goo blog サービス終了のお知らせ 

echo garden

基本的に読書感想文です。

ローマから日本が見える 5

2006-02-04 00:57:47 | Weblog
 ブルータス 共和制のはじまり

 タルクィニウスは反対派を容赦なく殺すような独裁者でしたが、軍事的才能だけはありました。
 彼が率いた戦争は連戦連勝で、それはローマに益をもたらしました。そのため、市民は内心に不満を抱いていても、表立っての行動には移りませんでした。
 しかし25年にわたる治世の後半になってくると、権力に陰りが見えてきました。
 タルクィニウスがエトルリア系ということで、同盟関係が強化され、ローマにはエトルリア人が多く移り住むようになっていました。
 文化や技術に長けた彼らはローマのなかで大きな勢力になり、タルクィニウスの支持基盤になっていました。
 生粋のローマ人はローマがエトルリアに乗っ取られたとなげきました。
 しかし本国のエトルリアの勢いが落ちてきたのです。
 そんな時に事件が起きました。
 彼の息子、セクトゥスは親類の妻、ルクレツィアに横恋慕し、夫のコラティヌスの留守を見計らって家に訪問しました。
 ルクレツィアや家族は親戚の彼を何の疑いもなく歓待しました。
 その夜、皆が寝静まったころ、セクトゥスは彼女の寝室に忍び込み、強引に想いを遂げたのです。
 男が帰ったあと、傷心のルクレツィアは召使に手紙を戦場にいる夫に運ばせました。異変を知り、駆けつけたのは夫コラティヌスと父とその友人と夫の友人、ブルータスでした。
 彼ら4人の前でルクレツィアは自分の胸を短剣で刺し、息絶える前に自分の仇打ちを願いました。4人が硬く誓ったのは言うまでもありません。
 ルクレツィアの葬儀が終わったあと、ブルータスは行動に出ました。
 市民を招集して、今回の蛮行を非難し、さらにタルクィニウスが先王を殺害して権力を手にした事実を思い出させ、王一族を追放するよう、訴えたのです。
 ブルータスの演説によって市民たちも隠していた不満を爆発させます。
 戦場で事の急変を知ったタルクィニウスは手勢を率いてローマに戻るのですが、彼の到着にも関わらず、城門は開きません。
 自分が追放されたことを知った彼はエトルリアに落ちのびました。
 機をみるに敏なトゥーリアはすでに脱出して無事でしたが、そもそものきっかけを作ったセクトゥスは逃げる途中で彼に恨みを持つものに殺されました。

 ところでこの画像は琵琶湖の湖畔の近江八幡市にある神社です。この辺りに<たねや>という和菓子屋の経営する、雰囲気のいい和カフェ、洋カフェがあって、名古屋からですが、よく行きます。
 

 

ローマから日本がみえる 4

2006-02-03 22:24:07 | Weblog
 タルクィニウス 破壊王

 次は、そのロムルスたちが作った、王政を壊した王のことを書きます。
 破壊王とは、僕が勝手につけたあだ名で、当時ローマ人たちは尊大王または傲慢王と(おそらく影で)呼んでいました。
 彼の父はタルクィニウス(同名です)、ロムルスから数えて5代目の王です。
 しかし、ローマ人ではなく、エトルリア出身です。ローマでは他国人でも出世のチャンスがある、と聞いて移住してきた人です。そして努力の甲斐あって王にまで上り詰めました。まさにアメリカン・ドリームならぬローマン・ドリーム。
 当時のローマ人にとって重要なことは自国人か他国人かではなく、有能か無能か、それだけでした。ローマは建国当時から、防衛にしろ、侵略にしろ戦争だらけで無能な王など戴いたら、あっとゆう間に周囲の国に攻め滅ぼされてしまう状況だったのです。
 そして、次の6代目の王もエトルリア出身、セルヴィウスです。
 彼は若いころからタリクィニウスに認められ、重用されたことから、出世街道を登りつめた男でした。
 タルクィニウスへの感謝の気持ちから、自分の娘2人をタルクィニウスの息子2人と結婚させました。ちなみに、当時の結婚は昔の日本と同じで、まだ幼いころから親がいいなずけを決めるのが普通でした。
 娘たちのうち、気の強いトゥーリアとおとなしい息子、おとなしい娘と気の強いタルクィニウス(子)という組み合わせで、お互いに足らないところを補ってくれれば、という親心でした。
 しかし親の気持ち、子知らず、(それどころじゃない)しばらくすると、おとなしい方が2人とも原因不明で死んでしまい、トゥーリアとタルクィニウスがくっついてしまいました。覇気のない夫に愛想をつかしたトゥーリアが誘惑したのです。
 このことについてセルヴィウスは何のコメントも残していません。ショックのあまり寝込んでいたのかも知れません。
 タルクィニウスは野心家でした。しかしローマでは、いくら血筋が良いからといっても王になれるわけではありません。そこでクーデターを企画しました。
 セルヴィウスの治世も40年も経て王も往年の勢いが失せていました。
 セルヴィウスが戦場に陣頭指揮をとりに出かけている時をねらって、元老院の会議中に後援者たちとともに乗り込み、現王はローマの政治を私物化している、と弾劾したのです。
 セルヴィウスが騒ぎの知らせを受けて急ぎ帰ってきたところを、タルクィニウスは元老院の階段の上から突きとばし、転げ落としました。
 セルヴィウスは重症を負いましたが、必死の思いで宮殿に逃げました。しかしそこに待ていたのは猛スピードで馬車を駆るトゥーリアでした。
 実の娘に轢き殺され、タルクィニウスのクーデターは成りました。
 こうしてタルクィニウスは7代目の王になりましたが、その就任に際し、市民集会の承認も元老院の承認も得ていません。
 法案を通すのにも彼らの意見を聴きませんでした。完全な独裁者です。もはやローマの王とはいえない存在です。
 ここでロムルス以来の王政は終わったのです。
  

ローマから日本が見える 3

2006-02-02 01:16:10 | Weblog
 ローマの人々は近隣に住むサビーニ族を祭りに招きました。
 当時のラテン人たちの間では「祭りの期間は戦争をしない」という掟があったので、サビーニ人も安心して一族全員で、新しくできた町の見物を兼ねて来ました。
 ところが祭りもたけなわになってきた時、突如ローマの男たちはサビーニの若い女性のみをねらって襲いかかり、拉致し、それ以外は市外に締め出しました。
 サビーニ人は武装してこなかったので、しかたなくいったん引き上げてからローマに抗議しました。
 それに対しロムルスは自ら拉致した女性の1人と結婚し、女性たちは全てローマ人の花嫁である、と宣言しました。非常に強引な嫁不足解消のための策略だったのです。
 しかしサビーニ側も、あー、そうですか、と言うわけにいきません。当然、両者は戦争になります。
 両者の激突は常にローマが優勢でしたが、都合4回にも及びました。
 ところが4回目の激突で戦闘が白熱するさなか、意外な仲裁者が現れました。
 連れ去られた女たちが戦いをやめて欲しいと訴え出たのです。
 彼女たちが言うには、自分たちはローマの男たちに良くしてもらっている、今では自分たちの夫だと思っている、だから夫と親兄弟が争うのを見ていられない、とのことです。
 サビーニ側は劣勢だったこともあり、ロムルスも丁度良い潮時とみて、両者とも女たちの仲裁を受けました。
 しかしロムルスは単に受けただけでなく、さらに一歩踏み込んだ提案をしました。それは、「両部族の合同」です。
 普通の和平なら、お互いの領域を決め、同盟を結ぶ程度ですが、ロムルスは一緒にローマに住もう、と提案したのです。
 終始優勢だったローマに厳しい要求を突きつけられるのでは、と恐れていたサビーニ人は喜んでその提案を呑みました。
 それは初めてローマが拡張した瞬間でもありました。
 このエピソードで注目すべきは、拉致した女性をも慕わせる、という現代につながるイタリア人男性の女扱いの上手さ、ではなく、敗者をも同化させる、融和の精神です。
 これは別に、彼らが特別できた人間だったわけではなく、人口不足を補うために必要にせまられてされた措置ですが、このやり方が後にローマのDNAとでも呼ぶべきものになります。
 そしてこの融和の精神こそがローマが様々な文化や民族を吸収して、大帝国になってゆく、最大の原動力でした。

 こんな感じでスタートした、ロムルスとその仲間たちの町(ポリス)、ローマですが、その政治形態は、ロムルスを頂点とする王政でした。
 しかし王様は独裁者ではありません。王様は市民全員が参加する、市民集会の投票によってえらばれます。ロムルスも最初は人望によってリーダーをしていましたが、この制度がきまってから、選挙で王に選びなおされています。
 また市民集会は立法の権利はないものの、王様が提案する法案に拒否と承認の権利を持っていました。
 そして王に対する助言機関として、市民のなかの有力者で構成する、元老院もありました。
 共和制の時代にはローマそのものになる元老院ですが、このときはまだ権力はなく権威のみの存在でした。それでもある程度王の暴走にブレーキをかける役目がありました。
 このような「三権分立」でローマの政治は始まりました。
 
 
 
 

ローマから日本が見える 2

2006-01-31 23:59:22 | Weblog
 ロムルス ローマのはじまり
 
 欧米では、正しいことを言っているのに信じてもらえない人のことを「カッサンドラ」というそうです。
 カッサンドラはトロイの王女です。
 木馬はアカイアの罠だと気づいたのに、アポロンにかけられた呪いによって誰にも信じて貰えず、彼女はなす術もなく滅亡を見守るしかなかった。
 紀元前12世紀中ごろのことです。
 時代が下って紀元前8世紀、イタリア半島の中部を流れるティヴェレ川の上流にアルバロンガという都市国家=ポリスがあった。
 その王族の血統をたどっていくとトロイの王族につく、という伝説をもっていました。
 ローマの始祖、ロムルスはその王女の息子です。しかし王子ではありません。
 それどころか単なる邪魔者であって、弟のレスともども籠にいれて川にながされてしまいました。
 母親は牢獄入りです。
 なぜなら、現国王は母親の父から王座をうばった、叔父だったからです。正当な王位継承者がいては困るのです。
 川に流されたロムルス達は下流で雌狼にひろわれ、乳をもらい育てられました。
 そのうちに土地の羊飼いにひろわれ、羊飼いとして成長しました。
 長ずると2人とも人に抜きん出るようになり、周辺の羊飼い連中のリーダー的存在になりました。
 その過程で、自分たちの出生の秘密を知り、仲間の羊飼いを引き連れて、アルバロンガに攻め入りました。
 国王を殺して復讐は遂げたものの、母親はすでに獄死していました。
 その後、2人はそこにとどまらず、ティヴェレ川下流の本拠地に戻り、仲間と共に新しい都市を建設しました。
 しばらくの間、兄弟は分割して統治してたが、あるときレスが分割線をこえて侵入してきた事から戦争になり、最終的にロムレスが勝ち、ただ1人の王になった。
 彼の名から、その町はローマと呼ばれるようになった。
 これが建国の伝説です。
 そうとう怪しいですが、街が紀元前8世紀に作られたこと、建国者たちのルーツがアルバロンガにあることなどは確かなようです。
 アルバロンガはトロイの末裔かどうかは別として、イタリア中部にいたラテン人の本拠地でした。
 いまや世界中に広がったラテン人ですが、当時は北方のエトルリア人、南方のギリシャ人にはさまれて、イタリアのなかでも劣勢な人々でした。
 ところで、ギリシャ人はあのアテネやスパルタのギリシャ人ですがエトルリア人はよく分らない人々です。しかし、早くから鉄器の利用をしっていたらしく、イタリア北部にうつってきたのも、鉄鉱山が目的だったといわれています。
 また、高度な建築技術をもっていて、後にローマの代名詞になる、水道橋や、石畳の舗装道路なども、彼らから吸収したものです。
 このころ12のポリスがあり、ラテン人よりはるかに進んだ文明を持っていたにもかかわらず、(ローマ人にとってはエトルリア人はみな国王に見えた、といいます)主導的なポリスがなく、同調した行動がとれなかったために、後には完全にローマに飲み込まれます。
 今ではトスカーナ地方という地名(エトルリア人の土地)に名残を記すのみです。
 ロムルスたちについてより真実に近いことは、彼ら、建国者たちは約3000名いたらしいですが、アルバロンガはじめ、周辺のラテン人のポリスや村からのあぶれ者、食い詰め者の集団だったらしいのです。
 そして、女性はほとんどいなく、荒くれの男ばかりだったらしい。
 というようなことは、建国早々に起きたある事件から推測できるのです。
 それは「サビーニの女たちの強奪」事件・・・
 
  

ローマから日本が見える 1

2006-01-31 00:28:35 | Weblog
 塩野七生さんが去年6月に集英社から発行した本です。
 イタリア半島中部の寒村に過ぎなかったローマがアフリカからヨーロッパに及ぶ世界帝国にまで発展した過程を観察することによって、現代の日本が抱える問題に対する解決のヒントを得よう、と言うコンセプトの下に書かれています。
 また、結果的に塩野さんのライフワークである<ローマ人の物語>シリーズのダイジェスト版にもなっています。

 ここでローマ人っぽく、演説をかまします。
 歴史とは、ほこりの積もった古文書の山ではありません!
 過去の人々が回転する車輪のごとく懸命に生きた、血と汗と涙の物語です。
 そしてまたファンタジーの母体でもあります。
 例えば、「遠い昔、シーザ-という若い将軍がいました・・・」と語りはじめれば、そのまま物語りですし、より面白くするために少しだけフィクションを加えて、「・・・断崖に追い詰められたシーザーに、ガリア人の投げた斧が突き刺さろうとした、正にその瞬間、上空に白いドラゴンが現れ・・・」と言えばもうファンタジーです。
 そんな歴史が面白くないはずありません!
 にも関わらず、歴史という言葉からはカビの匂いがしています。
 それは何故か?
 年号のせいです。
 学校のテストで悩まされた1192つくろう、とか1333とかの年号のトラウマに呪われているのです。
 つまり我々の頭の中で歴史と年号を憶えることの苦痛が結びついています。  
 鎌倉幕府ができるまでのいきさつ、その過程での葛藤、後の影響など、どこをカットしても素晴らしいドラマに満ちています。また人々の生き様から、勇気や教訓を貰うことができます。
 しかし年号は単なる結果に過ぎません。それは歴史の表面に貼り付けられた単なるシールです。
 だから、もうそんな過去のトラウマは捨てて人間のドラマとして歴史を眺めなおしてみようじゃありませんか!

 塩野さんの経歴を紹介します(カバーに書いてあったままですが)。
 1937年7月7日 東京生まれ。
 学習院大学文学部哲学科卒業
 1963から1968年にかけてイタリアで遊びつつ、学ぶ。
 1968年より執筆活動を開始。
 主な著書に<ルネサンスの女たち>
 <チェザーレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷>毎日出版文化賞。
 <海の都の物語>サントリー学芸賞。などなど
 1992年より、ローマの1000年以上にわたる興亡を描く<ローマ人の物語>を1年1作のペースで書きつづけている。2006年完結の予定。
 1970年よりイタリアに在住。

 7日生まれだから七生さん・・・
 それはともかく、内容の方に行きたいのですが、その前にエクスキューズさせて下さい。
 これから書くことは<ローマから日本が見える>からの情報がほとんどですが、ウィキペディアや司馬遼太郎など別のも混ざっています。
 それは僕の関心がこの本ではなく、ローマの歴史そのものにあるので、平行して雑多なものを読んだからです。
また、この本でかなりのウェイトを占める日本の政治に対する言及、例えば55年体制自民党と共和制ローマの元老院との比較とかも関心外なので全部パスしてあります。それと章の分け方も自分独自のものです。
 だから、<ローマから日本が見える>の紹介としては良くありません。
 では行きます。