西尾政孝の読書日記

ニーチェ、バタイユ、三島由紀夫、井筒俊彦、ウィルバーを中心に、その周辺を読み散らかしています。

学生の学力低下について

2022-11-23 | Twitter
「最近の学生は・・・」という言い方を私は好まないが、最近の学生の学力低下が深刻なのは事実として否定できない。しかしこれは学生だけの話ではなく、日本人全体の学力、というよりは思考力が著しく低下しているのだと思う。その影響が学生にも及んでいるにすぎない。では思考力はなぜ低下したのか。

これにはいろんな原因が考えられるが、それらの根本にあるのが「日本語力の低下」だと思う。なぜ日本語力が低下したかといえば、人が活字を読まなくなったからだろう。情報を取り入れる手段が活字しかなければ、人は自然に語彙を増やすことができた。それが今では多くのメディアによって不要となった。

単に語彙が増えなくなっただけでなく、人は活字を読まなくなったことで主体的な姿勢をも失いつつあるような気がする。活字を読んで情報を取り入れるのは能動的な行為だが、最近のメディアは流れてくるものを受動的に仕入れるだけで済む。能動性がなくなると、人は自分の頭で考えることをしなくなる。

では、新メディアに頼らず活字から情報を取り入れる姿勢に戻すにはどうすればよいのか。それには活字の快楽を知る以外にないと思うが、新メディアに慣らされた脳にはそれが難しいのだろう。私も学生が活字だけでは集中できなくなっているのを感じるので、授業の中で視覚教材を積極的に取り入れている。

しかしその際、視覚教材で仕入れた情報を必ず文字にして書かせるようにしている。そしてうまく文字化できた学生の文章を次の授業でプリントに活字化して他の学生にも読んでもらう。そして、どこが良いのかを丁寧に説明する。そうすると、そこからヒントを得て他の学生も真似して文字を書くようになる。

その地道な作業の繰り返しによって学生は徐々に活字の面白さに目覚めてくる。それがうまく行くと、学期の終わる頃には、たいていの学生が活字を読むことに抵抗を示さなくなっている。もちろんいつもうまく行くわけではないが、私もその授業方法に慣れてきたので、手応えを感じることは多くなってきた。

「最近の学生は・・・」という言い方を私が好まないのは、それを言い訳にして問題の解決を怠るようなことはしたくないからだ。学力低下は否定できないとしても、それをただ嘆いているのは、単に自分たちが学生の頃はもっと学力があったという優越感に浸っているにすぎない。それほど愚かなことはない。

なぜ本が積まれるのか? その傾向と対策

2022-05-05 | Twitter
連休中に部屋の掃除をしようと思ったけど、どうにも手のつけようがないので諦めた。なんでこんなことになったんだ?と絶望的な気分になるだけで終わった。
簡単に言うと、本が床の上に山積みになっているので、足の踏み場がない。20冊程度の本の山が10本くらい乱立している。それが時々雪崩を起こす。

対策として、なぜこんなふうに本が積まれていくのかを考えてみた。原因は読みかけの本が多すぎることだ。読みかけだからどこかにしまうこともできず、そもそも収納スペースもないから、とりあえず床に積んでいくしかない。そのうち下の方にある本は読みかけていたことも忘れてしまう。これの繰り返し。

それで少し掃除を始めると、その下の方にあった本と再会して、また読み始めてしまうので掃除が中断される。いつまで経っても片付かない。いや、片付けるのは不可能だ。そもそもなぜこんなに本の読みかけが多いのかを考えた方がいい。読み始めたら一気に最後まで読んでどこかに収納すればいいのだから。

私は常に100冊くらいの本を並行して読んでいることになる。もちろん毎日100冊に目を通しているわけではない。1日の間に手に取るのはせいぜいその中の10冊くらいだ。つまり残りの90冊は積んでおかなくてもいいということになる。問題はその手に取る10冊をどうやって選んでいるのかということだろう。

例えば今日手に取った10冊をざっと見ると、あまりそこに規則性や選んだ明確な理由があると思えない。単なる気まぐれ、目に入って面白そうだったから、というくらいの理由だ。それでもその気まぐれこそが重要だと思っているから、問題が解決しないのだ。なぜ気まぐれが重要なのか?

おそらく気まぐれに手に取ったと思っていても、自分の無意識の領域では何らかの必然性があって、ただそれに自分では気づいていないから、手に取った理由が分からないというだけなのだと思う。ここには必然性と偶然性という哲学的問題がある。自分では偶然と思っていることが実は必然だったりするのだ。

その哲学的問題についてはとりあえず置いておこう。仮に何らかの必然性があるとしたら、気まぐれに手に取ることが実はすごく大事なことで、その自由を自分で奪うようなことはしたくない。対策としては、並行して読んでいる100冊をパソコン上でもノートでもリストアップしておくのがよいかもしれない。

承認欲求の強い人に出会ったら

2022-04-09 | Twitter
インスタ映えにこだわる人は承認欲求が強いと言われるが、承認欲求が強い人は他者からの承認がないと自分の存在価値を確認できないのだろう。それはつまり自分で自分のことを承認してないということでもある。自分はこれでいいのだと思えないから他者に認められたい欲求だけが強くなっていくのである。

なぜ自分のことを承認できないのかといえば、それは幼少期から親とか周りの大人に承認される機会が少なかったからである。人間は誰でも他者からの承認を必要とするが、それには適切な時期があるのだ。例えばスマホばかり見ている親に育てられた子供が承認欲求の強い大人になることは容易に予想できる。

私も自分のことを反省してみたが、私も人間だから承認欲求がないわけではない。しかしインスタ映えのために高い交通費を出して現地に行くようなことは絶対にしない。そこまで承認欲求は強くないということだ。それは他者からの承認をすでに適度にもらってきたということである。

だから、承認欲求の強い人を責めることはできない。私はたまたま周りから承認されてきただけで、それがなかった人のことを責める権利などないからだ。私にできることはそういう人に出会ったら、その人のことを無条件に受け入れることだと思う。それが承認されてきた大人の責務ではないかと思う。

分断を避けるために

2022-04-04 | Twitter
科学技術の発展によって我々は多くのものを得てきたと同時に多くのものを失ってきた。この「同時に」ということが重要で、物事には何でも両面性があるということを忘れると分断が生まれてしまう。進歩派の人は得たものに目を向け、保守派の人は失ったものに目を向けるから、両者は分断してしまうのだ。

私はどちらかと言えば保守的な人間だから、やはり失ったものに目を向けがちである。それ自体が間違っているということではなく、それだけになると偏った見方しかできなくなり、自分の考えだけが正しいと思うようになるので注意が必要である。間違っても進歩派の人は馬鹿だと決めつけてはいけない。

逆に進歩派というか、科学技術礼讃型の人は得たものだけに目を向けるのではなく、失ったものにも目を向け、特に人間にとって大切なものが失われたのではないか?という視点を持つことが必要だと思う。間違っても保守派の人を古臭い頑固者と決めつけてはいけない。

例えば私は以前から5Gに猛反対しているが、これなども偏狭な老人のぼやきくらいに思っている人がいることだろう。しかし、それで終わりにするのではなく、5Gの利点(得たもの)について冷静に捉え直し、それが欠点(失ったもの)を補えるものかどうかを考えなければ、本当の進歩派とは呼べないだろう。

人間が存在することは間違いなのか?

2022-02-18 | Twitter
人間が存在すること自体が間違いだという考え方がある。
確かに自然破壊の問題だけを見ても、人間が存在していなければ地球環境は理想的な状態に保たれていただろうから、私もその考え方に賛同してしまうところがある。
しかし賛同しつつもどこかでかすかな抵抗を感じてしまう。それは「そういうお前だって存在してるくせに、それが間違いだと言うなら、さっさと存在しなくなれよ(死ねよ)」ということになってしまうからだが、それだけではない。
そもそも人間が存在していることに間違いも正しいもないだろう。それを間違いだとして、間違っているから存在しない方がいいと言うのは、あまりにも乱暴で粗雑な思考だと思うからだ。
丁寧に考えれば、人間が存在していることが間違っているのではなく、正しくも間違ってもいない形で存在している人間が間違ったことをしてきたので、本当はその責任を取るべきなのに、責任逃れをする言い訳として「存在していることが間違っている」と言っているようなものである。
これは喩えて言うなら、宿題を忘れた生徒が自分の非を認めずに宿題を出した先生が悪いと言っているようなものである。もし宿題を出した先生が悪いと思うなら、その理由から説明しなければならないだろう。
人間が存在すること自体が間違いだと思うなら、なぜ存在が間違いなのか、その理由を説明できなければならない。もし説明できないなら、存在すること自体は間違いでも正しいことでもなく、そのまま肯定するしかないだろう。だって、すでに私たちは存在してしまっているのだから。存在を肯定した上で、よりよい存在の仕方について考えるべきである。その努力をしていない人が存在そのものを否定することは単なる甘ったれ以外の何者でもない。
もちろんこれは自戒を籠めて言っているのであり、私自身も甘ったれた思考に傾きがちであることは認めなければならない。