後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」 200年の歴史・・・八木沢集落

自然への畏れ 先祖を敬い 自然に感謝したマタギ文化消滅
史料:火縄銃の背負袋(上小阿仁村有形民俗文化財指定)

山の恵 古きマタギ文化を偲ぶ・・・秋田県 八木沢マタギ

2023年05月17日 | 八木沢マタギ

 山の息吹が伝わる豊かな生態系
   マイタケは山に生えるキノコの仲間でも王様とされ 人知れず奥地にマイタケ舞う



                      渓谷沿い  マイタケ舞い踊る 2008.09.30  13:30 

              

                   傘、茎に弾力性があり根茎から先端まで約30㌢
                                  株が連なり長さ1m近い大物マイタケ

 2008.09.30 単独で藪こぎをしながら渓谷に下り上流を目指すと切り立った岩場に遮られた。川渕は深い溝、手前の急斜面から巻いて登ろうと前方を見渡すと巨大マイタケが目に留まり一瞬驚いてしまった。マイタケはミズナラの根元にビッシリとつき奥深く根が張り、ただただ唖然とした。
 この流域は広葉樹林帯で長い年月を経て浸食、堆積を繰り返し特徴ある地形が形成されたと推測、根元の空洞から茎が張り出し先端まで約30㌢の株が連なり1㍍近くまで巨大に成長し通常であれば腐ってしまうのだが生き生きと成長している事からして一帯は通気性が良く生育に適した環境にあると思われる。


                          黒マイタケ  ミズナラの巨木にて

▼蜂の巣を連想 老木についたマイタケ
 最初この光景を眺めると蜂の巣を連想させた。マイタケは岩場の急斜面・傾斜約80度のミズナラの老木に生えて一帯が深い沢からなる地形、今までにこの木に何十年もの間、幾つものマイタケがついていたような気がする。


                      
                老木についたマイタケ
                     蜂の巣を連想させる直径約45㌢ 下は傾斜約80度の深い沢 2021.09.26 

 ☣ 巨木にマイタケの花が咲く 忘我の境地
       

                             2022.10.14
 
    柔らかい日差しが差し込め 豊かな自然を感ずる

 スパイク地下足袋を履き斜面75度位の沢沿いを登っていくと遠くのミズナラにキノコらしいものがビッシリついているのが目にとまり、徐々に近づくが太陽の光で実物がオレンジ色に見えて花が咲いているかのようでさらに近づくとあっと驚いた。マイタケが巨樹の割れ目から大きく張り出し根元まで全部で6株も生えているほどの勢いで周辺にはマイタケ特有の香りがプンプン漂った。
           
 
             沢沿いの急斜面 
                    ミズナラの巨木にマイタケ6株 ビッシリ!

                                          山の奥地でマイタケの花が咲いているようだ


  
         自然の美しさ 樹の根元にあるマイタケが一番デカい
                 もしこのマイタケが誰にも見つからなければ腐って跡形もなく消えてしまうだろう
                

                       
           尾根に太陽の光が差し込め まるで別世界の境地 
                      この空間だけが楕円形の中にいるような気分 
                                 一株一株を丁寧に採取 別世界の境地に浸る
                    

                  マイタケを一箇所に集めると香りが林内に充満 
                              茎も傘も生き生きとして清々し気分
                                
 山の幸に感謝
 マイタケは白、茶(赤とも言う)、黒系の3種に分類されるが、このマイタケは茶系で根茎が深く巨木の根に深く張り付き採るのに大変、ところが急斜面のためバランスを崩してしまい採ったマイタケを沢に落としてしまった。さてどうしようか迷ったが結局沢に下りて探し回って見つけたが気になるキノコは形が崩れることもなく原形のままに驚いてしまった。さっそくキノコを抱きかかえながら急斜面を登り平坦な場所まで運んで並べてみると圧巻、茎や傘に張りがあってマイタケ特有の香りが漂い広葉樹林帯に太陽の光が差し込み眩しく緑鮮やかな光景は忘我の境地に浸る思いがして山から頂いたマイタケを丁寧に45㍑の袋に入れると重さにして約55㌔、一袋をザックに詰め込み残りの一袋は両手に抱き抱えながら急斜面の藪をかき分けて下山した。
 今回は思いがけない良き日、山から頂いたマイタケは自然の恵みで身内、近所、友人等に振る舞い感激と興奮が伝わってきた。

雑キノコ:ナラタケモドキ、クリタケ、ムキタケ・・・秋のキノコ狩り

             
              ナラタケモドキ:ナラタケによく似ているが子実体の柄にツバがないのが特徴 2011.07.14

             
                            クリタケ(栗茸)
              幼菌時は傘の周辺に白色の綿をつけることが多く成長すると栗色やレンガ色に変色する

             
                            晩秋のキノコ ムキタケ

 ムキタケは晩秋のキノコでブナ、ナラ、トチなどの倒木などに生え、特に沢沿いのトチの倒木には多量に生えている時もあった。幼菌時のムキタケは毒キノコ・ツキヨタケによく似ている場合があるがツキヨタケの内部には黒い「シミ」があるので傘を裂くと見分けがつく。また、傘の表面下にゼラチン層がありヌルヌルしているのが特徴で初雪が降る頃までも生えているキノコ、味にくせがなくツルッとした舌触りは独特の風味を引出してくれる「副菜」でもある。

「副菜」は体の調子を整えるもの 
 野菜、きのこ、海藻類などを使った料理で体の調子を整えるビタミン、ミネラル、食物繊維の供給源で野菜、きのこ、海藻類は1回の食事で2品以上を取り入れ1日350g以上を摂取することが推奨されている。


 ナメコアート 沢沿いのナメコ山を歩く 
             


                     
                             2019.10.24



                              
                              ナメコ群落

  ナメコ群落から南西5~600㍍の急斜面を下ると軽井沢源流にたどり着く

       
                           2009.11.12 12:30

晩秋の源流 軽井沢「サンショウウオ」(山椒魚)
太古の地球に思いを馳せる
 V字型の深い沢筋に横たわるブナの倒木にナメコがビッシリついていた。そのナメコ群落を横切り軽井沢源流に下りる。今までにこのルートを数え切れないほど歩いてきたが一度だけ背面が暗褐色のサンショウウオを見たことがあった。サンショウウオは体長十㌢ほどの成体でトカゲに似ているが手足も細く小さい、体表にぬるめきがあって頭と胴体の境目がややくびれ小さな目に愛嬌を感ずる。晩秋の軽井沢は手が切るほどの水の冷たさだがサンショウウオはウロコ一枚も無くその環境に適した形質が進化し子孫を残し秘境特有の姿や生態に進化しているものと考えられる。
 大平山(1170)の地層はマグマの化石からなり数億年前のもと言われ、巨大恐竜が生存した時代にさかのぼる。地下深くに大量のマグマがやってきて大きな塊をつくった。マグマの化石は花こう岩(正確には花こう閃緑岩)という白い岩石で地下深くのこの白い岩石の塊は大地の力で徐々に持ち上げられ上にあった地層は海や川の力で削られていく間についには地下深くにあった岩石の塊、「マグマの化石」が地面にあらわれ巨大な岩石の塊の一部が大平山を形成した。

 数億年前、太古の地球は大陸や海岸の絶え間ない変化の間に爬虫類が出現、恐竜時代が訪れ、その恐竜も滅びて哺乳類の時代へと進化をたどる。小さな体で隠れたように暮らすサンショウウオは移動力が小さく大きな川を泳いで渡ることも、高い山を越えることも簡単ではない。そのため狭い範囲で他と交流せずに代を重ねるようになり、聖域特有の姿や生態に進化していったと推測されると思うと透き通る沢のせせらぎに警戒心も見られないその姿を見ていると我を忘れる思いがする。
 ほどなく軽井沢源流のサンショウウオは岸辺の岩陰に身を隠したが太古の生き残りを抱くその生き方は数億年前の太古の昔に想い馳せた。

 
◆クマの観察:親子熊 近くには天然シイタケの恵み
            
                             シイタケ 2019.10.03

・子連れ親子熊の観察
 大平山北東、標高約800㍍付近の急斜面、ブナとナラの混交林帯を下山中に子熊がナラ木の横枝を何度も往復しているのが目にとまった。子熊はすでに私の気配に気づきおどおど動き回っていた。この春生まれた小熊で生後約7~8か月、体調55㌢前後かと思われる。付近には必ず母熊がいると警戒をしながら周囲を見渡すと樹の根元に身を潜め、鋭い眼光で私を凝視、今でも飛び掛かってくるようで緊迫した雰囲気が続いた。熊との距離は約15~20㍍、格闘したら4~50㍍下の沢に転落する。緊迫する親熊との睨みあいが続いたがついに子熊は枝先から前かがみになり地表に飛び降りた瞬間、母熊がけたたましい勢いで上流へ逃げ去るとすぐその後を子熊が追いかけ瞬く間に姿を消していった。
 シイタケはその場所から15mほど離れた沢の急斜面、ナラの倒木に生えていたが山歩きをしていると必ずと言っていいほど熊を見かけたが何十頭もの熊を観察する中で大平山(1170)東側斜面、標高約1000㍍付近で対面した巨熊との距離約5m、仁王立した熊との睨み合いは今でも忘れることができない。  

             
                           
                           2009.05.09 巨クマの足跡 


              
                時々背後を振り向きながら頻繁に匂いを嗅ぎ分ける熊は人間をも観察していた 
 
 
                            2009.05.09 15:30
 
 この熊はフキの周りに座って右手でフキを食べていた。熊との距離は約15m、その行動を観察していた私に気づいて走り出し樹幹(カツラ)の根元に身を潜め鼻で私の匂いを頻繁に嗅いでいたが、この時に思ったのは「熊は臭覚で相手方の行動を感知しているのではないか」と。
 観察を続けていると熊の行動に変化が表れ始め数分後、熊は元の場所に戻り再びフキを食べ始めたので私も熊に刺激を与えずに忍び足で近づき間近でその行動をつぶさに観察していたが今まで生き物の調査で熊に限らず他の動物でも同様のケースが見られ、自然、動物、人間との関わりは不可思議で昔の狩猟採取を営んだマタギの世界が思い出される。
  
~冬眠穴は南面に位置するガレ地~ 


              土がはだけた熊の冬眠穴 熊の出入口は二か所にあった(太平山系) 2001.04.22

熊穴(冬眠穴)の調査

 熊の冬眠穴は太平山系、標高4~500㍍の尾根からクマタカ(絶滅危惧種)の生態調査をしていて偶然発見した。穴は南面に位置しガレ地、双眼鏡で対岸から調査をしていると突如、熊が冬眠穴から一瞬に出たのに驚いた。数日後、付近を調査すると熊が棲息する格好の生態系にあった。冬眠穴は二か所、いずれも岩穴で斜面が崩落し岩に土砂が幾重にも堆積、乾燥した堆積物は熊が冬眠しやすい恰好の条件でしかも狩猟区ではあるが一度も狩人を見たこともそれらしい痕跡も無い。熊は深い横長の穴を掘り何年も同じ穴に入っていると推測、二か所ある冬眠穴の距離は数十㌔離れておりそれぞれが別の個体と区別され熊の危険地帯と判断されるが調査をする身にとっては常に警戒を怠らずに行動をしながら下山したが緊張の連続であった。

・二つの内、一つの冬眠穴には間違いなく熊が入っていた
 この冬眠穴を1年かけて調査をしてみると入口は南西と北側方向の二か所、主に南西側から出入りしていたと思われる。両穴の入口付近には枯れた太いイタドリの茎が穴に引きずられ食べかすが異様に生々しく、推測すると熊は冬眠穴に入ってもすぐには冬眠せずイタドリなどの茎を食べながら降り積もる雪と共に徐々に深い眠りにつくと思われこの冬眠穴は翌年4月初旬、穴から出て沢沿いの山菜等を食べ始めているのが対岸から確認ができた。

・熊が冬眠穴から出る時は一瞬
 調査でとても驚いたのは熊が冬眠穴から出るのは一瞬で小さな穴から大きな巨体が瞬時に出たのに驚く。この様子をマタギに話すとマタギも「大きな巨体が一瞬で出る」と興奮しながら話していた事が思い出される。その後の調査でこの熊は穴から出ると沢沿いの山菜等を食べ始めるがその行動は穏やかで採食後に固い便を排出しながら徐々に行動範囲を広げて奥地へと移動をするのが確認でき一定の調査の中で熊は冬眠間近になると再びこの穴に戻っていた。
 春、観察中に裏山で数人の男女が山菜採りをしている様子が対岸から見えたが警告をするにしても数キロも離れており見守るだけであったが数十分後、何事もなく熊は尾根方向に移動していくのを確認、熊も人間も山菜に夢中で気付かずに動き回ることがあるが鉢合わせをするととても危険で特に母熊が子連れであれば凶暴になることが十分予想されるので警戒する必要がある。
 この冬眠穴は、12月中旬、積雪約45㌢、穴を調査していると突然中からけたたましい熊の唸り声、恐怖のあまり大急ぎで雪原の急斜面を下山したが熊は間違いなく同じ穴に冬眠をしていた。


 【熊の冬眠穴】
        手つかずの自然に生きる生き物


                 生々しく刳られた熊穴 入口には無数の毛が付着


    
                 出羽山系の天然秋田スギ、南西側に熊の冬眠穴
 2010.10.07 14:06
 
      
マタギの世界を感ずる
 冬眠穴にはすぐには近づかない、五感を働かせ慎重に周囲の観察をしながら徐々に接近、 沢沿いの熊穴は冬眠しやすいように奥深く牙と爪で刳られ無数の毛が付着していて生々しく身の毛がよだつ思いがする。この場所、この穴が本来の野生動物の姿かもしれない、昔の八木沢集落のマタギは生き物に対し畏敬の念を抱いたもので今に思うと良く理解できる。
  
岩穴の熊・出産と子育ての様子
 熊の冬眠穴は沢沿いのナラの巨木、天然スギ、土穴、岩穴などで確認されたが最も怖かったのが春、出羽山系の赤倉岳(1093)北東斜面、標高約1000㍍付近の岩場であった。雪消えの春、稜線は早春とはいえ数㍍の残雪が残り根回り付近は雪が溶けだし春の訪れを告げようとしていた。
 快晴で午前7時30分、旭又を出発、最低限の装備で急斜面を登り稜線に出てから1000㍍級の山塊に降り積もった残雪を踏みしめて尾根から斜面を下りポイント地点に着いたのが10時頃、直線で約7~80㍍、深いV字型の沢を挟んだ対岸、樹木に身を潜め8倍の双眼鏡を両手に岩場の熊穴を覗くと「いた、いた、子熊が一頭、元気に動き回っている」。早春とはいえ子熊はもう真っ黒の毛が体を被い動きも活発だ。熊の交尾期は5~7月、出産は12月~3月頃で冬眠中に出産するが地形や気象、冬眠穴の状況などによって大きく異なり一概に言うことはできないが、この繁殖地での子熊の成長は最も早く、通常の出産は一頭から二頭だがこの繁殖地では1頭の子熊を出産していて母熊は子熊の動きを目から離さずに大きな巨体で寄り添っていた。動き回る子熊の体調は約30㌢を超えると思われ逆算をしてみると冬眠は11月下旬から12月上旬、出産は1月前後と推測される。岩穴の入口は平坦で滑らか、土が乾き動き回る子熊の周りは土埃が舞い上がっているようで冬眠穴は外敵の心配もなく餌や出産、子育てに適した環境にあって毎年越冬をしているものと断定した。
 観察をしていると活発に動きまわる子熊の首を母熊が離れるたびに口に加えて元の場所に連れ戻す行動が何度も見られ、四つん這いで頭を左右に振りながら子熊から目を離さず見守る様子が確認された。調査で何時間もかけてこの観察場所に足を運び数十分の観察でこの場を離れるのは忍び難いが自然に生きる生き物たちの調査は一対一を基本とし、その中で生き物を刺激しない、調査地点を自然の状態に戻し最終確認をし終えて再び1000㍍級の稜線に出た。出羽山系の長い尾根、深い谷底の大旭又沢、前方に聳える大平山・白子森などの山塊を仰ぎながら残雪を踏みしめ引き返す。
                                                        調査と撮影:佐藤良美

【絶滅危惧種 クマタカの繁殖】
 クマタカの撮影は一瞬で行われる


                     繁殖中のクマタカ(絶滅危惧種) 撮影:佐藤良美

 クマタカ(絶滅危惧種)を観察していると沢筋から「熊」が餌を探しながら尾根側に向ってきたが餌に夢中で私の気配に気が付かず立ち去るまでの間の行動を一部始終観察したがとても興味深い行動が確認できた。
 実話であるが昔のマタギが狩りからもどる途中、衰弱した鷹を保護し自宅で肉を与えるとたちまち体力を回復し山に放鳥した話しを聞いたことがある。マタギは「鷹の回復は凄まじい、その行動が怖くなった」と話していたがマタギが怖いと思うのはよほどであろうか、そのマタギはすでにこの世を去ってしまったが鷹の調査をしていると「マタギと鷹」の狩りは共通するところがある。この点からすればマタギと鷹は同じ仲間、同じ兄弟分だと観察をしながら何度も思った。


                 巣内に餌のヘビ(アオダイショウ)を運ぶクマタカの雌 撮影:佐藤良美

 熊の好物のサルナシやヤマブドウ
          実りの秋 熟した山の幸は美味しい

                                
         ヤマブドウ 2008.10.03                 サルナシ 2008.08.26

 1989.11中旬、大平山系御衣森(1.000)付近に巨熊がいた。熊はラジオの音では逃げず、私との睨み合いが続いたがそれでも逃げないのでザックからカメラを取り出し撮影をしようとしたら樹幹の間を縫うように逃げていった。付近には熊棚が数か所あり、翌年3月3日 雪が降るなか旭又登山口(08:45)から大平山山頂(11:18)経由、左斜面の深い大旭又沢の尾根を滑落しないようにシッカリと雪渓を踏みしめながら御衣森方向に向かい右手の窪地に下り一帯を熊の調査で歩き回ったが南西方向、不帰の沢は崖と切り立った岩場、字のごとく不帰の沢は再び戻ることのできない沢と昔から言われるほど一帯は危険過ぎて一定の調査を終えて再び来たルートを引き返す。

【天然記念物:ニホンカモシカ】

           
                 出羽丘陵のニホンカモシカ 野生動物の調査にて 1996.02.11 10:40 
                    
絶滅したとされるニホンカワウソの投稿記事を読んで
1989.08.20(日)快晴 
 この日、杉沢集落から7,8㌔先、光沢(09:00)から馬場目岳山頂(10:37)経由して大倉又沢に下山したが生態系は天然秋田スギやネズコ、ヒメコマツなどの混交林が伐採され、斜面を下ると右手に大きな滝(三階滝)があってその先に橋があったがすでに朽ち果て川を渉った記憶がある。
 ある日、S新聞にここで働いていた作業員の投稿記事が目に留まり興味深く読んだ。記事は作業現場に向かう沢筋の歩道を歩いていると眼下の沢を遡上していく動物を見た。地元作業員に問うと「カワネズミ」だと答えた。ところがネズミではなく、ウサギほどの大きさでニホンカワウソではないか。ニホンカワウソは79年に高知県で目撃されたのが最後とされ、絶滅したとされているがここで見た動物はニホンカワウソだとして、それがまだ命脈をつないでいるとしたら画期的で空想するだけでもロマンであるとの内容であった。
 嘗て私もこの奥地を歩いたが、かなりの奥地で生息していても不思議ではない。当時は豊かな森林生態系に覆われ水量も豊富で生息環境は否定できないが、いまにおいては広範囲に伐採され生態系が大きく変化し半世紀以前の命脈、空想・ロマンになるかもしれないと懐古的な気分になってしまった。


朽ちたナラの巨木/神聖な山に神宿る

  
                         寿命が尽きて土にかえる ミズナラの巨木

  万物流転
         万物に宿る精気、材には材の木霊が鎮まり自然に対する敬虔な心を抱く
                     ある時ついにこの巨木も数百年の生命を全うし朽ち果てた
                           樹はやがて長い年月を経て跡形もなく風化され自然の中に消えゆく

大いなる遺産
   今に伝える 八木沢の蔵

  出羽山地に抱かれた山あいの集落「八木沢」、集落は1813(文化10)年、根子マタギ(現北秋田市阿仁根子)によって開村、生業とするマタギが江戸後期から昭和中期頃まで営まれていた。四方が山に囲まれ、中心部をなだらかに流れる小阿仁川、その小阿仁川北東方向に二階建ての蔵が佇み過ぎ去りし歴史や文化が重く漂う。
 昔は集落に蔵が20棟も建っていたものであったが高度経済成長期の波に押し寄せられ若手が東京圏等への流出し幾多の変遷を繰り返し今においては当時の面影は薄れ空間のなかに辛うじて3棟の蔵だけが佇むだけの静穏を抱き200年の時を経た今なおも古来の暮らしの様相を呈しその時代の変遷を物語り地域固有の文化と歴史を滲ませここにしか存在しない遺産価値になってしまった。
 

                      豪雪の八木沢集落 八木沢の蔵
    
 いまに伝える八木沢の蔵は二階建てで梁や柱・土台は天スギやナラ材で組まれ窓は北東と南西側に二つ、骨組みの灌木を余すところなく用いた建造物、筑後数百年の歴史に耐え古来の趣が滲みマタギ文化の意匠的、構造的に最も発達していたことが裏付け時代の歴史を感じさせる。

                  
                     堅牢な錠前と下にも錠前があって古き昔が偲ばれる

 マタギの道具、杣が用いた道具や機織り、農具、民具等がわずかではあるが残されている


     
                  錠前は二か所で重い扉を開けると先祖代々が用いた民具がわずかに収蔵されている


【蔵の中にあった機織り道具やマキリ・真鍮の薬莢】


                 弾つくり道具で道具は先祖代々から継承されてきたものである

           
                       蔵の中に収蔵されている機織り道具

 機織り道具は蔵のなかに収蔵されていたものである。江戸中期以降、「カラムシ」を蒸かして糸をとって機を織ったもので織機はそれぞれの家々にあって主にマタギの衣装を織っていた。
 
古い猟具「ナガサ」
       

 鞘に文字が彫られた「ナガサ」は八木沢の蔵に収蔵されていたもので明治以前と推測、錆びた状態であるが当時を偲び敢えて研磨をせずにそのままの状態で保存している。
                       
 
八木沢マタギ 神棚の矢じり(石鏃)
 古来より八木沢のマタギは自然を敬う自然信仰が根強く神棚に祀られる矢じり(石鏃)は1800(文化10)年代、根子集落から移住し開墾時に小阿仁川流域沿いから出土し神棚に祀ったと推測される。 
             
        

           石鏃は縄文時代、狩猟採取を営む道具として敬い
                     縄文文化の伝統を受け継ぐ遺物として崇め奉ったと考察          
                              未だ休耕田からは動物を解体した石器が出土している。

 昔から蔵は大切に管理され、蔵には「隠す」の意味も含まれ大切に収納する場所でもあって中に他の人が勝手に入らない神聖な場所と位置付けられていたもので1950年代は蔵の周辺は棚田で家は茅葺、道路は狭い砂利道で常日頃、村田銃を背負うマタギの姿もあった。
 蔵は長い間、地域の中で継承されてきたことから人々の心の中に根付き蔵にまつわる想いは日々の生活の中で伝承され根付き、その家の象徴が根強く人々の自然と の関わり方との反映があって連綿と続いてきた文化の暮らしが凝縮されている。


【昔の鉄砲の弾造り道具 材は天然秋田スギの伐根】
 ・弾つくり道具は先祖代々から継承されたものであった


        鉄砲の道具箱、天然秋田スギ(樹齢約250年)の伐根を刳り貫き製作 左端は「八木沢のモロビ」:刻 佐藤良美

八木沢のモロビ
・禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗のなかからうまれた。
・冬狩りで山神様のお供えをしたモロビに火をつけ、燻した煙を体全体にふりかける魔よけの儀式は60年代頃まで続けられていた。

 マタギ衆が最もおそれたのが冬から春にかけてのワシで禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗。冬狩りで山神様のお供えをしたモロビに火をつけ、燻した煙を体全体にふりかける魔よけの儀式は1960年代頃まで続けられ嘗てのマタギが狩りをした。昔のマタギは萩形(離村・旧マタギ集落)の奥地、土地見平から大平山奥岳(1170)に向かう稜線、笹森(1045)との中間地点でも頻繁に狩りがおこなわれていた。マタギにとっていちばん怖いのが「ワシ」、ワシは八木沢集落のマタギ言葉で雪崩を意味する。
 

              木箱は天スギの伐根  茶色の枯れ枝は「モロビ」でマタギは神聖な儀式からなる

 樹齢約250年齢の天然秋田スギの伐根を刳り貫き、先祖代々から大切に用いられてきた狩猟具の
鉄砲以外は神棚に保管されていた。厳然とするマタギ文化の証し、尊い遺産で歴史的保存物として価値がある。自然と共に生きたマタギ衆にとって猟具は命の次に大切な物で先祖代々の遺産に相応しい天スギの伐根に入れようと思いついた。幸い昭和後期に太平山地の奥地で天スギが伐採されていた頃にマタギから譲り受け何十年もの間を自然乾燥させ保管をしていた伐根を蔵に保管していたのでそれを三か月かけて刳り貫いて道具箱を製作したものであった。
 
「マタギ」と月の輪熊
 八木沢のマタギは熊狩りで射止めた「熊」をどんな奥地でも集落に運び山の神に感謝をしていた。集落にはたちまち「クマ捕ったど~」と叫び声が伝わり多くの村人が集まった。みんなが注目する中で親方は最初に手際よくマキリを砥いでから熊を仰向けにして十字に解体をしていくが分厚い脂肪の層を手慣れた手つきで捌いていくのが印象的で熊の解体時は昔から射止めた熊肉を集落にみんなに振る舞う儀式があった。配る役目は集落の子供で昔からの風習で熊は山の神さまからの授かり物とされ崇拝されていた。
懐 古
 雪に埋もれた集落、この日も決まってガスの層に覆われていたのを子供ながら覚えている。マタギが熊を持ち上げると熊の胸元に鮮やかな月の輪がひと際目立った。マタギは胸部の三日月形の白い斑紋は「月の輪」の意で「熊の急所だ」と話していたが、もう遠い遠い昔の話しになってしまった。
 射止めた熊肉を集落のみんなに振る舞う役目は集落の子供であって今に思うと授かった熊は厳しい自然界を駆けめぐったマタギ衆が山の神様からの恵みと捉え包括された集落はマタギ思想に包まれその文化を継承する担い手は子供でやがて子はマタギとして逞しく成長しマタギを継承する儀式は先祖代々から厳格に継承されてきた文化でマタギ集落の一連の儀式でもあった。

                              山の中で暮らした鉄砲撃ち「マタギ」
                  信州・秋山郷の長吉・長松兄弟マタギ

 近世後期、秋田マタギが中部日本まで南下し狩りをした記録が菅江真澄(日本民俗学の先駆者)や鈴木牧之(江戸後期の商人、随筆家)のようは先駆者の文筆によって貴重な記録が記されている。牧之、秋山紀行の下りによれば秋山郷の関連から上信越国境の新潟県湯沢町周辺の旧三国街道の宿場であった二居や三俣を歩いたときには、江戸中期に秋田の根子(現在の阿仁町根子)というむらのマタギで、長吉・長松という二人の兄弟が旅マタギにきて、湯沢や土樽・二居・三俣などのむらむらに猟の方法を伝えたと聞いたのである。
  卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ」 
                                                    (文献 鈴木牧之・秋山紀行)

 近世、根子は旅マタギ:江戸後期、根子の旅マタギは太平山地、峻険に切り立つ屏風のように長く南北に連なる奥羽山脈で狩りをしながら上信越国境地帯、秋山郷までマタギの姿があった。伝承によると秋田県北、根子集落から秋山郷まで距離は約120里とも言われ鈴木牧之・秋山郷に登場する二人の兄弟「長松・長吉」は根子の旅マタギであった。
 根子の旅マタギ、長吉・長松兄弟は1813(文化10)年代に入り八木沢集落に移住しているが旅マタギを主流とする牧之・秋山郷に登場する長松・長吉兄弟と八木沢集落の長吉・長松兄弟とは同一人物か否かは特定できないが江戸後期の八木沢は旅マタギが中軸とし根子、八木沢、三面、秋山郷が一本の線で結ばれ根子から移住した八木沢集落の長吉・長松兄弟マタギは牧之・秋山紀行に登場する長松・長吉兄弟と同一人物だと推測される。


                        マタギが所持した古文書十二巻
          
 八木沢マタギは知的集団で近世後期、根子の旅マタギ「長吉・長松兄弟」を中心とする集落独自の文化を構築したと検証される。

江戸後期の狩猟用具 八木沢集落に残された有形民俗文化財
 員 数:5点 マタギ熊槍・マタギ槍・火縄銃の背負袋・マタギマキリ・マタギベラ
 指定日:2012年8月29日
 所在地:上小阿仁村八木沢
 所有者:佐藤良美

1.マタギ熊槍(くまやり)(通称:三角槍)
 穂先:37・8㌢・柄:2㍍  近世後期。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似し本県で造られたものではない。大型の熊槍専用で「タチマエ」(射手)が所持したものである。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称し熊猟で用いられた。

       

2.マタギ槍 身…鉄材 木部材質:クルミの木
 近世初期から中期。阿仁マタギは「たて」(槍型)と呼称。阿仁マタギ猟具と同一で根子から移住以前から用いられたものである。一般的な「槍」でクマ狩りなどに用いた。火縄銃が浸透する以前からの代表的な狩猟具で鉄砲が普及したあとも用いられる。

       

3.火縄銃の背負袋(しょいぶくろ)唯一無二の旅マタギ史料
 近世末期とされ、牛革で作られた火縄銃の背負袋は集落の蔵に二組収蔵され一組は破れている。根子の旅マタギ、長吉が所持したとされ、火縄銃は戦後手放している。史料からしても八木沢集落は早くから火縄銃が伝播され旅マタギが主流であったと推測される。
      
        
         蔵に二組あったが一組は片割れ、火縄銃を背負う旅マタギが偲ばれる。(木箱と彫り製作: 佐藤良美)

4.マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢
 マキリはアイヌ語と共通。近世中期。クマやアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと酷似。(彫、鞘の製作: 佐藤良美)

       

5.マタギベラ(長さ167㌢・幅8㌢) 近世中期
 イタヤ製の雪ベラ。日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。まん中の窪みは火縄銃が用いられたときに上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけたものである。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。

       


 民俗文化財五点は近世後期の建造物とされる蔵に収蔵されたいたもので火縄銃を入れた背負袋は蔵の天井に吊るされマタギ熊槍は穂先が油紙で包まれ柱に掛けられていた。また、マタギ槍は穂先と柄が別々の場所に置かれマキリは赤錆で砥ぎ鞘は山兎の毛皮で製作、火縄銃は五代目の金治マタギが手放し、旅マタギで用いた「てっきぇぁす」や毛足袋は父良蔵(六代目マタギ)の代で処分されていた。

 集落のマタギ文化は2009年春、亡父良蔵が鉄砲を返納し200年の歴史に幕が降ろされたが支柱とするマタギ文化は未曽有の歴史が滲み今もなおもこの集落にマタギの残影がちらほら見られるほどに重層され静寂を保ち続けている。
 いまに思えば歴史は後世に残さなければならないと固く心に誓った2009年の春、それ以来各地を駆け巡り遠くは三面(新潟県)、信州秋山郷を歩き記述の調査、狩猟用具の検証等などを丹念に調査し念願の狩猟用具が村の有形民俗文化財として指定を受けたが、ただ一つ残念なのがこの集落に鳥獣供養塔の建立できなかったことが悔やまれる。

                                               姿を消した八木沢集落 八木沢マタギ 
                                                      
 
生態系の調査とマタギ習俗: 佐藤良美

 1954年12月 八木沢集落に生まれる  集落最後のマタギ 佐藤良蔵の三男
 1978年  3月 秋田経済大学経済学部卒、日本自然保護協会、日本鳥学会を経てフリー 
 2009年  春     父良蔵が鉄砲を返納し集落のマタギ文化が途絶え同年秋、八木沢マタギを語る会を発足、集落の歴史を後世に伝える活動を
       している。


                    ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

 

八木沢マタギの変遷 秋山郷兄弟マタギとは 

2022年04月01日 | 八木沢マタギ

八木沢集落
 冬期間深い雪に閉ざされた八木沢集落に早春の陽光が眩しく輝きを見せ、中心を流れる小阿仁川の雪解け水が勢いよく流れ躍動の季節を迎えようとしている。冬季、山峡の小さな集落は豪雪に閉ざされ、古くから山の神を深く信仰する伝統マタギが根付いていた。
 集落は1813(文化10)年、秋田県阿仁・根子集落のマタギ(根子マタギ)によって開村、根子を背に村田徳助(村田組)、佐藤七左衛門(善兵衛から分家)、山田三之丞(六之丞組)の三軒が最初に移住、生業とする伝統マタギは1960年ころまで見られ、クマ狩りになると明治生まれのマタギの姿もあった。マタギは口数が少なく温厚な性格の一面、強靭な体力・知力と精神力をにじませ近寄りがたい存在、自分で弾を造り先祖代々から引き継がれた古ぼけた弾帯に真鍮の弾を詰め、狩りに向かう姿はひときわ輝いていたものである。長い歴史のなかで地層の如く幾重にも積み重ねられてきた文化は半世紀を過ぎたいま、鉄砲を背負うマタギの姿はもうない。山と共に生き、山に生涯を捧げたマタギ集落の残影だけが残り火のように集落に漂う。           

                            
                       忠誠 平成元年二月十九日 同月二十日 
                             厳冬  仁別・八木沢間走破 同年二月吉日 佐藤良美 刻

           
 1989年2月 この日、意を決し昔のマタギが歩いた太平山地北面から八木沢集落まで単独縦走に挑んだことがある。一面樹林帯、新雪のなかを遥か彼方の八木沢集落を目指してひたすら歩き続けたが山行は半端ではなかった。軽装に最低限の食料、ワカンを履き右手にピッケル、休むことなく樹幹の間を縫うよう進んだ。脳裏をかすめる昔マタギが歩いた残影が走馬灯のようによぎり一人ではないと不安を感じなかった。
 昔のマタギの装備は最低限、60年代までの装備は薄着に犬の毛皮、藁で焼いたおにぎり、炒った大豆だけをザックにつめ亥の刻、雪明かりのなかに一人、姿を消していった。目当ての獲物はバンドリ(ムササビ)、銃身の長い村田銃を背負い一晩寝ずに山中を歩いていた。マタギがもどるのは寅の刻を過ぎたころ、ザックの中には獲物は無く焼きおにぎりだけの日が多かった。マタギは狩りで大豆だけを食べ「おにぎり」は万一のための非常食用とし家路に着くまでは口にせず持ち帰っていた。山を熟し野生動物のような鋭い五感、雪山を歩く姿は人とは思えないほど身軽、背には犬の毛皮に村田銃、真鍮の薬莢をびっしり詰めこんだ弾帯を腰に下げ、一糸乱れず隊列を組み狩りに向かうマタギの姿が未だ瞼に浮かぶ。

 
                                                   晩秋の八木沢集落  前方山越えすると根子集落    

 昔のマタギは萩形(離村・旧マタギ集落)の奥地、土地見平から大平山奥岳(1170)に向かう稜線、笹森(1045)との中間地点でも頻繁に狩りがおこなわれていた。マタギにとっていちばん怖いのが「ワシ」、ワシは八木沢集落のマタギ言葉で雪崩を意味する。
 冬狩りで山神様のお供えをしたモロビに火をつけ、燻した煙を体全体にふりかける魔よけの儀式は60年代頃まで続けられていた。

              
          かつてのマタギが狩りをした太平山地、 大旭又沢側7~8㍍のマンブ(雪庇)が突き出る 2011.01.13  撮影:佐藤良美

 出羽丘陵・太平山地は地形が険しく明治、大正期は鉄砲で狩りをしていたがそれ以前は犬で岩場に追いつめ小長柄で打殺し、銃は用いなかった。組狩は一組だけで4~5人が熊の冬眠穴を探し見つけると穴に柴等を入れ塞いだ後、横に穴を開けて槍で熊を突いていたと伝承されている。また春マタギではナガネ(尾根)に「タチマエ」(銃手)をおき、ムカイマツテが勢子に合図しつつ熊を追いあげてゆく、樹幹の間を逃げるクマをタチマエが撃って倒れたら「トッタ」と大声で叫び皆がバンザイと叫びながら熊の前に集まり山の神からの授かり物と感謝をして手を合わせた。射止めた熊は集落まで運び解体をするが唱えず山の神にはお神酒を上げるだけで肉も内臓も供えなかった。

 禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗のなかからうまれた
 

                
                            八木沢のモロビ

 マタギ衆が最もおそれたのが冬から春にかけてのワシで禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗。この太平山地でも明治期のクマ狩りで尊い命を落としている。マタギの死は禁句で忌み詞、語り継がれない死語、伝統マタギを重んずる集落の風習を頑なに遵守され凝縮されたマタギ文化は長い歴史のなかに愚直にも厳格に継承されてきたのは確かである。逸話、伝承、狩りの様子、巻き狩り、そしてマタギ道、そこにあったとされるマタギ宿など、一人白銀の世界で雪山を歩いていると走馬灯のごとく次々と脳裏をよぎる。樹林帯にしんしんと降りつもる雪、そこを寝座に身を潜める生き物たち、その自然生態系に立つマタギの姿は長い年月のなかで静寂のなかに消えていった。
 200年もの長い歴史の変遷をたどる八木沢マタギ集落、そこに中軸として纏めていたのは長吉・長松兄弟であったと古文書や伝承から推測される。
長吉・長松兄弟は根子マタギで善兵衛組頭の孫にあたる旅マタギ、出羽丘陵や奥羽山脈での狩りをする中継拠点地として八木沢集落が誕生、根子から稜線を渉り赤倉山、太平山地稜線へと向かうと右手に八の字のようになだらかに末広がる沢が目にとまる。この大きな沢を「八木沢」(通称:やぎじゃっこ)と呼称、沢は集落にとって自然の恵みであり豊かな潤いをもたらしていた。かつての故老マタギは八木沢の地名は、この沢から呼称されたと語っていた。八木沢集落誕生の秘話は大昔のマタギのみが知る所以になってしまった。

 
     沢「八木沢」(通称:やぎじゃっこ)2012.08.28撮影                   旧大渕集落跡

 もう昔の話になる。1965~75年頃まで八木沢集落にもう一つの集落「大渕集落」があった。家は五軒、八木沢と大渕の境目を沢(やぎじゃっこ)が流れ吊り橋もあって橋を渡ると一番手前に二代目山田福蔵(根子の八助組)「山田家先祖代々記」を記した旅マタギの家で幼少のころよく遊んだ。この集落跡地に立つと樹木が生い茂り薄暗く朽ち果てた支柱、ここに残された逸話や伝承は長い時を経た今も偲ばれる。家屋は自然倒壊、マタギの家宝とも言われた槍などの狩猟用具も今は亡き主のもとで守護神のように深い眠りについているかの如く未だマタギの威厳を感ずる。

【古文書 秘めたる真実】
                                            
                             古文書「山田家先祖代々記」

 第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松・・・」「福蔵、拾一から拾四歳まで長吉の弟、長松の門人となり教授・・・」。山田福蔵の先祖は根子の八助組頭、七左衛門は善兵衛組頭から分家、旅マタギ佐藤清の先祖が長吉の裏山に寺子屋があって弟の長松が教示したとする記録をもとに2014年春、裏山を調査すると寺子屋跡と思われる埋もれた土台石が出土、石は20㍍程離れた江戸後期の建造物「蔵」の土台石と類似、集落の中心部を流れる小阿仁川から運んだものと推測される。

    

                伝承による調査で2014年春、寺子屋の跡と思われる埋もれた土台石が出土

・又鬼の語る八郎伝説
 八木沢と萩形の間にカゴ山がある。八郎の嬶は嫉妬が強かった。八郎の山小屋をのぞくと綺麗な女がいた。嫉妬した嬶は八郎を蛇体にして人間界から追い払おうと企てた。八郎は八木沢のカゴ山の大渕で岩魚をチリポリ食ってしまったら、咽頭が乾いてしようがない。その水を呑み呑みしているうちに水鏡で見たら自分が蛇体になったことがわかったので川端にゴロゴロ寝ていたのであった。そこへマタギ仲間が戻って来た。八郎は皆へ別れを告げカゴ山の大渕に沼をつくって棲みさらに下がっていって七座に沼をつくって棲んだが、天神の白鼠に堤を破られ八郎湖に移った。山小屋の綺麗な女は実は山の神だった。(日本伝説大系 文化叙事伝説 精霊 八郎太郎 秋田マタギ聞書 武藤鉄城 慶友社)

  八木沢集落 南西に位置するカゴ山は11月下旬、山容はすでに根雪に変わる
              断崖絶壁の岩山、山の主「200㌔超の巨熊」山のうねりのような悲鳴が木霊
                              血の海となり やがて山は雨へと急変
八木沢マタギ武勇伝
 

                          【カゴ山(486)】(女子山)

 
マタギは巨熊を射止めた同じ穴に他の熊が冬眠するかもしれないとポツリと言ったが、すぐに口を固く噤んだあと間をおいて「山は雪から雨」へと急変したと語り始めた。2013.05.26熊穴は東側岩場の斜面(中腹)にあるようだが断崖絶壁で近寄る事すらできない命がけの調査だった。
                
 1966年12月15日 八木沢集落の南西に位置するカゴ山(486)、降り積もる雪に冬眠直前の巨熊の足跡を見つけた。翌16日午前7時頃、良蔵マタギは勢子二人を引き連れ、三尺も降り積もった雪をかき分け、やっとの思いで熊の足跡にたどりつく。熊は巨体を引きずり断崖絶壁を横切っていた。三人は岩場にへばりつきながら熊の足跡を追い10時頃、ついに冬眠穴にたどり着く。熊はゴヨウマツの倒木の根元を掘った穴に入っていた。穴は二つ、真新しく掘った土や木の小枝が断崖に散乱、穴から漂う獣の匂い、間違いなく熊がいると確信。10時30分頃、マタギは猟銃を構えながら恐る恐る熊穴を覗くと暗闇の中で微かに目が光った気がした瞬間、熊が頭を持ち上げた一瞬に引き金を引いた。弾丸は頭に命中、瞬時山のうねりのような悲鳴が鳴り響き渡りたちまち熊穴が真っ赤な血の海になる。熊は死ぬ間際、大きな唸り声をあげると先人からの口伝、結局この巨熊は一晩穴に入っただけのオス熊で体重約二百㌔超の大物、丁度 このころ山は雪から雨へと急変したと予想外の異変に驚いた様子を語っていた。

 巨熊の足跡を確認、熊はカゴ山方向に向かっていた
2013.11.30 
マタギ犬がカゴ山の麓に近づいたその時、後ろ脚で立ち上がり山の中腹に向かい何度も激しく匂いをかぎ分けた。その行動は凄まじく初めて見る行動で新雪に巨熊の足跡があのカゴ山に向かっていた。熊は冬眠間近になると穴の近くに姿を現す習性がある。

                         
               カゴ山に向う巨熊の足跡 2013.11.30                 八木沢集落 最後のマタギ犬

          連綿と受け継がれたマタギ文化「畏敬と神信仰」熊は山の神さまからの授かり物
                                巨熊の肉は子供の手によって集落のみんなに振舞われた     


  
    カゴ山の巨熊 集落最後のマタギ 佐藤良蔵(右故人)左:勢子の村田勇1966.12.16       摘出の熊弾と実弾(1950年頃購入)

 巨熊を射止めたカゴ山 生態系の調査 2013.05.26 
11:30~14:30



                                             断崖絶壁の岩肌、撮影場所に苦慮、足が震えた


            
                                              巨熊を射止めた断崖絶壁の岩山 この斜面を横切ったマタギと勢子


                
ゴヨウマツの樹幹に熊のカジリ痕、熊独特の土臭さとホコリ臭さが漂う 神秘な山
 切り立つ痩せ尾根、深い谷底に滑落すると無縁仏、不思議な怪奇現象が脳裏を掠める。山は一帯がゴヨウマツの純林に圧倒、樹幹に生々しい熊のカジリ痕、獣臭さが漂う。熊は冬眠間近に松ヤニの皮を食べ便秘状態にして付近の穴に冬眠をする。また縄張りを示す習性もある。

【八木沢マタギ:歴史と文化】
 南北に女子山(カゴ山)と男山(タカオトシ山)が対峙、すそ野で機織り、マタギが子等に教示、教育水準が高く長閑な暮らし中に自然と人間が一体、山の神を信仰する活気に満ち溢れた文化が形成されていた歴史が古文書や狩猟用具等から考察される。
     
                    前方に向かい左側は根子、右側太平山地、手前は大渕、八木沢集落
狩猟地には縄張りがる
 根子と八木沢は共同で狩りをしている。タカオトシ山から眼下、赤沢を見下ろすと近世から狩猟の猟場で前方に秋田マタギと称する集落が点在し幾つものマタギ道があった。狩猟文化の変遷は江戸後期、奥羽山脈を南下し秋山郷にも姿があった。

【タカオトシ山の岩穴調査】
 近世から明治、大正にかけタカオトシ山の岩穴に泊り狩りをしている。また赤倉にはマタギ小屋もあった。

       
                              タカオトシ山 2013.05.24 撮影

 タカオトシ山には江戸期にマタギが住んでいたと伝承されている。調査で赤倉とタカオトシ山と結ばれ道が尾根から岩を巻くように南西方向についているが途中で崩落していた。崩落斜面約85度、谷底で樹木無し、危険で調査を断念するが間違いなく道は残っていた。
 長い年月に地形が浸食、もともとマタギが道を整備していたが、やがてマタギが衰退、道が遮断されてしまったのであろう。

【八木沢マタギ 狩猟地の調査】
  ブナの木に刻まれた狩猟の様子 「昭和28年4月28日冬 山金外20人」
                  
  
            八木沢マタギ 狩猟地の調査記録         狩りの記し  1999.04.18  撮影:佐藤良美

 1999年4月18日 旭又登山口(06:10)~天上倉(12:45)~旭又(17:00) 11時間にわたり、マタギたちの足跡を追い求めた。すべて万全を期し天に命を託した。ルートは秋田市仁別 旭又登山口~赤倉沢源流~赤倉岳(1093)~萩形沢源流~天上倉山(888)コースで赤倉岳源流、標高約700㍍地点は大きな雪崩の割れ目があって急斜面を横切る時は恐ろしかった。山は深い眠りから目を覚ます寸前、山を起こしてはいけないと慎重に急斜面をアイゼンとピッケルを巧みに使い分け1100㍍級の稜線にでた。稜線直下、雪崩の隙間に鮮やかな黄色の花「マンサク」が咲いていたのを思いだす。ここで「アイゼン」から「ワカン」にはきかえ萩形沢源流を横切り、笹森岳の稜線にでる。この一帯は八木沢マタギの狩猟地、幸運にもブナの巨木に当時の狩りの様子を彫り刻んだ記しを見つけた。「十一時半クマ二日目1ト男 昭二八、四、二八 冬 山金外二十人」右下には熊の手形が彫られていた。この薄れた刻字が判読できず何度も何度も登りやっとの思いで判読をした。
 数年後、再びこの木を見たいと登ったがすでに木は消滅していた。

出羽丘陵(大平山系)、奥羽山脈、秋山郷との接点
 近世、秋田マタギは越後、三面(新潟)や信州・秋山郷へは太平山地の稜線を歩いている。南西方向に三内マタギ(旧河辺郡)、南東に田沢湖マタギ(旧仙北郡)、近世において秋田マタギと田沢・三内マタギとの交流は大平山系、奥羽山脈、出羽丘陵の点で結ばれる。

 長年の調査で八木沢集落の多くのマタギは根子の善兵衛派であった。いまだ集落の墓地にはその当時の様子を物語る源氏車の紋章が刻まれた墓石が静かに眠る。源氏の紋章は源義経の忠臣、佐藤継信・忠信兄弟の末裔との言伝えがある。

                   
                  八木沢墓地にある源氏車の紋章が刻まれる墓石(1955年10月建立)

           

                            1942年/1934年 八木沢

          

           マタギ集落八木沢は2009年春、集落最後のマタギ佐藤良蔵が鉄砲を返納し
                                 マタギ文化が途絶えた 200年近い歴史でもあった



              ここに八木澤の旅又鬼あり 八木澤番楽は又鬼や其之子等によって勇壮に演じられる(昭和初期)

 ▼出羽丘陵、八木沢集落から信州・秋山郷への調査を決意、血脈を追い求める。
  ・八木沢と信州・秋山郷との接点、根子の長松・長吉兄弟と八木沢集落の長吉・長松兄弟は同一人物なのか。
  ・甘酒の村のマタギ、清津峡の二居の長松・長吉兄弟、鈴木牧之が対面したマタギとは。

鈴木牧之・秋山紀行
 江戸後期、旅マタギは太平山地、峻険に切り立つ屏風のように長く南北に連なる奥羽山脈で狩りをしながら上信越国境地帯、秋山郷までマタギの姿があった。伝承によれば秋田県北、根子集落から秋山郷まで距離は約120里とも言われ鈴木牧之・秋山郷に登場する二人の兄弟「長松・長吉」は根子の旅マタギ、この二人兄弟は八木沢マタギルート歩いていたと断定される。

                  甘酒の村はわずかに家二軒卯の凶作にこぼさぬと云ふ
                    
 処佳興ならすと云ふも更なり 懐敷哉 此川上こそ 星霜十七・八年の昔登山して近国まて一目と眺望せし 其下流 責て清流を一口なりとも呑はやと 水汲もなく平ラ手に味ふに 宛氷の如く五臓にしむ 是より少し右の山の手ニ 甘酒と云ふ二軒の村あり 一宇に立寄り しはし休足を頼み 腰うちかけ見廻すに 爰ニも山挊の留守にて 女性独あり 色光沢とて世間の女子と替らねと 髪に油も附ねハ あか黒くして首筋まて乱れたるをつかね 垢附たる 手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着 中入らしきも見へぬほつれたる帯前ニ結び ほろほろしたる筵のうへにて 茶袋なと取出すをさし留め 小赤沢まてハ尚遠し煙草の火を一ツを乞ふに 大木の節穴一はいに土塗り込たるに火を入て出しぬ 抑々清水川原より村々を尋ねしに 是や秋山中まて始めての多葉粉盆と 帰庵迄の一ツ噺也けり 扨此処も纔ニ家二軒 雪中杯ハ嘸や淋しからんと云に 女か答に 雪の内ハ里の人ハ一人もこない 秋田の狩人時々見へ申迄た 昔より此村ハ増しもせす 減りもせない 惣秋山中の根本 大秋山とて川西に八軒あったか 四十六年以前 卯の凶年ニ餓死して 一軒なしに盈したもう 其時も己か村二軒なから 卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ 


                         
                            鈴木牧之:秋山紀行・夜職草

 文政11(1828)年、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・」。「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記されている。

 民俗学者 宮本常一著「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。秋田県では北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢萩形、仙北郡檜木内村などで東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであると記されている。

 2012年6月八木沢集落初、単独で信州秋山郷を調査 
  24日 午後3時、血脈のルーツをたどる「長吉・長松」兄弟とは、ついに信州秋山郷「熊穴」の前に立つ

       
                    信州秋山郷 熊の落し穴  2012.06.24 15:00  撮影:佐藤良美
 
・信州秋山郷の熊狩りで八木沢マタギの姿があったのか 
 江戸後期、清津峡二居、甘酒村、現在の切明(湯本)での秋田マタギ、登場人物の長松・長吉兄弟と八木沢の長吉・長松兄弟は同一人物なのか、兄弟は同じ根子マタギ、八木沢の兄弟マタギは善兵衛組頭の孫にあたる旅マタギ、古文書や集落に残されたマタギ狩猟用具等の史料を検証・考察をすると多くの共通点が散見され二人の兄弟マタギは八木沢の兄弟マタギと同一人物と推測された。

{幾重にも断層の如く積み重なった重層文化の証し・・・八木沢マタギ史料}
 マタギと自然生態系に生きる生き物、それに対峙するマタギ、集落に残される史料がマタギ文化の変遷を物語る。

         
                        2015.10.15  写真提供:上小阿仁村役場 産業課
                       

                      2014.10.15  国立大学法人 秋田大学にて   

<古文書
12冊(*は不明)>
◆御手本 1冊◆庭訓往来 一冊◆掌中安政附合集 青雲堂* 安政戌年◆節繁**捕* 明治二十五天立****◆孟子(天明改正 孟子  道春点 二」) 1冊◆論語 1冊◆直江氏持用(直江村蔵) 直江山城守末孫 直江鎌治郎 一冊◆「新版 假名安驥集」5巻
・新版 假名安驥集は1604年、国内初めて出版された馬医学書で全巻12巻、江戸初期から後期にかけて刊行された指南書で集落のマタギが所持した。      
                                               集落のマタギが所持した古文書

   
                            【弾つくり道具】 
 昔のマタギの中には火縄銃、大正、昭和にかけては村田銃を所持、鉄砲弾は1960年ころまで自分で造っていた。村田銃は村田式歩兵銃を民生用に改造した単発銃で子供等が寝静まった頃を見計らい神棚のある引き戸から道具を取り出し囲炉裏端で鉛を溶かして弾型に流す。次に黒色火薬を薬莢に充填し弾型から取り出した球形の鉛丸や熊用一発弾を装填して実包を造っていたが一連のしぐさは厳格で近寄りがたい存在であった。
 1960年頃から明治、大正マタギが鉄砲を警察に返納しマタギを引退する者が多く、これを契機にマタギ狩猟用具が消失していった。

             
                     古文書が収蔵されていた船箪笥(高さ65㌢、幅60㌢)

 古文書12冊が所蔵されていた船箪笥、重厚な漆塗りに頑丈な錠前、扉と引出一つが紛失、いつの時代、何のため何が入っていたのだろうか。

八木沢マタギの本質「マタギと温泉宿」との深い関わり合い 古文書の記述裏付け調査

 第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村 鎌田兼蔵方二宿泊ス又鬼ヲナス 猿弐拾三疋 青獅子一頭 マミ五疋 狸五疋 テン二疋 猟ス 此の歳テン皮一枚七円 狸皮一枚五円(古文書 山田家先祖代々記) 

    
       
        古文書山田家先祖代々記/新城鉱山、温泉宿にマタギの姿があった/長坂千軒集落・歓楽施設として芸者小屋一棟
          
                    新城鑛山第一中切抗(あきた鉱山盛衰記:秋田魁新報社資料)
 

 2011年 4月下旬、上新城村(現秋田市上新城)の集落を何日も尋ね歩き、あきらめようとしたその日にマタギ宿をみつけた。多数の古老等からの聞き取りをもとに一帯を調査、そこにはマタギと温泉との深い関わりがあった。湯乃沢温泉、硫黄分を含んだ沢水を沸かし明治から大正の頃まで茅葺屋根の建物が二棟あった。鉱山は白山集落から新城川・白山川沿い北東4㌔の地点に白山と新城鉱山、白山沢銀山には長坂千軒集落があって近隣に歓楽施設、芸者小屋一棟が建ち銀山町として賑わいを見せていた。
 サルは昔、向いの沢や、この周辺にもいたそうだ。また、小又集落の古老は白山にサルがいたことは聞いている、マタギは射止めた獲物を湯ノ沢温泉で売ったりしたのではないのだろうか、昔は銀山町として賑やかであったようだという。
 白山集落の最長老(大正12年生)は昔、おら方に「だし風」が吹く頃、奥にある、白山沢にサルが出ると聞いている。この奥に「湯乃沢温泉」があった。そこにマタギが泊まった話は聞いている。田んぼの近くで見たマタギは2~3人で阿仁の方から来たと言って温泉に入っていった。ほかにもマタギが田んぼの近くでサル二匹を生きたまま縄で縛り背負っていたのを見たことがある。長老は白山集落には「白山様」を祀っているため、昭和2~30年頃まで肉は一切食べられなかった。いくらマタギが獲っても買う人がいなければ成立しない、マタギが獲った獲物を温泉に持ち寄ったことは十分考えられると語っていた。

         
                   2011.04.22調査にて(左:湯之沢温泉跡 右:マタギ宿跡地)
 
八木沢マタギの本質
 新城鉱山が栄え、それに伴い「湯乃沢温泉」も栄えた。鉱夫が欲する物は貴重な肉ではなかったのだろうか、長坂千軒に住む鉱山関係者の腹を満たすには程遠い肉と考えられるが単に金銭だけではなく、マタギとしての使命を受け大自然を享受、肉をむさぼる鉱山関係者の姿がマタギの喜びで新城鉱山は、やがて下火になり「湯乃里温泉」も自然に消えた。これを境に八木沢マタギの使命は終わったと考察、八木沢の故老は「どんなに奥地でも射止めた熊を集落まで運び皆で喜び分かち合った、獲物は皆の物、自然から享受する最高の獲物、皆が喜ぶ姿が一番嬉しい」と語っていた。
 明治43年の記述、八木沢マタギの本質は大自然を崇拝する狩猟の民はみな同じ仲間ととらえ大自然と一体、射止めた多くの獲物を温泉に持ち寄り交易の場として鉱山で働く労働者や湯治をする人々への山から授かった獲物の肉を供給する橋渡しの役目を八木沢マタギは担っていたと考察する。

・マタギ狩猟用具の製作
 200年の歴史 秋田スギの木目を透かし、過ぎしマタギ文化の痕跡を検証

                

                     1961年春 集落のマタギが射止めた熊の上顎(彫:佐藤良美)
                        
槍五本、マタギ文化 変遷の証し 
 集落の大きな特質に阿仁、三面、秋山郷マタギが所持する槍と酷似、隔絶した集落は近世、他諸国との交渉があって伝播されたと検証する。

          
            阿仁マタギと信州秋山郷の類似の槍を天スギの材料で制作、手前が昔の根子マタギが所持したタテ

                

 製作した槍を上から①②③④⑤とすると③と⑤が阿仁の代表的なタテ(槍)、残り三本は秋山マタギが所持した槍に酷似する事から八木沢マタギは他国との交渉があったことが裏付けられ、旅マタギが主流で他諸国を旅するマタギ文化から構築されていたと推測される。

火縄銃と村田銃
 集落は火縄銃を所持したマタギが4~5人、みんなが鉄砲を所持する生粋のマタギ集落であった。
     
                    火縄銃と村田銃を実物大に制作 材質:天然秋田スギ
             
                 村田銃の材料(天スギ)は亡き古老マタギが準備してくれたものである
 
                マタギが銃身の長い村田銃を構え 獲物を狙う様子は眼光が鋭く別人にかわった


                                                  槍と鉄砲の製作:佐藤良美


【八木沢マタギ狩猟用具 有形民俗文化財】
 員 数:5点 マタギ熊槍・マタギ槍・火縄銃の背負袋・マタギマキリ・マタギベラ
 指定日:2012年8月29日
 所在地:上小阿仁村八木沢
 所有者:佐藤良美

1.マタギ熊槍(くまやり)(通称:三角槍)
 穂先:37・8㌢・柄:2㍍  近世後期。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似し本県で造られたものではない。大型の熊槍専用で「タチマエ」(射手)が所持したものである。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称し熊猟で用いられた。

       

2.マタギ槍 身…鉄材 木部材質:クルミの木
 近世初期から中期。阿仁マタギは「たて」(槍型)と呼称。阿仁マタギ猟具と同一で根子から移住以前から用いられたものである。一般的な「槍」でクマ狩りなどに用いた。火縄銃が浸透する以前からの代表的な狩猟具で鉄砲が普及したあとも用いられる。

       

3.火縄銃の背負袋(しょいぶくろ)唯一無二の旅マタギ史料
 近世末期とされ、牛革で作られた火縄銃の背負袋は集落の蔵に二組収蔵され一組は破れている。根子の旅マタギ、長吉が所持したとされ、火縄銃は戦後手放している。史料からしても八木沢集落は早くから火縄銃が伝播され旅マタギが主流であったと推測される。
      
        
    
       集落の蔵に二組あったが一組は片割れ、火縄銃を背負う旅マタギが偲ばれる。(木箱と木彫り製作: 佐藤良美)

4.マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢
 マキリはアイヌ語と共通。近世中期。クマやアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと酷似。


       


5.マタギベラ(長さ167㌢・幅8㌢) 近世中期
 イタヤ製の雪ベラ。日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。まん中の窪みは火縄銃が用いられたときに上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけたものである。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。

       


マタギ史料の検証と特質

 民俗文化財五点は近世後期の建造物とされる蔵に収蔵されたいたものである。火縄銃を入れた背負袋は天井に吊るされマタギ熊槍は穂先を油紙で包み柱に掛けてあった。マタギ槍は穂先と柄が別々の場所に置かれ、マキリは赤錆で砥ぎ鞘は山兎の毛皮で製作、火縄銃は戦後、亡父良蔵が復員すると先代金治が手放し「てっきぇぁす」や毛足袋は父良蔵の代で処分されていた。 
 
                                        
                            収蔵されていた蔵

 集落は文化10年、根子のマタギによって開村されているが、移住以前から用いられたものと検証され狩猟文化の変貌などを示す史料となる。文化財指定に際し集落の歴史を後世へ残したい、残された狩猟用具は個人所有であるが集落の狩猟文化の生成と変遷が凝縮され狩猟採集に用いられた狩猟具はマタギ狩猟習俗の得意性を知るうえでも貴重な民俗遺産であると思われる。

根源の証しマタギ文化
・ 根子 善兵衛組頭から派生した七左衛門の槍と越後(新潟)三面・信州秋山の槍と酷似


                              
                   マタギ小槍(全長122、穂先13、柄116㌢,材質はサビタ)

 根子マタギ善兵衛組頭の子、佐藤七左衛門が所持したとされ、近世初期から中期のものと思われる。最も古い槍で穂先の形状からしても本県で製作されたものではない。熊槍同様、近世中期、村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で造られたと検証され三面や信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似する。柄にはカキ渋が塗られカキ渋を塗ることにより柄の腐食と強度を保つ昔のマタギの知恵、槍の穂先はかなり擦り減っていることから古くから用いられたものと推測、昔のマタギは熊狩りでも用いられた。
 
            
                     「ヤマドリ」(マタギベラの原型)と熊槍の柄だろうか   

 史料上の二本はマタギベラの原型、マタギは「ヤマドリ」と呼称していた。長さ140㌢・幅10㌢ 材質はイタヤ材で日本、唯一無二の狩猟具材に分類。下は熊槍の柄と思われ、蔵に「ヤマドリ」」と一緒にあった。柄は長さ294㌢・幅5㌢、材質は天然秋田スギ樹齢2~300年と推測、秋田スギは木目が密で強度であるのが特徴である。かなり使いこなしているのか「キズ」が多く柄先の部分には熊のキバ跡と思われるキズがあり、穂先が折れたのではないかと検証、熊槍の柄とは断定できないがマタギが蔵に収蔵することは価値があったと考察する。

 
  マタギがはいたカンジキ 材質:オオバクロモジと牛の皮       マタギが所持したナガサとナタ 近世後期から昭和初期

マタギの衣類を織った機織り道具、日本最古の機織り道具と思われる
 機織り道具は集落に残されて蔵に収蔵され、叔母村田チサ(大正10年生)が長吉の妻が編んでいたと証言している。

     
         機織り道具は昔、マタギの袴を織り
                   地機の杼(ひ)いとくりわく(糸繰枠)など 集落に残された蔵に収蔵されていた

 古くから機屋さんがあって相当遅くまで編んでいたとされ畑から採集した糸の原料、カラムシを釜で蒸かした後、皮をむいてオシキダでギューッとこくると白い繊維が出る。それを洗い棹にかけて乾燥させ女性が夜に糸を紡ぎ、へそ巻きにヒョウタン型に巻いて吊るし材料にして布を織るが主にマタギの衣装などでマタギ袴は風を通すが冬狩りでは雪がまったくつかず自給自足でどこの家にもあって袴は1935年ころまではいていたとされる。

               
                   カラムシ(八木沢集落)集落のいたる所に自生していた

マタギ文化の変遷・いにしえのマタギ集落  八木沢

 
        筆者 大平山(1170)にて(2008.2.23)               八木沢集落 最後のマタギ 佐藤良蔵(1958年春)

 八木沢の長吉・長松兄弟 江戸後期、根子から移住

  
         弟の長松マタギ屋敷跡                   兄長吉屋敷跡 樹齢約200年のソメイヨシノが咲き誇る

 【八木沢 悠久の蔵】
 集落をなだらかに流れる小阿仁川、その中心部に老朽化した二階建ての蔵が佇む。柱や梁、土台などの構造材は天然木を余すところなくふんだんに用いり風格が漂う。悠久の時を刻みマタギ文化の歴史がそのまま凝縮され往時の隆盛をしのばせている。


       証しである火縄銃の背負袋、槍や機織り道具等の歴史的マタギ史料が収蔵されていた蔵は悠久の時を経た今なお集落に佇む

 【祖先を偲ぶ 佐藤長吉マタギの墓石】 

      代々のマタギが集落の河畔で永遠の眠りについている
                 血脈を受け継ぐ子孫が畏敬の念を抱きつつ寄り添う 無形のマタギ精神は薄れることはない

あとがき

 1961年春、ドンヨリトした日で集落は霧に包まれていた。女性が大声で「熊を捕った」と叫ぶ声がして外に出ると歓声が沸きマタギ4~5人が犬の毛皮に銃身の長い村田銃を背負い誇らしげな表情で立っていた。さっそくマタギは熊を解体し始め手際良く慣れた手つきで大きな巨体をたちまち均等に分け分配で射止めた親方は一番小さな肉を取っていたのを見て呆気にとられた。肉は子供が集落の皆に配り歩くしきたりであるが思えば茅葺の大きな家、重く分厚い板戸、中に入り暗い土間で肉を渡した記憶がある。熊は山神さんからの授かり物、どんな奥地でも射止めた熊を集落まで運び肉を子供が振舞うのが昔からの風習で祖先から受け継がれた文化、大きな支柱で強い絆で結ばれていた。一連の風俗習慣は自然への感謝と熊への成仏、マタギ文化の継承、そして狩りで仲間を失った同胞への思いが根底にあったと思う。
 2009年春、集落最後のマタギが鉄砲を返納し200年近いマタギ文化の幕が降ろされた。人の記憶というものは長い年月を経るとともに薄れ未だ多くの謎を残したまま埋没してしまったマタギ集落、65年ころまで根子集落との道が残存していたが、いまは跡形も無く変貌、かつてのマタギ屋敷跡が点在し集落の変遷を物語っている。

 12年6月 、信州・秋山郷のクマの落とし穴前に立った。目的は文政11年、牧之・秋山紀行に登場する二人の兄弟「長松・長吉」と八木沢集落の長吉・長松兄弟が同一人物なのか、マタギ熊槍(村文化財)のルーツなど色々検証する目的があった。熊槍は秋田の鍛冶屋や狩猟用具に詳しい古老マタギ等に鑑定結果、秋田では存在しない槍が何処で造られ、何処で使用されたのかであるが、その手掛かりは信州秋山郷に隠されていると思った。秋山郷を訪ねマタギ関係者等からの聞き取りをして目的地のクマの落とし穴に立った。穴の深さ約3.5~4.5mと推測、この穴に落ちた熊をどのように仕留めたのか、暗い穴を覗くと不思議と昔の狩りの様子が再現され秋山郷と八木沢が、かけ離れた地とは思えず身近に感じた。
 秋山紀行二人の兄弟マタギのくだりに牧之が1人のマタギに「お国は秋田のあたりか」と聞くとマタギは「城下から三里へだてた山里」と返答、秘鑰はここにあった。城下から三里だとすれば八木沢集落に間違いない。その道は集落南西から浮内沢沿いを登るルート、道が荒れ難所の箇所が幾つもあるが城下まで最短距離。道は1960年代まで微かに残されていたが、今においては幻の山道になりもはや幻の記憶に留めるだけになってしまった。二人の兄弟が八木沢集落の兄弟マタギだと想察するならば清津峡二居で猟を伝授したマタギと秋山郷、温泉長屋の二人は同じマタギ、甘酒村の老婆に通ったマタギは兄長吉、牧之が温泉宿で対面したマタギは弟の長吉、兄弟マタギは根子マタギの善兵組頭の孫、古文書に長松が子等に語学を教示、また マタギ背負袋やマタギ熊槍は長吉が旅マタギで用いたとされ史料検証等から近世、八木沢集落と越後が同じ地形上の狩猟範囲に分布し隣地に秋山郷があって、その時代において伝承が円滑に行われ諸国から伝播された基層文化を形成、集落誕生以前から信州秋山郷との狩猟文化との交流があったと推測、マタギ文化のルーツを一つ一つ考察していくと信州秋山郷のクマ穴が徐々に広がり八木沢の狩猟地赤倉が見えくる、そこには勇壮な昔のマタギの姿があった。

 最後にこれまでお世話になったマタギやその関係者(故人 敬称省略)村田新吉、佐藤徳三郎、佐藤幸市、佐藤一郎、佐藤勇太郎、佐藤良蔵、山田佐一郎、山田運治郎、以上八木沢集落。佐藤ニ朗、佐藤冨久栄、佐藤国男 以上根子集落。尊いお話を拝聞することができ心よりお礼申し上げます。

                                                     八木沢マタギを語る 佐藤良美

文献
・秋田魁新報社「あきた鉱山盛衰記」、秋田県鉱山会館「秋田県鉱山誌」、宮本常一「山に生きる人びと」、鈴木牧之「秋山紀行」

 筆者:佐藤良美
1954年12月 八木沢集落に生まれる 集落最後のマタギ 佐藤良蔵の三男
1978年3月 秋田経済大学経済学部卒、日本自然保護協会、日本鳥学会を経てフリー 
2009年春、父良蔵が鉄砲を返納し集落のマタギ文化が途絶え同年秋、八木沢マタギを語る会を発足、集落の歴史を後世に伝える活動をしている。 


                     ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー



<鷹とマタギ>は何か共通をしているような気がする

2016年12月15日 | 八木沢マタギ


  八木沢マタギ 狩猟地の調査にて
   1998.04.18 太平山地 天上倉山(888)」にて

鷹の撮影と記録 :佐藤良美
プロフィール
1954年12月 秋田県・八木沢集落に生まれる

 森の中で一人営巣中の鷹を観察するが調査は一対一を基本とし一切の物音を立てず長時間立ちっぱなしで観察を続ける。つらい調査のなかでヒナが巣立つ一瞬で苦労が感動へと変わるが忘れてはならないのが巣立ったヒナには厳しい自然界が待ち構えていることであった。
 鷹の調査は多くの危険を伴い奥地だから危険だとか低地だから危険ではないとは限らない、むしろ低地が最も危険だと思っている。
調査で心がけた事は種の保存で「して良いこと、してはダメな事」であった。観察地点では自然生態系を壊さない、当たり前であるがいざとなると難しい一面がある。生態系の頂点に位置する鷹は最も警戒心が強く、そのため営巣地は外敵から狙われにくく、なおかつ「子育て」ができる環境にあるが、その域は極めて限定されている。
 今までに何十巣もの個体の観察をする中でクマタカだけは特定の営巣地に拘りがあって独特の子育てをしていた。
  

 【クマタカ】
 絶滅危惧IB類(環境省レッドリスト)食物連鎖の頂点に位置する希少な猛禽類。1989年のレッドデータブックでは絶滅危惧種とされ、種の保存法「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」では政令指定種となっている。また、1993年にできた「種の保存法」でも、トキやライチョウ、ヤンバルクイナなどと同じランクで絶滅の危機に瀕している鳥のリストに入り、ノウサギ、リスなどの小型哺乳類やヤマドリ、キジバトなどの中・小型鳥類を主食として生きている。
 クマタカの生息する環境は広く自然林が残され、バランスのとれた餌が供給される自然環境が不可欠で採餌できる場所や繁殖に適した場所が必要である。しかし、森林の伐採などにより餌となる小動物が減り、巣をかける大木も少なくなっている。


                           クマタカの親(♀)

 クマタカの調査は春夏秋冬の四季を通し7年以上の歳月を要したが調査で最も大切な季節は酷寒の冬、風雪が舞う1月から2月で上空を飛翔するタカの行動を追う、長時間風雪にさらされながら稜線に立ち観察をするが寒さが身に染みる。
 この時期、鷹は繁殖行動が見られ活動が活発になる。



                             ヒナに餌をあたえる親(♀)




                         巣内に餌を運んだ直前のメス親(♀)


  巣内に餌のヘビを運ぶ♀


 

写真左:親(♀)が運んだ餌を奪いとるヒナ 写真右:餌をくわえるヒナ


 

写真左:リスをくわえたヒナ 写真右:ウサギが運ばれた

 
 

写真左:ヘビを巣に運ぶ親(♀) 写真右:親はヒナの成長度合いによって餌を変える


 

写真左:このヒナは大きさから♀のようだ 写真右:巣立ち直前のヒナ


 

写真左:ヒナは巣立つ頃、親と同じぐらいの大きさに成長する 写真右:クマタカの親子


 

写真左:営巣木に西日が照らす 写真右:巣立ちが目前のヒナ

 

《オオタカ》



ヒナとはいえどども獲物に飛びつく様子はすさまじい










 

写真左:オオタカのヒナ 写真右:餌をくわえるヒナ

 


 ハヤブサ(絶滅危惧種)のヒナ巣立ち 大空へ



                                大空舞う ハヤブサのヒナ

ヒナの巣立ち 感動の一瞬

 標高約二百八十㍍の断崖絶壁のくぼみに作られた巣から、親鳥の後を追うように四羽のヒナがつぎつぎと飛び立ったが
        そのうちの一羽がすぐに巣にひきかえした
                    
                          その後の観察でもヒナは再び飛ぶことはなかった




                
                           大空を舞う三羽のヒナ

 

鷹の調査でまれに貴重な植物をみかける 
 ラン科の植物 サルメンエビネ、キエビネとアカエビネ


 

                        サルメンエビネ(猿面海老根)ラン科

 可憐に咲くサルメンエビネは断崖絶壁に営巣する「ハヤブサ」の観察場所付近にひっそりと咲いていた

   
 キエビネとアカエビネ ミサゴの営巣地付近に咲く

                             キエビネとアカエビネ

     重いカメラ機材を背負い急斜面を登っていくと偶然足元を見たらエビネが咲いているのに驚く
                        いまごろ咲き、しかも、黄色エビネと鮮やかな紅紫色のエビネが同じところに咲く 
         あまりの美しさに圧倒され、しばし足を止めて心を癒す  山からのプレゼントだと思った


 《ミサゴ 一属一種 準絶滅危惧種(NT)環境省》




                                          ミサゴのつがい 2001年5月13日



                         2004年7月30日 巣立つ瞬間のヒナ
    

                           

  巣材をはこぶ親(♀)2006年6月22日


 

 2006年7月7日 巣に降りる寸前の親(♂) 

 

 巣立ち直前のミサゴのヒナ





ミサゴの親(♂)餌の魚をつかまえて巣に降りる瞬間

【観察】



                         対岸から鷹の子育ての様子を観察する

    迷彩テントの中でクマタカの子育ての様子を見守る
             カメラ機材と三脚、テントを背負い急斜面を登って観察場所につくだけでも一苦労
        撮影は一瞬をとらえようとするがテント内は狭く蒸し暑い

            鷹はとても警戒心がつよく、たとえ迷彩テントのなかでもすぐに気がつく                          
                          だから親(♀)は一瞬で巣に入り、一瞬で巣から離れてしまう

  

巣立ったクマタカのヒナの卵殻               営巣中のオオタカを観察


 鷹の調査をしていると何度もクマを見かけた。絶壁に営巣するハヤブサ、崖下にタケノコ(ネマガリタケ)がたくさんあった。糞、食痕、近くのブナの木にクマが登っていて突然、目の前に飛び降り睨み合い、一人だけの調査は危険が伴ったが調査は一対一を信念とした。
 クマタカの子育てを観察していた時だった、突然クマが急斜面を登ってきたので鷹の営巣から目をそらしクマを観察しているとクマはボール玉のように体を丸くし柔軟に朽ちた根回りを夢中で餌を探していたのを見て微笑ましくなった時もあった。

 昔のマタギは「クマを山の神からの授かり物」とされたが今はそのクマを低地で頻繫に見かけあちこちに出没している。今までに冬眠穴や子育ての様子を何十頭となく調査をしてきたが、いまやクマは神聖ではなく害獣のイメージが強く嘆かわしくなる。古来、鷹とマタギは兄弟とされ、八木沢のマタギ文化は消滅してしまったが鷹の世界は奥地から低地へと環境依存し変化しているが狩り仕方は親から子へと厳然と受け継がれている。
 マタギは世襲で秘伝を伝授し代々受け継がれてきた文化、大自然のなかで棲息する生き物、特に鷹とマタギは狩の方法に多くの共通点が見られ、感動をする一面が見られた。
 古い話になるが八木沢の故老マタギから聞いた話だが狩りからもどる途中、衰弱した鷹を保護し自宅の金網小屋に入れ肉を食べさせるとたちまち回復し怖くなってしまったと興奮しながら話していた。鷹はすぐに放鳥されたとの事であったが数か月後、その鷹は数回、故老マタギの前に姿を見せてくれたと実話に基づく話を聞いたことがある。
 いま、現実に鷹の調査をしていると多分マタギにとって鷹も同じ仲間だと捉えていたと思った。
                           
                                                    八木沢マタギを語る 佐藤良美

 

《主な新聞掲載記事》
平成09年04月06日 ニホンザルとらえた「秋田魁新報社」
平成09年07月24日 太平山北面でクマゲラ生息確認「秋田魁新報社」
平成12年04月24日 太平山でイヌワシの写真撮影に成功「秋田魁新報社」
平成12年12月28日 太平山上空のクマタカ撮影「秋田魁新報社」
平成13年06月16日 営巣中のミサゴ撮影「秋田魁新報社」
平成15年08月22日 ミサゴの営巣を観察 巣立ちの瞬間など撮影「秋田魁新報社」
平成16年08月03日 仁別でミサゴの巣立ちの瞬間撮影に成功「秋田魁新報社」
平成16年09月08日 ミサゴのひな巣立つ 秋田市濁川「秋田魁新報社」
平成17年06月19日 仁別でクマタカ営巣地発見「秋田魁新報社」
平成17年08月09日 クマタカのひな巣立ち「秋田魁新報社
平成18年07月09日 ハヤブサのひな大空へ 岩見ダム周辺「秋田魁新報社
平成18年07月25日 秋田市添川でミサゴ 自然界の厳しさカメラにおさめる「秋田魁新報社」
平成19年08月14日 クマタカ巣立ち 2年ぶりに確認「秋田魁新報社」
平成20年08月28日 クマタカのひな巣立つ 絶滅危惧種 仁別で会社員確認「秋田魁新報社」
平成21年05月14日 山菜採りクマにご注意「秋田魁新報社」
平成21年07月24日 オオタカ2羽巣立つ 仁別で会社員が確認「秋田魁新報社」
平成21年08月18日 クマタカひな巣立つ 会社員が確認し撮影「秋田魁新報社」
平成22年07月28日 秋田市濁川 みさごひな巣立つ「秋田魁新報社」
平成22年08月06日 クマタカ巣立つ 仁別「秋田魁新報社」
平成23年07月14日 巣立ち間近い?オオタカのひな「朝日新聞 秋田」
平成25年06月19日 オオタカのひな すくすく育つ 河辺で営巣確認「秋田魁新報社」
平成25年06月23日 秋田さきがけ 週刊NIE 家族で読もう 注目2「オオタカのひな育つ」(P7)
平成270814日 秋田)クマタカのひなが巣立つ 秋田の山林から「朝日新聞 秋田総局」
平成290816日 クマタカ 巣立ちの季節「秋田魁新報社」 
平成290919日 地方点描 巣立ち「秋田魁新報社」

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー