そこで登場するのが対馬の書状だ。
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大分県資料26巻P90~には薬師寺文書という九州史で特異な書状がある。
何が特異かというと、書かれた地域がである。
薬師寺というと豊後では津久見の一族が有名だが、こちらの一族は対馬の武士。
宗氏に仕えた一族が湯布院に移住したため大分県の史料として収録されたという。
その文書に以下の文字が並ぶ。
「人のうりくち・かいくち ならびに船の売くち・かい口諸公事等、閤候所也。(=人や船の売買などの雑務への参加を免除する)
仍此旨可被存知之状、如件
文安元年(1444年)11月12日 (宗)貞宗」
「しもへ(僕)のうり口・かいくちの事、御免ある所也、そのむねそんちすへき状、如件(=人の売買を許可するので、その事を知るように)
文安6年(1449年)6月2日 (宗)貞盛」
どうやら人身売買を対馬では行っていたらしい。
文明7年(1476年)にも同様の書状がある。
それ以降は元服の書状や官位任命の書状になるが、奴隷貿易自体は中国人和冦 王直が取り仕切っていたといわれているので、人身売買の拠点となってはいたのだろう。
WIKIだと博多も取引拠点になっていたというが、こちらは民間商人が裏で売買していたのかもしれない。
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「というわけで、不当に取引されている人間を幕府の命で解放しにきた」
一日前に対馬の守護 宗氏に使者を送り、準備や小細工をさせないよう翌日の朝には到着という抜き打ち検査のような到来をした俺達一行。
対馬の守護 宗