでゲットーの中で闘い続けたコルチャック先生と孤児院の子供たちの話が来日した。デンマークからは言葉のないお芝居で、ヨーロッパ中を後援して歩いている劇団が「ディットー・であい」というお話しを持ってきてくれた。洗練された演技には吸い寄せられるような魅力があったが、展開された話も人間の気持ちをつなぐ温かいものだった。
韓国から来た劇団超人の「汽車」はエネルギーに満ちた作品で、どれだけの訓練を積んでこれだけのお芝居を作ったのだろうと思わせる躍動的舞台だった。この作品も言葉がなかったがデンマークと対照的の動の世界で人間の優しさを表現した。
どの作品も多くの観客の高い評価を受けた。
この公演の残した最大のものは、演劇を通して社会と向き合う真摯な姿勢を、どの劇団も示していたことだと私は思った。日本では実に沢山の演劇が毎日やられているけれど、社会と向き合う作品が少なくなってきているのが気になってならないから、今回の3作品を上演する劇団の真っ直ぐな姿勢がとても気持ちよく、嬉しかった。
大事な時間を沢山使って創る演劇的行為は、楽しく、気持ちよく見られることは必要だが、どうでもいいおしゃべりやたいして面白くもないお笑いではもったいないし、そういう行為にどれほどの充実感を感じるのだろうと思っていたので、改めて演劇をする意味をこの機会に考えてみることが出来たことは収穫であった。
たぶんこれは演劇だけでなく、他の文化的活動にたいしても言えることだと思う。大事なたくさんの時間を使って創造的行為をしているのであろうから、真っ直ぐに課題と向き合って見てくれる人に何を届けるのかを考えることがきっと必要なことだと思う。
和太鼓や民舞はそれ自体直接的なメッセージを表現してはいないが、人々が長い年月をかけて形作ってきた祭りの中に元気の源があるように、たくさんの勇気や意欲を沸き立たせるものを内包しているに違いない。どう演奏すればそれを届けられるのか、真っ直ぐ立ち向かっていくことが必要なのだろうと思う。
お芝居の世界演劇祭だったが、そんなことをも考えさせてくれる機会になった。
まだもう少し残務整理があるが、また太鼓の仲間と心を伝えられる祭り作りを、刺激的だった彼らの姿を思い起こしながらまた始めよう。
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