「最近の学生は・・・」という言い方を私は好まないが、最近の学生の学力低下が深刻なのは事実として否定できない。しかしこれは学生だけの話ではなく、日本人全体の学力、というよりは思考力が著しく低下しているのだと思う。その影響が学生にも及んでいるにすぎない。では思考力はなぜ低下したのか。
これにはいろんな原因が考えられるが、それらの根本にあるのが「日本語力の低下」だと思う。なぜ日本語力が低下したかといえば、人が活字を読まなくなったからだろう。情報を取り入れる手段が活字しかなければ、人は自然に語彙を増やすことができた。それが今では多くのメディアによって不要となった。
単に語彙が増えなくなっただけでなく、人は活字を読まなくなったことで主体的な姿勢をも失いつつあるような気がする。活字を読んで情報を取り入れるのは能動的な行為だが、最近のメディアは流れてくるものを受動的に仕入れるだけで済む。能動性がなくなると、人は自分の頭で考えることをしなくなる。
では、新メディアに頼らず活字から情報を取り入れる姿勢に戻すにはどうすればよいのか。それには活字の快楽を知る以外にないと思うが、新メディアに慣らされた脳にはそれが難しいのだろう。私も学生が活字だけでは集中できなくなっているのを感じるので、授業の中で視覚教材を積極的に取り入れている。
しかしその際、視覚教材で仕入れた情報を必ず文字にして書かせるようにしている。そしてうまく文字化できた学生の文章を次の授業でプリントに活字化して他の学生にも読んでもらう。そして、どこが良いのかを丁寧に説明する。そうすると、そこからヒントを得て他の学生も真似して文字を書くようになる。
その地道な作業の繰り返しによって学生は徐々に活字の面白さに目覚めてくる。それがうまく行くと、学期の終わる頃には、たいていの学生が活字を読むことに抵抗を示さなくなっている。もちろんいつもうまく行くわけではないが、私もその授業方法に慣れてきたので、手応えを感じることは多くなってきた。
「最近の学生は・・・」という言い方を私が好まないのは、それを言い訳にして問題の解決を怠るようなことはしたくないからだ。学力低下は否定できないとしても、それをただ嘆いているのは、単に自分たちが学生の頃はもっと学力があったという優越感に浸っているにすぎない。それほど愚かなことはない。
これにはいろんな原因が考えられるが、それらの根本にあるのが「日本語力の低下」だと思う。なぜ日本語力が低下したかといえば、人が活字を読まなくなったからだろう。情報を取り入れる手段が活字しかなければ、人は自然に語彙を増やすことができた。それが今では多くのメディアによって不要となった。
単に語彙が増えなくなっただけでなく、人は活字を読まなくなったことで主体的な姿勢をも失いつつあるような気がする。活字を読んで情報を取り入れるのは能動的な行為だが、最近のメディアは流れてくるものを受動的に仕入れるだけで済む。能動性がなくなると、人は自分の頭で考えることをしなくなる。
では、新メディアに頼らず活字から情報を取り入れる姿勢に戻すにはどうすればよいのか。それには活字の快楽を知る以外にないと思うが、新メディアに慣らされた脳にはそれが難しいのだろう。私も学生が活字だけでは集中できなくなっているのを感じるので、授業の中で視覚教材を積極的に取り入れている。
しかしその際、視覚教材で仕入れた情報を必ず文字にして書かせるようにしている。そしてうまく文字化できた学生の文章を次の授業でプリントに活字化して他の学生にも読んでもらう。そして、どこが良いのかを丁寧に説明する。そうすると、そこからヒントを得て他の学生も真似して文字を書くようになる。
その地道な作業の繰り返しによって学生は徐々に活字の面白さに目覚めてくる。それがうまく行くと、学期の終わる頃には、たいていの学生が活字を読むことに抵抗を示さなくなっている。もちろんいつもうまく行くわけではないが、私もその授業方法に慣れてきたので、手応えを感じることは多くなってきた。
「最近の学生は・・・」という言い方を私が好まないのは、それを言い訳にして問題の解決を怠るようなことはしたくないからだ。学力低下は否定できないとしても、それをただ嘆いているのは、単に自分たちが学生の頃はもっと学力があったという優越感に浸っているにすぎない。それほど愚かなことはない。