<八木沢マタギを語る!> 後世に語り伝えたい「八木澤 又鬼」二百年の歴史

【自然への畏れ】先祖を敬い自然に感謝したマタギ文化消滅!10月15日八木沢マタギの日 ※写真:火縄銃の背負袋(村文化財)

戦後、嘗ての又鬼は下駄をも作り、「いさみ発動機 」の鼓動が豊かな集落に鳴り響いていた。雪国の伐採運搬で使用されたバツ橇「八木沢集落」

2018年12月15日 | 八木沢マタギ

【いさみ発動機】

・いさみ発動機
型式:M-30
馬力:3馬力
製造年代 : 1952年頃 (昭和27年頃)
TYPE IK NO KOKUSANN NUMAZU TOKYO
製造会社 : 日平産業伊讃美工場(:コマツNTC)
・所在地 : 八木沢マタギ民俗資料館(仮称) 開館に向けて準備中
            〒018-4400 秋田県北秋田郡上小阿仁村八木沢107番地
 

マタギが製造していた下駄 (材質:桐)

集落のマタギは戦後、下駄を作っていた時もあった。この機械は集落に残された蔵(仮称 八木沢マタギ民俗資料館)に保管されている。


【バツ橇】
・山師はマタギであった。強くて逞しかった。冬、背に村田銃を背負う姿は今でも畏敬を感じる。

バ ツ橇は従来東北地方の積雪多き地方で使用された。
雪国の伐採運搬は冬季に行われ親方(山師はマタギの親方)が山に飯場を設ける時は「かしき」(炊事係)を同時に雇い入れていた。

営林署:担当区主任・山師(請負師)  山師:親方(伐採頭)、伐採人夫、かしき(炊事係)

木材の運搬~戦前・戦後、マタギ衆は奥地で伐採をした丸太をバツ橇に積んで急傾斜地を親方が橇に乗って滑走して運材した。一度運材をすると橇道が崩れ、カンジキ(ワカン)で雪を固めて補修をしていた。
この橇や馬具は集落に残された蔵(仮称 八木沢マタギ民俗資料館)に収蔵されている。


  

八木沢で使用されたバツ橇で滑り木に横木を二本取りつけ、片方に舵取りの腕木(うでき)が取りつけた二本橇からなる。

 

 

馬具

 

【八木沢マタギ】
 八木沢集落は文化10年(1813)、秋田郡大阿仁根子(現阿仁町)のマタギが移住・定着している。根子は マタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった「万次・盤(万)三郎」を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい「長男相続制」のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど「マタギ文化」が広範囲に拡散されている。 1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754-1829)は、マタギの里として知られる「奥阿仁地域」を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。文献: 『みかべのよろい』菅江真澄著

 真澄翁が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が移住・定着。徳助翁は村田組に所属するマタギ、三之助翁は山田六之丞シカリから分家、七左衛門翁も善兵衛シカリから分家していた。のちに山田三之助翁は若死にし、根子の最後のシカリ富久栄翁(父親は佐藤富松)の先祖、八助シカリから三冶郎翁が後継をしている。集落は近世から「出羽丘陵・奥羽山脈」での狩りをする狩猟民の中継地点。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち「俗信、禁忌」があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえる、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこのえさもあった(家にもあった)。みんなマタギだった。自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を造ったものだ」と古老は語った。昭和30年代、八木沢集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となり、2009年春、集落最後の古老マタギが所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を秋田県警察北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。200年の歴史だったという。わずかに残された伝承や信仰、俗信、禁忌などを語る者は、古老のみとなった。

 

材質:天然杉の瘤(佐藤良美 刻)


◆「八木沢マタギ」広報・新聞掲載記事
平成12年11月14日 河北新報 「山の民の息吹伝わる」秋田版
平成21年10月16日 北鹿新聞 1面「最後のマタギ静かに銃置く」
平成21年10月28日 朝日新聞 秋田版「集落最後のマタギ引退」
平成21年11月03日 おおだて新聞 3面「最後のマタギ銃を置く 獲物追い70年余山へ」
平成22年01月01日 北鹿新聞 元旦号上小阿仁村八木沢集落「最後のマタギ」
平成22年03月08日 秋田さきがけ投稿 声の十字路 後世に伝えたい「八木沢マタギ」
平成22年09月22日 秋田さきがけ投稿 声の十字路「八木沢マタギのルーツを探しに」
平成24年01月01日 朝日新聞 忘れられた 日本人 最後のマタギたち
平成24年03月15日 北鹿新聞 「八木沢マタギ」後世に 村文化財に申請
平成24年05月12日 北鹿新聞 上小阿仁村文化財保護審 マタギ用具の審議開始
平成24年05月12日 秋北新聞 マタギ狩猟用具を審議 「村有形」の指定申請
平成24年05月22日 上小阿仁新聞 マタギ狩猟用具を審議 村文化財保護審議会
平成24年05月29日 北鹿新聞 八木沢で現物調査 熊槍などマタギ用具
平成24年06月27日 朝日新聞 秋田版「八木沢マタギ」残さねば200年の証し
平成24年09月01日 北鹿新聞 八木沢マタギ狩猟用具 有形文化財指定
平成24年09月07日 秋田さきがけ 八木沢マタギ狩猟具を指定
平成24年09月08日 秋北新聞 マタギ狩猟用具文化財に 「背負袋」など計5点
平成24年10月発行  『広報かみこあに平成24年10月号645』村有形文化財第1号が指定されました!』
平成24年10月05日 秋田さきがけ 投稿 声の十字路「後世に伝えたい マタギの心、文化」
平成24年10月11日 河北新報  八木沢「旅マタギ」に光
平成24年10月18日 しんぶん赤旗「秋田 八木沢マタギを語る会」人は歩いた山だけ山を知る
平成25年12月26日 秋田さきがけ 「郷土愛貫き集落維持」集落最後のマタギ 佐藤良蔵死去
平成26年02月19日 朝日新聞 マタギ馬を診ていた?上小阿仁 貴重な労働力管理
平成26年02月19日 秋田さきがけ 江戸期の馬医学書発見
平成26年03月09日 河北新報 ワイド東北「秋田マタギ文化思い募る」
平成27年01月発行 秋田大学広報誌〈アプリーレ〉NO.47  特集 地域貢献
平成27年12月発行 農林水産省情報発信誌『aff』12月号[COLUMN1] 山の恵みとともに生きる
          八木沢マタギの狩りと暮らし
平成29年10月17日 秋田さきがけ マタギの集落 縄文人も永住?上小阿仁村・八木沢


ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー




バツ橇は従来東北地方の積雪多き地方で使用され、舵取りはマタギの親方が取り仕切った。

2018年12月15日 | 八木沢マタギ

【バツ橇】
 バツ橇曳きは危険が伴う異質な労働。農耕とは違い多くの山の慣行・タブーがあった。このバツ橇を曳く杣でマタギ衆は雪を活用し、力強く生きる光景と雪山を犬の毛皮を纏い村田銃を背負う姿は雪橇を見るたびに思い出される。
 バ ツ橇は従来東北地方の積雪多き地方で使用された。雪国の伐採運搬は冬季に行われ親方(山師はマタギの親方)が日程、賃金、人数、食糧等を計画している。また、山に飯場を設ける時は「かしき」(炊事婦)を同時に雇い入れていた。

営林署:担当区主任・山師(請負師)  山師:親方(伐採頭)、伐採人夫、かしき(昭和30年代は炊事婦)

木材の運搬~戦前・戦後、マタギ衆は奥地で伐採をした原木をバツ橇に積んで急傾斜地を親方が橇に乗って滑走して運材した。一度運材をすると橇道が崩れ、カンジキ(ワカン)で雪を固めて補修をしていた。この橇や馬具等は集落に残された蔵(仮称 八木沢マタギ民俗資料館)に所蔵されている。  

 八木沢で使用されたバツ橇で滑り木に横木を二本取りつけ、片方に舵取りの腕木(うでき)が取りつけた二本橇からなる。丸太2~3㌧を橇に積む時、たえず左右のバランスを考え均衡がとれるように積んでいたが急な傾斜地を滑走していく。ヒラ(平地)に着くとスピードが遅くなり後部にいる者が鉤(かぎ)を使って後押しをしていくがカーブ地点で丸太が崩れ悪戦苦闘していた光景が思い出さる。雪橇曳きは正月が終わる頃から翌年の3月頃までで雪が積もるのが一月で雪が深ければ橇道を作るのに好条件だが4月以降は雪が腐り(融ける)曳けなくなる。バツ橇は二つヤマで前橇、後橇からなり急斜面だと後橇は使わず前橇だけで曳いた。丸太の後は雪の上を滑って引っ張られた。急斜面を親方が舵取りの腕木をつかんで左右自在に動かしながら足を使って乗っていて必要でないときは足は橇のはなに乗せている。下の平坦なところに行った時は立って肩の綱で「せ~の、よいしょと」掛け声を上げて曳っていた。橇曳きは危険な仕事であったが集落では命を失う大きな事故は無かったと記憶している。皆が犬の毛皮、村田銃を背負うマタギで勇ましかった。
 そのごマタギは次々とこの世を辞し木材の運搬は架線、トラックへと変遷をしていった。



雪橇は馬でも曳いていた(馬具)

 回転する横木に原木の頭を載せ、後部を引きずってブレーキとしていたが急斜面を滑走してくると迫力があった。雪橇曳きは皆が気を引き締めていたが、腰を痛めたり、足をくじいたりするようなことがよくあった。
 怪我をすると蝮焼酎(まむししょうちゅう)を布に浸し患部に一晩張りつけておくと治った。昔の家には蝮を焼酎にに入れた一升瓶がどこの家にもあった。

   

材はナラで橇巾が全長に比較して広く安定度が高く積雪も多く寒気に厳しい地帯に適し使用されてきた。

 

木製の滑車は蔵に所蔵されていた。製作・使用年代などは不明。

片方に舵取りの腕木(うでき)

タガ(タンガ):雪面と橇台の間に咬ませてブレーキにする。

 雪橇の製作には1.良く滑らなければならない。2.原木の重量(2~3㌧)に耐えなければならない。3.堅材で粘りのある材。これらはすべて長い間の経験からマタギが鉞(まさかり)で削って作っていた。重量もあり、堅く丈夫な橇で原木の運材を終え、橇道を背負って登っていく、疲れた時は背負ったまま橇を立て、立ったままで休んでいた。

 山の神は山神様(サンジンサマ)を祀っていた。12月12日が山の神の祭日で仕事は休んでいた。山の神さまは「山に宿る神」とされ、集落では「さんじんさま」と祀られている。人智が及ばない領域。山に生きる動植物や山・水などを支配し、魑魅網魎たちがうごめく聖域。マタギたちに多くの「恵」をもたらす「守り神」とされた。12月9日は「さんじんさま」が山を調べる日。11日は山の神の通夜、12日は年祝いで、この日は山仕事もマタギもしてはいけない。やむを得ず山に入らなければならない時は、午後からなら良いとされた。この日、「カラウス」で餅をついて二つ重ねにしてお供えをしている。
 
 雪国での生活の実態を初めて全国に伝えたのは、天明年間(1830-1844)に越後地方の生活や風俗などを克明に記録した越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)の北越雪譜である。
 八木沢集落は鈴木牧之・北越雪譜に登場する伐採運搬の様子に類似している。かつての八木沢集落では半世紀前の村田銃を背負う凛々しい姿の明治、大正のマタギ衆はすでにこの世を去り、集落のマタギ文化は遠い遠い過去のものとなってしまった。(記 佐藤良美)

【参考文献】
 ・雪の民具(考古民俗叢書)勝部正郊(著) 慶友社
 ・北越雪譜(岩波文庫)鈴木牧之(著)

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー



【自然への畏れ】先祖を敬い自然に感謝したマタギ文化、消滅する!

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

【屈強のマタギ】 秋田県・八木沢集落 最後のマタギ 佐藤良蔵
村田銃を背に射止めた巨熊と(1958年春、旧八木沢分校跡地にて) 

 09年春 集落最後のマタギが鉄砲を返納
              200年近いマタギ文化が途絶えた その歴史を後世に語り継ぐ!

 熊は山の神からの恵み、だから射止めた熊肉を集落のみんなに振る舞う。振る舞う役目を担うのが代々のマタギを継承する「ワシャド」(子供)で、その儀式は先祖代々から引き継がれた風俗習慣だった。そのマタギ文化も2009年春、集落最後のマタギ、佐藤良蔵が愛用した鉄砲を地元警察署に返納し、集落からマタギ文化は消滅した。

 15になればマタギとして認められたものだ。火薬も弾も自分で作り獲物を射止める時には弾を獲物の種類と距離によって選んだ。そのため弾は狩りの用途に合わせ、火薬の分量を使い分けて作った。猟具は先祖代々から大切に受け継がれたもので槍は村の男衆がみんな持っていた。火縄銃は村で4~5人のマタギが持っていて我が家の先祖も持っていたが戦前手放した。俺(おれ)が最初にもったのが村田銃で先代の金治(五代目マタギ)の物だった。村田銃は値段が安いが重く、銃身が長く的を絞り込むのが難しかったが弾が遠くへ飛んだ。冬場、鉄砲には熊の油を塗って凍らないようにした。 熊狩りは射止める時、ギリギリの至近距離まで近づき発砲する。狩りで傷ついた熊の深追いはしない。真鍮の弾は普通16番で12番は兎や山鳥等を撃つ。24番、28番は熊を含めた大型獣用、30番は熊専用、村田銃の弾丸距離は普通の弾で150㍍、熊弾で2~300㍍。マタギが熊を撃つためには近づくだけ近づいて撃っ。熊が死ぬ距離は30~50㍍位の距離だった。(集落最後のマタギ 佐藤良蔵談 2013.12.15没)
※村田銃~手元で弾を込める「元込め方式」で重量も重く、火縄銃と比べるとはるかに扱いやすく、真鍮雷管を使って威力も数段優れ弾(火薬は黒色火薬)も自分で作った。

 


  

<八木沢集落 最後のマタギ佐藤良蔵>

写真左:良蔵マタギ、鉄砲を二丁所持。向って左側が「村田銃」で昭和40年ころまで背負った
写真右:良蔵マタギ、半世紀ぶり根子集落へ 先祖、七左衛門は組頭:善兵衛シカリから分家していたのをはじめて知った。集落のマタギ調査は、この日はじまった。(2010年6月17日)

 

佐藤良蔵マタギが解体をしたマミ(アナグマ)とテンの毛皮 

  マタギには長い歴史がある。動物は感が鋭いので気づかれないよう 皆が心をひとつにしたものだ。長いマタギの慣習のなかで、猟期が近づくと気心の合ったマタギが親方の家に集まった。(父良蔵マタギからの聞き取り:三男良美)

 【八木沢マタギ】八木沢集落は文化10年(1813)、秋田郡大阿仁根子(現阿仁町)のマタギが移住・定着している。根子は マタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった「万次・盤(万)三郎」を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい「長男相続制」のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど「マタギ文化」が広範囲に拡散されている。 1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754-1829)は、マタギの里として知られる「奥阿仁地域」を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。文献: 『みかべのよろい』菅江真澄著
 真澄翁が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が移住・定着。徳助翁は村田組に所属するマタギ、三之助翁は山田六之丞シカリから分家、七左衛門翁も善兵衛シカリから分家していた。のちに山田三之助翁は若死にし、根子の最後のシカリ富久栄翁(父親は佐藤富松)の先祖、八助シカリから三冶郎翁が後継をしている。集落は近世から「出羽丘陵・奥羽山脈」での狩りをする狩猟民の中継地点。冬場は豪雪にみまわれ厳しい自然環境のもと、狩猟が盛んに営なまれた。山の神に対する厚い信仰をもち「俗信、禁忌」があった。昭和30年代、民俗文化の大きな転換期をむかえる、伝統的な信仰・行事・習俗・芸能にいたるまで大きく変化。小さな一地域の民俗文化の改廃。「鉄砲も槍もどこのえさもあった(家にもあった)。みんなマタギだった。自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を造ったものだ」と古老は語った。昭和30年代、八木沢集落も高度経済成長とともに若者が流出、過疎化による後継者不足となり、2009年春、集落最後の古老マタギが所持許可証の有効期限を半年残し、鉄砲を秋田県警察北秋田警察署に返納した。日本の民衆の文化「狩猟伝承」を保持してきたマタギ集落が惜しまれながらも消えていった。200年の歴史だったという。わずかに残された伝承や信仰、俗信、禁忌などを語る者は、古老のみとなった。

写真左から 勢子の松夫、良蔵・新吉・徳三郎・片腕の幸市・一郎マタギ(昭和50年代)

 

     写真左:新吉マタギ(明治生)犬の毛皮をきて村田銃を背負う足の速いマタギだった(平成3年秋)
     写真右:勇太郎マタギの兄清は旅マタギだった。取材で「絆」を強く感じた(平成12年7月30日)

 ・佐藤勇太郎マタギ (大正12年生)
八木沢は元々、旅マタギだったという。この日、私は戦前の勇太郎マタギを尋ねた。そして兄の清マタギの話を聞いた。集落は昔からマタギが盛んだった。昭和10年頃まで猟だけで生計を立て、青森県白神山地まで狩りに出たマタギもいた。私が幼少のころ、背が高くメガネをかけた清マタギがいた。清マタギは旅マタギを専門とし、集落でも人望の厚いマタギだった。当時の様子を知りたいと村内に住む清マタギの弟、勇太郎マタギを尋ねた。勇太郎マタギも戦前まで八木沢でマタギをしていた。当時、佐一郎(明治45年生)、良蔵(大正13年生)、敏雄マタギなどと巻狩りをした。昔は八木沢と根子を結ぶ山道が三つあった。勇太郎マタギは主に集落の下流から根子に超える「ほくら」の山でクマやバンドリ(ムササビ)、ウサギ、ヤマドリなどの狩りをした。昔は獣の皮が高値で売れた。鉄砲もヤリもどこの家にもあった。ムラの男衆は、みんなマタギ。兄、清は「村田銃」と「もど折れ銃」の2丁持っていた。自分で鉛を溶かし鉄砲の弾を造って冬が近くなると津軽へ川向いの勇蔵マタギ(明治26年生)と一緒に旅マタギにでかけた。何カ月も帰らなかった。清が家にもどるとザックの中から燻製にしたカモシカなどの肉をドッサリ出したという。青森県西部に位置する白神山地や岩木山が聳える津軽が専門だったという。最後に勇太郎マタギは「大昔は八木沢も新潟方面にマタギにいったと思う」と語った。(2012.07.30 聞き書き 佐藤良美)

・八木沢分校 大沢要蔵先生
八木沢マタギは明治時代に盛んに狩猟が行われ、昭和の十年頃までは猟だけで生計を立て、青森方面までも出たマタギもいた。昭和五十八年八木沢分校廃校記念紙に、大正十二年十月一日付けで教員として八木沢集落へトロッコ列車に引越荷物を積んで着任した、大沢要蔵先生が部落区長、佐藤金治宅に宿泊した時の思い出を書いている。「部落の人達は実に裕福な生活水準をもっていた。猟の収入など一日に二十円、三十円、五十円と・・・・・当時の教員の月手当てが二十円で、生活水準の高さに驚いた。住人のほとんどは冬期間の狩猟従事者、その為か生活文化の水準は中流以上と書き記した。(八木沢分校廃校記念紙より)
        
 根子の國男マタギ いい腕を持つ名マタギ!昔のマタギを語ってくれた
 
國男マタギ(大正10年生)は七之丞シカリを祖父にもつ、血族を受け継ぐマタギで七之丞の伝統マタギを引き継いだ。根子マタギ、最後のシカリ・富久栄(ふくえ)マタギと松橋旅館の松橋マタギは血族で従兄弟にあたる。3軒が本流を引き継いだマタギの血族。富久栄マタギの父親は國男マタギの父の弟で従兄。最初に村田銃を持ち最後まで村田銃を使った。真鍮に鉛の玉を詰め自分で造った。
 八木沢と萩形は根子から分家を出したところだ。八木沢の佐一郎マタギの父親は根子の八助(八助シカリ)からでているので俺(國男マタギ)や富久栄とは親戚だ。狩りで八木沢、萩形、太平山方向にマタギに行く時には「日光山」「高野山」の巻物がなければ通れなかった。そのため古物商の許可が必要であったようだ。古物商の七之丞シカリが取り仕切っていた。クマの胆(い)などは七之丞が集めていた。善兵衛シカリが根子で最も古いシカリで、そのあとを全兵衛がひきいる5人の仲間を七之丞シカリが継いだと聞いている。太平山方向はマタギ道だった。八木沢に行くのに堀内沢を渡らなければならなかった。沢は密林で、ほとんどが天然杉の巨木に覆われ、冬でも水が多く渡れない時が何度もあった。根列岳から幾つもの峰を越え八木沢に下りないでまっすぐ進むと赤沢に出た。赤沢の沢も何度も渡った。いたるところにクマの歩いた痕跡があった。八木沢と根子は、お互いに情報を交換し共同で狩りをした。狩りは4・5人ぐらいで木のウド(穴)に泊まって狩りをしたことも何度もある。朝まで火を焚いて泊まったが火や物事の順序について非常に厳しい事を言われた。特に食べ物を食べる時など厳しかった。たとえば「ご飯ヘラ」は必ず二本作った。箸は下から削った、マキは必ず下から燃やした。串(肉や魚を刺す)を作る時には必ず根元から削る、火を焚くときには裏から(木の根子)くべる(燃やす)と厳しく言われた。おそらく物事の順序から言ったのだろう。裏からでなく元からということではないのか。狩りでとった獲物をその日に食べた。「おにぎり」が固くなりヤマドリを煮込んだ中に入れたのが「キリタンポ」の元祖となった。
 マタギの巻狩りについてもとても厳しかった。マタギの危険に対しては厳しかった。狩りでは「乗じた人が光を見る」勢子に対して厳しかった。※乗ずる(勢いのある人が的をえる)勢子マタギは「へたな人」は獲物を追えなかった。三方から連絡とってクマを追うが下手な人は追えない、だから勢子には厳しかった。狩りでウサギの足跡を追っていくと「トントン」と幅広く走った足跡が止まる頃になると穴に入る。近くに足跡が狭くなるとウサギは近くの穴に入っている。穴をのぞくとウサギのマナグ(目の玉)がキョロキョロしている。動物(カモシカ)を含めて獲物と言った。根子にもサルがいた。昔は八木沢の「こえど」付近でサルが死んでおった。場所は八木沢の頂上付近だった。冬、根子から行って別れて下り口に「ガンケ」(岩場)にいけばサルの足跡があって、何匹かの群れがあった。八木沢に超える「こえど」あたりで「だれそれ誰それ」の「くぼ地」と、それぞれ名前が付いていたものだ。根子はカモシカの毛が取れなくなってから犬の毛皮を着た。寒中、八木沢の奥、赤沢まで狩りにいった。赤沢はブナ林だった。赤沢で狩りをした時には八木沢に泊まった。昔から根子と八木沢は共同で狩りをしていたので縄張りはない。胸までヌカル雪の中をまっすぐ歩けと厳しくいわれた。獲物を捕ったときにブナの木に日にちや場所・名前を彫った。彫ることは先祖代々から受け継がれた伝統であった。山で仕留めた熊を生で持ってきたかったが奥山では無理で解体した。それ以外は沢に流して運んだ。綱(つな)を結んで運んだ。

 根子は『善兵衛、七之丞、伊之助組がマタギの指導者であった。いまはマタギとは言わない。マタギは「精神力」だ。獲物を「獣」といった。この根子でも昔の話をする人はいなくなった。マタギは昔にもどることはない。マタギを語れる人は俺(國男マタギ)と冨久栄の二人だけになってしまった。』と語った。 

 

         写真左:マタギの発祥とされる、秋田マタギ「根子集落」 
         写真右:根子の國男マタギ 先祖代々マタギを継承、誇りとプライドを肌で感じた

 根子集落は1㍍ほどの積雪だが綺麗に除雪されていた。両側に積まれた純白の雪を見て思わず感激をしてしまった。心のなかは國男マタギの話で満たされた。マタギの調査は冬山で生き物の調査をする思いと同じだと思う。だから私はこの日を選んだ。(撮影/記録 2011.02 .12 佐藤良美) 

  

            写真左:高台から見下ろすマタギ集落「根子」(2010.06.17)
            写真右:根子 冨久栄マタギ 貴重なマタギ文化を熱く語ってくれた

 冨久栄マタギは佐藤家の11 代目にあたる。(六代目八助、7代目仁助、8代目八五郎、9代目福蔵、10 代目富松、11代目冨久栄マタギ) 「一番大切なのは、山との調和・・・」根子マタギ、最後のシカリ・冨久栄マタギの言葉がいまでも印象に残る。2時間あまり「マタギ文化」について話を聞いた。
 冬山を歩き、熊を仕留める荒仕事から想像される「猛々しさ」とはおよそ遠い、温厚な人柄が印象的だった。マタギとしての強い誇りとプライドがいまなお忘れることができない。
 (撮影/記録 2010.07.02 佐藤良美) 
 
  
≪八木澤マタギを語る会≫
・秋田県のがんばる農村漁村集落応援サイト「八木澤マタギを語る会 佐藤良美さん」 

≪マタギを語る会の歩み≫
◆平成21年10月15日 第一回八木沢マタギを語る  秋田市内公民館 報道関係者のみ
◆平成22年10月15日 第二回八木沢マタギを語る   秋田市内 西部サービスセンター  

西部サービスセンター「ウエスター」にて

◆平成23年10月15日 第三回八木沢マタギを語る 秋田市内 社会福祉法人介護老人保健施設  

 秋田市内 介護老人保健施設にて 

◆平成24年10月15日 第四回八木沢マタギを語る 秋田市内 北部市民サービスセンター 
◆平成25年10月15日 第五回八木沢マタギを語る 秋田市内 旭北地区コミュニティセンター 
◆平成26年10月15日 第六回八木沢マタギを語る 国立大学法人 秋田大学 

      マタギ狩猟用具、古文書、民具、鳥類資料など130点を公開( インフォメーションセンター)

 

中央にヤリ三点(二点は文化財)、右端にマタギの衣類を織った機織り道具(江戸後期) 

 ◆平成27年10月15日 第七回八木沢マタギを語る 秋田県・上小阿仁開発センター

 秋田県・上小阿仁開発センター 13:30~15:30 集会室にて

地域資源学習会(文化・歴史・自然編)・八木沢のマタギ文化を学ぼう!
 「八木沢マタギを語る」in KAMIKOANI  主催:上小阿仁村食農観丸ごと推進協議会 

10・15 「八木沢マタギを語る」 上小阿仁開発センターにて開催

マタギ槍三本や火縄銃の背負袋(村文化財)等の機能・検証をする

◆平成28年10月15日 第八回八木沢マタギを語る
                  中止
◆平成29年10月15日 第九回八木沢マタギを語る
      中止
◆平成30年10月15日 第十回八木沢マタギを語る
      中止

       
◆「八木沢マタギ」広報・新聞掲載記事

平成12年11月14日 河北新報 「山の民の息吹伝わる」秋田版
平成21年10月16日 北鹿新聞 1面「最後のマタギ静かに銃置く」
平成21年10月28日 朝日新聞 秋田版「集落最後のマタギ引退」
平成21年11月03日 おおだて新聞 3面「最後のマタギ銃を置く 獲物追い70年余山へ」
平成22年01月01日 北鹿新聞 元旦号上小阿仁村八木沢集落「最後のマタギ」
平成22年03月08日 秋田さきがけ投稿 声の十字路 後世に伝えたい「八木沢マタギ」
平成22年09月22日 秋田さきがけ投稿 声の十字路「八木沢マタギのルーツを探しに」
平成24年01月01日 朝日新聞 忘れられた 日本人 最後のマタギたち
平成24年03月15日 北鹿新聞 「八木沢マタギ」後世に 村文化財に申請
平成24年05月12日 北鹿新聞 上小阿仁村文化財保護審 マタギ用具の審議開始
平成24年05月12日 秋北新聞 マタギ狩猟用具を審議 「村有形」の指定申請
平成24年05月22日 上小阿仁新聞 マタギ狩猟用具を審議 村文化財保護審議会
平成24年05月29日 北鹿新聞 八木沢で現物調査 熊槍などマタギ用具
平成24年06月27日 朝日新聞 秋田版「八木沢マタギ」残さねば200年の証し
平成24年09月01日 北鹿新聞 八木沢マタギ狩猟用具 有形文化財指定
平成24年09月07日 秋田さきがけ 八木沢マタギ狩猟具を指定
平成24年09月08日 秋北新聞 マタギ狩猟用具文化財に 「背負袋」など計5点
平成24年10月発行  『広報かみこあに平成24年10月号645』村有形文化財第1号が指定されました!』
平成24年10月05日 秋田さきがけ 投稿 声の十字路「後世に伝えたい マタギの心、文化」
平成24年10月11日 河北新報  八木沢「旅マタギ」に光
平成24年10月18日 しんぶん赤旗「秋田 八木沢マタギを語る会」人は歩いた山だけ山を知る
平成25年12月26日 秋田さきがけ 「郷土愛貫き集落維持」集落最後のマタギ 佐藤良蔵死去
平成26年02月19日 朝日新聞 マタギ馬を診ていた?上小阿仁 貴重な労働力管理
平成26年02月19日 秋田さきがけ 江戸期の馬医学書発見
平成26年03月09日 河北新報 ワイド東北「秋田マタギ文化思い募る」
平成27年01月発行 秋田大学広報誌〈アプリーレ〉NO.47  特集 地域貢献
平成27年12月発行 農林水産省情報発信誌『aff』12月号[COLUMN1] 山の恵みとともに生きる
          八木沢マタギの狩りと暮らし
平成29年10月17日 秋田さきがけ マタギの集落 縄文人も永住?上小阿仁村・八木沢

 

 

【八木沢集落】のぼり旗、右は「山神(さんじん)神社」、左が「愛宕神社」いづれも愛宕山・愛宕神社境内入口,鳥居の両側に立てられた。(2013年5月)

山の神さまは「山に宿る神」とされ、集落では「さんじんさま」と祀られている。人智が及ばない領域。山に生きる動植物や山・水などを支配し、魑魅網魎たちがうごめく聖域。マタギたちに多くの「恵」をもたらす「守り神」とされ、畏敬と畏怖を支柱に日々感謝の心を忘れることはなかった。

【山の神さま】(さんじんさま)山の神は12月11日から12日とし、11日は山の神の通夜といった。12月9日は「さんじんさま」が山を調べる日。12日は年祝いで、この日はマタギをしてはいけない。やむを得ず山に入らなければならない時は、午後からなら良いとされた。この日、「カラウス」で餅をついて二つ重ねにしてお供えする。「さんじんさま」はオナゴ(女性)の神さまで、お供え物には一切、オナゴは手をかけてはならないと厳しく戒められていた。   

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー


<八木沢マタギ>狩猟用具の機能・検証(村文化財)

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

 
有形民俗文化財 火縄銃の背負袋 (しょいぶくろ)

 

 上小阿仁村教育委員会は2012年(平成24年)8月29日、明治22年町村制の施行以来、初の「八木沢マタギ狩猟用具」5点を村の有形民俗文化財第1号に指定した。

  員   数:5点 「マタギ熊槍・マタギ槍・火縄銃の背負袋・マタギマキリ・マタギベラ」 
  指定日:2012年(平成24年)8月29日
  所在地:上小阿仁村八木沢
  所有者:佐藤良美(継承 佐藤良蔵の三男:平成26年3月1日 上小阿仁村教育委員会)
  参照:『広報かみこあに 平成24年10月号 645』村有形文化財第1号が指定されました!』

 古来、日本民衆の狩猟用具は先人から受け継がれた文化をもち「普遍的習俗」が守られた。史料五点は八木沢集落が阿仁・根子集落から移住以前から用いられたものとされる。いずれも近世中期から後期。所有者は代々のマタギを継承する六代目:佐藤良蔵マタギ(1924-2013)。先祖は根子マタギの組頭(伍長)善兵衛から分家。狩猟用具は所有者が所有する近世後期の「蔵」(クラ)に収蔵されていたものである。
 文化財指定に際し、所有者の三男、佐藤良美の「200年の証しを後世へ残したい。残された狩猟用具は個人所有のものであるが、集落の狩猟文化の生成と変遷が凝縮されたものである」とする強い熱意があったとされる。


 日本の狩猟採集文化、すなわち「狩猟伝承」は、ある時代にある土地の人びとが「獣」に対して抱いた考えかたを語るもので、まして現代では多くの日本人にとって、過去として埋没してしまったものの残片に過ぎないが「狩猟採集」に用いられた狩猟用具は日本における狩猟習俗の得意性を知るうえでも重要かつ八木沢集落が誇るべき貴重な民俗遺産で歴史的価値がある。

≪狩猟用具5点の機能・検証≫


1.マタギ熊槍(くまやり)(三角槍)(穂先:37・8㌢・柄:2㍍) 近世後期。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州・秋山郷、秋山マタギが所持した槍と類似する。大型の熊槍専用で「タチマエ」(射手)が所持したものである。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称。熊猟で用いられた。


2.マタギ槍 身…鉄材 木部材質:クルミの木  近世初期から中期。阿仁マタギは「たて」(槍型)と呼称。阿仁マタギ猟具と同一。根子から移住以前から用いられたものである。一般的な「槍」でクマ狩りなどに用いた。火縄銃が浸透する以前からの代表的な狩猟具であるが、鉄砲が普及したあとも用いられた。


3.火縄銃の背負袋 (しょいぶくろ) 近世末期とされ、旅マタギで用いられた。牛革で作られた鉄砲のケースで「火縄銃」を入れた。「背負袋」は冬狩りで雪の上においても濡れない、凍らないなど寒中のマタギに適した。


4.マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢  マキリはアイヌ語と共通。近世中期。クマやアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと酷似。


5.マタギベラ(長さ167㌢・幅8㌢) 近世中期。イタヤ製の雪ベラ。日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。まん中の窪みは火縄銃が用いられたときに上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけたものである。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。



第5回 上小阿仁村議会定例会会議(2012.12.12) 

 平成24年12月12日 第5回上小阿仁村議会定例会会議録(第1号) 次に教育委員会関係について申し上げます。
2,生涯学習・社会体育関係について
(1)8月29日の教育委員会において、八木沢マタギ狩猟用具5点が上小阿仁村有形民俗文化財として指定されました。生涯学習週間期間中の10月21日には、生涯学習センター・郷土資料室において一般公開され、多くの村民の方々から好評を博しました。(村長:中田吉穂) 

 

 村内初、八木沢集落に残された『マタギ狩猟用具5点』が有形民俗文化財として誕生。マタギの調査に協力してくださった下記の方々に対し、集落のマタギ文化を後世に残そうとするものとし、深い謝意を表します。(敬称省略・順不同)

 

【マタギやその直系親族、集落及び狩猟関係者】

・山田運治郎、山田佐一郎、佐藤清、佐藤勇太郎、佐藤一郎、村田肇、佐藤政雄、山田富弥
 佐藤良蔵、村田チサ(旧姓佐藤),佐藤テツエ(旧姓山田)、三浦ミヨ(旧姓山田) 、佐藤ハルエ
 門間テルイ(旧姓村田)ほか(八木沢集落)
・旧萩形集落、不動羅集落(上小阿仁村)、五城目町落合集落、上新城集落、仁別集落(秋田市)
・佐藤國男(マタギ)、佐藤冨久栄(マタギ)、佐藤仁朗(元教師)、佐藤哲也(元教師)ほか(根子集落)
・信州・秋山郷(新潟県)の狩猟関係者、朝日村(新潟県)の狩猟関係者
【公共団体及び企業関係機関】
・新潟県庁、村上市「縄文の里・朝日」、津南町歴史資料館(新潟県)
 秋山郷総合センター(新潟県)、栄村(新潟県)ほか
・北秋田市阿仁支所、阿仁マタギ資料館、根子児童館、西根製作所(阿仁町)ほか
・碧祥寺マタギ資料館(岩手県)、宗洞宗秋田禅センター(秋田市)、上小阿仁村役場ほか
【報道機関】
・朝日新聞(矢島大輔記者)、河北新聞社(安達孝太郎記者)
 北鹿新聞(大高健一・菅原由朋記者)、秋田魁新報社読者交流部ほか。

 狩猟用具の文化財登録に際し、貴重な情報や資料のご提供をいただき心より感謝申し上げます。八木沢集落は江戸後期(文化10年)、マタギの発祥とされる秋田県北秋田郡荒瀬村根子のマタギによって開かれた村であります。そこに先祖代々から命の次に大切なものとされる狩猟用具が村の有形民俗文化財の指定を受けたことは喜びに堪えません。猟具は集落のマタギ文化の特色を示すものでありますが秋田マタギ(阿仁マタギ)との歴史的変遷、時代的特色、地域的特色など、集落の生活様式や様相を示すものであり、マタギ文化の歴史上、その価値を形成している集落が学術上価値の高い歴史史料にもなり、極めて価値が高く重要であると思っております。
 生き物の調査をしていますと一瞬ではありますがクマなどの大型動物をみかけます。私はアオ(カモシカ)であれ、クマであれ、直近まで近づこうとします。生きものだって人間と同じ命をもつ仲間であります。マタギの原点はここにあるはずです。

 2009年春、集落最後のマタギが鉄砲を返納し集落のマタギが途絶えました。自分にできることは何なのかと思いました。マタギ文化、集落のマタギの歴史を残すことは集落のマタギに対する今日まで育ててくれたご恩返しだと思いました。

 振り返れば、たとえ小さな村役場であっても、いざ文化財登録の可否を決めるとなれば厳しいものがありましたが、最後の最後まで村教育委員会を信じ誠意をつくしました。この間、多くのマタギ関係者からの励ましのお言葉を頂戴いたしました。また、報道関係者においては最初から最後までマタギ文化を後世に残そうとする私の熱意を紙面に書き続けた朝日新聞:矢島大輔記者、河北新聞:安達孝太郎記者、秋田魁:読者交流部(投稿声の十字路)そして北鹿新聞:大高健一・菅原由朋記者などからの支えがなければいまはありませんでした。心から感謝申し上げます。ありがとうございました。(佐藤良美)

 

八木沢集落最後のマタギ 佐藤良蔵は平成25年12月15日午前1時50分永眠をいたしました。

 

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

八木沢マタギ狩猟用具 村有形民俗文化財への歩み

2016年12月15日 | 八木沢マタギ


2012(平成24)年03月14日 上小阿仁村教育委員会へ文化財指定登録申請


父良蔵所有のマタギ狩猟用具を父の意思に基づき三男・良美が申請をした。
北鹿新聞記事写真より 出川幸三教育長、田中文隆事務局長、上杉大志主任、佐藤良美(八木澤マタギを語る会代表)

同年 5月2日 八木沢の蔵(クラ)から新たに「槍」が発見されたため、再度、父良蔵の意思に基づき三男・良美が教育委員会へ文化財登録の再申請をした。


上小阿仁村文化財保護審「マタギ用具」の審議開始 北鹿新聞 2012年(平成24年)5月12日(土曜日)


上小阿仁村文化財保護審「熊槍(くまやり)などマタギ用具」八木沢で現物調査 

 



平成24年6月18日 第2回 上小阿仁村議会定例会 会議録より
2.生涯学習・社会体育関係について
(2)5月11日に村文化財保護審議会を開催。有形文化財の指定については、八木沢マタギ狩猟用具5点に係る申請書の提出を受けて、今後数回に渡り審議会を開催しながら、慎重に審査を重ねていくことを確認しまた。また、その一環として5月28日には現地(八木沢)において、狩猟用具の現物を視察しております。(村長:中田吉穂)

【八木沢集落 マタギ狩猟用具・現物調査(村教育委員会)】
平成24年05月28日(月)09:00~11:30 八木沢集落において狩猟用具の現物を視察。
上小阿仁村文化財保護審議会(萩野芳紀会長)は八木沢マタギ狩猟用具の文化財指定登録申請に基づき、同集落で狩猟用具の現物調査を行った。

【出席者】

萩野芳紀審議会長、高地文雄審議員、武石多七審議員
出川幸三教育長、伊藤清事務局長、上杉大志主任
佐藤良蔵(八木沢集落最後のマタギ)、佐藤良美(八木澤マタギを語る会代表)
報道関係者:北鹿新聞社 大高健一記者 

  

萩野審議会長に解説をする佐藤良蔵マタギ(写真中央)

27日早朝、父良蔵マタギに電話を入れた「オヤジ、あした教育委員会がマタギの物を見にくる、マタギの物は先祖代々からのものだ。だから代々の先祖が暮らした屋敷跡で見せたい」とつたえた。
 八木沢集落は文化10(1813)年、旧北秋田郡荒瀬村根子のマタギが定着して移住する。根子を背に左から「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒。その両隣には別家が建ちならんだ。

  

 狩猟用具は先祖に対する畏怖(いふ)。狩猟用具の両側にお神酒として酒二升を捧げた。写真中央が集落最後のマタギ佐藤良蔵。マタギとしての強い信念と誇り、プライドを生涯崩すことはなかった。父良蔵マタギに熱心に質問をする先生がいた。あとで伊藤事務局長に聞いたら審議員の武石多七先生だといった。(写真左から二番目)同年8月29日、念願の八木沢マタギ狩猟用具5点が村有形民俗文化財第1号の指定を受けた。帰り際、出川教育長から武石多七先生が数十日前にご逝去されたときいた。多七先生にとって、この日が最後の貴重な職務になってしまった。きっと草葉の陰で心から喜んでいると思った。

 マタギの調査のなかで多七先生だけでなく数名の方が世を辞したことがとても悔やまれてならない。狩猟用具の現物調査は村教育委員会へ先祖代々が営んだ屋敷跡を指定した。それは近世後期、代々のマタギ文化を厳格に継承する秋田マタギの流れをくむ偉大な先祖に対する畏怖(いふ)であった。 

 蔵(クラ)

 狩猟用具は、この蔵(クラ)に収蔵されていた。二階建てで近世後期に建てられている。強風で屋根などが飛ばされたり経年劣化により雨漏りによる部材が腐食しているが「はりや柱」はしっかりしている。ふんだんに天然スギの巨木を用いて建てられた蔵は集落の文化を示すもの。失われゆくマタギ集落の歴史として後世に残したい建物である。

 蔵のなかに収蔵さた「機織り」は三代目マタギ:長吉の妻が織っていたと伯母(おば)がいっていた。蔵や狩猟用具は、その家の家宝であり、世襲を受け継ぐ代々の長男が厳格に継承をした。

<八木沢マタギ>念願の狩猟用具 5点 村有形民俗文化財 第1号に指定!先祖代々からのかたい絆を胸に後世への第一歩!


 上小阿仁村教育委員会に於いて「文化財指定書」が交付される。写真左から出川幸三教育長、佐藤良蔵マタギ(八木沢集落最後のマタギ)、佐藤良美(良蔵マタギの三男・八木澤マタギを語る会代表):2012.08.29教育長室に於いて 

 2012(平成24)年8月29日、明治22年町村制の施行以来、初の「八木沢マタギ狩猟用具」5点が村有形民俗文化財第1号に指定される。ここに八木沢集落、200年の凝縮された狩猟文化の歴史が残された。 

八木沢マタギ狩猟用具 有形文化財に指定 上小阿仁村「マタギ熊槍(くまやり)」など5点 
北鹿新聞 2012年(平成24)年09月01日(土曜日)の記事


 2012年(平成24)年12月12日 第5回上小阿仁村議会定例会会議


平成24年12月12日 第5回上小阿仁村議会定例会会議録(第1号)
次に教育委員会関係について申し上げます。
2,生涯学習・社会体育関係について
(1)8月29日の教育委員会において、八木沢マタギ狩猟用具5点が上小阿仁村有形民俗文化財として指定されました。生涯学習週間期間中の10月21には、生涯学習センター・郷土資料室において一般公開され、多くの村民の方々から好評を博しました。(村長:中田吉穂)

 

≪集落に残されたマタギ文化を後世に語るとして10月15日開催している≫

第七回 八木沢マタギを語る「鈴木牧之・秋山紀行 秋田マタギとの出会い」
 2015.10.15  「八木沢マタギを語る」in KAMIKOANI
主催:上小阿仁村食農観丸ごと推進協議会
上小阿仁開発センターにて 写真提供:上小阿仁村役場 産業課 林務商工班

 私が生まれ育った地に長吉・長松兄弟が住んでいた。電気も無い真っ暗な奥座敷の床の間に日本刀などと一緒にあった。奥座敷には男でもワシャド(子供)でも入ってはいけないと思っていたが、見たい一心で恐る恐るなかに入って見たことを思い出す。建物は昭和30年代の中ごろ解体された。貴重な史料があったと思う。いま思うととても残念でならない。

 解体をされた家は近世後期、根子の組頭・善兵衛マタギから分家した初代・七左衛門が移住・定着した。大きな屋敷で二階、左右の白壁には「源氏の家紋」と「長」の文字があった。「長」は長吉、長松兄弟の頭文字と思う。二人の兄弟は伝承や口伝、残された狩猟用具などから近世、諸国を旅する旅マタギであったと推測される。2012年(平成24年)5月28日 記録 佐藤良美

江戸期から先祖代々家宝とし厳格に継承されてきた狩猟用具などを展示した
 2015.10.15  上小阿仁開発センターにて 写真提供:上小阿仁村役場 産業課 林務商工班

 
 狩猟用具の文化財登録に際し、貴重な情報や資料のご提供をいただき心より感謝申し上げます。八木沢集落は江戸後期、マタギの発祥とされる秋田県北秋田郡荒瀬村根子のマタギによって開かれた村であります。そこに先祖代々から命の次に大切なものとされる狩猟用具が村の有形民俗文化財の指定を受けたことは喜びに堪えません。猟具は集落のマタギ文化の特色を示すものでありますが秋田マタギ(阿仁マタギ)との歴史的変遷、時代的特色、地域的特色など、集落の生活様式や様相を示すものであり、マタギ文化の歴史上、その価値を形成している集落が学術上価値の高い歴史資料にもなり、極めて価値が高く重要であると思っております。
 生き物の調査をしていますと一瞬ではありますがクマなどの大型動物をみかけます。私はアオ(カモシカ)であれ、クマであれ、直近まで近づこうとします。生きものだって人間と同じ命をもつ仲間であります。マタギの原点はここにあるはずです。

◆村内初、八木沢集落に残された『マタギ狩猟用具5点』が有形民俗文化財として誕生。マタギの調査に協力してくださった下記の方々に対し、集落のマタギ文化を後世に残そうとするものとし、深い謝意を表します。(敬称省略・順不同)

 【マタギやその直系親族、集落及び狩猟関係者】
・山田運治郎、山田佐一郎、佐藤清、佐藤勇太郎、佐藤一郎、村田肇、佐藤政雄、山田富弥、佐藤良蔵、村田チサ(旧姓佐藤),佐藤テツエ(旧姓山田)、三浦ミヨ(旧姓 山田) 、佐藤ハルエ、門間テルイ(旧姓村田)ほか(八木沢集落)
・旧萩形集落、不動羅集落(上小阿仁村)、五城目町落合集落、上新城集落、仁別集落(秋田市)
・佐藤國男(マタギ)、佐藤富久栄(マタギ)、佐藤仁朗(元教師)、佐藤哲也(元教師)ほか(根子集落)
・信州・秋山郷(新潟県)の狩猟関係者、朝日村(新潟県)の狩猟関係者
【公共団体及び企業関係機関】
・新潟県庁、村上市「縄文の里・朝日」、津南町歴史資料館(新潟県)
 秋山郷総合センター(新潟県)、栄村(新潟県)ほか
・北秋田市阿仁支所、阿仁マタギ資料館、根子児童館、西根製作所(阿仁町)ほか
・碧祥寺マタギ資料館(岩手県)、宗洞宗秋田禅センター(秋田市)、上小阿仁村役場ほか
【報道機関】
・朝日新聞(矢島大輔記者)、河北新聞社(安達孝太郎記者)、北鹿新聞(大高健一・菅原由朋記者)、秋田魁読者交流部ほか。

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

<八木沢マタギ>記述調査と考察

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

<八木沢マタギ>明治43年(1910) 記述の調査

 

マタギの記述<山田家先祖代々紀>

 
「第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村 鎌田兼蔵方二宿泊ス又鬼ヲナス 猿弐拾三疋 青獅子一頭 マミ五疋 狸五疋 テン二疋 猟ス 此の歳テン皮一枚七円 狸皮一枚五円」(八木沢マタギ:山田家先祖代々記の記述より)



≪出羽丘陵:奥羽八木沢マタギの足跡を求めて:撮影:佐藤良美≫


前方のナガネ(マタギ言葉で稜線)を踏みしめ「信州・秋山郷」へとマタギたちが歩いたと思われる

萩形沢源流をマタギたちが歩いていた

明治初期、八木沢のマタギ一名が、この山でワシ(雪崩)に巻き込まれ帰らぬ人がいたと山田運治郎(故人)がいっていた。集落の古老マタギが重い口を開いた<マタギにとっていちばん怖いのがワシ(雪崩)>だと ※ワシはマタギ言葉で雪崩(なだれ)



≪古文書:第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村 鎌田兼蔵方二宿泊ス又鬼ヲナス≫

 

超人「八木沢又鬼の足跡を追って」(1999年春山にて調査、地図作成:佐藤良美)


 2011年 春、上新城村(現秋田市上新城)の集落を何日も尋ね歩いた。あきらめようとしたその日に「マタギ宿」をみつけた。集落の古老は貴重な話をしてくれたばかりでなく、息子さんが「湯乃沢温泉・新城鉱山跡地」などを案内してくれた。白山集落の古老の証言を元に集落の事を色々調べた。温泉は「湯乃沢温泉」で硫黄分を含んだ沢水で沸かし湯だった。明治から大正期の頃まで茅葺屋根の建物が二棟あったが昭和期に入り自然になくなったようだ。鉱山は白山集落から新城川・白山川沿い北東4㌔の地点に旧白山・新城鉱山があった。そのなかで白山沢銀山には「長坂千軒部落」があった。部落から数百㍍手前に歓楽施設として芸者小屋一棟があって銀山町として賑わいをみせていた。江戸後期、マタギの発祥とされる阿仁:根子(現北秋田市)から移住・定着した「八木沢マタギ」の姿がここにもあった。 

白山源流から『白山沢』を見下ろす。明治期、この山で狩りがおこなわれていた

前方は日本海「男鹿半島」。撮影:2013.05.06



参考文献:「秋田魁新報社出版:あきた鉱山盛衰記」新城鉱山事務所と従業員住宅(大正6年) 

長坂千軒部落・歓楽施設として芸者小屋が一棟           

「長坂千軒部落」の呼称は「長坂沢」からあてられたと思う。2013.05.16 撮影

千軒部落跡は現在、スギが植林され「長坂沢」だけが当時の面影を残す

 


新緑の白山沢  2013.05.16 撮影


 調査の結果、「南秋田郡上新城村」鎌田兼蔵は秋田市上新城小又にあった。この間、何度もあきらめようと思ったその日に見つかった。偶然、畑を耕していた人が親族だった。「鎌田兼蔵の家はここだ。昔はすごい家だった」。当時は大地主で、いまは屋敷跡しか残っていない。ここに平屋の家があって蔵もあった。裏には大きな池があると私を案内した。

 


「鎌田兼蔵」屋敷跡。大きな池にクロサンショウウオの卵がアケビの果実のような形で産んでいた

注釈)クロサンショウウオ~全長13~16cmで体色は暗褐色。止水性のサンショウウオで山地にある森林に生息し、夜行性で昼間は石や落ち葉の下に隠れて休む。肉食性で、昆虫類や節足動物、ミミズ等を食べる。卵生は2~7月に池沼、水溜り、湿地等に透明な層と白い層に包まれ、アケビの果実のような形で20~80個の卵を産むともいわれるが近年、環境破壊による生息場所や産卵場所の減少により生息数は激減している。卵は4~5週間で孵化し幼生になる。幼生は貪欲で、小型の水生昆虫や甲殻類、ミミズ等を食べるが、しばしば共食いをする。
 「サル」は昔、向いの沢や、この周辺にもいたそうだ。白山には鉱山があって、それで栄えた。「長坂千軒屋敷」という大きい集落があって温泉もあった。「八木沢マタギ」の人は狩りで射止めた獲物を温泉に持ち寄ったのではないか。白山集落は「白山様」を祀っているため、昭和2~30年頃まで肉は一切食われなかった。いくら何ぼ獲っても買う人がいなければ成立しない。マタギが獲った獲物を温泉に持ち寄ったことは十分考えられるという。また、小又集落の入口付近で尋ねた男性は白山にサルがいたことは聞いている。マタギが射止めた獲物は湯ノ沢温泉で売ったり買ったりしたのではないのだろうか、昔は銀山町としてにぎやかであったようだという。
私は、このあと白山集落を訪ねた。集落の最長老(大正12年生)は昔、おら方に「だし風」が吹く頃、奥にある、白山沢にサルが出ると聞いている。この奥に「湯乃沢温泉」があった。そこにマタギが泊まった話は聞いている。田んぼの近くで見たマタギは2~3人で阿仁の方から来たといって温泉にはいっていった。ほかにもマタギがサルを生きたまま縄でしばり二匹獲って「しょって」きたのを見た記憶がある。昔は三里も奥に部落もあったし鉱山もあった。温泉の先、100も200㍍も奥さ行けば「かやぶき屋根」の泊まるところもあったが段々と人がこなくなって温泉は昭和の初めになくなったという。 

文献:秋田魁新報社 新城鉱山「あきた鉱山盛衰記 より」


湯乃里温泉跡地 中央は祠 2011.04.20 撮影

 

集落の古老は「湯乃沢温泉」跡地に、この建物と同じような茅葺屋根二棟があったと語った


≪八木沢マタギの本質をさぐる≫
 新城鉱山が栄え、それに伴い「湯乃沢温泉」も栄えた。鉱夫が欲する物は貴重な肉ではなかったのだろうか。長坂千軒に住む、鉱山関係者の腹を満たすには程遠い肉と考えられるが、単に金銭だけではなく、マタギとしての使命を受け大自然を享受、肉をむさぼる鉱山関係者の姿がマタギの喜びであったにちがいない。新城鉱山は、やがて下火になり「湯乃里温泉」も自然に消えていった。これを境に八木沢マタギとしての使命は終わったと分析する。以前、古老マタギが「どんなに奥で射止めたクマでも集落に運んだ」。マタギは「獲物はみんなのもの、大自然から享受する最高の獲物を分け与える。その喜ぶ姿が一番嬉しいと思っていたのに違いない。出羽丘陵の山魂、「土地見平」には「近世」から先祖代々マタギが歩いた山道がかすかに残る。その道が姿を現すのは「クマ狩りが始まる春」の一瞬だけ。マタギは、その道を歩くことにより先祖代々から受け継がれる「マタギの魂」が宿ると思える。いわゆる「マタギ魂」の継承である。
 明治期に書き残された記述に隠されたものは何か。それは「大自然を崇拝する狩猟の民はみな同じ仲間ととらえ、大自然と一体であった。このことは江戸中期以降、根子マタギが奥羽山脈を旅するマタギ文化の流れをくむものである。2009年 春、姿を消した八木沢マタギは明治期、この山でも狩りをしていた。火縄銃で射止めた多くの獲物を「湯乃沢温泉」に持ち寄り、温泉を交易の場とし、鉱山で働く労働者や湯治をする人々へ山から授かった貴重な肉を供給する橋渡しの役目を担っていたと考察する。
 数日後、私は貴重な証言をしてくれた白山集落の古老を再び尋ねた。そして取材の時に写したスナップ写真を渡し、お礼の言葉をいった。思えば、古老は私が尋ねる日を待っていたかのように思えてならない。古老は昔の話を鮮明に覚えていた。「サルを縄で縛って背負ったマタギが今は消えた幻の秘湯「湯乃沢温泉」に入っていったと言う。「眼ヤニ」や「鼻水」を流しながら私に一生懸命話しをしてくれた。そればかりではなかった。幻の温泉跡を息子さんが案内をしてくれた。その温泉跡は当時の面影をわずかに残していた。中心部には、いまだに「祠」が残っていた。よくいままで沢水で流されず残っていたと驚いてしまった。語りつきない大昔の話だが長居をすれば、ご迷惑になると思い、話の切れ間に別れをつげ、戸口をでた。心の中で「よくここまで生きていてくれた。元気でいて下さい」と祈る気持ちで古老の家をあとにした。(探究考察:佐藤良美)

【参考文献及び資料】
財団法人秋田県鉱山会館「秋田県鉱山誌」
秋田魁新報社出版「あきた鉱山盛衰記 」
平成12年11月14日 河北新報 「山の民の息吹伝わる」秋田版
平成22年01月01日 北鹿新聞 元旦号上小阿仁村八木沢集落「最後のマタギ」
平成24年10月11日 河北新報 八木沢「旅マタギ」に光

 

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

<八木沢マタギ>近世の探究考察

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

タカオトシ山(539) 2013年5月24日 撮影:佐藤良美


<又鬼の語る八郎伝説:マタギ座談会> 
昭和18年12月18日、荒瀬村根子 根子分教場にて 秋田魁新報社主催。
司会 武藤鉄城。マタギ 山田長吉(59歳)、山田酉松(53歳)、佐藤国五郎(51歳)、山田梅吉(42歳),他に参会者として、北部第十七連隊少尉 斉藤正太郎、根子分校主任 佐藤正夫、根子婦人会長 佐々木アヤ(68歳)が加わり、新聞社より阿曽村文化部長、太田記者が出席。

 八木沢と萩形(はぎなり)の間にカゴ山がある。八郎の嬶(かかあ)は嫉妬が強かった。八郎の山小屋をのぞくと綺麗な女がいた。嫉妬した嬶は八郎を蛇体にして人間界から追い払おうと企てた。八郎は、八木沢のカゴ山の大淵で岩魚(いわな)をチリポリ食ってしまったら、咽頭が乾いてしようがない。その水を呑み呑みしているうちに、水鏡で見たら自分が蛇体になったことが判ったので川端にゴロゴロ寝ていたのであった。そこへマタギ仲間が戻って来た。八郎は皆へ別れを告げて、カゴ山の大淵に沼を作って棲んだが、下がって行って七座(ななくら)に沼を作って棲んだが、天神の白鼠に堤を破られ八郎湖に移った。山小屋の綺麗な女は実は山の神だった。八木沢の八郎ケ沢あたりでは、物をチリポリと一人で食うのを禁じているが、八郎が岩魚をそうしてチリポリと喰ったため角がホゲた(萌出た)からだといっている。《日本伝説大系 文化叙事伝説 精霊 八郎太郎 秋田マタギ聞書 武藤鉄城 慶友社 発行年月日 昭和52年4月10日 発行年(西暦)1977年 開始頁157 終了頁 157より》


 

写真左:タカオトシ山の岩肌
写真右: タカオトシ山から眼下、赤沢を見下ろす。近世から狩猟の猟場で前方、遥か彼方は秋田マタギと称する根子集落(根子マタギ)がある。根子から赤沢へのマタギ道はいくつもあって阿仁マタギや萩形マタギ(離村)も狩りにきていた。マタギ小屋もあって近くのタカオトシ山の岩穴には近世、人が住んでいたといわれている。 

  

 大淵部落跡(近世後期ー昭和40頃まで)、シラネアオイ咲く  2013年5月24日 

 

【アオ】 (1996.02.04太平山地にて 撮影:佐藤良美)

 アオ(カモシカ)はマタギ言葉、昭和40年代ころまでマタギたちの会話のなかで聞かれた言葉だったが、いまはマタギとともにマタギ言葉さえも消滅しようとしている。


 八木沢は萩形ほど熊やアオを盛んには捕らなかった。1年に5~6頭で、山小屋は赤沢にあって萩形からもきてとった。タカオトシ山に岩屋があり、そこにも泊る。八木沢では犬を使わないでアオを捕る。主としてヒラトシを山のくびれた、どうしてもそこを通らねばならぬ所にかけ、仲間を組んで仕掛けた。解体は家まで持って来てした。萩形は地形がけわしく、犬で岩場に追いつめ小長柄で打殺し、銃は用いなかった。八木沢には組狩は一組しかなく、4~5人が穴をさがし、柴を切って穴に入れてでられないようにしておき。横に穴をあけて槍で突いた。春に穴から出た熊はマキガリでとる。尾根に「タチマエ」(銃手)をおき、ムカイマツテがセコに合図しつつ熊を追いあげてゆく。射撃して倒れたら「トッタ」と叫び、皆はバンザイといって集まり、山の神に拝をして村までもってくる。皮はぎも唱えることもしない。ハルヤマには槍は持たない。村に運びおろしてから皮をはぎ、腹部を◇のように二塊りに切取る。山の神には神酒を上げるだけで肉も内臓も供えない。

 内臓の名称:心臓=シンゾウ 肺=アカムク 胃=イブクロ 肝=キモ 啐=タチ 腸=ワタ 子宮=コブクロ タチは杉の木の串に刺し焚火であぶる。そのはねる数で、次にとれる熊の数を占う。これはアオでもやった。コブクロは産のとき腹帯に包んで巻く。脳は乾かして食う。血は飲んだり、乾かして薬にする。骨は焼いてこまかくしてのむ。結核の薬だ。熊の皮には蚤(のみ)がつかない。子供をねかすのによい敷物になる。アオは毛皮をとるのみで薬にはしない。梅干しを食事に持参しない。アバがワラシをもつと、子供がさわぐから獣が早い。また油ものを食うと雪崩の足が速いといって嫌う。山の神の祭りは12月11日の夜から12日にかけてこもる。山の神は女性で、この日はマタギや山仕事はしない。この日カラウスをついて餅をあげる。(文献:狩猟伝承後篇 千葉徳爾著)

  

テッキャシ/アブケグルミ(北秋田市 マタギ資料館)

 テッキャシ(アオの毛手袋)/アブケグルミ(アオの毛足袋)。八木沢のマタギはアオをカモシカと呼称。テッキャシやアブケグルミは冬狩りで用いた。集落の古老マタギは皆が持っていたと語っていた。(写真は北秋田市のマタギ資料館より転載)

 【備考】明治 5年 鉄砲取締規定、明治 6年 鳥獣猟規則、明治28年 狩猟法の制定、大正 7年 狩猟法の改訂、保護鳥獣の指定「鳥獣保護及狩猟ニ関スル法律」の母体(1963年公布)、大正15年アオ(カモシカ )狩猟禁猟になる、昭和9年5月 アオ(カモシカ)天然記念物、昭和30年2月 アオ(カモシカ)特別天然記念物に指定

 

≪信州・秋山郷 八木沢マタギの調査≫

2012年6月24日 信州・秋山郷 「苗場山」 撮影:佐藤良美

 山の中で早くから暮らしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを掘って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。そうしたマタギたちの山中での生活を描いたものに越後塩沢の鈴木牧之の「秋山紀行」がある。

 牧之が文化10年秋、秋山をおとづれたときの紀行で、天保2年に書かれた「秋山紀行」によると、秋田のマタギは幕末のころ信越の国境から上野山中あたりまで来て狩りをしていた。秋山の温泉の長屋を借りてそこで冬ごもりしつつ、上州(群馬県)の草津あたりまで狩りをして歩くという。牧之が秋山をたずねたのも、一つはこれらマタギの仲間に会うてみたい。念願からであった、そこで牧之はマタギにいろいろ話が聞きたいというと、昼間は狩りに出かけなければならぬ、晩にかえってくるからといって、マタギはでかけていった。その夜、二人のマタギのうちの1人が牧之の宿へたずねてきた。としのころは30歳ぐらい、いかにも勇猛で、背にクマの皮を着、同じ毛の胴乱を前におき、鉄張の大きせるで煙を吹き出す風情はまったくあっぱれといいたいほどである。宿には行灯があるが灯心が一すじでまことに暗いから、牧之はろうそくを出して火をつけ、秋田のマタギに座敷にあがってもらい、一とおりあいさつをすまして、お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか。いろいろ聞いてみると正確にこたえてくれる。文献:『山に生きる人びと』宮本常一・河出書房新社 2012年4月30日 4刷 3狩人

秋田の狩人
1828年、いまから184年前「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管(だいきせる)で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。
上小阿仁村あたりであろうか」と推測しているという。かつて狩猟に生きていた村に秋田県北秋田郡の阿仁露熊・打当・根子・上小阿仁村八木沢・萩形。(文献:山に生きる人々P36 宮本常一より)

◆1828年(文政11年)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されています。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。
◆大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます。文献:鈴木牧之・秋山紀行

文献:秋山紀行・夜職草 08 甘酒
此大赤沢を立退て 又一ツの小山に上り 亦渓ニ降れハ中津川へ出る一条の潤川ハ 苗場山の辺りの山々より纏り 是なん大赤沢川にて 両岸ニ大樹絵枝を交ひ日の光りたニ見へす 大石畳々と重なり 其磐石の合より渓水ほと走り *処佳興ならすと云ふも更なり 懐敷哉 此川上こそ 星霜十七・八年の昔登山して近国まて一目と眺望せし 其下流 責て清流を一口なりとも呑はやと 水汲もなく平ラ手に味ふに 宛氷の如く五臓にしむ 是より少し右の山の手ニ 甘酒と云ふ二軒の村あり 一宇に立寄り しはし休足を頼み 腰うちかけ見廻すに 爰ニも山挊の留守にて 女性独あり 色光沢とて世間の女子と替らねと 髪に油も附ねハ あか黒くして首筋まて乱れたるをつかね 垢附たる 手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着 中入らしきも見へぬほつれたる帯前ニ結び ほろほろしたる筵のうへにて 茶袋なと取出すをさし留め 小赤沢まてハ尚遠し煙草の火を一ツを乞ふに 大木の節穴一はいに土塗り込たるに火を入て出しぬ 抑々清水川原より村々を尋ねしに 是や秋山中まて始めての多葉粉盆と 帰庵迄の一ツ噺也けり 扨此処も纔ニ家二軒 雪中杯ハ嘸や淋しからんと云に 女か答に 雪の内ハ里の人ハ一人もこない 秋田の狩人時々見へ申迄た 昔より此村ハ増しもせす 減りもせない 惣秋山中の根本 大秋山とて川西に八軒あったか 四十六年以前 卯の凶年ニ餓死して 一軒なしに盈したもう 其時も己か村二軒なから 卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ 甘醴二軒邑 二軒無事営 秋山雖増減 卯云凶年盈

2012年 長野県 秋山郷 八木沢マタギの調査(6月23~25日)
・八木沢集落に残された「マタギ熊槍」は秋田の物ではない。新潟・三面マタギや信州・秋山マタギの槍に類似する。
・秋山郷総合センター「とねんぼ」民俗資料室:ヤリは、たしかに秋山郷で使われたヤリと共通するが八木沢の「マタギ熊槍」の穂先は2倍ある。柄の長さは30㌢ほど長い。
・津南町歴史民俗資料館:阿仁マタギが使用したヤリが収蔵されていたが同形のヤリとは異なる。

《秋山マタギを尋ね秋田マタギと秋山マタギの関連性について》
秋山郷に生れ育った、元マタギは水平2連銃の鉄砲を所持したといった。また、狩りで10日ばかり集落を離れて旅マタギをしたこともあるという。「ここには秋田のマタギが狩りに来て指導したところだ。ここに住み着いた人もいるよ。最初の住みついたのは山田文五郎だ」。この集落には「ヤリも村田銃」も持っていたが今どうなったのかわからない。    
そこで私の「マタギ熊槍」の写真を見てもらった。「大きいヤリだな~」と驚いていった。「秋田のマタギは罠に落ちた獣をヤリで仕留める方法を指導したと思う。熊の落とし罠がいまでもある。秋田のマタギは槍で獲物をとる方法をおしえたのではないか」と語った。

秋山郷の熊穴について
熊の落とし穴は今でも一つだけ残されていた。調査の目的は、この穴を見ることにもあった。
・熊の落とし穴について
秋山郷一帯は、鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で、狩猟禁止・・・実質上の保護区であった。1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている。この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが18-19世紀(1701-1900)ころと思われる。この時期は、幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代であった。1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあった。落とし穴は、深さが3.5m~4.5mとかなり深い。この穴を一人で掘ることは不可能で、村仕事として掘られたと推測されている。 

≪2012年6月24日15:00 クマの落とし穴を確認!!≫


 

熊の落し穴(秋山郷)2012年6月24日  撮影:佐藤良美

 八木沢集落は江戸後期、阿仁 根子集落のマタギによって開かれた村で近世、諸国を旅する旅マタギが主流であった。調査で津南町や秋山郷の人たちは秋田マタギとの関連性を口々にいう。八木沢集落は文化10(1813)年、根子のマタギ「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」等によって開かれている。根子の古老マタギによると徳助は村田組のマタギであったという。三之助は根子の組頭、六之丞から分家。七左衛門も同じく組頭の善兵衛から分家していた。八木沢集落に残された「マタギ熊槍」は刃渡り37・5㌢ 柄の長さ2㍍の超大型槍で「熊槍・熊槍」といった。17-18世紀、八木沢集落は秋田マタギ(根子マタギ)が諸国を旅する旅マタギの時代でもあって、いくつかの共通点が見受けられる。

 八木沢集落の山田福蔵マタギが書き残した記述「山田家先祖代々記」に 第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松・・・」。第拾 山田福蔵(明治五年二月十六日生)拾一才ヨリ拾四才迄佐藤長松ノ門人トナリ教授書籍ハ左ノ如シ  一、 商売往来 百姓往来  一、 実語教 童子教  一、 今川 修身四巻  一、 算術十七段高等読本一

  「佐藤七左衛門ノ子長松」は佐藤良蔵マタギの先祖、長吉の弟で長吉と長松は兄弟である。長吉の親の七左衛門は根子の中心的な組頭・善兵衛から分家をしている。戸籍を調べると初代・二代とも「七左衛門」の屋号をひき継いでいた。このことは根子マタギの「長子相続制」を引き継いだものと思われる。八木沢集落に移住した「長吉と長松」は戸籍などからも江戸後期のマタギであった。長吉・長松を先祖にもつ父良蔵マタギは半世紀も前、菩提寺のご住職から「子供が先祖(七左衛門)を連れてきたのだろう」と言っていたという。長吉は明治十八年にこの世を辞していることから長命であったと思われる。この夏、近世後期に建てられたマ蔵(クラ)から「機織り道具」が見つかった。伯母(大正10年生)を尋ね機織り道具を聞いたら「祖父母が編んでいた」といった。この年代は長吉・長松兄弟のころで近世後期にあたる。この時代背景そして歴史的変容などから盛んに生業とするマタギ文化が営まれたと推測される。(検証:佐藤良美)

<秋山マタギと阿仁マタギの関連性>
1828年、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。
「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた」。民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」と推測しているという。
秋山郷にいまでも熊の落とし穴が一つだけ残されていた。私はこの穴を見る目的もあった。
秋山郷一帯は、鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で、狩猟禁止・・・実質上の保護区であった。1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている。この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが18-19世紀(1701-1900)ころと思われる。この時期は、幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代であった。1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあった。落とし穴は、深さが3.5m~4.5mとかなり深い。この穴を一人で掘ることは不可能で、村仕事として掘られたと推測されている。秋山郷にいまでも熊の落とし穴が一つだけ残されていた。

<記録メモの整理>
12年6月24日 15:00 クマの落とし穴を確認。八木沢集落に残されたマタギ熊槍(村文化財)は信州・秋山郷との関連性があったと思われる。集落は江戸後期、阿仁 根子集落のマタギが移住・定着したムラで、この時代は旅マタギが主流だったと思われる。鈴木牧之:秋山紀行の文献から秋田マタギ(阿仁マタギ)は奥羽山脈を南下、信州・秋山郷まで記録が残されている。津南町の住民や歴史民俗資料館の職員は「津南町や秋山郷は秋田マタギによって普及伝承されたところであって深いつながりがある」といった。八木沢集落に最初の移住・定着したのは「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三人。徳助は村田組のマタギで三之助は根子の組頭、六之丞から分家。七左衛門も同じく組頭の善兵衛から分家していた。のちに狩猟用具の調査で初代、二代目とも佐藤七左衛門で三代目が「佐藤長吉」であった。マタギ熊槍(村文化財)は刃渡り37・5㌢ 柄の長さ2㍍の超大型槍で江戸中期以降、根子のマタギである佐藤七左衛門の長男、長吉が用いたと思われる。このマタギ熊槍は信州・秋山郷と深い関連性があったと推測される。

<八木沢集落に残されたマタギ熊槍(村文化財)について>
マタギ熊槍は秋田で作ったものではない。穴を掘って熊をしとめるのに槍しか方法がない。溝の入った槍で突いた獲物は必ず死ぬ。「ヤリを取れば血を吹き出て獲物が死ぬ」「人間でも動物でも刺して死ぬ瞬間体内から高度の熱が出る。溝は、その熱抜きもある、また溝があるがために熱さましにもなっている。獲物は死ねば体内が硬直するが溝があるので獲物の体からが抜ける。時間を置いても抜けやすい。溝の入ったものに突かれた獲物は助かるものではない。40㌢近いヤリだばクマの心臓に「ぶつり」といく。八木沢で所持した槍はこの長さであった。他の家でも槍はみんな所持していた。なかには3本所持していた人もいた。・・・集落の古老マタギの証言より。

◆鈴木牧之 秋山紀行・夜職草に「天保年間、清津峡沿の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。文献:秋山紀行・夜職草 東洋文庫186鈴木牧之
◆文献の調査「長松・長吉という兄弟」について
 鈴木牧之 秋山紀行・夜職草「天保年間、清津峡沿の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという」ことについて新潟県・三面や信州・秋山郷との関連性について調査をした。長松は近世、阿仁マタギから萩形(離村)に移住したマタギのなかに同じ名の人がいた。また、長吉は阿仁マタギに一人いた。鈴木牧之の「長松・長吉という兄弟」は八木沢集落だけにしか確認ができなかった。八木沢集落の長吉は長男でその弟が長松である。二人の兄弟は墓地や戸籍などから八木沢に移住以前は根子に住んでいたと思われる。長吉・長松兄弟は集落最後のマタギ、良蔵マタギの先祖。良蔵マタギは「菩提寺のご住職が息子が七左衛門をつれてきた」といっていたという。近世から八木沢集落には「マタギの組閥はなかった」と史実や代々の古老マタギから伝承されている。集落は長吉マタギを中心としていたのではないだろうか。その裏付けとして村文化財登録の「マタギ熊槍・火縄銃の背負袋(しょいぶくろ)」が残されているが、良蔵マタギは残された猟具は先代の五代目・金治マタギ(明治22年生)は使っていないといっていたことから三代目・長吉マタギの世代であり、近世の旅マタギと一致することになる。また、集落の歴史を調査すると近世のマタギ組織は七左衛門組が半数以上を占め、長吉マタギを中心としたマタギ集落が営まれていたと考察する。さらに裏付けとして江戸期の機織り機(マタギの衣類を作った)、平成26年に発見された「馬医学書(假名安驥集)・孟子・論語等の古文書、寺子屋跡。また、マタギ狩猟用具、罠のかけ方、熊の解体などは新潟県・三面マタギ等と共通しているなど多くの共通点が見受けられる。(探究考察:佐藤良美)


≪根子集落内の組織≫

 集落内のマタギ組織は、ゼンベエ(善兵衛)組、シチノジョウ(七之丞)組、イノスケ(伊之助)組があったと伝えられている。

 佐藤正夫「根子部落之概要」によると、根子集落の組織は以下のようなものであったという。
①肝入・・現在の村長。旧荒瀬村の本村に一軒のみ。
②オヤカタ(地主)・・根子集落に一軒のみ。現在根子ではオヤカタと呼ばれる屋号の家がある。
③組頭(伍長)・・組頭の下に小前という家があり、組頭は本家、小前は分家であることが多い。組頭の家は、善兵衛、忠太、文左衛門、平兵衛、宗兵衛、半四郎、伊之助、七之丞、三右衛門、弥吉、四郎兵衛、七郎兵衛、六之丞、八助で、さきほど上げたマタギの三組はこの組頭の中に含まれる。

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

山の主「200㌔超の巨熊」に挑んだマタギがいた やがて 山は雨へと急変する…八木沢マタギ

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

<生涯最大級の巨熊を射止める>写真右:集落最後のマタギ 佐藤良蔵 / 左:勢子の村田勇 

1966.12.16 自宅前にて

12月初冬、集落の中心を流れる小阿仁川上流、南面に聳える断崖絶壁のカゴ山(486)で一人のマタギが巨熊に挑んだ壮絶な記録である。
佐藤良蔵マタギ:1924(大正13)年11月20日-2013(平成25)年12月16日没

 1966(昭和41)年12月16日、良蔵マタギは二人の若い勢子(村田勇と佐藤良広)を引き連れ、小阿仁川上流、南面に聳える断崖絶壁のカゴ山(486)に冬眠寸前の巨熊に挑んだ。「熊は死ぬ間際,唸り声をあげる。唸り声がでないうちは,そばに寄りつくものではないと先人からいわれていた。」  200㌔超の巨熊を射止めてまもなく、「山は雪から雨へと変わった」と思いがけない気候の変化に驚いたと良蔵マタギは、その時の様子をふりかえった。


 前方、山の主といわれる巨熊を射止めた断崖絶壁のカゴ山(486)。 手前、イネを「はさ掛け」する「はさ」がたち並ぶ。この「はさ」は明治生まれの私のお爺さんがナラの木を刳りぬいてつくったものである。 

写真下:カゴ山(486)の巨熊から摘出した熊弾(実弾)。射止めた弾は大切に神棚に捧げられていた。マタギの宝ものだ。良蔵マタギはいった「熊を射止めれば大きいのも小さいのも別にしてうまくいったのは神様からの授かりものだ」と。

       

     写真左:摘出した熊弾、熊弾(実弾)、弾造り道具(明治~昭和年代)

 実弾は熊を射止めるときに使う一つ弾で「熊撃ち弾」ともいう。弾は昭和25年ころ購入したものだと思われる。巨熊から摘出した熊弾は大切に神棚に捧げられていた。マタギの宝ものだとおもう。良蔵マタギはいった「熊を射止めれば大きいのも小さいのも別にしてうまくいったのは神様からの授かりものだ」と。

 1966(昭和41)年12月16日 小雪降る中、八木沢集落の南西に位置するカゴ山(486)へ一人で狩りに出かけた時のこと。降り積もった雪に冬眠直前の巨熊の足跡を見つけた。翌17日、午前7:00ころ、良蔵マタギは勢子二人(村田勇、佐藤良広)を引き連れ、昨日、みつけた岩山の場所へと三尺も降り積もった雪をかき分け、やっとの思いで熊の足跡にたどりついた。熊は巨大な体を引きずり、断崖絶壁を横切っていた。三人は岩場にへばりつきながら熊の足跡を追い、ついに熊の冬眠する穴にたどりついたのが午前10:00ころ。熊はゴヨウマツ(五葉松)の倒木の根元に掘った穴に入っていた。穴が二つ。真新しく掘った土や木の小枝が断崖に散乱。穴から漂う獣の匂い。まちがいなく熊がいると確信したという。10:30ころ、良蔵マタギは猟銃を構えながら恐る恐る熊穴を覗いた。穴を覗いた時に目が光った気がした。なかに入っていた熊が頭を持ち上げた瞬間、二連発銃の引き金を引いた。弾丸は頭に命中。その瞬間、山のうねりのような悲鳴が鳴り響き一瞬にして熊穴が真っ赤な血の海へとなった。射止めた熊の頭から大量の血が止めどもなく流れ出た。「熊は死ぬ間際、大きな唸り声をあげると先人のマタギたちから代々語り継がれていたので唸り声が出ないうちは、そばに寄りつくものではないとされた。結局、この巨熊は、たった一晩だけ穴に入っただけでオス熊で体重約二百㌔を超す大物。このあと勢子の良広が熊穴に入り巨熊にロープを巻きつけ3人で巨熊を穴から引きずり出しだすのに大変だったと語る。巨熊は、このあと断崖絶壁の岩場から突き落とした。大木が岩から落ちたときのように「ゴーンゴーン」と凄まじい音を立てながら落ちていったが不思議と無傷だったという。丁度 このころ、『山は雪から雨へと変わった』と語った。数多くの熊を射止めたなかで生涯、最大級の熊で、これ以上の巨熊を射止めることはなかった。集落に運んだ時、みんなが見にきた。(聞き取り 三男良美)

  八木沢集落の南側に位置する「カゴ山」(486)11月末、すでに山は根雪となる(2013.10.30)

  
写真右:巨熊の足跡

 足の大きさから巨熊と思われる。熊は冬眠近くなると穴の近くに姿を現す。この日、私は「犬」を連れていた。犬は立ち上がり山の中腹に向かい何度もにおいをかぎ分けた。その行動は凄まじく初めてみた。動物の本能だろう。翌日、このことを父良蔵マタギに話した。父は興奮し、一瞬にして熊の行動や熊穴を推測した。マタギは死ぬまでマタギだ。(同11/30)

 

<カゴ山>(486)

 

<カゴ山に入山> 巨グマを射止めた岩山をこの目で見たかった

      山は断崖絶壁で足がふるえた 手前は「ゴヨウマツ」】(撮影2013.05.26 佐藤良美)

  

ゴヨウマツに熊のカジリ痕

 ※「ゴヨウマツ」の巨木の根本に熊がカジッタ痕。これは冬眠直前になると松ヤニのある「ゴヨウマツ」などの皮を食べ、肛門に栓をし、便秘状態にし付近の穴に冬眠をする。

 
山の主<バンドリ>(ムササビ) 

 山の主<巨大バンドリ>に驚く!これが最後のバンドリだったと語る

良蔵マタギは、このあとは不思議と一度もバンドリを一度も見ることはなかったと語った

 1993(平成5)年12月中旬、八木沢:通称「おぶがしら」で良蔵マタギが、一人で狩りをしていた時だった。時間は午後3時ころ、巨大なムササビをみつけた。バンドリは急いでブナの木に登った瞬間を散弾銃で射止めた。弾は胸に当たり即死。近づいて見たら、大きなバンドリに驚いてしまった。このバンドリ、通常の3倍の大きさで最高齢で山の主だろう。良蔵マタギが見たのは、これが最後のバンドリで、その後はバンドリを二度と見ることはなかったという。(聞き書き 三男 佐藤良美)

 ※注釈【バンドリ】(ムササビ):1994年、狩猟獣から除外された。八木沢マタギは「バンドリ」と呼び、よく沢の名前に「バンドリ沢」あるいは「晩鳥沢」の名称を目にする。この沢名は、バンドリが多く生息することから名付けられたものだろう。日中まれに見かける時があるが生態は夜行性で樹上から思いっきり飛膜を広げて滑空する。バンドリ猟は、満月の夜を選ぶ。梢の先を月をバックにして透かしてみると、バンドリが目を光らせ下を見下ろしているのがわかる。マタギたちは、そこを狙って射止めた。

 
 【姿を消した八木沢マタギ】:古老マタギは「マタギには長い歴史がある。動物は感が鋭いので気づかれないよう皆が心をひとつにした。長いマタギの慣習のなかで、猟期が近づくと気心の合ったマタギが親方の家に集まった。先祖代々、熊は最高の動物、それだけに射止めた熊の肉は集落の皆に子供が一軒一軒、少しづつ分け与えて歩くのが昔から代々受け継がれた八木沢マタギの風習だった」と語った。

 

<太平山系に生息する生き物>

    

写真左より テン、クマ、アオ(カモシカ):撮影 佐藤良美

 山とマタギとの間には神秘的なものが見え隠れする。射止めた獲物は「山の神からの授かりもの」と古老マタギは語った。それは生き物に対して畏敬の念をもって接していたからだと思う。

 

<八木沢マタギ> 姿を消す 

 

2009.11.03 おおだて新報 若狭基記者の記事


 

2010.01.01 北鹿新聞 菅原由朋記者の記事

■天地万物に霊魂が宿る■
 山には山の神宿る。熊は山神(さんじん)さまからの授かりものであって射止めた熊肉をワシャド(子供)が集落のみんなに公平に配りあるいた。江戸後期、秋田マタギを代表する根子集落から派生した八木沢マタギ集落の儀礼であった。

 

 

 ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー


河北新報記事「八木沢・旅マタギに光」やり、新潟と酷似 村文化財に!

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

有形民俗文化財 「マタギ熊槍・マタギ槍」:上小阿仁村教育委員会

 


河北新報2000年11月14日「狩猟の様子を記録・八木沢」秋田総局 安達孝太郎記者の記事



晩秋の八木沢集落 前方山越えすると根子集落


河北新報2012.10.11「八木沢・旅マタギに光」 本社・文化部 安達孝太郎記者の記事

 1828年(文政11年)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されています。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。大赤沢では天保年間に親子二人の秋田マタギが狩を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ木家に納まったという。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 

  大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」(鈴木牧之:秋山紀行より)

 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記している。
 民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」・・・。 
 山の中ではやくからくらしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを帆って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。(山に生きる人びと:宮本常一より)

 

【マタギの巻物】

不動羅集落 平成25年12月19日 撮影:佐藤良美

《山田三郎所蔵マタギの巻物 八木沢・萩形から流布》
近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と 日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。文献「上小阿仁村史 通史編」

 

 <八木沢集落に残された狩猟用具>

 マタギ小槍(こやり)

【マタギ小槍(こやり)】:全長122㌢、穂先の長さ13㌢、柄の長さ116㌢,材質はサビタ(マタタビ)。柄にはカキ渋が塗られている。カキ渋を塗ることにより柄が腐食しない、強度を保つ。昔のマタギの知恵であろう。槍の穂先はかなり擦り減っていることから古くから用いられたものと推測する。昔のマタギは熊狩りでも用いられたとされマタギの宝物。八木沢集落は1813年(文化10年)、秋田マタギ(阿仁マタギ)の根子村から移住している。根子集落で用いられた狩猟用具は八木沢集落でも代々継承、相続が厳格に守られてきたことから近世初期から中期のころの猟具と思われる。
 17.18世紀、狩猟文化の変貌などから近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)が諸国を旅する旅マタギとして八木沢集落は中継地点でもあったと思われる。集落に残された狩猟用具を通してマタギ文化が日本の社会変化における生業形態とその変遷がどのような経過をたどったのかが狩猟用具や古文書・伝承などを通し検証される。



【マタギベラ】江戸時代、イタヤ製の雪ベラで日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。写真上から2番目の長いものは「ヤマドリ」(長さ140㌢・幅10㌢)といってマタギベラの原型。一番下は昭和63年春ころ、出羽丘陵、標高1050㍍付近の急峻なナガネ(尾根)で熊狩りがおこなわれたときにマタギが用いた杖である。私が奥地でマタギたちが熊狩りをしたあとを見たのは、これが最後となった。(佐藤良美)

 

【真鍮薬莢(しんちゅうやっきょう)】

 昭和30年代ころまで良蔵マタギや他のマタギ衆たちは自分で弾を造っていた。道具は先祖代々から受け継がれたもので明治期、もしくはそれ以前からのものである。八木沢マタギはみんなが村田銃を所持した。村田銃は村田式歩兵銃を民生用に改造した村田式単発銃でワシャド(子供)が寝静まった頃を見計らい「奥座敷」から道具を取り出し薄暗いなか囲炉裏端で鉛を溶かし、弾型に流し込み。真鍮薬莢(しんちゅうやっきょう)に銃用雷管(らいかん)を取り付け、計量した黒色火薬を薬莢に充填し、弾型から取り出した球形の鉛弾や熊用一発弾を装填し実包を造った。(写真:真鍮薬莢類は集落最後のマタギ良蔵が所有したものであるが世襲を継承する佐藤家代々のマタギが所持)


【マタギカンジキ】マタギがつくり、マタギがはいた・・・雪山の必需猟具(佐藤良蔵所有)

【ナガサとナタ】近世後期から昭和初期の頃までのものと思われる。マタギが所持した

ヤマドリ(マタギベラの原型)と熊槍の柄(推測)

 写真上二本は「ヤマドリ」(マタギベラの原型)と集落の古老マタギから聞いた。その下は熊槍の柄(え)と思われる。集落に残された近世後期の蔵、二階の片隅に「ヤマドリ」」(マタギベラの原型)と一緒にあった。柄は長さ294㌢・幅5㌢。材質は天然秋田スギで樹齢2~300年は経過していると思われる。天然秋田スギは木目が密で強度である。かなり使いこなしているのか「キズ」が多い。柄先の部分には熊のキバ跡と思われるキズがあり、穂先が折れたのではないかと推測する。熊槍の柄とは断定できないがマタギが蔵の二階・片隅に収蔵することは集落はマタギ文化の継承は「先祖代々からの遺言」と記述にしたためられているなど厳格に守られてきた狩猟習俗である。史料の年代は「鈴木牧之・秋山紀行」によってわずかに文字の記録に留められた近世後期と推測される。

 八木沢は狩りに行くことを「マタギ」といった。その言葉は普通につかわれた言葉で日常用語であったが昭和30年代中ごろからマタギが急激に衰退し始めた。いわゆる高度成長期のころであった。集落のマタギ調査で戦前のマタギと戦後のマタギとのマタギに対する思想の違いが大きくあった。昔のマタギの思想は江戸、明治、昭和初期のころまでだと思っているが、いまはマタギの精神は当に消えてしまったといっていいのかもしれない。また、残念ながら八木沢集落から「マタギ」の言語さえも消滅しようとしている。
 マタギの始祖は磐次磐三郎(万事万三郎)といい、天皇の子孫と称していた。書き物としては山達根元秘巻(マタギに関する巻物)、山猟秘伝の巻などが残されている。マタギに伝えられてきた秘伝の文書は、その持ち主が自由に山野で狩をすることができることを証明する一種の免許状として、猟に出る際に携行するものであった。山立(山達)は獲物を求めて各地の山地を移動していた。
 集落のマタギが明治期に書き残した「山田家先祖代々記」の記述に「又鬼」と書かれてある。マタギは「又鬼」という呼称が使われていた。その由来について「良民を苦しめる者即ちこの悪党を「鬼」と名づけ、ヤマダチ(山立)はこの鬼を征伐し退治するだけの腕前があったから、即ちその鬼より強いものであったので、「又鬼」と呼称されてきた歴史があると思われる。また、集落においては「空海上人からヤマダチではなく、ここはマタギという名前を貰ったから、開墾にはマタギが先立ちになっている」ともいわれている。この伝承は、マタギが屈強な男であり、なおかつ山間地においては開墾や集落形成の開拓者でもあったことを示唆している。かつて、山から山へと渡り歩き、槍を手に狩猟をなし、時に人里に下り、獲物を射止め食糧などと物々交換していた「山達」→「山立」と呼ばれる人たちをマタギと呼称したなどその習俗の歴史と文化は集落の南側に祀られた石碑「碑名:庚申 碑の中央上部は梵字(ウーン)建立:安政2年6月19日 徳助、三之助、七左衛門 平助」や『明治43年「山田家先祖代々記」の記述』などからも窺える。

 昔のマタギはいっていた。「八木沢は昔からマタギが歩いた」と。「マタギ」という語源の深さ、尊さは代々継承されてきた文化であった。その言葉の奥にはご先祖さまを敬う畏敬(いけい)と畏怖(いふ)。その思想は先祖代々世襲を受け継ぐ屈強なマタギ精神と誇りをにじませた。(佐藤良美)

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

 


朝日新聞「集落最後のマタギ引退・残さねば200年の証し」狩人の伝言 上小阿仁村〈八木沢マタギ〉

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

朝日新聞 2009年10月28日「集落最後のマタギ引退」秋田総局 矢島大輔記者の記事
 
 
 八木沢川(通称:ヤギジャッコ)大滝の上は豊穣の大地「赤沢」(撮影:佐藤良美)
 
 昭和4~50年頃まで集落、南東側にもう一つの大淵集落があった。八木沢と大淵集落を結ぶ吊り橋。橋下は赤沢源流から小阿仁川に注ぐ、通称「ヤギジャッコ」(八木沢)の清い水が注がれ、小阿仁川をなだらかに流れ米代川へと合流する。吊り橋を渡ると5軒のマタギ部落があったが昭和40年以降、姿を消していった。
 昔のマタギがいっていた。「八木沢はマタギによってひらかれたムラで地名は八木沢(通称:ヤギジャッコ)から呼称されたのだろう。」と。八木沢(沢の名前)の突き当たりは大滝(高さ約6㍍)。滝つぼの手前から尾根を登ると豊穣(ほうじょう)の大地「赤沢」が姿をあらわす。
 
 1828年(文政11年)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されています。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。大赤沢では天保年間に親子二人の秋田マタギが狩を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ木家に納まったという。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 
 
 大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」(鈴木牧之:秋山紀行より)

 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記している。
 民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」・・・。 
 山の中ではやくからくらしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを帆って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。(山に生きる人びと:宮本常一より)
 
 豊穣(ほうじょう)の大地「赤沢」精霊(しょうりょう)が宿る山。八木沢の「赤沢」は近世中期以降、根子・八木沢・萩形マタギ等の猟場でもあったと思われる。近世後期、鈴木牧之「秋山紀行」秋田マタギとのであい「旅マタギ」の発祥の原点はここに残され、いまもなお消えたとされるマタギ文化の霊魂はうごめきあっているような気がする。
 
 

<マタギが住んでいた屋敷跡>

  

江戸後期に住みついた マタギ屋敷跡。春の訪れをつげる「バッケ」(ふきのとう)が咲く

 

 早春、ゆっくりとムラを歩いた。幼年のころの思い出が次々と思いだされる。ここにもマタギの家があったと足をとめた。残雪に光をあびた屋敷跡に「ヤマワサビ」が芽をだしていた。まるでムラ人が自分たちの生活の場として、汗を流して守り続けてきた土地が野生の姿に戻ろうとしているかのように思えた。  

 

<小阿仁川と機織り道具>

  

 集落の中心部を流れる小阿仁川。小阿仁川の源流は標高1171㍍の大平山山頂直下から流れいでる。北側に笹森(1045㍍)、南側に白子森(1179㍍)が聳えその中心部を大旭又沢が流れる。南北の稜線は近世からマタギが歩いた。かつての古老マタギがいった。「大旭又沢で熊狩りをすると空振りはなかった」と。十二からなる小沢の清水は集落の中心部をなだらかに流れやがて米代川へと合流する。川には昭和40年代初期のころまでマスが遡上した。また、4~50㌢のイワナの魚影も通常みかけるほど豊かな川であった。

 写真右側は集落に残された江戸後期の機織り道具で蔵に収蔵されていたものである。山田佐一郎マタギ(明治45年生) は八木沢は今では考えも及ばない不便なところでした。森林起動が通ったのは大正7、8年頃ですか。昔から昭和の初めころまで機屋(はたや)さんというのがあって、機織りは相当おそくまでやっていた。畑から採集した糸の原料、長く伸びたのを釜で蒸かした後、皮をむいて「オシキダ」というものでギューッとこくると白い繊維が出てきます。それを洗って棹にかけて乾燥します。それを女の人たちが夜に糸を紡ぎます。へそを巻くと言って、ひょうたん型に巻いて吊るしていました。それを材料にして布を織ります。材料は主にマタギの衣装、モンペとか袴です。風は通すけれども雪は全然付かなかった。自給自足でどこの家にも機織りはありました。冬場のマタギは犬の毛皮をきていました。皮は生のうちに張り板に張り付け乾燥をさせます。そのあと皮を揉みます。犬の皮は軽く雨も通さず雪もつきません。とても暖かいです。雪に座ってもさぶみ(寒さ)が通ってきません。クマ狩りでよくきていました。また、佐藤良蔵マタギ(大正13年生)は「機織りは昔、家にいっぱいあったが使わなくなり、壊して蔵にしまった。」と語っていた。

  

 

一郎マタギ屋敷跡と旧大淵集落跡

 

 昭和40年ころまで、八木沢集落南東側に大淵集落があった。通称「ヤギジャッコ」(八木沢)に架かる「つり橋」を渡ると、すぐの家が「山田家先祖代々記」を書き綴った「山田福蔵」マタギの家があった。そして「つり橋」の手前には一郎マタギが住んでいた。大淵集落の福蔵は旅マタギだった。貴重は記録や史料、狩猟猟具などがあったと思うが何も残せなかった。いま思うととても悔やまれてならない。

 八木沢マタギは最後まで残ったのが「一郎と良蔵」の二人。二人の心はかたい「絆」で結ばれていた。廃屋となってしまった屋敷跡がとてもさみしい。一郎マタギの子供は誰もマタギを継がなかったがマタギの魂はここに宿りつづける。

 

    
  写真左:<ソメイヨシノ>江戸後期、最初に住みついた「徳助、三之助、七左衛門」の3人のうちの1人、七左衛門の屋敷跡。保存樹ではこの桜(ソメイヨシノ)だけになった。桜は樹齢約200年、今でも咲きほこる。写真右は昭和17年度在校生{1年~6年)、旧八木沢分校(旧公民館跡地)
 
 2012年春、マタギの調査で戦前まで集落で暮らした秋田市に住む老婆を尋ねた。老婆は「鉄砲は子供のころから持ち歩いていた子もいた。授業中、先生はその子がバンドリ(ムササビ)をたくさん獲ったことを皆の前で褒めていた」と話した。


 集落に電気が点灯したのは昭和27年。電話の開通は昭和41年12月23日で公衆電話であった。また、この年に秋田県営第一号の萩形ダムが完成した。

 

<八木沢の蔵>

 近世後期、根子のマタギ衆(現北秋田市根子)によって切り開かれた八木沢集落。昭和30年代、20棟ほどの蔵が建ち並ぶ活気ある集落だったが、いまは当時の面影もなく空間のなかに4棟の蔵だけがポツポツと点在するが、この蔵の中にマタギの狩猟用具が収蔵されていた。
 集落は近世後期、盛んにマタギが営まれたと検証される。  

 
  
 
集落に残された「蔵」 
 
 
民 具 
 
 文久三年の建造物とおもわれる。写真右下は杵(きね)、江戸後期のもっとも古い民具と思われる。写真右は「はんじょ」昭和初期のころまで使われたもので「トチ」の木を刳(く)った「大・中・小」からなり、大は直径87㌢・深さ16㌢でとても大きい。30人ぐらいの祝い事に盛り皿としてハンデ(テーブル)に出された。年代は江戸後期期から明治初期のものと思われる。蔵のなかに収蔵されている。※【杵(きね)】近世後期と思われる。この杵は竪杵(たてきね)または手杵(てきね)・兎杵(うさぎきね)とも呼称される。臼(うす)と共に使い、おもに穀物の脱穀や籾すりなどに用いる道具で大きく分けて竪杵(たてきね)と横杵(よこきね)の2種に分類される。棒状で端が太くなっている竪杵(たてきね)は歴史が古く、もともとは千本杵(せんぼんきね)とも呼ばれた。もとは単なる長い棒であったが、中間の握り部分を細く、両端を太く加工し、握りやすく打撃の威力が増す両頭のものに発展した。杵本体と柄が垂直に交わる槌状(つちじょう)の横杵は、打杵(うちきね)ともいい、江戸時代になってから使用されるようになった。柄と本体の比率は地方や時期によって違いがある。杵の材料としては主にカシやヒノキなどが用いられる。 
 
 この集落に生まれ育ったものとして「蔵」には歴史が重く漂うと感ずる。蔵は近世後期、最初に移住した「徳助、三之助、七左衛門」の3人のうちの1人、七左衛門が建てたものである。木造二階建て、クギはいっさい使っておらず、梁や柱・土台はスギやナラ材の巨木で窓は二つ北東と南西側にあるだけ。

 マタギ文化が意匠的、構造的に最も発達していたことを裏付けられる貴重な遺産だと思う。私の伯母(おば)、村田チサ(大正10年生)は「昔から七左衛門の蔵には霜(しも)がおりね~(つかない)」といったものだ」という。いまはこの伝承すらもマタギ文化とともに失われてしまう。

 江戸、明治、昭和と当時の面影を固持するかのように佇む蔵、老朽化は防ぎようがないが蔵も人間と同じ命を持つと思う。先人があって我々がいる。だから集落のマタギ文化を残すことは「蔵も残す」と心にきめている。(佐藤良美) 

 
 
【八木沢番楽】
近世後期、秋田マタギ(現北秋田市根子のマタギ)が八木沢集落に派生、独立の集落として番楽が継承された。番楽は武士舞いが多く勇壮活発で荒っぽいのが特徴で演じる舞いはマタギやその子らであった
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                         昭和初期の八木沢番楽

  八木沢番楽は神社の祭礼の時おこなわれてきた。8月14日を幕開きとして、9月の末、稲刈り前には幕納めで舞うものとされ、根子番楽の流れをくむ。根子集落は日本を代表するマタギ集落で源氏、平家その他の落武者によって開創されたと伝えられ、多くの旅マタギを輩出し厳格なマタギの山の掟・戒律は非常に厳しく戒められていた。平氏没後その一族である小池大納言の家臣が離散し、越後の三面、下野の日光、羽後の根子に居住し、その遺臣が伝えたという。近世、根子マタギが八木沢集落にすみつき独立の集落として番楽が継承された。裏表がある12演目・計24演目が演じられマタギが勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴の舞。「村人は源平落人の子孫と称し、近世、旅マタギを主とする伝統マタギを継承する根子マタギの番楽を継承していたが、後継者不足などにより1989年ころ、集落のマタギやその子等による八木沢番楽は途絶えた。

【八木沢墓地】 
 
八木沢墓地:昭和30年10月建立 中央は源氏車の紋章 
 
 マタギが渉った<掘内沢>
 
マタギが渉った背に鉄砲を背負った 水が多く渉れないときが何度もあった
 
 掘内沢の源流は出羽丘陵太平山山系から注がれる。なだらかに流れる川を近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)が横切っていた。根子集落の佐藤國夫マタギは八木沢に行くのに堀内沢を 渉らなければならなかった。沢は密林で、ほとんどが天然杉の巨木に覆われ、冬でも水が多く渉れない時が何度もあった。また、八木沢集落の老婆(大正10年)は「ほりね~だば根子(ねっこ)さいぐのに必ずわだらねばならねがった。橋のね~川、おめえ~のオド(父良蔵マタギ)だばなんけぇも(何回)わだったものだ」といった。集落最後のマタギで父良蔵マタギは「根子さいぐのに川の水が多くて渉れね~時がなんぼ(何回)もあった」。集落の菩提寺は旧荒瀬(阿仁町)にあった。そのため、ご葬儀やご法事の際、八木沢からご住職をお迎えにあがった。そして、ご住職の手をひいてこの川を渉った。
 
 良蔵マタギ(2013年12月15日没)はいった「根子さいくどきだば(いくときは)必ず背中さ鉄砲をしょった(背負った)ものだ」と…姿を消した八木沢マタギ。
 
朝日新聞 2012年6月27日 本社社会部 矢島大輔記者の記事
 
  
  
ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

<八木沢マタギを語る!>

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

 2015.10.15  第七回八「木沢マタギを語る」in KAMIKOANI  地域資源学習会
講演:「 鈴木牧之・秋山紀行」 秋田マタギとの出会い
主催:上小阿仁村食農観丸ごと推進協議会 上小阿仁村開発センターにて 

写真提供:上小阿仁村役場産業課 林務商工班

 八木沢集落に残された「マタギ熊槍、火縄銃の背負袋」(村文化財)などの狩猟用具のほか、古文書、文献、バンドリの剥製等など、多数の資料を用いてマタギ文化を語った。

≪集落のマタギが所有した古文書≫ 

 馬医学書「新版 假名安驥集」(かなあんきしゅう)」5巻

 假名安驥集:江戸期の馬医学書「假名安驥集」は1604(慶長9)年に国内で初めて出版された馬医学書。全巻12巻にのぼり、江戸初期から後期にかけて約200年にわたり刊行された馬医学書の指南書。秋田・上小阿仁村八木沢集落のマタギが2~6巻を代々所用していた。 集落は文化10(1813)年、マタギの発祥とさる秋田マタギ、根子(ねっこ)マタギから派生した。 根子又鬼ノ概略・圑體組織 「イ、善兵衛組 ロ、七之丞組 ハ、伊之助組」 根子部落には昔から「善兵衛、七之丞、伊之助」の三組がマタギ組の主なるものとして存在している。根子マタギは平家物語(千二百四十年以前)源氏ノ末裔ニヨリテ開カレタルハ事實ノヤウナルモ一説ニハ平氏沒落後其ノ一族源氏ヲ名乗リ居住シタリトアリ。開村當時ハ武士ノ流浪人トシテ狩人(又鬼)トナリ鳥獣ヲ捕ヘテ食料ニ充テタモノノ如ク佐竹藩主ヨリ屢狩人ヲ命セラル熊ノ胆ハ當時ノ御製薬所へ上納シ居タルモノナリ  久保田藩主、佐竹義宣が、参勤に当って音信物として熊の皮を贈った記事が多い。元和二年三月十八日条に、家康の病気見舞に駿府に上ったが、その途中幕府の年寄島田清佐衛門に、「銀子五十枚、熊の皮五枚」を音信物として贈った。熊はどこにも生息していたが、この大量な熊をどこでどうして捕らえた、日記にはその片鱗も記していない。阿仁金山に近い根子村(北秋田郡阿仁町)は、マタギ集落として知られ、江戸期には狩猟と農業を兼ねて、おもに熊をとって生計を助けていた。そのねらいは熊の皮と熊の膽であった。  マタギの系統、山の巻物のほんものは日本國中で三本(秋田の根子、津輕、、南部)だという。その巻物によって秋田マタギ、津輕マタギ、南部マタギという區別も考えられるが秋田マタギが源流の様にも云はれている。津輕マタギも秋田マタギが教えたと伝承されている。秋田マタギは根子を中心とする根子マタギ系統と峠向ふの仙北マタギ系統のものと二つになっているといわれている。根子マタギに属する村は上小阿仁村の萩形(離村)、八木沢などである。  古文書の裏表紙に初代の七左衛門(1790~1862年)の直筆の署名が残る。七左衛門は文化年間(04~18年)根子マタギの組頭「佐藤善兵衛」より八木沢集落に移り住んだとされる。長子相続を継承し、七左衛門が二代続いている。六代目、良蔵マタギを最後にマタギの家系は途絶えた。馬医学書「假名安驥集」は六代目、良蔵マタギが所用していたものである。  江戸期、久保田藩(秋田藩)と秋田マタギとの相互の交易があったことは日記などに記されている。馬医学書「假名安驥集」は旅マタギの交易のなかで伝搬されたと思われる。江戸期の古文書から「秋田マタギが馬の医学書を読まれて、獣医療の知識を持ち、さらに馬の診療にも携われていたのではないかと推察され、単純な狩猟集団ではなく、獣医療の知識を持った知的技術集団であったことを支持する貴重な史料である」と思われる。

  獣医学の古文書に詳しい麻布大学(神奈川県)の政岡俊夫学長(理事長)は「假名安驥集は日本最初の馬医学書とされ、学術的価値が高い。当時のマタギの暮らしぶりを知る上でも貴重な資料となりそうだ」と話す。また、調査に協力した北里大学獣医学部の高井伸二教授(獣医学部長)は「個人か集団かは別にして、マタギが馬の医学書を読んで獣医療の知識を持ち、馬の治療にも従事していたことも考えられる」と話す。日本獣医史学会は「慶長9(1604)年に日本で初めて出版された馬医書であり、その原本は中国古来の馬医書数種から長所部分を抜粋し,当時の馬医のハンドブックとして重用されたものであり、貴重な書物である」とコメントをした。

〔文献・資料〕 金子總平 旅と伝記「秋田マタギ探訪記」、秋田マタギ探訪記・秋田マタギ資料 平成26年02月19日 朝日新聞「マタギ馬を診ていた?上小阿仁 貴重な労働力管理」 、平成26年02月19日 秋田さきがけ「江戸期の馬医学書発見」、平成26年03月09日 河北新報 ワイド東北「秋田マタギ文化思い募る」ほか。  

 

   集落のマタギが所持した古文書(2014.10.15 秋田大学にて一般公開)


<古文書
12冊(*は不明)>

◆御手本 1冊◆庭訓往来 一冊◆掌中安政附合集 青雲堂* 安政戌年◆節繁**捕* 明治二十五天立****◆孟子(天明改正 孟子  道春点 二」) 1冊◆論語 1冊◆直江氏持用(直江村蔵) 直江山城守末孫 直江鎌治郎 一冊◆「新版 假名安驥集」5巻

※孟子(天明改正 孟子  道春点 二」)の刊行年について

 通常、古書の出版情報を正式に解読するには、本文の序文や巻末の奥付などを確認する必要がございますが、当該資料は、表紙に〔二〕という表記があり、本文も、巻3~6が収録されているようで、序文も奥付も収録されておりません。(下記②の情報によりますと、巻14まであるようです)
表紙の題簽(表紙に貼られている短冊の紙)はありますが、この題簽は、張り替えなども可能であることから、正式な解読の際には用いられないのが通例です。ただ、今回は、題簽の情報しかないようですので、ここから判読できた事柄についてお知らせさせていただきます。あくまでも参考情報としてお取扱いください。

 題簽(表紙に貼られている短冊の紙)に、「天明改正 孟子 道春点 二」と記載があることから、
①天明は、西暦1781年~1789年であり、この期間に刊行されたものであると思われる。
②国立国会図書館のデータベース(NDLサーチ)に、同様の題簽が貼られた資料の情報が登録されており、その資料の出版年は、1785年(天明5年)となっている。
『孟子〔3〕』 (朱熹/集註、道春(林羅山)/点、京都:木邨吉兵衛 、1795年)---道春は、林羅山のことです。林羅山は、1583~1657年の人物ですので、死後に、改訂版として刊行されたもののようです。 (秋田県立図書館)

 

 

  八木沢のモロビ(アオモリトドマツ)
 
モロビは、マツ科モミ属の常緑針葉樹で、日本の特産種。樹皮は帯紫暗灰色で平滑で枝は密に出、円錐形の樹冠をなす。葉は、線形で、下面は、白色。森林帯では高さ40mにも達する巨木になる。6月頃花を付け、10月頃には紫藍色の卵のような球果に育つ。八甲田山、八幡平付近に発達した純林が多いので、アオモリトドマツとも呼ばれる。材は、建築材、包装材、パルプ材として利用。

 八木沢集落のマタギは「モロビ」と呼称した。まっ白な雪山。この日、イヌの毛皮、銃身の長い村田銃を背負う明治・大正、昭和一ケタのマタギ衆が親方の「えのめさ」(家の前)あつまった。冬マタギに向かうとき、マタギが山神様(さんじんさま)に手をあわせ、供えたモロビをゆっくり取り出し、モロビに火をつけ燻(いぶ)した「モロビ」を体・全身にふりかける。マタギが狩りにでるときの風習で燻した「けぶり」(煙)を体にふりかけることにより「悪よけ、魔よけになる」とする、古来、先祖代々からの風習で昭和40年ころまでつづいた。 

 マタギ衆らが最もおそれたのが冬から春にかけての雪崩、禁忌事項、戒め戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗のなかからうまれた。(八木沢マタギ)

  

 

      <江戸期の機織り道具>と<カラムシ>(八木沢集落) 

  地機の杼(ひ)いとくりわく(糸繰枠)等、集落に残された蔵に収蔵されていた

 山田佐一郎マタギ(明治45年生 佐一郎の先祖は根子、八助シカリから分家している) は八木沢は今では考えも及ばない不便なところでした。森林起動が通ったのは大正7、8年頃ですか。昔から昭和の初めころまで機屋(はたや)さんというのがあって、機織りは相当おそくまでやっていた。畑から採集した糸の原料、長く伸びたのを釜で蒸かした後、皮をむいて「オシキダ」というものでギューッとこくると白い繊維が出てきます。それを洗って棹にかけて乾燥します。それを女の人たちが夜に糸を紡ぎます。へそを巻くと言って、ひょうたん型に巻いて吊るしていました。それを材料にして布を織ります。材料は主にマタギの衣装、モンペとか袴です。袴は風を通すけれども雪は全然付かなかった。自給自足でどこの家にも機織り道具はありました。冬場のマタギは犬の毛皮をきていました。皮は生のうちに張り板に張り付け乾燥をさせます。そのあと皮を揉みます。犬の皮は軽く雨も通さず雪もつきません。とても暖かいです。雪に座ってもさぶみ(寒さ)が通ってきません。クマ狩りでよくきていました。(1991年6月4日 上小阿仁村役場婦人県宗室の座談会記録より)
 また、佐藤良蔵(故人・八木沢集落最後のマタギ)は 機織り道具は昔、マタギの袴を織った。冬、袴は風を通すが雪がつかず昭和10年ころまではいていた。糸は「カラムシ」を蒸かしてとった。「カラムシ」は八木沢のいたる所にあった。機織り道具は我が家にもいっぱいあったが使わなくなり、壊して蔵にしまった。先代(五代目金治マタギ 明治22年生)から聞いた話によると祖父の妻(ミノ、明治36年1月死去)まで織っていたという。このことから近世後期から明治初期のころにかけ織られていたものと推測される。

 ※御機屋(おはたや)は高貴な方のための縮(ちゞみ)を織るには、家の周囲に積もった雪さえも心して掘り捨て、家の中でも煙の入らない状態のよい一間を念入りに清め、新しいムシロを敷き並べて四方に注連縄(しめなわ)を渡し、その中央に機(はた)を建てる。神が在(いま)すかのように畏(おそ)れ敬い、織り手のほかに誰も入れない。織り手の女性は家族と別の火で作った食事をする。御機にかかるときは衣服をあらため塩垢離(しおこり)をとり、手を洗ったり口をすすいだりして、すべてにわたって身を清めた。注)塩垢離:身体の汚れをとって清浄にするために、塩水を浴びること。(文献、北越雪譜:鈴木牧之より)

  ※カラムシ(苧、苧蒸または苧麻)イラクサ科カラムシ属、花が咲かないように見えるほど地味な植物だが,繊維をとるために昔から親しまれた。本州~沖縄に自生し、雌花序、雄花序ともに葉の陰に隠れるようにつく。高さ1m前後の比較的大型の多年草。葉は長さ8cm前後で広卵型で葉先は尾状に伸びている。葉裏に白い綿毛が密生していて真っ白なのが特徴。名前の由来は「苧(オまたはカラムシ)」は「麻のような繊維」を意味し、茎(カラ)を蒸して繊維をとったことから「カラムシ」となったというのが一般的で麻の繊維からとった麻糸に対して、カラムシからとった繊維を麻苧(マオ)と呼び古来から、この仲間(カラムシ属)の植物は衣服の重要な繊維材料として利用された。木綿の普及以降はほとんど顧みられなくなる。 カラムシ(の仲間)の繊維で織った布を上布(じょうふ)と呼び、現在でも越後(越後上布・小千谷縮布)、宮古(宮古上布)や石垣(八重山上布)が知られている。 

 <八木沢集落の赤沢>
 
赤沢(あかさわ)は近世、秋田マタギ(阿仁マタギ)と称するマタギたちの狩りの中心地でもあった。江戸後期、阿仁マタギの若者が八木沢や萩形(離村)に移住・定着している。山懐に抱かれた赤沢は太古より、大自然の恵みと共存する生き物の宝庫とされ、そこにマタギたちの営みが長い年月をかけて築かれた。悠久の大地は多様な生き物の命を育み、いま尚、神域としてたたずむ。遠い祖先、先祖代々から受け継がれた「マタギの魂」は数百年もの長きにわたり、脈々と受け継がれ、心の支柱として集落の民を支える。わずかに残された集落の民は先人が築き上げた無形の財産を心の宝とし、豊かな恵みと繰り広げる多くの生き物の営みとともに生きつづける。

 ※赤沢は根子沢(ねっこざわ)、赤沢、岩戸金山沢(いわとかねやまざわ)、大倉又沢(おおくらまたざわ)の四つの沢を総称して赤沢と呼称されている。

    

 根子沢(撮影:佐藤良美)

  八木沢集落の南東側に位置する「根子沢」と「赤沢」は一本の線でつながっている。江戸後期、八木沢は根子のマタギによって切り開かれた。

 

  《文献からみる秋田マタギ(根子・八木沢マタギ)の考察》  新潟県、旧三面集落 

   

 

  奥三面ダム あさひ湖(2013.08.23 写真撮影:佐藤良美)

 新潟県 三面集落:朝日連峰の山懐であるこの一帯は、その険しさのため近年まで人を寄せつけない秘境の地でもあった。奥三面集落は昭和60年ダム建設のため閉村し、42戸の集落は湖底に深く眠った。この山深い秘境の地はマタギの里としても知られ、その自然の厳しさを恐れ敬いながら大自然からの恵みに感謝した。

 上記写真ヤリ三本は八木沢集落に残されているものである。三本のうち二本は「三面の狩人や信州・秋山マタギ」が所持したヤリの形状に類似する。三本のうちいちばん手前のヤリは最も古い。八木沢集落は江戸後期、秋田マタギで知られる根子集落から移住・定着した。ヤリは移住以前から所持されていたもので手前の小さなヤリが最古で江戸時代初期もしくは中期、根子の組頭、善兵衛マタギから継承したものと推測される。集落に残された史料や伝承、狩猟用具から八木沢集落は根子から移住以前、秋田マタギ(阿仁マタギ)と三面集落との交流があったと推測される。

 

<秋田マタギ:鈴木牧之「秋山紀行」>

   

    鈴木牧之:秋山紀行・夜職草(よなべぐさ)  山に生きる人々(宮本常一)

  鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。牧之が1813年(文化10年)秋、秋山をおとずれたときの紀行で、天保2年に書かれた「秋山紀行」によると、秋田のマタギは幕末のころ信越の国境から上野山中あたりまで来て狩りをしていた。秋山の温泉の長屋を借りてそこで冬ごもりしつつ、上州(群馬県)の草津あたりまで狩りをして歩くという。牧之が秋山をたずねたのも、一つはこれらマタギの仲間に会うてみたい。念願からであった、そこで牧之はマタギにいろいろ話が聞きたいというと、昼間は狩りに出かけなければならぬ、晩にかえってくるからといって、マタギはでかけていった。その夜、二人のマタギのうちの1人が牧之の宿へたずねてきた。としのころは30歳ぐらい、いかにも勇猛で、背にクマの皮を着、同じ毛の胴乱を前におき、鉄張の大きせるで煙を吹き出す風情はまったくあっぱれといいたいほどである。宿には行灯があるが灯心が一すじでまことに暗いから、牧之はろうそくを出して火をつけ、秋田のマタギに座敷にあがってもらい、一とおりあいさつをすまして、お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか。いろいろ聞いてみると正確にこたえてくれる。かつて狩猟に生きていた村に秋田県北秋田郡の阿仁露熊・打当・根子・上小阿仁村八木沢・萩形である。

 それにしてもここはたった二軒、「雪の中ではさぞ寂しいことしょう」というと、女は答えるには、「雪の間、里の人は一人も来ません。秋田の狩人が時々見えます。昔からこの村は人数が増えるも減りもしません。秋山中の大元の、大秋山という八軒の村が川西にありましたが、四十六年前の卯年(天明三年)の餓饉で餓死して、すべて絶えました。その時、この村も二軒とも切ない思いをしながらとにかく餓饉をしのいで、今では楽々食い物がありますよ」ということであった。甘酒の村はわずかに家二軒卯の凶作にこぼさぬと云ふ(甘酒より)

 秋田の狩人 東北地方の狩猟集団のうち、とくに秋田マタギは有名である。彼らは先祖万事万三郎が日光権現を助けた弓矢の功により、全国の山々で猟をすることを許されたという由来書をもっている。所謂(いわゆる)日光派である。秋山の狩猟の伝授者も秋田マタギで、その先達者の名も語り伝えている。大赤沢では、天保年間に親子二人の秋田マタギが狩猟(熊狩)を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ家に納まったという。清津峡沿の二居には秋田から「長松・長吉」という兄弟が来て猟を伝授したという。文献:鈴木牧之:秋山紀行・夜職草(よなべぐさ)  山に生きる人々(宮本常一)より

・鈴木牧之:越後国塩沢(新潟県南魚沼市塩沢)生まれ。明和7年(1770)1月27日-天保13年(1842)5月15日 江戸後期の文人『北越雪譜』『秋山記行』はその代表作。・宮本常一:(1907―1981)文学博士、日本の民俗学者。

 

  

七左衛門の自宅、裏山側に埋もれた寺子屋跡と思われる土台石(13~2014年の発掘にて)と根子マタギ、佐藤長吉(秋田群大阿仁)自筆の古文書

 八木沢集落は近世から明治にかけ、旅マタギの記述や狩猟用具が残されている。集落の旅マタギ「山田福蔵」が書き残した記述「山田家先祖代々記」(江戸末期-大正4年)に次のように書き残している。第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松・・・」。第拾先祖二代 山田福蔵 明治五年二月十六日生拾一才ヨリ拾四才迄佐藤長松ノ門人トナリ教授書籍ハ左ノ如シ「一、 商売往来 百姓往来一、 実語教 童子教一、 今川 修身四巻一、 算術十七段高等読本一」と記されている。

 ※童子教(どうじきょう)は、鎌倉時代から明治の中頃まで使われた日本の初等教育用の教訓書。成立は鎌倉中期以前とされるが、現存する最古のものは1377年の書写である。著者は不明であるが、平安前期の天台宗の僧侶安然(あんねん)の作とする説がある。7歳から15歳向けに書かれたもので、子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的、儒教的な教えが盛り込まれている。江戸時代には寺子屋の教科書としてよく使われた。女子向けの「女童子教」など、「○○童子教」といったさまざまな対象に向けた類書も書かれた。実語教は、平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書である。また、百姓往来は江戸時代、農民の子供に文字や知識を教えるために作られた教科書。商売往来は、江戸時代に流布した往来物のひとつで、商業に必要な語彙やそれに関する知識、そして商人の心がまえを説いた、おもに商人に対して作られた初等教科書である。江戸時代前期から明治時代初期にかけて発展し、語彙を羅列したものだけのもの、読み仮名や返り点を加えたもの、語彙に解説を加えたもの、図画を加えたものなど、さまざまに種類を増やした。これら商売往来系の往来物は、実業に関する往来物(商業、農業、工業などの職業に関するもの)のなかでもっとも早く成立し、多くの往来物の編集方法や内容に大きな影響を与えたといわれる。

  「佐藤七左衛門ノ子長松」佐藤長松は長吉の弟で長吉・長松は兄弟で近世後期の根子マタギである。戸籍、狩猟用具、記述、伝承や時代背景そして歴史的変容などから近世中期以降の清津峡沿の二居で猟を伝授した「長松・長吉」兄弟と八木沢集落に派生した長吉・長松兄弟との共通点が多くみうけられる。これらの検証から八木沢集落は近世後期から明治初期にかけ、「長吉・長松」兄弟を中心としたマタギ集落が営まれていたと推測される。(佐藤良美)


 <マタギの巻物>

 

 《山田三郎所蔵マタギの巻物 八木沢・萩形から流布》

 近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と 日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。 上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。文献「上小阿仁村史 通史編」 《根子集落内の組織》集落内のマタギ組織は、ゼンベエ(善兵衛)組、シチノジョウ(七之丞)組、イノスケ(伊之助)組があったと伝えられている。佐藤正夫「根子部落之概要」によると、根子集落の組織は以下のようなものであったという。①肝入・・現在の村長。旧荒瀬村の本村に一軒のみ。②オヤカタ(地主)・・根子集落に一軒のみ。現在根子ではオヤカタと呼ばれる屋号の家がある。③組頭(伍長)・・組頭の下に小前という家があり、組頭は本家、小前は分家であることが多い。組頭の家は、善兵衛、忠太、文左衛門、平兵衛、宗兵衛、半四郎、伊之助、七之丞、三右衛門、弥吉、四郎兵衛、七郎兵衛、六之丞、八助で、さきほど上げたマタギの三組はこの組頭の中に含まれる。

  

    

  八木澤村 初代 佐藤七左衛門、二代目 七左衛門、そして明治十八年没の三代目長吉と根子の善兵衛組頭から派生した代々のマタギが眠る(八木沢集落 墓地)

 江戸中期より確立された「和型」と呼ばれる墓石は多くの場合、墓石の型にて身分を知ることはできませんが「和型」と呼ばれる墓石が大多数を占める現在、たしかに少数ではある。歌碑・句碑などに多く見られる。(曹洞宗 秋田県宗務所)

  八木沢マタギは2009年春 姿を消した。同年夏、集落の歴史を後世に残そうと「一軒一軒」たずね歩いた。そして一人の老婆に聞いた。「八木沢は再びマタギが蘇るのか」と。老婆は無言のまま首を横にふるだけだった。人の記憶というものは長い年月を経るとともに薄れる。古老マタギは「マタギには長い歴史がある」といった。歴史あるマタギは日本の山地文化の一角をなしていたはずだ。ここに八木沢マタギが姿を消したことは日本の文化の一部が消えたことを意味する。

八木沢マタギは自然を敬い自然とともに生きてきた。

 

2009(平成21)年10月16日 北鹿新聞 1面

  

「最後のマタギ」静かに銃置く 200年の歴史を後世に:菅原由朋記者の記事

※佐藤良蔵マタギは平成25年12月15日午前1時50分永眠をいたしました。

 

 農林水産省広報紙『aff(あふ)』 平成27年12月号


 編集・発行 農林水産省大臣官房広報評価課広報室・平成27年12月1日

 2010年夏、マタギの調査で根子の佐藤冨久栄マタギがいっていた「マタギは平安時代からなる」と。八木沢は根子のマタギによって開かれたムラであって長い長い歴史を積みあげてきた。実家に帰省し、ゆっくりと集落を歩いた。「ここに誰々の家があった」と思ってしまう。私の知らない間に5軒も火事でマタギの家が焼失、貴重な史料が消滅したが人が育んできた場所には確かな力が残されていると思う。八木沢のマタギが姿を消しても営みや風習は消えるものではないと思う。そこに残され、後世に大切に語り継がれると信じる。活動は語り尽くすより語り残そうと思っている。

 

  ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー


鈴木牧之「秋山紀行」 考察・近世の秋田マタギ 秋田県・八木沢集落

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

 

秋山記行・夜職草甘酒村>東洋文庫186(鈴木牧之著、宮栄二校注)

 

≪秋山紀行・夜職草 08 甘酒≫
此大赤沢を立退て 又一ツの小山に上り 亦渓ニ降れハ中津川へ出る一条の潤川ハ 苗場山の辺りの山々より纏り 是なん大赤沢川にて 両岸ニ大樹絵枝を交ひ日の光りたニ見へす 大石畳々と重なり 其磐石の合より渓水ほと走り *処佳興ならすと云ふも更なり 懐敷哉 此川上こそ 星霜十七・八年の昔登山して近国まて一目と眺望せし 其下流 責て清流を一口なりとも呑はやと 水汲もなく平ラ手に味ふに 宛氷の如く五臓にしむ 是より少し右の山の手ニ 甘酒と云ふ二軒の村あり 一宇に立寄り しはし休足を頼み 腰うちかけ見廻すに 爰ニも山挊の留守にて 女性独あり 色光沢とて世間の女子と替らねと 髪に油も附ねハ あか黒くして首筋まて乱れたるをつかね 垢附たる 手足も見ゆる斗りの短かきしとねを着 中入らしきも見へぬほつれたる帯前ニ結び ほろほろしたる筵のうへにて 茶袋なと取出すをさし留め 小赤沢まてハ尚遠し煙草の火を一ツを乞ふに 大木の節穴一はいに土塗り込たるに火を入て出しぬ 抑々清水川原より村々を尋ねしに 是や秋山中まて始めての多葉粉盆と 帰庵迄の一ツ噺也けり 扨此処も纔ニ家二軒 雪中杯ハ嘸や淋しからんと云に 女か答に 雪の内ハ里の人ハ一人もこない 秋田の狩人時々見へ申迄た 昔より此村ハ増しもせす 減りもせない 惣秋山中の根本 大秋山とて川西に八軒あったか 四十六年以前 卯の凶年ニ餓死して 一軒なしに盈したもう 其時も己か村二軒なから 卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ 甘醴二軒邑 二軒無事営 秋山雖増減 卯云凶年盈

 ※                                 ※

 それにしてもここはたった二軒、「雪の中ではさぞ寂しいことしょう」というと、女は答えるには、「雪の間、里の人は一人も来ません。秋田の狩人が時々見えます。昔からこの村は人数が増えるも減りもしません。秋山中の大元の、大秋山という八軒の村が川西にありましたが、四十六年前の卯年(天明三年)の餓饉で餓死して、すべて絶えました。その時、この村も二軒とも切ない思いをしながらとにかく餓饉をしのいで、今では楽々食い物がありますよ」ということであった。

 

甘酒の村はわずかに家二軒卯の凶作にこぼさぬと云ふ

 

 <鈴木牧之:秋山紀行>

 文政11年(1828)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されている。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。大赤沢では天保年間に親子二人の秋田マタギが狩を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ木家に納まったという。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・」「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記している。信越国境中津川沿いの平家の落人村と伝えられる秋山郷の紀行文で十返舎一九《(じっぺんしゃいっく・江戸後期の戯作(げさく)者)》の依頼により1828年(文政11)9月に秋山郷を探訪し翌年には稿本が完成している。

秋山郷~新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内群栄村とにまたがる中津川沿いに点在する十二集落「(穴藤(けっとう)、逆巻、前倉、大赤沢、小赤沢、屋敷、和山、切明など)を総称して秋山郷と呼び、東を苗場山(なえばさん)、西を鳥甲山(とりかぶとやま)に挟まれている。

 【鈴木牧之】(1770-1842) 江戸後期の随筆家,文人。幼名弥太郎,のち儀三治,秋月庵牧之は俳号。屋号は鈴木屋。越後魚沼郡塩沢(新潟県塩沢町)の縮仲買,質商恒右衛門,とよの子。幼時から俳諧を好む父と共に越後下りの江戸文人たちと交わった。19歳で江戸へ出て,沢田東江に師事。雪国の習俗と伝奇を絵入れの読み物にすることを思い立った。寛政の末江戸の戯作者山東京伝に『北越雪譜』の原稿を持ち込んだが出版が実現せず,曲亭馬琴などの手を経て,京伝の弟山東京山の斡旋によって天保8年(1837)に初編3冊,12年に二編4冊を上梓。雪国の百科事典として多くの読者を魅了した。紀行,漢詩・狂歌・俳諧など幅広い文学活動を繰り広げ,家業に対する辣腕ぶりは教訓書『夜職草』(1824)に示される。67歳の夏、『北越雪譜』の初版刊行直前、山東京山・京水父子の来遊中に中風を発病し、天保 13 年(1842)5 月 15 日死去。享年73歳。著書「北越雪譜」「秋山記行」

 

<山に生きる人びと: 宮本常一>

 日本の民俗学者の宮本常一(1907―1981)著書「山に生きる人びと」(河出文庫)によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。文献:『山に生きる人びと』 宮本常一・河出書房新社2012年4月30日 4刷 3狩人

  

考察:鈴木牧之・秋山紀行<秋田マタギ>とは…

  ポイント①清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授。 ②秋田マタギとの出会い…夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほど、…「お国は羽州の秋田の辺りですか」「城下から三里(約12㌔)も離れた山里だ」…。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記す。宮本常一「山に生きる人びと」よれば、上小阿仁村あたりであろうか。」… 甘酒村、女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」。清津峡の二居で秋田マタギ「長松・長吉」兄弟が猟を伝授。

1828年、秋山郷で鈴木牧之と秋田マタギとの出会い、そして甘酒村に登場する秋田マタギとは…。

 ここに登場する人物は三つの場面からなると思われる。


 <考 証>

 文政11年(1828)、鈴木牧師 秋山郷での秋田マタギの出会いのなかで、「お国は羽州の秋田の辺りか」と尋ねると、「城下から三里(約12㌔)も離れた山里」と答えた。城下(久保田城下・秋田藩)から三里(約12㌔)だとすれば現在の上小阿仁村八木沢集落になると思われる。現在の八木沢集落から秋田郡大阿仁根子(現阿仁町)までの距離は直線で約二里(約8㌔)、マタギの足で約3時間。集落は江戸後期(1813)、秋田郡大阿仁根子のマタギが移り住んでいる。移住以前、集落南東に聳える「タカオトシ山」(539)の岩穴に先住民が住んでいたと語り継がれている。根子を背に八木沢の「赤沢」は狩猟地、左右が小高い山に囲まれた小盆地で地形が独立しているため生活に適し、秋田マタギが旅する中継地点でもあったと推測。集落の旅マタギ、佐藤徳松(明治29年生)は子供のころ、根子の人が「シシ(サル)や熊を買い集めにきたと伝承した。

 ・長吉マタギの長男又蔵の妻ミノは五十目村から嫁いでいた。

・集落のマタギが記した古文書に「山田三之助ヨリ小樽及ビサバ樽共六ケ」「佐藤七左衛門ヨリサバ樽一ケ」とある。集落は単なるマタギ集落ではないと思われる。

 集落は江戸後期、八木沢→五十目村→城下のルートが結ばれていたと推測。太平山地の西側に位置する五十目村は八木沢のマタギと婚姻だけでなく狩猟地でもあった。そのため五十目村には「マタギ宿」もあったとされる。文献、五城目町史によると、1.一三三六(建武三)年 このころ、県北を浅利氏・安東氏、県南を小野寺氏・戸沢氏・六郷氏・本党氏、由利地方を由利十二頭と呼ばれる豪族等が押えていた。五城目付近は安東氏の所領に入り、山内(五十目)城・馬場目城・浦城があった。2.一六二九(寛永六)年 六月二二日、藩主義宣が五十目市(現五城目市)を視察した。一七五八(宝暦八)年 二月、五十目村の指紙開許可される〔(石井家文章)〕。3.一七六二(宝暦一二)年この年、藩、山林保護条目を制定し、木山奉行を置き山林区を制定する。番山繰を実施する。五十目村は昭和六年に軌道が敷設され手押しのトロッコから出発、十八年にガソリンカーが登場、そして戦後はディーゼル機関車が導入され、最盛期の昭和二十七年には全県で百二十七台の機車が走り回った「五城目町馬場目地区を走る県内最後の森林鉄道=杉沢森林鉄道」は木材輸送のみならず、山奥の辺地だけにかつては、沿線住民の唯一の交通機関として、通勤・通学・町への買物、そして嫁入りなどの記録が残された。また、集落のマタギが記した古文書に「山田三之助ヨリ小樽及ビサバ樽共六ケ」「佐藤七左衛門ヨリサバ樽一ケ」と記されている。江戸後期の八木沢集落は「諸国との交渉があった」と推測される。

 ・甘酒村、秋田マタギのシーンに隠されたものとは…

 近世、根子から移住した八木沢のマタギは五十目村(現五城目町)との交渉があって、城下へのルートは同村を経由したと推測。根子の長松・長吉兄弟については江戸後期、八木沢に長吉(兄)と長松(弟)の兄弟が移り住んだ。秋山紀行に登場する長松・長吉兄弟と八木沢の長吉・長松兄弟は同じ根子のマタギ。豪雪、甘酒村でのシーンは昭和20~30年ころの八木沢の暮らしぶりを描写する様なイメージが伝わる。生々しい現実感にあふれ、ありのままの姿が心に伝わった。

 ここに登場する人物は三つの場面からだけでも共通点が散見され、同一人物と推測された。

 

・八木沢番楽と狩猟用具からみる史実の調査
 八木沢番楽は神社の祭礼の時おこなわれてきた。8月14日を幕開きとして、9月の末、稲刈り前には幕納めで舞うものとされ、根子番楽の流れをくむ。根子集落は日本を代表するマタギ集落で源氏、平家その他の落武者によって開創されたと伝えられ、多くの旅マタギを輩出し厳格なマタギの山の掟・戒律は非常に厳しく決められていた。平氏没後その一族である小池大納言の家臣が離散し、越後の三面(みおもて)、下野の日光、羽後の根子に居住し、その遺臣が伝えたという。近世、根子マタギが八木沢集落にすみつき独立の集落として番楽が継承された。村人は源平落人の子孫と称し、近世、旅マタギを主とする伝統マタギを継承する根子マタギの番楽を継承した。また、マタギ狩猟用具五点(村文化財)のほかに江戸時代初期から中期のころと思われるマタギ小槍(こやり)が所蔵されていた。マタギ小槍は全長122㌢、穂先の長さ13㌢、柄の長さ116㌢,材質はサビタ(マタタビ)、柿渋を塗ってある。柿渋は防水、防腐効果がある。穂先はかなり擦り減っていることから最も古くから用いられたものと推測。マタギ小槍は越後(新潟)・三面、秋田郡根子、八木沢と代々世襲されたものと推測する。   

 

<越後・三面>根子、善兵衛マタギと八木沢マタギを結びつける<マタギ小槍>

 

  八木沢集落は文化10年(1813)、秋田郡根子のマタギが移住・定着している。根子は マタギ発祥の地とされ、大ムカデを退治して、正一位左志明神の位を授かった「万次・盤(万)三郎」を始祖に仰ぎ、狩猟文化を守り続けてきた。厳しい「長男相続制」のために、他所に移り住む二男三男が多かったことなど「マタギ文化」が広範囲に拡散されている。 1805年、民俗学の祖と言われる菅江真澄(1754-1829)は、マタギの里として知られる「奥阿仁地域」を縦断し、マタギの習俗や伝説などを「みかべのよろい」などに書きとめた。「山ひとつ越えると根子という集落があった。この村はみな、マタギという冬狩りをする猟人の家が軒を連ね、マタギの頭の家には、古くから伝えられる巻物を秘蔵した」としている。 真澄翁が奥阿仁を訪れてから8年後、八木沢集落が誕生している。「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の三軒が移り住む。徳助は村田組に所属するマタギ、三之助は山田六之丞シカリから分家、七左衛門も善兵衛シカリから分家していた。

                         

<八木沢のマタギが所持した日本刀や江戸時代の出版物など>
 

   

 マタギが所持していた日本刀(銘文:大和守源康道)や江戸時代の出版物、獣医学書などが家宝とし大切に所蔵されていた。(江戸時代の出版物等の史料は平成26年10月15日、秋田大学で一般公開されたものである)

 先祖、佐藤七左衛門は江戸後期、根子マタギの組頭、善兵衛から分家、旅マタギである佐藤清の先祖、幸吉マタギが七左衛門の裏山に寺子屋があったとされた。2014年春、裏山を調査、寺子屋の跡と思われる埋もれた土台石が出土した。土台石は江戸後期の建造物「蔵」の土台石と類似。集落の中心を流れる小阿仁川から運んだものと推測される。 

 

  

 佐藤長松直筆古文書と根子の旅マタギを継承する「山田家先祖代々紀」

 

古文書、「山田家先祖代々記」 第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松…」「福蔵、拾一から拾四歳まで長吉の弟、長松の門人となり教授・・・」など明治初期、当時の八木沢集落の様子を書き記した古文書が残されていた。福蔵の先祖は根子の旅マタギ、八助組頭であった。  

 

 馬医学書「新版 假名安驥集」(かなあんきしゅう)」5巻


 假名安驥集:江戸期の馬医学書「假名安驥集」は慶長9年(1604)に国内で初めて出版された馬医学書。全巻12巻にのぼり、江戸初期から後期にかけて約200年にわたり刊行された馬医学書の指南書。秋田・上小阿仁村八木沢集落のマタギが2~6巻を代々所用していた。 集落は文化10年(1813)、マタギの発祥とさる秋田マタギ、根子(ねっこ)マタギから派生した。 根子又鬼ノ概略・圑體組織 「イ、善兵衛組 ロ、七之丞組 ハ、伊之助組」 根子部落には昔から「善兵衛、七之丞、伊之助」の三組がマタギ組の主なるものとして存在している。根子マタギは平家物語(千二百四十年以前)源氏ノ末裔ニヨリテ開カレタルハ事實ノヤウナルモ一説ニハ平氏沒落後其ノ一族源氏ヲ名乗リ居住シタリトアリ。開村當時ハ武士ノ流浪人トシテ狩人(又鬼)トナリ鳥獣ヲ捕ヘテ食料ニ充テタモノノ如ク佐竹藩主ヨリ屢狩人ヲ命セラル熊ノ胆ハ當時ノ御製薬所へ上納シ居タルモノナリ  久保田藩主、佐竹義宣が、参勤に当って音信物として熊の皮を贈った記事が多い。元和二年三月十八日条に、家康の病気見舞に駿府に上ったが、その途中幕府の年寄島田清佐衛門に、「銀子五十枚、熊の皮五枚」を音信物として贈った。熊はどこにも生息していたが、この大量な熊をどこでどうして捕らえた、日記にはその片鱗も記していない。阿仁金山に近い根子村(北秋田郡阿仁町)は、マタギ集落として知られ、江戸期には狩猟と農業を兼ねて、おもに熊をとって生計を助けていた。そのねらいは熊の皮と熊の膽であった。  マタギの系統、山の巻物のほんものは日本國中で三本(秋田の根子、津輕、、南部)だという。その巻物によって秋田マタギ、津輕マタギ、南部マタギという區別も考えられるが秋田マタギが源流の様にも云はれている。津輕マタギも秋田マタギが教えたと伝承されている。秋田マタギは根子を中心とする根子マタギ系統と峠向ふの仙北マタギ系統のものと二つになっているといわれている。根子マタギに属する村は上小阿仁村の萩形(離村)、八木沢などである。  古文書の裏表紙に初代の七左衛門(1790~1862年)の直筆の署名が残る。七左衛門は文化年間(04~18年)根子マタギの組頭「佐藤善兵衛」より八木沢集落に移り住んだとされる。長子相続を継承し、七左衛門が二代続いている。六代目、良蔵マタギを最後にマタギの家系は途絶えた。馬医学書「假名安驥集」は六代目、良蔵マタギが所用していたものである。  江戸期、久保田藩(秋田藩)と秋田マタギとの相互の交易があったことは日記などに記されている。馬医学書「假名安驥集」は旅マタギの交易のなかで伝搬されたと思われる。江戸期の古文書から「秋田マタギが馬の医学書を読まれて、獣医療の知識を持ち、さらに馬の診療にも携われていたのではないかと推察され、単純な狩猟集団ではなく、獣医療の知識を持った知的技術集団であったことを支持する貴重な史料である」と思われる。

  獣医学の古文書に詳しい麻布大学(神奈川県)の政岡俊夫学長(理事長)は「假名安驥集は日本最初の馬医学書とされ、学術的価値が高い。当時のマタギの暮らしぶりを知る上でも貴重な資料となりそうだ」と話す。また、調査に協力した北里大学獣医学部の高井伸二教授(獣医学部長)は「個人か集団かは別にして、マタギが馬の医学書を読んで獣医療の知識を持ち、馬の治療にも従事していたことも考えられる」と話す。日本獣医史学会は「慶長9年(1604)に日本で初めて出版された馬医書であり、その原本は中国古来の馬医書数種から長所部分を抜粋し,当時の馬医のハンドブックとして重用されたものであり、貴重な書物である」とコメントをした。

 

 <マタギ集落 八木沢>:生業とするマタギが盛んであったと思われる集落の証し

  

写真左:村文化財の槍二本 上が熊槍で長吉マタギが所持したと思われる。右側の資料は集落の蔵(仮称 八木沢マタギ民俗資料館)に所蔵されていた機織り道具。機織りは長吉マタギの妻サンが織っていたとされる。推測から江戸後期、集落の棚田に反物を長さいっぱいに広げ、一面に広がる雪田の上に並べられた「雪晒し」(ゆきさらし)が想像される。隔絶した山あいのマタギ集落は、いまでは想像もつかない様相を醸し(かもし)出していたと思いを馳せ越後の「越後上布・小千谷縮」のイメージがわく。伝統が途絶えなければ「八木沢上布」が存在をしていたかもしれない。機織りは主にマタギの衣類、材料の糸は「カラムシ」を蒸かしてとった。「カラムシ」は、かつてのマタギ屋敷跡や休耕田となった土手にも自生している。 

 

 

左は狩猟地「赤沢」  右は青くそまる休耕田と尾根を越すと五十目村(撮影2014.12.28)    

 太平山(1170)、近世、秋田マタギは越後、三面や信州秋山郷へは、この稜線を歩いた。まっすぐ下山すると三内マタギ(旧河辺郡岩見三内)、左に横切ると田沢湖マタギ(旧仙北郡田沢湖)と合流。近世、秋田マタギと田沢・岩見マタギとの交渉は、これによるものと思われる。(手前は筆者 撮影2008.2.23)

 

<八木沢が旅マタギであったことを指示するマタギの巻物>

 近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と 日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。 上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形(離村)のマタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。文献「上小阿仁村史 通史編」

 

 

江戸後期とされる神棚 なかには遺物の矢じりや自然石が祀られている(八木沢集落)  

 マタギが江戸期から祀ったとされる神棚のなかをみた。なかには遺物(矢じり)や自然石、大黒さまなどが祀られていた。そこでこの神棚や神具について、国立歴史民俗博物館や秋田県神社庁に照会をさせてもらった。また、遺物の矢じりや石は秋田県埋蔵文化財センターに鑑定を依頼をした。私が最も関心を持ったのが遺物の矢じりや自然石。

 鑑定をした秋田県埋蔵文化財センター高橋学先生(主任文化財専門員兼班長)は石鏃の矢じりは縄文中期(BC3000~)「遠集(遠い集落)からもってきたものではない。秋田にある石で自分の集落の開墾からでてきたもので、それを発見して神棚に祀ったと思われる。おそらく石鏃と石は一緒に出土したもので他から出たものを神棚に祀ることは考えにくい。また、自然石は女性の手に馴染んだ形や下面が黒ずんでいることから穀物をすりつぶした道具と思われる。八木沢以外の集落から持ってきたものではなく近くから採取した遺物と思われる。八木沢集落の下に、もう一つの集落があったと推測する」とコメントした。

・上小阿仁村・八木沢から縄文石器出土 マタギ集落に定住か
 秋田県上小阿仁村の八木沢集落で、縄文時代の石器(石べら)が初めて出土した。集落跡がある可能性があり、村教育委員会は県に新たな遺跡として登録申請する。同集落は江戸後期の開墾によりマタギが移り住んだとされており、現地確認した県教育庁文化財保護室は「縄文人もマタギと同じように、狩猟に適した土地だと目を付けて定住したのかもしれない」と話している。


     
 2017年8月6日 石器の石篦(いしべら)出土 長さ:6.5㌢幅:4.5㌢ 上小阿仁村八木沢集落

 村教委は「(7キロほど)下流に縄文時代の不動羅遺跡があるが、八木沢集落に縄文人が住んでいたという話はこれまで聞いたことがなかった。新発見に驚いている」としている。(秋田魁新報2017年10月16日 掲載記事) 

 

【邂逅】

 特殊鳥類の調査で大空を悠然と舞うクマタカ(絶滅危惧種)の繁殖活動を観察していますと幼鳥は親鳥と同じ行動をとります。同じことが野生動物にもみうけられます。もって生まれた遺伝子、それをそのまま継承へとつなげる。鳥類であれば「巣立ち」、集落のマタギであれば「15になればマタギ」として認めた。同じ共通する遺伝子でも人間と生き物との間に大きな違いがあります。それは「神信仰」です。特にマタギは神信仰を重んじます。ここに大きな違いがあります。私も高橋先生と同じく集落の民が他集落から出土した遺物を神棚に祀ることは考えにくい。先生が検証する「八木沢集落の下にもう一つの集落があった」とする説は十分考えられる。集落を流れる小阿仁川下流(約10㌔)に不動羅遺跡(ふどうらいせき)があります。昭和44年(1969)から三年間にわたって、村の教育委員会が発掘調査したところ、縄文時代中期の集落跡が発見された。不動羅遺跡から小阿仁川上流約10㌔地点で2017年8月6日、八木沢集落でも初めて縄文時代の石器「石べら」一個が発見された。発掘調査は個人が足掛け4年に及んだが、ついに石器が発見され集落でも縄文人が定住していたことが立証された。

 集落に生まれ育ったものとして、むしろ縄文文化が現在の八木沢集落が誕生以前、はるかかなたに祖先が生業とする狩猟採取が営まれ、地理的に八木沢集落と越後(新潟)が同じ地形上の狩猟範囲に分布していたとすれば何か近世の八木沢集落の狩猟文化と越後(新潟)とのマタギ文化が一致するような気がする。

 

    <天然秋田杉(樹齢約700年)にマタギの心を刻んだ>

 

    

根子マタギ「長吉・長松」兄弟と良蔵マタギのことば「皆が心をひとつにした」を刻んだ

  

 

<マタギ蔵>(仮称 八木沢マタギ民俗資料館)
  江戸後期に建造された蔵 。わずかに残された狩猟用具や民具が所蔵されていた。近世後期、根子(現北秋田市根子)のマタギによって切り開かれた集落。昭和30年代、20棟ほどの蔵が建ち並ぶ活気のあるマタギ集落だったが、いまは当時の面影もない。文化は後世に残すものと思っている。祖先があって私たちがいることを忘れてはならないと心にきめている。集落に残された蔵は歴史を守ろうとしているかのように励まされる。先祖代々世襲をしてきた大いなる遺産。江戸、明治、大正そして現代へと風雪に耐え、いまを生きようとしているように思える。200年の歴史、根子のマタギ七左衛門から六代目佐藤良蔵へ。そして息子へと途切れることのない強い絆で結ばれている。

 

  
<八木沢集落>最後のマタギ 佐藤良蔵逝去
2013年(平成25年)12月15日 享年90歳 
 
 連なる阿仁の山脈。その民族は小阿仁川水系内で一つの文化圏を形成したといえる。マタギ文化は今では、幻の如く消え去った。山の神を山神(サンジン)さまと呼び女子(オナゴ)の神とされた。女子はマタギが狩りに向うときや山の神の祀りごとでは近寄ることができないほど厳格に戒められた。マタギ文化という長い歴史と習俗は集落の民がひとつとなり大切に守ってきた。多くは消え、わずかに残された尊い貴重な史料は集落にとって誇れるマタギ文化の証しである。

 佐藤良蔵マタギ(1924-2013)の先祖は江戸後期、根子の善兵衛マタギから分家、初代七左衛門、三代目長吉マタギとマタギ文化を継承、頑なに最後の最後まで守りつづけたマタギ。根子の本家、善兵衛と先祖七左衛門を敬い、山の神を崇拝。先祖代々から世襲されたマタギ文化を守りつづけた屈強のマタギであった。 

 八木沢集落の中心を流れる小阿仁川上流、南面に聳える断崖絶壁のカゴ山(486)。この山に登ろうと心に決めていたがチャンスはなかなか訪れなかった。未知の山、山の神とされる巨熊を1966年12月中旬、集落最後のマタギが射止めた山には何かがあると長年、生き物の調査をしてきた「感」が心の中で葛藤した。2013年5月下旬、ついに残雪が残るカゴ山に入山。急斜面をよじ登るが足の震えがとまらなかった。稜線は鋭角な岩肌、落ちたら帰らぬ人。岩肌にへばりつく五葉松の巨木、生態系から巨熊の棲む山とすぐにわかった。12月16日、この岩肌を横切って冬眠穴に近づくとは…神業と思った。

良蔵マタギは鉄砲を勢子の良広に手渡しをしながら熊穴にたどりついたのが午前10:00ころ、3時間を擁(よう)してたどり着いた。勢子の勇と良広もまた先祖代々のマタギの血を引き継ぐ山人(やまんど)、二十歳(はたち)そこそこの若者ではあるがつわもの。良蔵マタギらしい奥の深さ…。40代前半の良蔵マタギは最も脂の乗り切った成熟したマタギの年代。射止める前日、巨熊の足跡を発見。「熊は死ぬ間際,唸り声をあげる。唸り声がでないうちは,そばに寄りつくものではないと先人からの教え。 200㌔超の巨熊を射止めてまもなく、山は雪から雨へと変わった」と急変した天候の変化に驚いたと語った。射止めた弾は神棚に捧げられ、熊肉は集落の皆にふるまわれた。

 良蔵マタギはいった「熊を射止めれば大きいのも小さいのも別にしてうまくいったのは山神様からの授かりもの」と当時の壮絶な狩りの様子を静かに語っていた。

 15日、降り積もった雪に冬眠直前の巨熊の足跡を見つけ、翌16日、三尺も降り積もった雪をかき分け岩肌にへばりつきながら熊の冬眠穴にたどりついた。熊は五葉松の根元にある穴、結局、この巨熊は、たった一晩だけ穴に入っただけだった。 

 あの巨熊の足跡を見つけた12月15日 午前1時50分 猛吹雪、荒れに荒れ狂った日だった…。

八木沢集落 最後のマタギ 佐藤良蔵は家族に看取られながら安らかに息をひきとった。17日、しめやかに葬儀が行われた。何かの巡り合わせだろうか、この日、私の誕生日でもあった。

(記 三男良美)

 

  

マミ(アナグマ)を解体する生前の八木沢集落 最後のマタギ 佐藤良蔵 :2011年 春 

 マタギには長い歴史がある。動物は感が鋭いので気づかれないように皆が心をひとつにした。長いマタギの慣習のなかで、猟期が近づくと気心の合ったマタギが親方の家に集まった。先祖代々、熊は最高の動物、それだけに射止めた熊の肉は集落のみんなに子供が一軒一軒、少しずつ分け与えて歩くのが昔から受け継がれた八木沢の風習だった。(八木沢集落最後のマタギ 佐藤良蔵の言葉)

 清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授。 1828(文政11)年、鈴木牧之は秋山郷を旅し、現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会った。「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・」「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。宮本常一「山に生きる人びと」によれば、「上小阿仁村あたり」と推測。

    

八木沢のマタギに捧げる(佐藤良美 刻)

 【姿を消したマタギ集落 八木沢】

 赤や黄色の葉っぱが豊穣の大地にビッシリと敷き詰められ幾重にも重なり合う。この時季をマタギは「山が明るくなる」といった。村田銃を背負うマタギの鋭い視線が山をみつめた。狩の獲物は「バンドリ(ムササビ)」幼いころの記憶が蘇る。2009年春、集落のマタギが鉄砲を返納、集落からマタギが消えた。以来、今日まで真剣にマタギ文化の調査をしてきた。狩猟の的とする生き物でも貴重である。集落の習わしは、たとえ小さな物でも大きな物でも射止めた熊は神からの授かりもの、その熊肉は集落のみんなに公平にふるまわれた。その役目を担うのが集落の子供で先祖代々から受け継がれた風習。 

 代々のマタギ文化を伝承する子孫として本当のことを知りたいと思った。だからマタギの聞き取り調査は自分で弾を造り、一発弾の村田銃を背負ったマタギや先祖代々から厳格に世襲してきた直径親族を探し求め、聞き取り調査をしたものであった。私は幼少のころ、陰でマタギが狩りに向かう様子を目で追った。大人になり太平山地に生息する生き物の調査と山の人生は長かった。 

 八木沢集落は根子のマタギが定着する以前、安永3年(1774)、すでに山神様があって、根子のマタギが往来をしていたといわれている。わずかに残された史料を検証しながら、古文書、刀剣、狩猟用具、伝承、戸籍などと照らし合わせ、古老マタギからの裏付けをとったものである。集落に残されたマタギ熊槍(村文化財)は特殊な狩猟用具で形状は越後三面、秋山郷のヤリと類似。秋田で造られたものではなく八木沢集落の熊狩りでは不用と思われる。鈴木牧之「秋山紀行」に登場する二人の兄弟「長吉・長松」は大阿仁根子で多くのマタギを輩出した組頭 善兵衛マタギの曾孫。近世の秋田マタギ、阿仁根子と八木沢、越後・三面、信州・秋山郷とが一本の線で繋がるような気がする。秋田マタギ「長松・長吉」兄弟と八木沢の「長吉・長松」兄弟は断定できないものの多くの共通点が散見され同一人物と推測される。  (史実の調査と考証:佐藤良美)

 講演のテーマ「鈴木牧之・秋山紀行 秋田マタギとの出会い」を語る
2015.10.15 「第七回 八木沢マタギを語る」 秋田県・上小阿仁開発センターにて

写真提供:上小阿仁村役場産業課 林務商工班 

≪文 献≫

秋山紀行・夜職草(東洋文庫186)鈴木牧之著、宮栄二校注、平凡社、1971年鈴木牧之「秋山記行」現代語訳 鈴木 牧之著 , 磯部定治 訳・解説 恒文社 1998年宮本常一「山に生きる人びと」河出書房新社2011年金子總平 旅と伝記「秋田マタギ探訪記」、秋田マタギ探訪記・秋田マタギ資料鈴木牧之資料集 新潟県教育委員会 昭和36年6月15日発行五城目町史上小阿仁村史

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー 


<鷹とマタギ>は何か共通をしているような気がする

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

筆者  八木沢マタギの猟場「天上倉山(888)」にて(1998.4.18)


 平成11年(1999)4月18日 旭又登山口(06:10)~天上倉(12:45)~旭又(17:00) 11時間にわたり、マタギたちの足跡を追い求めた。すべてを万全をきし,天にすべてを託した。
 この日、私は秋田市仁別 旭又登山口~赤倉沢源流~赤倉岳(1093)~萩形沢源流~天上倉山(888)を歩いた。赤倉岳源流、標高700㍍地点は大きな雪崩の割れ目があった。急斜面の雪崩を横切る時は恐かった。山は深い眠りから目を覚ます寸前、山を起こしてはいけないと慎重に急斜面をアイゼンとピッケルを巧みに使い分け、1100㍍級の稜線にでた。稜線直下、雪崩の隙間に鮮やかな黄色の花「マンサク」が咲いていたのを思いだす。ここで「アイゼン」から「ワカン」に換え萩形沢源流を横切り、笹森岳の稜線に出る。この一帯、八木沢マタギの狩猟地。ブナの巨木に当時の狩りの様子が彫り刻まれていた。 


      

 

写真左:マタギの調査記録地図(作成 佐藤良美) 写真右:ブナの巨木に山刀(ナガサ)で彫り刻んだ狩りの記録:天上倉山(888)「11:30クマ二日目一ト男 昭二八・四・二八 山金外二十人 右側に熊の手形が彫られている」1999年4月18日 撮影 

 

 1978年春、『山田家先祖代々記』を最後まで書き綴った、山田運治郎氏(故人)を尋ねて話を聞いた。運治郎氏は「明治期、この山で雪崩にのみ込まれ、帰らぬマタギがいた」といっていた。父良蔵マタギにそのことを話をしたら父は知らないといった。語り継がれないことがある。山を歩いていつも思うことは「山はつねに畏敬をたもつ」。人間の存在なんか大自然のなかではチッポケな存在だと思う。同じ山道を何百と歩いても同じと思うことはない。山は雄大で脈々と生き続けている・・・。その山にマタギたちの姿があったと思うからである。

 昨年、4月上旬、八木沢集落を歩いた。肇マタギの家が壊されていた。肇は戦後のマタギだが先祖代々からの受け継がれた伝統マタギの継承者でもあった。何もかもが消えていく。わずかでもいい。集落の歴史を後世に残そうと思う。

【自己紹介】
 秋田市手形山 在住 1954年12月 上小阿仁村八木沢に生れる 78年3月 秋田経済大学 経済学部卒(現ノースアジア大学)、 元日本自然保護協会及び日本鳥学会会員
幼少期から山の奥地を歩く。国の天然記念物「クマゲラ」を太平山北面で初めて棲息の確認(平成09年07月24日太平山北面でクマゲラ生息確認「秋田魁新報社」)するなど、クマタカ、オオタカ、ハヤブサ等などの棲息調査や営巣の確認は十数巣におよぶ。また、30代のころ、12月、1.2.3.4月と前岳から中岳、鶴ケ岳(1002)、剣岳(1054)、宝蔵岳(1036)、太平山(1171)までの単独往復の縦走や2月、秋田市仁別から太平山系の尾根を歩き八木沢集落まで歩いた。


 2009年春, 集落最後のマタギ、父良蔵が鉄砲を返納し集落からマタギが姿を消した。八木沢マタギは江戸後期、マタギの発祥とされる、秋田・ 根子村(現北秋田市)から移住・定着した集落で、その歴史を後世に語り継ぐとして同年「八木澤マタギを語る会」を発足。年に一度「10月15日」を八木沢マタギを語る日として公民館などで開催をしている。

筆者  昭和50年代のころ 厳冬の出羽丘陵・太平山(1170)山頂にて


【主なマタギの調査】近世、マタギの発祥とされる秋田マタギの根子村(根子マタギ)「現北秋田市」から移住・定着した「村田徳助、山田三之助、佐藤七左衛門」の裏付け調査。集落に残された狩猟用具の検証で八木沢の「旅マタギ」の親族、阿仁マタギ関係者、鍛冶屋、岩手県・碧祥寺、信州・秋山郷などで昔の旅マタギや現役の猟師などを尋ね歩き、近世「八木沢マタギ」の歴史や狩猟具の検証。山田家先祖代々記の記述「第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村のマタギの調査。文献、鈴木牧之 秋山紀行・夜職草「天保年間、清津峡沿の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという」ことについて、八木沢集落にも「長吉・長松兄弟」がいたことから新潟県・三面や信州・秋山郷を尋ね、その関連性についての裏付け調査や近世から八木沢マタギと共同で狩りをした萩形マタギ(離村)たちの、その後の様子などの調査もしながら集落の歴史を後世に残そうとしている。

 

文献:鈴木牧之「秋山紀行」・「夜職草」  宮本常一「山に生きる人々」 千葉徳爾「狩猟伝承」より

 文政11年(1828)、越後塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。この紀行によると、鈴木牧之が現在の切明(湯本)で秋田マタギと出会い、草津温泉を市場に狩猟や山漁を行っていた様子が詳細に記されています。牧之が秋山郷を訪れた目的の一つは、秋田の旅マタギに会うことだった。大赤沢では天保年間に親子二人の秋田マタギが狩を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ木家に納まったという。清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。 (鈴木牧之:夜職草)
  大赤沢を出て、わずか二軒だけの甘酒村でのこと「雪に降りこめられたなら、さぞかしさびしいでしょう」と聞いてみた。女は答える「雪の間は里の人は一人もやってきません。ただ秋田のマタギが時々やってくるだけでございます」(鈴木牧之:秋山紀行)
 
 「夜になると、約束を違わず、狩人二人のうちの一人が訪ねてきた。年は三十ほどと見え、いかにも勇猛そう。背中には熊の皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と見えた・・・「お国は羽州の秋田の辺りですか」と尋ねると、「城下から三里も離れた山里だ」と答えた。牧之は「秋田在の訛も交わらず言葉鮮なれば、一つも繰返して聞直すこともなく」と記している。
  民俗学者の宮本常一著書「山に生きる人びと」によれば、「お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか」とある。 
 
 山の中ではやくからくらしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを帆って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子、上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。(山に生きる人びと:宮本常一)
  
 古来、鷹とマタギは兄弟だとされ、マタギは鷹を射たない。射ってはならないとされる。マタギは鷹使いの流れをひく伝承をもっていたらしいことである。この人たちの口伝えでは、マタギと鷹は同じ仲間だから、捕ってはならぬというのであった。そして、万一鷹を撃ったならそれを往生させるための儀式というものが、巻物中に記されているのである。(文献: 千葉徳爾「狩猟伝承」)

 

 ≪鷹の調査:撮影 佐藤良美≫

 森のなかで一人、営巣中の鷹を観察する。生き物との調査は一対一を基本とし静かに見守り続ける。つらい調査のなかでヒナが巣立つ一瞬で苦労が感動へと変わるが、巣立ったヒナには厳しい自然界が待ち構えていることを忘れない。

 鷹の調査には多くの危険を伴う。「奥地だから危険だとか低地だから危険ではない」とは限らない。むしろ低地が最も危険だと思う。調査で心がけていることは「種の保存」である。生態系をこわしてはならないこと。生態系の頂点に位置する鷹は最も警戒心が強い。営巣地は外敵から狙われにくく、なおかつ「子育て」ができる環境にあるが、その域は極めて限定される。調査で心がけていることは「して良いことダメな事」だ。マタギの世界も同じことがいえると思う。

 

 《クマタカ:絶滅危惧種》
 クマタカの営巣地を確認するのに7年近い歳月が過ぎた。調査は春夏秋冬の四季を通す。調査で最も大切な季節は酷寒の冬。風雪が舞う1月から2月、上空を飛翔するタカの姿を追いもとめた。この頃、タカの活動が最も活発になるからだ。

 

 

写真左:クマタカの親(メス) 写真右:ヒナに餌をあたえる親(メス)

 

 写真左:巣内に餌を運んだ直前のメス親(メス) 写真右:巣内に餌のヘビを運ぶ


 

写真左:親(メス)が運んだ餌を奪いとるヒナ 写真右:餌をくわえるヒナ


 

写真左:リスをくわえたヒナ 写真右:ウサギが運ばれた

 
 

写真左:ヘビを巣に運ぶ親(メス) 写真右:親はヒナの成長度合いによって餌を変える


 

写真左:このヒナは大きさからメスのようだ 写真右:巣立ち直前のヒナ


 

写真左:ヒナは巣立つ頃、親と同じぐらいの大きさに成長する 写真右:クマタカの親子


 

写真左:営巣木に西日が照らす 写真右:巣立ちが目前のヒナ

 



《オオタカ》


 

写真左:オオタカのヒナ 写真右:餌をくわえるヒナ


ヒナとはいえどども獲物に飛びつく様子はすさまじい



ハヤブサ(絶滅危惧種)のヒナ巣立ち 大空へ

標高約二百八十㍍の断崖絶壁のくぼみに作られた巣から、四羽のヒナが先に飛んだ親鳥の後を追うようにつぎつぎと飛び立つ。感動の一瞬だが、そのうちの一羽がすぐに巣にひきかえした。そのヒナは再び飛ぶことはなかった。



 

   大空舞う ハヤブサのヒナ

 鷹の調査でまれに貴重な植物をみかける。サルメンエビネは断崖絶壁に営巣する「ハヤブサ」の観察場所付近にひっそりと咲いていた。また、キエビネとアカエビネはミサゴの営巣地付近で咲いていた。カメラ機材を背負い急斜面を登っていく。偶然足元を見たらエビネが咲いているのに驚き。いまごろ咲き、しかも、黄色エビネと鮮やかな紅紫色のエビネが同じところに咲いている。驚きと、あまりの美しさに圧倒され、しばし足を止めてしまった。山からのプレゼントだと思った。


 

写真左:サルメンエビネ(猿面海老根)ラン科 右側:キエビネとアカエビネ


 


《一属一種 ミサゴ 準絶滅危惧種(NT)環境省》

 

 写真左:ミサゴ2001年5月13日  写真右:巣材をはこぶ親(メス)2006年6月22日


 

写真左:2006年7月7日 ミサゴは一属一種 準絶滅危惧種 写真右:巣に降りる寸前の親(オス) 

 

写真左:平成16年7月30日 巣立つヒナ 秋田市仁別 写真右:巣立ち直前のミサゴのヒナ

ミサゴの親(オス)餌の魚をつかまえて巣に降りる瞬間

 

 迷彩テントの中でクマタカの子育ての様子を見守る。カメラ機材と三脚、テントを背負い急斜面を登って観察場所につくだけでも一苦労。撮影は一瞬をとらえようとするがテント内は狭く蒸し暑い。鷹はとても警戒心がつよく、たとえ迷彩テントのなかでもすぐに気がつく。だから親(雌)は一瞬で巣に入り、一瞬で巣から離れてしまう。

  

対岸から鷹の子育ての様子を観察する まんなかは巣立ったクマタカのヒナの卵殻


【クマタカ】
 絶滅危惧IB類(EN)(環境省レッドリスト)食物連鎖の頂点に位置する希少な猛禽類。1989年のレッドデータブックでは絶滅危惧種とされ、種の保存法(「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」では政令指定種となっています。また、1993年にできた「種の保存法」でも、トキやライチョウ、ヤンバルクイナなどと同じランクで絶滅の危機に瀕している鳥のリストに入っている。ノウサギ、リスなどの小型哺乳類やヤマドリ、キジバトなどの中・小型鳥類を主食として生きている。クマタカの生息する環境は広く自然林が残され、バランスのとれたエサが供給される自然環境が不可欠で採餌できる場所や繁殖に適した場所が必要である。しかし、森林の伐採などにより餌となる小動物が減り、巣をかける大木もなくなった。クマタカを絶滅の危機から救うためには、クマタカが正常に繁殖を続けていくことのできる環境を守らなければならない。

 マタギの狩りは大自然と一体となって行われると思う。私は何度か熊狩りや巻狩り(ウサギ狩り)に同行したことがある。雪山を身軽に歩き、獲物を見つける鋭さ、鋭い目。マタギは世襲で秘伝を伝授し代々受け継がれてきた文化であった。大自然のなかで「古来」から棲息する生き物、特に鷹とマタギは何か共通をしているような気がする。

 

秋田さきがけ新聞 投稿 声の十字路 「八木沢マタギを語る」掲載記事より
 
 「投稿 声の十字路」へ「第一、第二、第三」とマタギ文化の心をつづった。このことは集落に生れ育ったものとして、どうしても後世に語り伝えたいと思ったからである。(佐藤良美)

平成22年03月08日記事 後世に伝えたい「八木沢マタギ」

平成22年09月22日記事 「八木沢マタギのルーツを探しに」


平成24年10月05日記事 「後世に伝えたい マタギの心、文化」

 

 幼少のころ集落のマタギが村田銃を背負い、狩りに行く様子をよくみかけた。友達の家に遊びに行くと奥から昔の「旅マタギ」が顔をのぞかせたが無言だった。大人はマタギのことを子供に話をすることはなかった。あるとき、親父(良蔵マタギ)に聞いた。「親父、先代はマタギのことを話したか」と。親父は「先代は何も話さなかった。ただ、ほかのマタギの口を通して伝えていたようだ。昔からマタギの物は、その家の家宝だ。」といった。

 奥地に入山、むかし歩いた「キッヤド(マタギ道)」を歩くこと、先祖代々、継承する狩猟用具を所持することは無言のマタギ魂が心に宿るような気がする。

  

《主な新聞掲載記事》
平成09年04月06日 ニホンザルとらえた「秋田魁新報社」
平成09年07月24日 太平山北面でクマゲラ生息確認「秋田魁新報社」
平成12年04月24日 太平山でイヌワシの写真撮影に成功「秋田魁新報社」
平成12年12月28日 太平山上空のクマタカ撮影「秋田魁新報社」
平成13年06月16日 営巣中のミサゴ撮影「秋田魁新報社」
平成15年08月22日 ミサゴの営巣を観察 巣立ちの瞬間など撮影「秋田魁新報社」
平成16年08月03日 仁別でミサゴの巣立ちの瞬間撮影に成功「秋田魁新報社」
平成16年09月08日 ミサゴのひな巣立つ 秋田市濁川「秋田魁新報社」
平成17年06月19日 仁別でクマタカ営巣地発見「秋田魁新報社」
平成17年08月09日 クマタカのひな巣立ち「秋田魁新報社
平成18年07月09日 ハヤブサのひな大空へ 岩見ダム周辺「秋田魁新報社
平成18年07月25日 秋田市添川でミサゴ 自然界の厳しさカメラにおさめる「秋田魁新報社」
平成19年08月14日 クマタカ巣立ち 2年ぶりに確認「秋田魁新報社」
平成20年08月28日 クマタカのひな巣立つ 絶滅危惧種 仁別で会社員確認「秋田魁新報社」
平成21年05月14日 山菜採りクマにご注意「秋田魁新報社」
平成21年07月24日 オオタカ2羽巣立つ 仁別で会社員が確認「秋田魁新報社」
平成21年08月18日 クマタカひな巣立つ 会社員が確認し撮影「秋田魁新報社」
平成22年07月28日 秋田市濁川 みさごひな巣立つ「秋田魁新報社」
平成22年08月06日 クマタカ巣立つ 仁別「秋田魁新報社」
平成23年07月14日 巣立ち間近い?オオタカのひな「朝日新聞 秋田」
平成25年06月19日 オオタカのひな すくすく育つ 河辺で営巣確認「秋田魁新報社」
平成25年06月23日 秋田さきがけ 週刊NIE 家族で読もう 注目2「オオタカのひな育つ」(P7)
平成270814日 秋田)クマタカのひなが巣立つ 秋田の山林から「朝日新聞 秋田総局」
平成290816日 クマタカ 巣立ちの季節「秋田魁新報社」 
平成290919日 地方点描 巣立ち「秋田魁新報社」

 

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー

日本に二つとない狩猟用具「八木沢マタギ猟具」

2016年12月15日 | 八木沢マタギ

       
               八木沢墓地にある源氏車の紋章が刻まれる墓石(昭和30年10月建立)

 長年の調査で八木沢集落は根子マタギの長吉・長松兄弟を含め、集落に移住したマタギ衆の多くは根子の善兵衛派であった。いまだ集落の墓地にはその当時の様子を指示する源氏車の紋章が刻まれた墓石が静かに眠る。根子集落の源氏紋章は源義経の忠臣・佐藤継信・忠信兄弟の末裔との言伝えがあり、八木沢集落は文化10年(1813)根子のマタギ等によって開村される。

・根子集落内の組織
 集落内のマタギ組織は、ゼンベエ(善兵衛)組、シチノジョウ(七之丞)組、イノスケ(伊之助)組があったと伝えられている。佐藤正夫「根子部落之概要」によると、根子集落の組織は以下のようなものであったという。
①肝入・・現在の村長。旧荒瀬村の本村に一軒のみ。
②オヤカタ(地主)・・根子集落に一軒のみ。現在根子ではオヤカタと呼ばれる屋号の家がある。
③組頭(伍長)・・組頭の下に小前という家があり、組頭は本家、小前は分家であることが多い。組頭の家は、善兵衛、忠太、文左衛門、平兵衛、宗兵衛、半四郎、伊之助、七之丞、三右衛門、弥吉、四郎兵衛、七郎兵衛、六之丞、八助で、さきほど上げたマタギの三組はこの組頭の中に含まれる。

 八木沢マタギ
 八木沢マタギは文化10年(1813)、秋田郡大阿仁根子村(現阿仁町)から村田徳助、山田三之丞、佐藤七左衛門のマタギ等によって開かれる。集落の中心を流れる小阿仁川は秋田市、太平山(1170)直下から注がれる大旭又沢からなり、萩形沢、トマノ沢などと合流、小阿仁川となり集落の中心部をなだらかに流れる。当時、根子村から八木沢に超えるのに北側に位置する堀内沢を渡らなければならなかった。沢は密林で、ほとんどが天然杉の巨木に覆われ冬でも水が多く渡れない時が何度もあったと古老マタギは語っていた。根列岳(根子集落)から幾つもの峰を越え八木沢に下りないでまっすぐ進むと赤沢、天上倉山(888)にとりつき、そのまま進むと太平山山頂(1770)へたどり着く。


               出羽丘陵 近世、マタギが歩いた1000㍍級の尾根に今でも道は残る

太平山山頂を南東側に横切り左手に雄大な大旭沢源流を眺望しながら1000㍍級のやせた尾根を進むと奥羽山脈へとつながる。このキャド(マタギ道)は昔の秋田マタギ(阿仁・八木沢マタギ)が歩き、太古からマタギ文化が根付いていたと推測される。

                       八木沢集落 平成28年3月2日 撮影

前方に阿仁根子から派生した「村田徳助、山田三之丞、佐藤七左衛門」の旧家があった。七左衛門は根子で多くのマタギ衆を輩出した組頭(伍長)善兵衛から分家。また、三之丞は根子の組頭、六之丞から分家、徳助は村田組に属すマタギ、根子と八木沢集落を往復するキャド(山道)は七左衛門の裏山から取り次いだ。そのキャドも昭和40年代以降、歩く人も少なくなり徐々に消え、いまは跡形もなく消えてしまった。

■古文書「山田家先祖代々記」からひも解く江戸後期の八木沢集落■
 
古文書「山田家先祖代々記」に明治二十九年二月「第拾三 福蔵二十五才(明治二十九年)二月下旬ヨリ山田喜助様と同村萩形部落ノ人々十名、都合十二名太平山ニ登山熊叉鬼ヲナ  ス、初日七尺ノ熊一頭猟ス 六尺ノ熊一頭 二歳熊二頭 二十日間ニ計四頭捕獲ス」と記されている。記述はさらに続く。大正四年旧十一月、父(卯助)が死ぬ間際に長男を枕元に呼び「冬ハ又鬼ヲ致シ家業ニツトメヨ」とマタギ魂を伝えた。福蔵は集落の初代先祖、山田三之助から分家し旅マタギであった。「福蔵が所持した槍の柄には熊の牙痕があった。とてもマタギの道具を大切にする几帳面な人であった」と亡き古老マタギが口々に語っていたが、いまやその槍や火縄銃などの狩猟用具は何処にどう消えたのか全く不明である。

     《ブナの木に刻まれた狩猟の様子 昭和28年4月28日冬 山金外20人》

出羽丘陵、天上倉山(888㍍)・笹森(1045㍍)間に樹立する橅に「十一時半 クマ二日目1ト男 昭二八、四、二八 冬 山金外二十人」と狩猟の様子を鉈目で刻んでいた。(1999年4月18日 撮影:佐藤良美)

マタギの巻物 八木沢・萩形から流布

山田三郎所蔵マタギの巻物 八木沢・萩形から流布
 
近世から狩猟をなし、マタギの変貌を物語るものに同村、不動羅集落の山田三郎氏所蔵の「マタギ秘巻」がある。この巻物は高野派の「山達由来之事」と 日光派の「山立根本巻」とが同一巻内に納まり「山達由来之事・山立根本巻」という名称になる。現存しているマタギ文章はいずれも流布写本のたぐいであり、原本は不明である。 上小阿仁村のマタギ集落は八木沢と萩形(離村)である。このマタギ文章はそこから出たものとされるが、この文章が実在する限り、八木沢、萩形マタギはその伝承性上においてかなり形骸化されたものだったに違いない。その証拠に両集落は隣地阿仁町(現北秋田市)から両派の流れをくむマタギたちが住みついていたからだった。(上小阿仁村 村史通史編)

八木沢分校廃校記念誌】
昭和五十八年八木沢分校廃校記念紙に、大正十二年十月一日付けで雇教員として八木沢集落へトロッコ列車に引越荷物を積んで着任した、故大沢要蔵先生が部落区長 佐藤金治家に宿泊した時の思い出を記す。「部落の人達は実に裕福な生活水準をもっていた。猟の収入など一日に二十円、三十円、五十円と…当時の雇教員の月手当てが二十円で、生活水準の高さに驚いた。当時、アメリカ婦人の帽子用として輸出される、番ドリ(ムササビ)という毛皮売り上げのもので、住人のほとんどは冬期間の狩猟従事者、その為か生活文化の水準は中流以上」と心境を綴った。 

≪日本に二つとないマタギ熊槍(三角槍)、火縄銃の背負袋
【マタギ熊槍(三角槍)】(村有形民俗文化財)
マタギ熊槍(三角槍)(穂先:37・8㌢・柄:2㍍) 近世後期。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州・秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似する。大型の熊槍専用で「タチマエ」(射手)が所持したものである。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称。熊猟で用いられた。 

 

    写真上:マタギ熊槍(穂先:37・8㌢・柄:2㍍)とマタギ槍  写真下:火縄銃の背負袋 三点とも村文化財指定
                                           
・火縄銃の背負袋 (しょいぶくろ)】(村有形民俗文化財)
火縄銃の背負袋は 近世末期とされ、旅マタギで用いられた。牛革で作られた鉄砲のケースで火縄銃を入れた。「背負袋」は冬狩りで雪の上においても濡れない、凍らないなど寒中のマタギに適した。

狩猟用具の検証】
  
二点の狩猟用具「マタギ熊槍、火縄銃の背負袋」は江戸後期、羽後国根子村(現北秋田市)のマタギの組頭佐藤善兵衛の子七左衛門、その孫の長吉長松兄弟のうち、兄長吉が旅マタギで用いられた猟具で日本で唯一無二の遺産であり極めて貴重な史料である。
 長年の調査でマタギ熊槍は秋田で作られたものではなく、秋田で用いられたものでもない。歴史的背景から越後(新潟)村上で作られ、信州・秋山郷との狩りと深い関連性があると推測される。マタギ熊槍の機能は「熊の落とし穴に落ちた熊猟」が主と思われ、そのための特殊な猟具と検証される。穂先:37・8㌢の槍には深い溝が掘られており、溝の入った槍で突いた獲物は必ず死ぬ。槍を獲物から抜けば血を吹き出て獲物が失血死する。また、獲物は刺して死ぬ瞬間、体内から高度の熱が出る。溝は、その熱抜きもでもあり、熱さましでもあった。しかも獲物は死ねば体が硬直するので槍が抜けなくなるが溝があるので獲物の体からが抜き取ることができ、時間が経過しても抜けやすい。
溝の入ったものに突かれた動物は助からない、40㌢近い槍は熊の心臓に突き刺す熊猟専用の槍。この槍を根子のマタギ、佐藤長吉が所持し火縄銃を入れた背負袋(江戸後期から明治初期)も長吉マタギが旅マタギで用いる。
 狩猟用具の調査は江戸後期に着目する。その結果、信州秋山郷、鈴木牧之・秋山紀行の狩り、その当時の時代背景とほぼ一致する。ただ、秋山紀行の文中に登場する長松・長吉兄弟と八木沢集落に定着した長吉・長松兄弟は兄が長吉、弟が長松である。当時の聞き取り調査で秋田マタギと名前を書きとめるだけでも精一杯であったと思われ、江戸後期、鈴木牧之秋山郷の場面に登場する人物と八木沢集落の長吉長松兄弟は同一人物と推測される。
 

【 江戸後期の集落のくらし 機織り道具は集落に残された友一無二の遺産】
・機織り道具は越後(新潟)と根子・八木沢集落をつなぎ合わせる貴重な史料である。

                                                                            〈江戸後期の機織り道具〉 

地機の杼糸繰枠などが集落に残された蔵に収蔵されていたものである。
江戸後期から
昭和初期まで機屋さんがあって、機織りをしていた。畑から採集した糸の原料、カラムシが長く伸びたのを釜で蒸かした後、皮をむいて「オシキダ」というものでギューッとこくると白い繊維が出る。それを洗って棹にかけて乾燥する。それを女の人たちが夜に糸を紡ぎ、へそを巻くと言って、ひょうたん型に巻いて吊るした材料にして布を織った。材料は主にマタギの衣装モンペとか袴で風は通すけれども雪は全然付かない。自給自足でどこの家にも機織りはあった。その当時の機織り道具が、200年近い、集落の建造物「蔵」に残されていた。

 【山田家先祖代々記】
八木沢集落は近世から明治にかけ、旅マタギの記述や狩猟用具が残されている。集落の旅マタギ「山田福蔵」が書き残した記述「山田家先祖代々記」(江戸末期-大正4年)に次のように書き残している。第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松・・・」。第拾 先祖二代山田福蔵 明治五年二月十六日生拾一才ヨリ拾四才迄佐藤長松ノ門人トナリ教授書籍ハ左ノ如シ「一、 商売往来 百姓往来一、 実語教 童子教一、 今川 修身四巻一、 算術十七段高等読本一」と記されている。「佐藤七左衛門ノ子長松」佐藤長松は長吉の弟で長吉・長松は兄弟で近世後期の根子マタギである。戸籍、狩猟用具、記述、伝承や時代背景そして歴史的変容などから近世中期以降の清津峡沿の二居で猟を伝授した「長松・長吉」兄弟と八木沢集落に派生した長吉・長松兄弟との共通点が多くみうけられる。これらの検証から集落は近世後期から明治初期にかけ、「長吉・長松」兄弟を中心としたマタギ集落が営まれていたと推測される。

 古文書に福蔵が「拾一から拾四歳」まで長吉の弟、長松の門人となり教授している。長吉は佐藤七左衛門の長男である。七左衛門は根子のマタギの組頭(伍長)善兵衛から分家、長吉長松兄弟は善兵衛の孫にあたる。古文書からひも解くと江戸後期の八木沢集落は第四「実ハ他村ヨリ来ル者ナルガ故ニ佐藤七左衛門ノ子長松ト云フ者立―達カーニ種々ナル苦ミヲサセラレ又他国ニ移転仕様カト考ヘタレド泣々此ノ村居住ス」と記されており、集落は根子集落から移住した長吉・長松兄弟の影響力が最も強かったものと推測される。

 記述 第十三 明治43年(1910)冬 マタギ宿の調査
「第十三 明治43年冬 南秋田郡上新城村 鎌田兼蔵方二宿泊ス又鬼ヲナス 猿弐拾三疋 青獅子一頭 マミ五疋 狸五疋 テン二疋 猟ス 此の歳テン皮一枚七円 狸皮一枚五円」 

                        
            マミ(アナグマ)は肉は脂がのって美味しい 撮影2016.11.26八木沢集落

 
2011年 春、調査の結果、「南秋田郡上新城村」鎌田兼蔵は現秋田市上新城小又にあった。この間、何度もあきらめようと思ったその日に見つかる。偶然、畑を耕していた人が親族で鎌田兼蔵の家はここだ。昔はすごい家で、いまは屋敷跡しか残っていない。ここに平屋があって蔵もあった。裏は大きな池があると私を案内した。
 小又集落の入口付近で尋ねた男性は白山にサルがいたことは聞いている。マタギが射止めた獲物は湯ノ沢温泉で売ったり買ったりしたのではないのだろうか、昔は銀山町として賑やかであったようだという。私は、このあと白山集落の最長老(大正12年生)を訪ねた。長老派は昔、おら方に「だし風」が吹く頃、奥にある、白山沢にサルが出ると聞いている。この奥に「湯乃沢温泉」があった。そこにマタギが泊まった話は聞いている。田んぼの近くで見たマタギは2~3人で阿仁の方から来たといって温泉に入って行った。ほかにもマタギがサルを生きたまま縄でしばり二匹獲って「しょって」(背負う)きたのを見た記憶がある。昔は三里も奥に部落もあったし鉱山もあった。温泉の先、100も200㍍も奥さ行けば(奥に行けば)「かやぶき屋根」の泊まるところもあったが段々と人がこなくなって温泉は昭和の初めになくなったと語り継げた。 (2011年4月22日聞き取り)

                文献:秋田魁新報社 新城鉱山「あきた鉱山盛衰記 より」

新潟、旧三面集落 文献からみる秋田マタギ(根子・八木沢マタギ)の考察  

                                             

                  奥三面ダム あさひ湖(2013.08.23 写真撮影:佐藤良美)

 新潟県 三面集落:朝日連峰の山懐であるこの一帯は、その険しさのため近年まで人を寄せつけない秘境の地でもあった。奥三面集落は昭和60年ダム建設のため閉村し、42戸の集落は湖底に深く眠った。この山深い秘境の地はマタギの里としても知られ、その自然の厳しさを恐れ敬いながら大自然からの恵みに感謝した。

◆ 根子 善兵衛(組頭)から派生した七左衛門の槍と越後(新潟)三面・信州秋山の槍と酷似 
                マタギ小槍(全長122、穂先13、柄116㌢,材質はサビタ)

 マタギ熊槍は「三面の狩人や信州・秋山マタギ」が所持した槍の形状に酷似する。三本のうちいちばん小さな槍(写真上)は最も古い。この槍は根子集落から移住以前から所持されていたもので最古であり、江戸時代初期以前の史料と思われ初代七左衛門が親である根子の善兵衛マタギ(組頭)から継承されたものと推測される。集落に残された史料や伝承、狩猟用具等から八木沢集落は根子から移住以前、秋田マタギ(阿仁マタギ)と三面集落との交流があったと推測される。 

信州・秋山郷 八木沢マタギとの関連性の調査】
・秋田マタギ:鈴木牧之「秋山紀行」
 鈴木牧之(1770-1842)は、58歳の時、町内の桶屋と秘境・秋山郷を旅し、1831年「秋山紀行」を書き上げる。牧之が文政11年(1828)秋、秋山をおとずれたときの紀行で、天保2年に書かれた「秋山紀行」によると、秋田のマタギは幕末のころ信越の国境から上野山中あたりまで来て狩りをしていた。秋山の温泉の長屋を借りてそこで冬ごもりしつつ、上州(群馬県)の草津あたりまで狩りをして歩くという。牧之が秋山をたずねたのも、一つはこれらマタギの仲間に会うてみたい。念願からであった、そこで牧之はマタギにいろいろ話が聞きたいというと、昼間は狩りに出かけなければならぬ、晩にかえってくるからといって、マタギはでかけていった。その夜、二人のマタギのうちの1人が牧之の宿へたずねてきた。としのころは30歳ぐらい、いかにも勇猛で、背にクマの皮を着、同じ毛の胴乱を前におき、鉄張の大きせるで煙を吹き出す風情はまったくあっぱれといいたいほどである。宿には行灯があるが灯心が一すじでまことに暗いから、牧之はろうそくを出して火をつけ、秋田のマタギに座敷にあがってもらい、一とおりあいさつをすまして、お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか。いろいろ聞いてみると正確にこたえてくれる。かつて狩猟に生きていた村に秋田県北秋田郡の阿仁露熊・打当・根子・上小阿仁村八木沢・萩形である。

  
    鈴木牧之:秋山紀行・夜職草 

 それにしてもここはたった二軒、「雪の中ではさぞ寂しいことしょう」というと、女は答えるには、「雪の間、里の人は一人も来ません。秋田の狩人が時々見えます。昔からこの村は人数が増えるも減りもしません。秋山中の大元の、大秋山という八軒の村が川西にありましたが、四十六年前の卯年(天明三年)の餓饉で餓死して、すべて絶えました。その時、この村も二軒とも切ない思いをしながらとにかく餓饉をしのいで、今では楽々食い物がありますよ」ということであった。甘酒の村はわずかに家二軒卯の凶作にこぼさぬと云ふ(甘酒より)
 秋田の狩人 東北地方の狩猟集団のうち、とくに秋田マタギは有名である。彼らは先祖万事万三郎が日光権現を助けた弓矢の功により、全国の山々で猟をすることを許されたという由来書をもっている。所謂日光派である。秋山の狩猟の伝授者も秋田マタギで、その先達者の名も語り伝えている。大赤沢では、天保年間に親子二人の秋田マタギが狩猟(熊狩)を伝え、親は石沢家に、子は藤ノ家に納まったという。清津峡沿の二居には秋田から「長松・長吉」という兄弟が来て猟を伝授したという。文献:鈴木牧之:秋山紀行・夜職草  山に生きる人々(宮本常一)より
・鈴木牧之:越後国塩沢(新潟県南魚沼市塩沢)生まれ。明和7年(1770)1月27日-天保13年(1842)5月15日 江戸後期の文人『北越雪譜』『秋山記行』はその代表作。
・宮本常一:(1907―1981)文学博士、日本の民俗学者。

【苗場山】

               平成24年(2012)6月24日 信州・秋山郷 「苗場山」 撮影:佐藤良美

 山の中で早くから暮らしをたててきた人びとには、野獣をとろうとして住みついた者、山にある木や草を生活用具として利用しようとした人、胴・鉄のようなものを掘って歩いた人たちなどいろいろある。そうした仲間のうち、野獣を追うて歩いた人びとの山住いの歴史がもっとも古いのではないかと思われる。今日、狩猟を主として生活をたてている村はなくなっているが、かつて狩猟によって生きていたという村ならばいくつか見かけることができる。北からいって青森県下北半島恐山の西にある川内畑、津軽の黒石市大川原・黒森・二庄内・沖浦・板留、中津軽郡西目屋村、西津軽郡鯵ヵ沢町赤石川の谷、秋田県北秋田郡の阿仁町露熊・根子上小阿仁村八木沢・萩形、仙北郡檜木内村戸沢、福島県南会津郡檜枝岐村、新潟県岩船郡朝日村三面、北魚沼郡湯之谷村など東北地方日本海斜面の山中に点々として見かけるのであるが、さらに古くさかのぼれば吉野・熊野の山中にも狩猟の村は多かったし、四国山中にもそうした村がみられた。そうしたマタギたちの山中での生活を描いたものに越後塩沢の鈴木牧之の「秋山紀行」がある。牧之が文化10年秋、秋山をおとづれたときの紀行で、天保2年に書かれた「秋山紀行」によると、秋田のマタギは幕末のころ信越の国境から上野山中あたりまで来て狩りをしていた。秋山の温泉の長屋を借りてそこで冬ごもりしつつ、上州(群馬県)の草津あたりまで狩りをして歩くという。牧之が秋山をたずねたのも、一つはこれらマタギの仲間に会うてみたい。念願からであった、そこで牧之はマタギにいろいろ話が聞きたいというと、昼間は狩りに出かけなければならぬ、晩にかえってくるからといって、マタギはでかけていった。その夜、二人のマタギのうちの1人が牧之の宿へたずねてきた。としのころは30歳ぐらい、いかにも勇猛で、背にクマの皮を着、同じ毛の胴乱を前におき、鉄張の大きせるで煙を吹き出す風情はまったくあっぱれといいたいほどである。宿には行灯があるが灯心が一すじでまことに暗いから、牧之はろうそくを出して火をつけ、秋田のマタギに座敷にあがってもらい、一とおりあいさつをすまして、お国は秋田のあたりかと聞くと、城下から三里へだてた山里だと答えた。上小阿仁村あたりであろうか。いろいろ聞いてみると正確にこたえてくれる。文献:『山に生きる人びと』宮本常一・河出書房新社 2012年4月30日 4刷 3狩人

・信州秋山郷、熊落とし穴と八木沢のマタギ熊槍との関連性があるかどうか 2012.6.24調査
 信州・秋山郷の「熊の落とし穴」は今でも一つだけ残されている。筆者の調査目的は、この穴を見ることにもあった。熊の落とし穴は秋山郷一帯で鷹狩りの主役・鷹の繁殖地で、狩猟禁止・・・実質上の保護区であった。1727年の文書では、秋山郷周辺に10名の巣守がいたことが記されている。この狩猟禁止区域に、秋田の旅マタギが入るようになるのが18-19世紀(1701-1900)ころと思われる。この時期は、幕府の弱体化と巣守らの特権が崩れてゆく時代時でもあった。1800年代、秋山郷の集落や焼畑周辺には、熊の落とし穴が幾つもあったとされる。  

二人の住民に聞いてたどり着いた  信州秋山郷のクマの落とし穴( 2012年6月24日 撮影:佐藤良美)                   

                                                                                         
 落とし穴は、深さが3.5m~4.5mとかなり深い。調査のポイントは「熊の落とし穴」と「甘酒村」にある。八木沢集落の先祖がこの地に足を踏み入れたのか、地形、習俗や熊槍がこの場面に登場したのか。この地が私を受け入れるのかを全身で受け止めたかった。

・秋山マタギと阿仁マタギの関連性
 根子のマタギが八木沢集落に移住のころと信州秋山紀行に登場する人物、熊の落とし穴、マタギ熊槍(上小阿仁村文化財)、古文書の長吉長松兄弟等など、この場面に登場する人物、時代背景、情景など文化10年に開村した八木沢集落のマタギ文化とほぼ一致する。調査で津南町や秋山郷の人たちは秋田マタギとの関連性を口々にいう。集落に残された「マタギ熊槍」は刃渡り37・5㌢ 柄の長さ2㍍の超大型槍で亡き古老マタギは「熊槍・熊槍」と呼称していた。佐藤七左衛門ノ子長松は佐藤良蔵マタギの先祖、長吉の弟で長吉と長松は兄弟、長吉の親の七左衛門は根子の中心的な組頭・善兵衛から分家、戸籍を調べると初代・二代とも「七左衛門」の屋号をひき継いでいた。このことは根子マタギの「長子相続制」を引き継いだものと思われる。長吉・長松を先祖にもつ故佐藤良蔵マタギ(201312.15没)は半世紀も前、菩提寺のご住職から「長吉が初代先祖七左衛門を連れてきたのだろう」と言っていたという。長吉は明治十八年にこの世を辞していることから長命であったと思われる。
 数年前、近世後期に建てられた蔵から「機織り道具」が見つかった。伯母(大正10年生)を尋ね、機織り道具のルーツを聞いた。叔母は「祖父母が編んでいた」と聞いていると語った。この年代は長吉・長松兄弟のころ、この時代背景そして歴史的変容などから盛んに生業とするマタギ文化が営まれたと推測される。秋山紀行に登場する長松長吉兄弟は八木沢の長吉長松兄弟と同一人物と思われる。

八木沢番楽】
 近世後期、秋田マタギ(現北秋田市根子のマタギ)が八木沢集落に派生、独立の集落として番楽が継承された。番楽は武士舞いが多く勇壮活発で荒っぽいのが特徴で演じる舞いはマタギやその子らであった 。
 八木沢番楽は神社の祭礼の時おこなわれてきた。八月十四日を幕開きとして、九月の末、稲刈り前には幕納めで舞うものとされ、根子番楽の流れをくむ。根子集落は日本を代表するマタギ集落で源氏、平家その他の落武者によって開創されたと伝えられ、多くの旅マタギを輩出し厳格なマタギの山の掟・戒律は非常に厳しく戒められ、平氏没後その一族である小池大納言の家臣が離散し、越後の三面、下野の日光、羽後の根子に居住し、その遺臣が伝えたという。近世、根子マタギが八木沢集落にすみつき独立の集落として番楽が継承された。裏表がある十二演目・計二十四演目が演じられマタギが勇壮活発で荒っぽい武士舞いが多いのが特徴の舞。村人は源平落人の子孫と称し、近世、旅マタギを主とする伝統マタギを継承する根子マタギの番楽を継承していたが、後継者不足などにより一九八九年ころ、集落のマタギやその子等による八木沢番楽は途絶えた。

               番楽はマタギやその子等によって演じられた(昭和初期:八木沢集落)


 ◇集落最後のマタギ犬◇
 ・マタギ犬と山の生き物

                                   
                                                         大山兎(1997春太平山系) 

・いにしえの動物「山兎」
 
 思えばこの味、半世紀以上前の文化そのもののような気がする。
ウサギは一羽二羽と数える。江戸期の獣肉禁止時代でも「鳥」扱いにして食べたからともいわれ、長い間、貴重な動物タンパク源で雪深い八木沢集落の冬期間の貴重な食糧で正月明けに「巻狩り」で射止めたマタギ衆の酒宴のハンデ(テーブル)に添えられた。 狩りから戻ったマタギ衆は射止めた兎をさっそく兎かやきにし、肉を箸でつつきながら酒を酌み交して談笑していた。半世紀以上前の在りし、マタギ衆の姿が今をも瞼に浮かぶ。兎狩りはマタギ衆の冬期間の食生活、極めて特有の狩猟生活者たちの営みとも密接にかかわって成り立っていた。


                                                                          山兎(2016.1.7)


・マタギ犬と山兎
 親父良蔵(集落最後のマタギ)は先祖代々のマタギの家系に生まれ、戦後長く集落のマタギ衆をまとめた。私が幼少のころ、銃身の長い村田銃を背負い昼夜を問わず山を歩いていた。
 親父が世を辞すとき、いくつか私に言い残したことがある。その一つが犬。親父が育てた最後のマタギ犬だった。当時、親父はよく犬を山に連れていた。親父は狩りから帰宅すると射止めた獲物の一部を犬にも分け与えた。
 親父とマタギの話しをすると代々のマタギ犬の手柄を自慢していた。いまの犬も「いいマタギ犬だ」と誇らしげに言っていた。近くで話しを聞いていた母が突然「ん~ちきしょだもの」と嬉しそう言った。母の言う「ん~ちきしょ」はマタギ犬を「大したものだ」と褒めた言葉であった。
 マタギにとって犬は自分の分身のようなもの、「心は一つ」忠実なマタギ犬は今でも親父の帰りをひたすら待ち続けているのかもしれない。

                                   山兎を食べる八木沢集落/最後のマタギ犬:平成28年2月

 
この日、私は山兎を十字に沿って毛裂きをした。その仕草を夢中で見る犬。内臓や肉を犬に放り投げた。生前、親父のやり方で待ちきれない犬は餌に、たちまちかぶりつき、骨は鋭い歯で噛み砕き飲み込んだ。生き物は何一つ捨てるものはない。昔のマタギ衆は冬兎の皮を捨てていたが、私はもったいないので皮についた肉片を食べてもらうため、犬に放り投げた。犬は皮についた肉片を食べ、残りの皮を口に銜えた。私は皮を取り上げようとしたが犬は唸り声をあげ威嚇する。いまだにマタギ犬の風格は薄れていないと思った。この日、犬にとって最高のご馳走だったろう。満足したのか目の輝きや動きまで機敏にみえた。

  ・山の生き物を敬い謙虚だった親父、まさにすべてを山に捧げた生涯であったと思う。
 
八木沢集落最後のマタギ父良蔵は生涯最大の巨熊の足跡を発見した12月15日と同じくしてこの世を去った。生前、狩りで射止めた獲物を犬にも食べさせ喜びを享受していた。生前、「巻狩りはマタギ衆の心は一つにした」と語っていたが、犬も自分にとって心は一つと捉えていたのだろう。兎は前足に比べて後ろ足が異常に長い。昭和30年代までは、ウサギの巻き狩りが行われマタギ衆が山で獲物を射とめたとき毛裂き、狩りが終わったあと兎鍋で酒宴に移り、夜を徹してマタギ衆は飲み明かした。春から秋にかけ、体毛が茶色で冬になると雪と見分けがつかないほど純白になる。性格は臆病で警戒心が強く、雪の上を歩いた足跡の上を逆戻りし、途中から横に数メートル飛び跳ねて行方をくらます習性をもつ。
 数日後、帰郷し犬を散歩に連れ出そうと遠くから見た、犬は私を見て舌を出し何度もペロペロなめるしぐさをした。兎肉を、またもらえると期待したのだろうか、マタギ犬も死ぬまでマタギ犬だ。
 親父が育てた最後のマタギ犬、彼方から親父は満面の笑みで見守っているような気がした。親父は12中旬、荒れ狂う猛吹雪の深夜、安らかに息を引き取った。いまでもつい最近のように思う。たしか息を引き取る数日前、「良美、ガ~(おまえ)家(え)さ帰ってきたら犬どこ連れであるげ~」と言った。集落最後のマタギらしい山人の幕引きだった。
 
《巻狩りの記憶》
 
 山兔は動物ではあるが一羽二羽と数える。古(いにしえ)からの貴重な獲物で雪深い集落の貴重なタンパク源ではあるが、狩りで自分達が食べる分しか獲らなかった。獲ると嬉しそうだった。山兎は雪が降るころ、毛の色が茶褐色から白色に変化する。このころから脂がのって身が引き締まりだす。2月ころになると発情期がはじまり、赤い小便をする。幼少のころ山を歩いているとガジャシバ(タニウツギ)の近くで兎が排尿した赤い小便を見つけ兎追いをしたものだった。
 熊や兎を集団で狩りをすることをマタギは「巻き狩り」といった。特に兎狩りは一月から二月にかけて村田銃を背負うマタギ衆が親方の家に集まり、勇壮に巻き狩りに向かう。いまでも時々思うが、集落のマタギ衆のなかに一人だけ片腕のマタギがいた。みんな足の速いマタギ衆ばかりでたちまち後姿が遠ざかって行った。その数十分後、山あいで銃声が鳴り響いた。村田銃独特の澄み切った音で山あいの集落に「ゴ-ッ」と木霊し圧巻だった。「おっ、ウサギとったな」と、いまは亡きアバ(老婆)が口々に言い村が活気づいたものだった。5~6人の勢子とマタギ衆が巻き狩りを終え親方の家に集まり、射止めた兎を平等に分けていた。分配の残りは親方の家で兎鍋にし、酒盛りが始まりにぎやかだった。私も残った「兔かやき」を食べとき、肉の中から散弾銃の鉛の弾が出てきたことを、今でもよく覚えている。大々的な巻き狩りは昭和3~40年代まで行われた。兎はマタギ衆にとって冬期間の食生活で極めて特有の狩猟生活者たちの営みとも密接に関わり成り立ったものだが、いまは遠い過去になってしまった。 
 

【 語り継がれる武勇伝】
生涯最大の大物二〇〇㌔超のオス 父良蔵、集落の南方に聳えるカゴ山(486)で射止める

                           
                    写真左は勢子の村田勇1966.12.16自宅前にて

山の主といわれる二〇〇㌔超の巨熊を射止めたカゴ山(486)、山は集落の中心を流れる小阿仁川上流右側に聳え、昔のマタギは女子(オナゴ)山と呼称した
 

            八木沢墓地から眺望するカゴ山(左前方)集落のマタギ衆は女子山とも呼称した
            手前は親父が育てた集落最後のマタギ犬


・八木沢集落最後のマタギ 佐藤良蔵(1924-2013)
 先祖七左衛門は江戸後期(文化10年)、日本のマタギの発祥とされる秋田郡大阿仁根子(現北秋田市阿仁町)のマタギの組頭、善兵衛から分家。代々のマタギ文化を継承する六代目だった。山の神を敬い多くのマタギ衆を育てあげた。いまだ語り継がれる武勇伝に四二歳のとき「山の主」と言われた二〇〇㌔超の巨熊を射止めた話しがある。巨熊は集落の中心を流れる小阿仁川上流、南面に聳える断崖絶壁のカゴ山(486)。一九六六年十二月中旬、二人の若い勢子(村田勇と佐藤良広)を引き連れ、冬眠寸前の巨熊に挑んだ。山は鋭角、岸壁にへばりつく五葉松の巨木、まさに巨熊の棲む山。同月十五日、冬眠直前の巨熊の足跡を発見、翌十六日、一晩で三尺も降り積もった雪をかき分けながら岸壁を横切り冬眠穴にたどりつく。この間、良蔵マタギは何度も勢子の良広に鉄砲を手渡し熊穴に辿り着くのに三時間を擁(よう)した。巨熊は五葉松の根元にある穴に入ったばかりで、たった一晩だけだった」と。生涯、心に残る最大の熊狩りを語っていた。熟知した集落のマタギが全身全霊で挑んだ熊狩りは神業に近かった。射止めた熊弾は神棚に捧げられ、熊肉は集落の皆にふるまわれた。生前、良蔵マタギは「熊を射止めれば大きなものでも小さなものでも別にしてうまくいったのは山の神様からの授かりものだ」と言っていた。あの巨熊の足跡を発見した十二月十五日、深夜、安らかに世を辞した。翌々日の十七日、しめやかに葬儀が行われたが何かの巡り合わせだろうか、十七日は八木沢集落のマタギ文化を後世に語り伝えようと活動する私の誕生日でもあった。


                  【先祖代々から受け継がれてきた弾造り道具と真鍮薬莢】
 
昭和30年代ころまで良蔵マタギや他のマタギ衆たちは自分で弾を造っていた。道具は先祖代々から受け継がれたもので明治期以前のものであった。集落のマタギ衆は村田銃を所持した。村田銃は村田式歩兵銃を民生用に改造した村田式単発銃でワシャド(子供)が寝静まった頃を見計らい「奥座敷」から道具を取り出し薄暗いなか囲炉裏端で鉛を溶かし、弾型に流し込み。真鍮薬莢に銃用雷管を取り付け、計量した黒色火薬を薬莢に充填し、弾型から取り出した球形の鉛弾や熊用一発弾を装填し実包を造った。

◇マタギ文化を語り継ぐ  
                    手前は筆者 太平山系にて 撮影2008.02.23
 私が幼少のころ、マタギ衆が巻き狩りにでるとき、山神様に手をあわせ、供えたモロビをゆっくり取り出し、火をつけ燻した「モロビ」を体全身にふりかけていた。マタギが狩りにでるときの習わしで燻した「けぶり」(煙)を体にふりかけることにより「悪よけ、魔よけ」になる」とする、古来からの風習で昭和40年ころまでつづいていた。マタギ衆が最も恐れたのが冬から春にかけての雪崩、雪崩は熟知したマタギの命をも容易く飲み込んでしまう。神信仰、禁忌事項、戒め戒律は厳しい大自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗のなかからうまれたのである。だからマタギ衆は自然信仰、山の神を敬い、山に謙虚であったと思う。死んだ親父ばかりではなく、昔のマタギは自然を尊び自然に感謝をする心は人一倍強く、仲間同士の強い絆で結ばれていた。マタギ文化は遠い昔話になってしまった。やがて集落のマタギを語る者も姿を消すときがくる。マタギの子孫として生を受けた者とし、ありのままの事を残す。そのことが先達が築いた無形の遺産に対する敬意だと思っている。厳しい環境の中で、ありのままに生きぬいたマタギ文化、中央から遠くはなれた山峡に、生きてきたこのみちのくの山人たちの長い歴史生活はいまや消滅に近いが、いつか集落にマタギ民俗資料館と鳥獣慰霊碑を建てたいと思い続けている。それが私の最後の勤めだと思うからである。

・八木沢のマタギ蔵
 江戸後期の建造物とされ 集落の歴史を物語る。江戸後期の趣を感じさせる蔵、巨木で建てられた蔵には民俗の暮らしの足跡がたしかに残されていた。                                                                                    

 近世後期、根子のマタギ衆によって切り開かれた八木沢集落。昭和30年代、20棟ほどの蔵が建ちならぶ活気のある集落だったが、いまは当時の面影もなく空間のなかに4棟の蔵だけがポツポツと点在する。この蔵の中にマタギの猟具が収蔵されていた。この集落に生まれ育ったものとし、蔵には歴史が重く漂うと感ずる。蔵は近世後期、最初に移住した「徳助、三之助、七左衛門」の三人のうちの一人、七左衛門が建てたものである。木造二階建て、クギはいっさい使っておらず、梁や柱・土台はスギやナラ材の巨木で窓は二つ北東と南西側にあるだけ。マタギ文化が意匠的、構造的に最も発達していたことを裏付けられる貴重な遺産だと思う。私の伯母、村田チサ(大正十年生)は「昔から七左衛門の蔵には霜がおりね~(つかない)」といったものだ」という。いまはこの伝承すらもマタギ文化とともに失われてしまう。江戸、明治、昭和と当時の面影を固持するかのように佇む蔵、老朽化は防ぎようがないが蔵も人間と同じ命を持つと思う。先人があって我々がいる。だから集落のマタギ文化を残すことは「蔵も残す」と心にきめている。
 江戸後期に建造された蔵、わずかに残された狩猟用具や民具が収蔵されていた。残された蔵は歴史を守ろうとしているかのように励まされる。先祖代々世襲をしてきた大いなる遺産。江戸、明治、大正そして現代へと風雪に耐え、いまを生きようとしている。二〇〇年の歴史、根子のマタギ七左衛門から六代目佐藤良蔵へ、そして息子へと途切れることのない強い絆で結ばれている。

知らなすぎた集落のマタギの死
山を知り尽くした山人であればあるほど山の怖さを知っていた。山は恐ろしい。いくら熟練をしたマタギでさえ飲み込んでしまう。調査で知らないことがたくさんあった。集落のマタギの家系に生まれ育ってもマタギ文化はこんなに奥の深いものかと思った。マタギ言葉はマタギ衆だけが通じ合う言葉、何度も聞き返し意味を聴いたがその言葉が意味であった。言葉の意味合いを正確に理解するために自らの足で一つ一つ確認をしながら情報収集したものだ。それが尊い先人の足跡だと思うからである。調査で心の中に深く刻まれたのは集落のマタギの死。古文書「山田家先祖代々記」を風呂敷に包んで大切に保管をしていた故山田運治郎(明治四十三年生)が出羽山地で集落のマタギが雪崩で帰らぬ人となった話を親父に話したら親父は知らなかった。また、戦前まで旅マタギをした清マタギの兄・幸吉が集落のタカオトシ山(539)で雪崩に巻き込まれ不帰の人となった話を聞いたのは親父が世を去る数ヶ月前、私はそのことを聞いて驚いた。親父と酒を酌み交わしていた時にポツリと口に出したのである。幸吉の遺体は春、雪に埋もれ、さかさまの状態で死んでいたのをマタギ犬が見つけたとのこと。父は重い口を開き、酒の勢いで話したのだろう。心の底から憐れんでいた。死んだマタギの兄弟すら口に出すことはなかったのだから。いま思うと何も知らないでこの村に暮らしてきた私が情けないと思った。この村は「集落のマタギの死を口に出すものではない」とする集落の習わしが先祖代々根付いていた。そう思うと集落に残された狩猟用具には尊いものがあると実感した。

・邂逅 マタギ文化は遠の昔に消滅、伝承こそが真の遺産であった。
 昔のマタギは山を駆けめぐり生き物を射止め享受する自給自足の生活。そのため自然の恵みに感謝した。豪雪、集落のマタギの体力を支えたのが熊や兎等の野生の肉。いまは養殖の生き物がたくさん出回り、狩りなど山の恵みに授かって生きてきた文化は遠の昔に消滅した。
 今でも思い出す、私が30代頃の二月、初めて秋田の太平山系から八木沢集落まで歩いて帰ったことがある。実家に着いたのが20:30頃、足指や横腹が血だらけだった。親父に心配をかけまいと予告なしで帰ったのだから、親父は驚いていたが心底、嬉しそうだった。さっそく親父と酒を酌み交わし、マタギ話しで話しが弾み酔いつぶれてしまったが、記憶にあるのは「山は怖い、特に雪崩!雪崩だ!」と言っていた。雪崩、猛吹雪、濃霧などの危険に身をさらしながら、生き物を追って雪山を駆けめぐるマタギ衆、山の生き物の生態とマタギ衆の習わしが浮き彫りにされる。マタギには昔ながらの伝承に生きているというよりも伝承そのものだった。だから相手もマタギ、その伝承が脈々と受け継がれてきたがマタギ集落も今は戒律として守らなければいけない伝承も遠の昔に消滅したが、マタギの子孫として残された伝承こそが真の遺産であったと思う。
 🔶民俗資料館 開館準備構想
 八木沢マタギ民俗資料館(仮称) 開館に向けて準備中
 名     称:八木沢マタギ民俗資料館(仮称) 
 所 在 地:〒018-4400 秋田県北秋田郡上小阿仁村八木沢107番地
 開館時期:未定 

 八木沢集落に残された貴重な歴史的資料を収集・整理・保管する必要性が高まり、八木沢マタギ民俗資料館(仮称)を開館準備中である。
 
歴史は語り継ぐ者がいなくなれば向こうに消えさる。マタギは日本固有の文化であるが文化も自然も大きく変わってしまった。自然のなかで生き物を追い求めたマタギ文化を後世に残さなければならない。展示史料は狩猟用具(一部村文化財)や古文書、マタギの衣類を編んだ機織り道具などを収集・整理したもので江戸後期に建てられたと思われる木造二階建ての蔵に展示を目指している。
マタギ文化の伝統は古く尊い、その原点は山を敬う自然信仰にあったと思う。八木沢集落は文化10(1813)、日本のマタギ文化の発祥、根子村のマタギによって開村されている。文政11年(1828)越後塩沢の文人・鈴木牧之が秋山紀行文に越後の秋山を訪れ、温泉の長屋を借り、そこで冬ごもりしつつ、狩りをして歩く二人のマタギを訪ね、1人のマタギと会っている。マタギは背にクマの皮を着、同じ毛皮で作った煙草入れ、鉄製の大煙管で煙を吹き出す様子は、あっぱれな狩人と記す。また、清津峡の二居には秋田から長松・長吉という兄弟がきて猟を伝授したという。文中の甘酒村のシーンに老婆は「雪の間、里の人は一人も来ませんが秋田の狩人が時々見えます。四十六年前の卯年(天明三年)の餓饉で、この村も二軒とも切ない思いをしながらとにかく餓饉をしのいで、今では楽々食い物がありますよ」と牧之に伝えている。清津峡の二人の兄弟、秋山の温泉長屋に住む二人の兄弟は同一人物の「長松長吉」兄弟と推測、長吉は長い熊槍を所持、長松は語学に優れたマタギこの二人の兄弟は八木沢集落の長吉長松兄弟と思われる。集落は今では想像もつかない文化が発達していたと思われ脈々とマタギ文化が営まれていたと集落のマタギが綴った古文書から窺い知ることができ、また長吉長松兄弟の影響力が最も強かったと推測される。
 
マタギの語源は旅マタギを呼称したと思われ「山を跨ぐ、山を跨いで歩く…」をマタギと呼び敬った。集落は阿仁根子のマタギ組織を継承する集団で一村の男衆がみんなマタギ衆で山から山を歩く、旅マタギの集団、語源は自然界に挑む旅マタギを総称した概念であると考えられる。
 
消滅した八木沢集落のマタギ文化に隠された真実をマタギの子孫として深く追い求める。

・敬称省略
・写真・文/佐藤良美(集落最後のマタギ 佐藤良蔵の三男)

 

ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」二〇〇年の歴史ー