山の息吹が伝わる豊かな生態系
マイタケは山に生えるキノコの仲間でも王様とされ 人知れず奥地にマイタケ舞う
渓谷沿い マイタケ舞い踊る 2008.09.30 13:30
傘、茎に弾力性があり根茎から先端まで約30㌢
株が連なり長さ1m近い大物マイタケ
2008.09.30 単独で藪こぎをしながら渓谷に下り上流を目指すと切り立った岩場に遮られた。川渕は深い溝、手前の急斜面から巻いて登ろうと前方を見渡すと巨大マイタケが目に留まり一瞬驚いてしまった。マイタケはミズナラの根元にビッシリとつき奥深く根が張り、ただただ唖然とした。
この流域は広葉樹林帯で長い年月を経て浸食、堆積を繰り返し特徴ある地形が形成されたと推測、根元の空洞から茎が張り出し先端まで約30㌢の株が連なり1㍍近くまで巨大に成長し通常であれば腐ってしまうのだが生き生きと成長している事からして一帯は通気性が良く生育に適した環境にあると思われる。
黒マイタケ ミズナラの巨木にて
▼蜂の巣を連想 老木についたマイタケ
最初この光景を眺めると蜂の巣を連想させた。マイタケは岩場の急斜面・傾斜約80度のミズナラの老木に生えて一帯が深い沢からなる地形、今までにこの木に何十年もの間、幾つものマイタケがついていたような気がする。
老木についたマイタケ
蜂の巣を連想させる直径約45㌢ 下は傾斜約80度の深い沢 2021.09.26
☣ 巨木にマイタケの花が咲く 忘我の境地
2022.10.14
柔らかい日差しが差し込め 豊かな自然を感ずる
スパイク地下足袋を履き斜面75度位の沢沿いを登っていくと遠くのミズナラにキノコらしいものがビッシリついているのが目にとまり、徐々に近づくが太陽の光で実物がオレンジ色に見えて花が咲いているかのようでさらに近づくとあっと驚いた。マイタケが巨樹の割れ目から大きく張り出し根元まで全部で6株も生えているほどの勢いで周辺にはマイタケ特有の香りがプンプン漂った。
沢沿いの急斜面
ミズナラの巨木にマイタケ6株 ビッシリ!
山の奥地でマイタケの花が咲いているようだ
自然の美しさ 樹の根元にあるマイタケが一番デカい
もしこのマイタケが誰にも見つからなければ腐って跡形もなく消えてしまうだろう
尾根に太陽の光が差し込め まるで別世界の境地
この空間だけが楕円形の中にいるような気分
一株一株を丁寧に採取 別世界の境地に浸る
マイタケを一箇所に集めると香りが林内に充満
茎も傘も生き生きとして清々し気分
山の幸に感謝
マイタケは白、茶(赤とも言う)、黒系の3種に分類されるが、このマイタケは茶系で根茎が深く巨木の根に深く張り付き採るのに大変、ところが急斜面のためバランスを崩してしまい採ったマイタケを沢に落としてしまった。さてどうしようか迷ったが結局沢に下りて探し回って見つけたが気になるキノコは形が崩れることもなく原形のままに驚いてしまった。さっそくキノコを抱きかかえながら急斜面を登り平坦な場所まで運んで並べてみると圧巻、茎や傘に張りがあってマイタケ特有の香りが漂い広葉樹林帯に太陽の光が差し込み眩しく緑鮮やかな光景は忘我の境地に浸る思いがして山から頂いたマイタケを丁寧に45㍑の袋に入れると重さにして約55㌔、一袋をザックに詰め込み残りの一袋は両手に抱き抱えながら急斜面の藪をかき分けて下山した。
今回は思いがけない良き日、山から頂いたマイタケは自然の恵みで身内、近所、友人等に振る舞い感激と興奮が伝わってきた。
雑キノコ:ナラタケモドキ、クリタケ、ムキタケ・・・秋のキノコ狩り
ナラタケモドキ:ナラタケによく似ているが子実体の柄にツバがないのが特徴 2011.07.14
クリタケ(栗茸)
幼菌時は傘の周辺に白色の綿をつけることが多く成長すると栗色やレンガ色に変色する
晩秋のキノコ ムキタケ
ムキタケは晩秋のキノコでブナ、ナラ、トチなどの倒木などに生え、特に沢沿いのトチの倒木には多量に生えている時もあった。幼菌時のムキタケは毒キノコ・ツキヨタケによく似ている場合があるがツキヨタケの内部には黒い「シミ」があるので傘を裂くと見分けがつく。また、傘の表面下にゼラチン層がありヌルヌルしているのが特徴で初雪が降る頃までも生えているキノコ、味にくせがなくツルッとした舌触りは独特の風味を引出してくれる「副菜」でもある。
※「副菜」は体の調子を整えるもの
野菜、きのこ、海藻類などを使った料理で体の調子を整えるビタミン、ミネラル、食物繊維の供給源で野菜、きのこ、海藻類は1回の食事で2品以上を取り入れ1日350g以上を摂取することが推奨されている。
ナメコアート 沢沿いのナメコ山を歩く
2019.10.24
ナメコ群落
ナメコ群落から南西5~600㍍の急斜面を下ると軽井沢源流にたどり着く
2009.11.12 12:30
晩秋の源流 軽井沢「サンショウウオ」(山椒魚)太古の地球に思いを馳せる
V字型の深い沢筋に横たわるブナの倒木にナメコがビッシリついていた。そのナメコ群落を横切り軽井沢源流に下りる。今までにこのルートを数え切れないほど歩いてきたが一度だけ背面が暗褐色のサンショウウオを見たことがあった。サンショウウオは体長十㌢ほどの成体でトカゲに似ているが手足も細く小さい、体表にぬるめきがあって頭と胴体の境目がややくびれ小さな目に愛嬌を感ずる。晩秋の軽井沢は手が切るほどの水の冷たさだがサンショウウオはウロコ一枚も無くその環境に適した形質が進化し子孫を残し秘境特有の姿や生態に進化しているものと考えられる。
大平山(1170)の地層はマグマの化石からなり数億年前のもと言われ、巨大恐竜が生存した時代にさかのぼる。地下深くに大量のマグマがやってきて大きな塊をつくった。マグマの化石は花こう岩(正確には花こう閃緑岩)という白い岩石で地下深くのこの白い岩石の塊は大地の力で徐々に持ち上げられ上にあった地層は海や川の力で削られていく間についには地下深くにあった岩石の塊、「マグマの化石」が地面にあらわれ巨大な岩石の塊の一部が大平山を形成した。
数億年前、太古の地球は大陸や海岸の絶え間ない変化の間に爬虫類が出現、恐竜時代が訪れ、その恐竜も滅びて哺乳類の時代へと進化をたどる。小さな体で隠れたように暮らすサンショウウオは移動力が小さく大きな川を泳いで渡ることも、高い山を越えることも簡単ではない。そのため狭い範囲で他と交流せずに代を重ねるようになり、聖域特有の姿や生態に進化していったと推測されると思うと透き通る沢のせせらぎに警戒心も見られないその姿を見ていると我を忘れる思いがする。
ほどなく軽井沢源流のサンショウウオは岸辺の岩陰に身を隠したが太古の生き残りを抱くその生き方は数億年前の太古の昔に想い馳せた。
◆クマの観察:親子熊 近くには天然シイタケの恵み
シイタケ 2019.10.03
・子連れ親子熊の観察
大平山北東、標高約800㍍付近の急斜面、ブナとナラの混交林帯を下山中に子熊がナラ木の横枝を何度も往復しているのが目にとまった。子熊はすでに私の気配に気づきおどおど動き回っていた。この春生まれた小熊で生後約7~8か月、体調55㌢前後かと思われる。付近には必ず母熊がいると警戒をしながら周囲を見渡すと樹の根元に身を潜め、鋭い眼光で私を凝視、今でも飛び掛かってくるようで緊迫した雰囲気が続いた。熊との距離は約15~20㍍、格闘したら4~50㍍下の沢に転落する。緊迫する親熊との睨みあいが続いたがついに子熊は枝先から前かがみになり地表に飛び降りた瞬間、母熊がけたたましい勢いで上流へ逃げ去るとすぐその後を子熊が追いかけ瞬く間に姿を消していった。
シイタケはその場所から15mほど離れた沢の急斜面、ナラの倒木に生えていたが山歩きをしていると必ずと言っていいほど熊を見かけたが何十頭もの熊を観察する中で大平山(1170)東側斜面、標高約1000㍍付近で対面した巨熊との距離約5m、仁王立した熊との睨み合いは今でも忘れることができない。
2009.05.09 巨クマの足跡
時々背後を振り向きながら頻繁に匂いを嗅ぎ分ける熊は人間をも観察していた
2009.05.09 15:30
この熊はフキの周りに座って右手でフキを食べていた。熊との距離は約15m、その行動を観察していた私に気づいて走り出し樹幹(カツラ)の根元に身を潜め鼻で私の匂いを頻繁に嗅いでいたが、この時に思ったのは「熊は臭覚で相手方の行動を感知しているのではないか」と。
観察を続けていると熊の行動に変化が表れ始め数分後、熊は元の場所に戻り再びフキを食べ始めたので私も熊に刺激を与えずに忍び足で近づき間近でその行動をつぶさに観察していたが今まで生き物の調査で熊に限らず他の動物でも同様のケースが見られ、自然、動物、人間との関わりは不可思議で昔の狩猟採取を営んだマタギの世界が思い出される。
~冬眠穴は南面に位置するガレ地~
土がはだけた熊の冬眠穴 熊の出入口は二か所にあった(太平山系) 2001.04.22
熊穴(冬眠穴)の調査
熊の冬眠穴は太平山系、標高4~500㍍の尾根からクマタカ(絶滅危惧種)の生態調査をしていて偶然発見した。穴は南面に位置しガレ地、双眼鏡で対岸から調査をしていると突如、熊が冬眠穴から一瞬に出たのに驚いた。数日後、付近を調査すると熊が棲息する格好の生態系にあった。冬眠穴は二か所、いずれも岩穴で斜面が崩落し岩に土砂が幾重にも堆積、乾燥した堆積物は熊が冬眠しやすい恰好の条件でしかも狩猟区ではあるが一度も狩人を見たこともそれらしい痕跡も無い。熊は深い横長の穴を掘り何年も同じ穴に入っていると推測、二か所ある冬眠穴の距離は数十㌔離れておりそれぞれが別の個体と区別され熊の危険地帯と判断されるが調査をする身にとっては常に警戒を怠らずに行動をしながら下山したが緊張の連続であった。
・二つの内、一つの冬眠穴には間違いなく熊が入っていた
この冬眠穴を1年かけて調査をしてみると入口は南西と北側方向の二か所、主に南西側から出入りしていたと思われる。両穴の入口付近には枯れた太いイタドリの茎が穴に引きずられ食べかすが異様に生々しく、推測すると熊は冬眠穴に入ってもすぐには冬眠せずイタドリなどの茎を食べながら降り積もる雪と共に徐々に深い眠りにつくと思われこの冬眠穴は翌年4月初旬、穴から出て沢沿いの山菜等を食べ始めているのが対岸から確認ができた。
・熊が冬眠穴から出る時は一瞬
調査でとても驚いたのは熊が冬眠穴から出るのは一瞬で小さな穴から大きな巨体が瞬時に出たのに驚く。この様子をマタギに話すとマタギも「大きな巨体が一瞬で出る」と興奮しながら話していた事が思い出される。その後の調査でこの熊は穴から出ると沢沿いの山菜等を食べ始めるがその行動は穏やかで採食後に固い便を排出しながら徐々に行動範囲を広げて奥地へと移動をするのが確認でき一定の調査の中で熊は冬眠間近になると再びこの穴に戻っていた。
春、観察中に裏山で数人の男女が山菜採りをしている様子が対岸から見えたが警告をするにしても数キロも離れており見守るだけであったが数十分後、何事もなく熊は尾根方向に移動していくのを確認、熊も人間も山菜に夢中で気付かずに動き回ることがあるが鉢合わせをするととても危険で特に母熊が子連れであれば凶暴になることが十分予想されるので警戒する必要がある。
この冬眠穴は、12月中旬、積雪約45㌢、穴を調査していると突然中からけたたましい熊の唸り声、恐怖のあまり大急ぎで雪原の急斜面を下山したが熊は間違いなく同じ穴に冬眠をしていた。
【熊の冬眠穴】
手つかずの自然に生きる生き物
生々しく刳られた熊穴 入口には無数の毛が付着
出羽山系の天然秋田スギ、南西側に熊の冬眠穴 2010.10.07 14:06
マタギの世界を感ずる
冬眠穴にはすぐには近づかない、五感を働かせ慎重に周囲の観察をしながら徐々に接近、 沢沿いの熊穴は冬眠しやすいように奥深く牙と爪で刳られ無数の毛が付着していて生々しく身の毛がよだつ思いがする。この場所、この穴が本来の野生動物の姿かもしれない、昔の八木沢集落のマタギは生き物に対し畏敬の念を抱いたもので今に思うと良く理解できる。
岩穴の熊・出産と子育ての様子
熊の冬眠穴は沢沿いのナラの巨木、天然スギ、土穴、岩穴などで確認されたが最も怖かったのが春、出羽山系の赤倉岳(1093)北東斜面、標高約1000㍍付近の岩場であった。雪消えの春、稜線は早春とはいえ数㍍の残雪が残り根回り付近は雪が溶けだし春の訪れを告げようとしていた。
快晴で午前7時30分、旭又を出発、最低限の装備で急斜面を登り稜線に出てから1000㍍級の山塊に降り積もった残雪を踏みしめて尾根から斜面を下りポイント地点に着いたのが10時頃、直線で約7~80㍍、深いV字型の沢を挟んだ対岸、樹木に身を潜め8倍の双眼鏡を両手に岩場の熊穴を覗くと「いた、いた、子熊が一頭、元気に動き回っている」。早春とはいえ子熊はもう真っ黒の毛が体を被い動きも活発だ。熊の交尾期は5~7月、出産は12月~3月頃で冬眠中に出産するが地形や気象、冬眠穴の状況などによって大きく異なり一概に言うことはできないが、この繁殖地での子熊の成長は最も早く、通常の出産は一頭から二頭だがこの繁殖地では1頭の子熊を出産していて母熊は子熊の動きを目から離さずに大きな巨体で寄り添っていた。動き回る子熊の体調は約30㌢を超えると思われ逆算をしてみると冬眠は11月下旬から12月上旬、出産は1月前後と推測される。岩穴の入口は平坦で滑らか、土が乾き動き回る子熊の周りは土埃が舞い上がっているようで冬眠穴は外敵の心配もなく餌や出産、子育てに適した環境にあって毎年越冬をしているものと断定した。
観察をしていると活発に動きまわる子熊の首を母熊が離れるたびに口に加えて元の場所に連れ戻す行動が何度も見られ、四つん這いで頭を左右に振りながら子熊から目を離さず見守る様子が確認された。調査で何時間もかけてこの観察場所に足を運び数十分の観察でこの場を離れるのは忍び難いが自然に生きる生き物たちの調査は一対一を基本とし、その中で生き物を刺激しない、調査地点を自然の状態に戻し最終確認をし終えて再び1000㍍級の稜線に出た。出羽山系の長い尾根、深い谷底の大旭又沢、前方に聳える大平山・白子森などの山塊を仰ぎながら残雪を踏みしめ引き返す。
調査と撮影:佐藤良美
【絶滅危惧種 クマタカの繁殖】
クマタカの撮影は一瞬で行われる
繁殖中のクマタカ(絶滅危惧種) 撮影:佐藤良美
クマタカ(絶滅危惧種)を観察していると沢筋から「熊」が餌を探しながら尾根側に向ってきたが餌に夢中で私の気配に気が付かず立ち去るまでの間の行動を一部始終観察したがとても興味深い行動が確認できた。
実話であるが昔のマタギが狩りからもどる途中、衰弱した鷹を保護し自宅で肉を与えるとたちまち体力を回復し山に放鳥した話しを聞いたことがある。マタギは「鷹の回復は凄まじい、その行動が怖くなった」と話していたがマタギが怖いと思うのはよほどであろうか、そのマタギはすでにこの世を去ってしまったが鷹の調査をしていると「マタギと鷹」の狩りは共通するところがある。この点からすればマタギと鷹は同じ仲間、同じ兄弟分だと観察をしながら何度も思った。
巣内に餌のヘビ(アオダイショウ)を運ぶクマタカの雌 撮影:佐藤良美
熊の好物のサルナシやヤマブドウ
実りの秋 熟した山の幸は美味しい
ヤマブドウ 2008.10.03 サルナシ 2008.08.26
1989.11中旬、大平山系御衣森(1.000)付近に巨熊がいた。熊はラジオの音では逃げず、私との睨み合いが続いたがそれでも逃げないのでザックからカメラを取り出し撮影をしようとしたら樹幹の間を縫うように逃げていった。付近には熊棚が数か所あり、翌年3月3日 雪が降るなか旭又登山口(08:45)から大平山山頂(11:18)経由、左斜面の深い大旭又沢の尾根を滑落しないようにシッカリと雪渓を踏みしめながら御衣森方向に向かい右手の窪地に下り一帯を熊の調査で歩き回ったが南西方向、不帰の沢は崖と切り立った岩場、字のごとく不帰の沢は再び戻ることのできない沢と昔から言われるほど一帯は危険過ぎて一定の調査を終えて再び来たルートを引き返す。
【天然記念物:ニホンカモシカ】
出羽丘陵のニホンカモシカ 野生動物の調査にて 1996.02.11 10:40
絶滅したとされるニホンカワウソの投稿記事を読んで
1989.08.20(日)快晴
この日、杉沢集落から7,8㌔先、光沢(09:00)から馬場目岳山頂(10:37)経由して大倉又沢に下山したが生態系は天然秋田スギやネズコ、ヒメコマツなどの混交林が伐採され、斜面を下ると右手に大きな滝(三階滝)があってその先に橋があったがすでに朽ち果て川を渉った記憶がある。
ある日、S新聞にここで働いていた作業員の投稿記事が目に留まり興味深く読んだ。記事は作業現場に向かう沢筋の歩道を歩いていると眼下の沢を遡上していく動物を見た。地元作業員に問うと「カワネズミ」だと答えた。ところがネズミではなく、ウサギほどの大きさでニホンカワウソではないか。ニホンカワウソは79年に高知県で目撃されたのが最後とされ、絶滅したとされているがここで見た動物はニホンカワウソだとして、それがまだ命脈をつないでいるとしたら画期的で空想するだけでもロマンであるとの内容であった。
嘗て私もこの奥地を歩いたが、かなりの奥地で生息していても不思議ではない。当時は豊かな森林生態系に覆われ水量も豊富で生息環境は否定できないが、いまにおいては広範囲に伐採され生態系が大きく変化し半世紀以前の命脈、空想・ロマンになるかもしれないと懐古的な気分になってしまった。
朽ちたナラの巨木/神聖な山に神宿る
寿命が尽きて土にかえる ミズナラの巨木
万物流転
万物に宿る精気、材には材の木霊が鎮まり自然に対する敬虔な心を抱く
ある時ついにこの巨木も数百年の生命を全うし朽ち果てた
樹はやがて長い年月を経て跡形もなく風化され自然の中に消えゆく
大いなる遺産
今に伝える 八木沢の蔵
出羽山地に抱かれた山あいの集落「八木沢」、集落は1813(文化10)年、根子マタギ(現北秋田市阿仁根子)によって開村、生業とするマタギが江戸後期から昭和中期頃まで営まれていた。四方が山に囲まれ、中心部をなだらかに流れる小阿仁川、その小阿仁川北東方向に二階建ての蔵が佇み過ぎ去りし歴史や文化が重く漂う。
昔は集落に蔵が20棟も建っていたものであったが高度経済成長期の波に押し寄せられ若手が東京圏等への流出し幾多の変遷を繰り返し今においては当時の面影は薄れ空間のなかに辛うじて3棟の蔵だけが佇むだけの静穏を抱き200年の時を経た今なおも古来の暮らしの様相を呈しその時代の変遷を物語り地域固有の文化と歴史を滲ませここにしか存在しない遺産価値になってしまった。
豪雪の八木沢集落 八木沢の蔵
いまに伝える八木沢の蔵は二階建てで梁や柱・土台は天スギやナラ材で組まれ窓は北東と南西側に二つ、骨組みの灌木を余すところなく用いた建造物、筑後数百年の歴史に耐え古来の趣が滲みマタギ文化の意匠的、構造的に最も発達していたことが裏付け時代の歴史を感じさせる。
堅牢な錠前と下にも錠前があって古き昔が偲ばれる
マタギの道具、杣が用いた道具や機織り、農具、民具等がわずかではあるが残されている
錠前は二か所で重い扉を開けると先祖代々が用いた民具がわずかに収蔵されている
【蔵の中にあった機織り道具やマキリ・真鍮の薬莢】
弾つくり道具で道具は先祖代々から継承されてきたものである
蔵の中に収蔵されている機織り道具
機織り道具は蔵のなかに収蔵されていたものである。江戸中期以降、「カラムシ」を蒸かして糸をとって機を織ったもので織機はそれぞれの家々にあって主にマタギの衣装を織っていた。
古い猟具「ナガサ」
鞘に文字が彫られた「ナガサ」は八木沢の蔵に収蔵されていたもので明治以前と推測、錆びた状態であるが当時を偲び敢えて研磨をせずにそのままの状態で保存している。
八木沢マタギ 神棚の矢じり(石鏃)
古来より八木沢のマタギは自然を敬う自然信仰が根強く神棚に祀られる矢じり(石鏃)は1800(文化10)年代、根子集落から移住し開墾時に小阿仁川流域沿いから出土し神棚に祀ったと推測される。
石鏃は縄文時代、狩猟採取を営む道具として敬い
縄文文化の伝統を受け継ぐ遺物として崇め奉ったと考察
未だ休耕田からは動物を解体した石器が出土している。
昔から蔵は大切に管理され、蔵には「隠す」の意味も含まれ大切に収納する場所でもあって中に他の人が勝手に入らない神聖な場所と位置付けられていたもので1950年代は蔵の周辺は棚田で家は茅葺、道路は狭い砂利道で常日頃、村田銃を背負うマタギの姿もあった。
蔵は長い間、地域の中で継承されてきたことから人々の心の中に根付き蔵にまつわる想いは日々の生活の中で伝承され根付き、その家の象徴が根強く人々の自然と の関わり方との反映があって連綿と続いてきた文化の暮らしが凝縮されている。
【昔の鉄砲の弾造り道具 材は天然秋田スギの伐根】
・弾つくり道具は先祖代々から継承されたものであった
鉄砲の道具箱、天然秋田スギ(樹齢約250年)の伐根を刳り貫き製作 左端は「八木沢のモロビ」:刻 佐藤良美
八木沢のモロビ
・禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗のなかからうまれた。
・冬狩りで山神様のお供えをしたモロビに火をつけ、燻した煙を体全体にふりかける魔よけの儀式は60年代頃まで続けられていた。
マタギ衆が最もおそれたのが冬から春にかけてのワシで禁忌事項、戒めの戒律は厳しい自然界に立ち向かってきたマタギ文化の習俗。冬狩りで山神様のお供えをしたモロビに火をつけ、燻した煙を体全体にふりかける魔よけの儀式は1960年代頃まで続けられ嘗てのマタギが狩りをした。昔のマタギは萩形(離村・旧マタギ集落)の奥地、土地見平から大平山奥岳(1170)に向かう稜線、笹森(1045)との中間地点でも頻繁に狩りがおこなわれていた。マタギにとっていちばん怖いのが「ワシ」、ワシは八木沢集落のマタギ言葉で雪崩を意味する。
木箱は天スギの伐根 茶色の枯れ枝は「モロビ」でマタギは神聖な儀式からなる
樹齢約250年齢の天然秋田スギの伐根を刳り貫き、先祖代々から大切に用いられてきた狩猟具の鉄砲以外は神棚に保管されていた。厳然とするマタギ文化の証し、尊い遺産で歴史的保存物として価値がある。自然と共に生きたマタギ衆にとって猟具は命の次に大切な物で先祖代々の遺産に相応しい天スギの伐根に入れようと思いついた。幸い昭和後期に太平山地の奥地で天スギが伐採されていた頃にマタギから譲り受け何十年もの間を自然乾燥させ保管をしていた伐根を蔵に保管していたのでそれを三か月かけて刳り貫いて道具箱を製作したものであった。
「マタギ」と月の輪熊
八木沢のマタギは熊狩りで射止めた「熊」をどんな奥地でも集落に運び山の神に感謝をしていた。集落にはたちまち「クマ捕ったど~」と叫び声が伝わり多くの村人が集まった。みんなが注目する中で親方は最初に手際よくマキリを砥いでから熊を仰向けにして十字に解体をしていくが分厚い脂肪の層を手慣れた手つきで捌いていくのが印象的で熊の解体時は昔から射止めた熊肉を集落にみんなに振る舞う儀式があった。配る役目は集落の子供で昔からの風習で熊は山の神さまからの授かり物とされ崇拝されていた。
懐 古
雪に埋もれた集落、この日も決まってガスの層に覆われていたのを子供ながら覚えている。マタギが熊を持ち上げると熊の胸元に鮮やかな月の輪がひと際目立った。マタギは胸部の三日月形の白い斑紋は「月の輪」の意で「熊の急所だ」と話していたが、もう遠い遠い昔の話しになってしまった。
射止めた熊肉を集落のみんなに振る舞う役目は集落の子供であって今に思うと授かった熊は厳しい自然界を駆けめぐったマタギ衆が山の神様からの恵みと捉え包括された集落はマタギ思想に包まれその文化を継承する担い手は子供でやがて子はマタギとして逞しく成長しマタギを継承する儀式は先祖代々から厳格に継承されてきた文化でマタギ集落の一連の儀式でもあった。
山の中で暮らした鉄砲撃ち「マタギ」
信州・秋山郷の長吉・長松兄弟マタギ
近世後期、秋田マタギが中部日本まで南下し狩りをした記録が菅江真澄(日本民俗学の先駆者)や鈴木牧之(江戸後期の商人、随筆家)のようは先駆者の文筆によって貴重な記録が記されている。牧之、秋山紀行の下りによれば秋山郷の関連から上信越国境の新潟県湯沢町周辺の旧三国街道の宿場であった二居や三俣を歩いたときには、江戸中期に秋田の根子(現在の阿仁町根子)というむらのマタギで、長吉・長松という二人の兄弟が旅マタギにきて、湯沢や土樽・二居・三俣などのむらむらに猟の方法を伝えたと聞いたのである。
卯の難渋を兎や角凌いたりやこそ 今てハ楽々と食物ニ乏みないと云ふに甘酒の村ハ纔に家二軒卯の凶年にこほさぬと云ふ」
(文献 鈴木牧之・秋山紀行)
近世、根子は旅マタギ:江戸後期、根子の旅マタギは太平山地、峻険に切り立つ屏風のように長く南北に連なる奥羽山脈で狩りをしながら上信越国境地帯、秋山郷までマタギの姿があった。伝承によると秋田県北、根子集落から秋山郷まで距離は約120里とも言われ鈴木牧之・秋山郷に登場する二人の兄弟「長松・長吉」は根子の旅マタギであった。
根子の旅マタギ、長吉・長松兄弟は1813(文化10)年代に入り八木沢集落に移住しているが旅マタギを主流とする牧之・秋山郷に登場する長松・長吉兄弟と八木沢集落の長吉・長松兄弟とは同一人物か否かは特定できないが江戸後期の八木沢は旅マタギが中軸とし根子、八木沢、三面、秋山郷が一本の線で結ばれ根子から移住した八木沢集落の長吉・長松兄弟マタギは牧之・秋山紀行に登場する長松・長吉兄弟と同一人物だと推測される。
マタギが所持した古文書十二巻
八木沢マタギは知的集団で近世後期、根子の旅マタギ「長吉・長松兄弟」を中心とする集落独自の文化を構築したと検証される。
江戸後期の狩猟用具 八木沢集落に残された有形民俗文化財
員 数:5点 マタギ熊槍・マタギ槍・火縄銃の背負袋・マタギマキリ・マタギベラ
指定日:2012年8月29日
所在地:上小阿仁村八木沢
所有者:佐藤良美
1.マタギ熊槍(くまやり)(通称:三角槍)
穂先:37・8㌢・柄:2㍍ 近世後期。新潟県村上市三面(旧朝日村)の鍛冶屋で作られたと推測される。旧朝日村三面マタギや信州秋山郷、秋山マタギが所持した槍と酷似し本県で造られたものではない。大型の熊槍専用で「タチマエ」(射手)が所持したものである。断面は三角で溝があることから「三角槍」とも呼称し熊猟で用いられた。
2.マタギ槍 身…鉄材 木部材質:クルミの木
近世初期から中期。阿仁マタギは「たて」(槍型)と呼称。阿仁マタギ猟具と同一で根子から移住以前から用いられたものである。一般的な「槍」でクマ狩りなどに用いた。火縄銃が浸透する以前からの代表的な狩猟具で鉄砲が普及したあとも用いられる。
3.火縄銃の背負袋(しょいぶくろ)唯一無二の旅マタギ史料
近世末期とされ、牛革で作られた火縄銃の背負袋は集落の蔵に二組収蔵され一組は破れている。根子の旅マタギ、長吉が所持したとされ、火縄銃は戦後手放している。史料からしても八木沢集落は早くから火縄銃が伝播され旅マタギが主流であったと推測される。
蔵に二組あったが一組は片割れ、火縄銃を背負う旅マタギが偲ばれる。(木箱と彫り製作: 佐藤良美)
4.マタギマキリ 刃長4寸8分(約14.8㌢)柄(イタヤ材)長さ11㌢
マキリはアイヌ語と共通。近世中期。クマやアオ(カモシカ)などの大型動物を解体するための道具として用いられた。 刃は鋼で日本刀を改造したものとされる。新潟県岩船郡朝日村、三面マタギが所持したものと酷似。(彫、鞘の製作: 佐藤良美)
5.マタギベラ(長さ167㌢・幅8㌢) 近世中期
イタヤ製の雪ベラ。日本古来の狩猟用具の代表。冬狩りでアオ猟(カモシカ)で用いられた。アオ猟は毛皮を獲るものとされ、、槍を使わず、巻狩りで「マタギベラ」で斃して獲った。まん中の窪みは火縄銃が用いられたときに上端に銃身をのせ安定させて撃つことができるように窪みをつけたものである。また、狩りだけではなく、雪除けや雪洞つくり、股に挟んで急斜面を滑り下りるとき等に用いられた。冬狩りのマタギの必需品。
民俗文化財五点は近世後期の建造物とされる蔵に収蔵されたいたもので火縄銃を入れた背負袋は蔵の天井に吊るされマタギ熊槍は穂先が油紙で包まれ柱に掛けられていた。また、マタギ槍は穂先と柄が別々の場所に置かれマキリは赤錆で砥ぎ鞘は山兎の毛皮で製作、火縄銃は五代目の金治マタギが手放し、旅マタギで用いた「てっきぇぁす」や毛足袋は父良蔵(六代目マタギ)の代で処分されていた。
集落のマタギ文化は2009年春、亡父良蔵が鉄砲を返納し200年の歴史に幕が降ろされたが支柱とするマタギ文化は未曽有の歴史が滲み今もなおもこの集落にマタギの残影がちらほら見られるほどに重層され静寂を保ち続けている。
いまに思えば歴史は後世に残さなければならないと固く心に誓った2009年の春、それ以来各地を駆け巡り遠くは三面(新潟県)、信州秋山郷を歩き記述の調査、狩猟用具の検証等などを丹念に調査し念願の狩猟用具が村の有形民俗文化財として指定を受けたが、ただ一つ残念なのがこの集落に鳥獣供養塔の建立できなかったことが悔やまれる。
姿を消した八木沢集落 八木沢マタギ
生態系の調査とマタギ習俗: 佐藤良美
1954年12月 八木沢集落に生まれる 集落最後のマタギ 佐藤良蔵の三男
1978年 3月 秋田経済大学経済学部卒、日本自然保護協会、日本鳥学会を経てフリー
2009年 春 父良蔵が鉄砲を返納し集落のマタギ文化が途絶え同年秋、八木沢マタギを語る会を発足、集落の歴史を後世に伝える活動を
している。
ー後世に語り伝えたい「八木沢マタギ」200年の歴史ー