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奴隷の語源となったスクラヴェニーによる征服

奴隷の語源となったスクラヴェニーによる征服
ここからは現在の「奴隷」の語源とされる単語のさらにややこしい話になります。
ちまたでよく「単語の綴りがそっくりだよね。」と言われる英語の「Slave」。これの元が登場し始めたのは13世紀の頃で、当初は当時のドイツ語(中高ドイツ語)の「Sklave」からの借用で「Sclave」と綴られていました。(フランス語の「Esclave」からとも言われています。) それが後の16世紀頃に「Slave」となったんですが、この中高ドイツ語の「Sklave」(またはフランス語Esclave)というのは、その9世紀にヴェネツィアで誕生した(かもしれない)中世ラテン語「Sclavus」が元になっていると言われています。
そして問題なのが、その中世のラテン語「Sclavus」の語源がどこにあるか、という事なんです。
ここで、その一筋縄ではいかない凶暴なスラヴ民族部族が登場してきます。
 
ではちょっと歴史をさかのぼって7世紀です。
この7世紀、631年にスラヴ民族による初の国が誕生します。まぁただしくはスラヴ民族連合国家ですが、その名を「サモ王国」といいまして、最大版図で現在のチェコを中心にドイツ、ポーランド、スロバキア、ハンガリー、オーストリア、スロベニアにまたがる、どでかい連合国だったんです。
これは当時中央ヨーロッパにいたスラヴ民族の諸部族が一緒になって当時支配層だった騎馬民族アヴァール人や、西や南から侵攻してくるゲルマン民族フランク人ランゴバルド人に対抗するために作られた国で、その後ゲルマン民族やアヴァール人を撃退して目的は果たしたんですが、その連合国も指導者のサモが亡くなってからはまた分裂してしまいます。
ですが、民族大移動の時代を経てバルカン半島まで南下してきて、一部、サモ王国内のスラヴ民族部族のうちのひとつでもあったと考えられる、当時東ローマ帝国側からはかつて「スポロイ(Sporoi)」と呼ばれていた部族がいました。
この「スポロイ」は、その頃には「スクラヴェニー(Sc(k)laveni)」と「アンテス(Antes)」というふたつの部族に分かれていて(さらに細かく分かれているようですが)、「スクラヴェニー」と呼ばれていた方の部族がど派手に東ローマ帝国への襲撃を繰り返していまして、当時ゲルマン民族などもそうですが、戦闘で捕らえられた兵士はその後に東ローマ帝国軍に傭兵として配属されて、その帝国内のスラヴ兵も皆一緒くたに「スクラヴェニー兵」と呼ばれていました。
ただこの辺の諸部族の詳細についてはよく分かっていなくて他にもなんか色々たくさんいるみたいですが、どこまでが本当のスラヴ民族なのかも定かじゃないです。今は遺伝子研究もされてかなり細かいところの部族についても系統がだいぶ分かってるみたいですけど、ここではそこまで突っ込んだ話はせずに(染色体とか遺伝子の話になると私は全然わかりません)、とにかくその頃の東ローマ帝国にとって「スラヴ民族」といったらど派手に暴れていた部族「スクラヴェニー」だったみたいなので、全部その辺ひっくるめて「スクラヴェニー(スラヴ民族)」とここでは言っちゃいます。(ここだけ東ローマ帝国目線で失礼。)
(※中世初期のスラヴ民族諸部族についてかなり遺伝子研究されて分かってきているようなので、その辺を知りたい方達は調べてみると情報がたくさん出てくるのでおもしろいと思います。私は今のところそこまでヤル気はおきません…。)
 
そして後の9世紀から10世紀にかけて、そのスクラヴェニー(騎馬民族ブルガール人と同化したブルガリア皇帝シメオン1世のブルガリア)を含むバルカン半島のスラヴ民族部族達は東ローマ帝国を滅亡寸前にまで追い込んでいます。
※「シメオン1世の時代のブルガリアをスラヴ民族の国として考えるのはどうよ?」という話もありますが、シメオン1世の時代はもう既に完全なスラヴ語を話すスラヴ文化に染まっているはずかと思います。もし当時のブルガリアをスラヴ民族国家とはしない場合、リューリク朝ロシアや南イタリアのシチリア王国等々もゲルマン民族の国になるんじゃないかなぁと思いますけど…。でもまぁ色んな考えがあってそれもまたおもしろくていいと思いますけどね。実際に「ロシア王朝の血統は北欧ヴァイキングのルーシ族だから実はロシアはゲルマン民族国家」と言っちゃってる人もいますし。でも王朝の血統はどうであれ言語や文化的にはブルガリアもロシアもスラヴ民族です。
その当時のブルガリアの皇帝シメオン1世はコンスタンティノープルまで攻め込んで、ギリシャを含むコンスタンティノープルから西側全域を完全に支配して、東ローマ帝国を脅して皇帝の称号まで得た人物でした。私は「中世スラヴのジャイアン」と呼んでいます。
そして896年にはブルガリアと東ローマ帝国の間で、
「東ローマ帝国の捕虜12万人を返す代わりに、東ローマは毎年ブルガリアに貢納金を支払うこと。」
という和議がまとまっています。
これ以降も「んー?なんかちょっと足りなくない?」みたいな事を言われて、その都度東ローマ帝国は攻め込まれていたようです。
そのスクラヴェニー達の大親分である皇帝シメオン1世の時代の9世紀にヴェネツィアで誕生したとされる単語「Sclavus(奴隷・スラヴ民族)」、それが彼ら「スクラヴェニー(Sc(k)laveniもしくはギリシャ語Sklabenoi等)」を語源とした、と言われています。

ブルガリア皇帝シメオン1世の時代の版図
どうでしょう。まぁ色々となんかおかしい、というか、おもしろいですね。「え?奴隷?どっちが?」て感じですけど。
すぐ隣にいたヴェネツィアの人達は自分達のところにも迫り来るスクラヴェニーに対してどういう気持ちでいたんでしょうね。それはもう憎き蛮族どもに対して罵詈雑言のオンパレードだったに違いありません。

左からスクラヴェニー、ゲルマニア、ガリア、ローマとありますが全員同じ顔デスネ。
 






とはいえ、それまでの戦いの歴史の中ではもちろんスクラヴェニーを含むスラヴから奴隷になった人たちも大勢いたわけで (特にヴェネツィア共和国に隣接する現在のスロベニア、クロアチア辺り)、どっちか片方が奴隷、なんて事は言えないです。ひとまず「sclavus (スラヴ民族・奴隷)」という単語が生まれた時期的にはバルカン半島の覇者はスラヴ民族であるスクラヴェニーだった、という事で、その当時の奴隷となりうる立場としては常識的に考えても征服されていた側の方だったでしょうね、という事です。ただ実際のところは当時は既に同じキリスト教徒同士での争いなので、お互い表向きには奴隷にして売り飛ばす様な事はそんななかったんじゃないかとは思います。なのでほんとこれはただの蔑称でしょう。
 
上の地図を見ていただいても、シメオン1世の最大支配領域はハンガリーのブダペストにまでいっているので、その面積は神聖ローマ帝国に匹敵か、恐らくはそれ以上です。中世ヨーロッパの世間の事情を考えればとんでもない大きさです。
この皇帝シメオン1世という人は、日本では全然知名度はないですが、それでも歴史上、皇帝(正確にはコンスタンティノープル総主教)から皇帝の称号を授けられたという、わけのわからない事を無理矢理にやってのけた程の人物なので、少し調べてみれば日本語でも色々と記事が出てきます。
なんだかえらい脳筋で野蛮人ぽく感じるかもしれませんが、実は物凄い教養を備えた人で、若い頃はコンスタンティノープルに住んでいて、その書生時代だった時に古代ギリシャの学問の沼にハマってしまい片っ端からギリシャ語の学術書を読み漁って、ブルガリアに帰って王となった後に、それら書物を隅々まで暗唱していって学者に書き取らせた、というくらいにとんでもない記憶力を持っていた人のようです。
そして現在ロシア語なんかで使われているキリル文字、あの文字を考案したのもシメオン1世です。でもその元のグラゴール文字が作られたのは9世紀のチェコですけどね。

ミュシャのスラヴ叙事詩より皇帝シメオン1世
上のミュシャの「スラヴ叙事詩」からの一枚は、シメオン1世が次々と口述していく内容をギリシャ語からスラヴ語に翻訳する作業が描かれていて多くの学者が書き取っている様子なんですが、シメオン1世はえらい元気にひたすら喋り続ける様子で、周囲の学者はもうなんだか疲れ切っている感じもします。なかなか面白い絵です。この対比がシメオン1世のバイタリティーを感じさせます。なんというか、本物の天才と呼ばれる類いの人だったんじゃないかと思います。
 
という事で、元の語源というのは、ロシアやウクライナでイタリア奴隷商人やヴァイキング、モンゴル、オスマンなどの犠牲になっていたスラヴ民族の部族ではなく、東ローマ帝国を滅亡寸前にまで追い詰め、それまで三百年に渡ってとんでもない数のローマ市民を囚人にしてきたバルカン半島の最強スラヴ民族部族「スクラヴェニー」が語源なんですね。
これ、どこを見ても何故か東ローマ帝国側からの視点のみで、「バルカン半島の多くのスラヴ民族が捕獲され奴隷となっていたためにスラヴが奴隷の意味となった。」としか書かれていないんですが、実は奴隷の語源となったスクラヴェニーに7~10世紀の四百年間に渡って捕獲されまくっていたのは、バルカン半島を征服されて滅亡しそうだった東ローマ帝国の側だったという事です。
これは別に学者さん達のような研究なんかしなくても、一般的なヨーロッパ史を知っていれば普通に分かる事です。と言っても日本の世界史の教科書は地名や人名もドイツ語表記で、中世スラヴ世界にいたってはシメオンどころか全体で2ページしかないので…、これは仕方ないですね。ですがこちらチェコの教科書にはこのシメオンは出てきますし、シメオンの親父さんのボリス1世も出てきます。
 
ちなみにブルガリアのその後なんですが、親父は天才だったんですけど息子は暗愚だったので、シメオン1世崩御後は東ローマ帝国に主導権を奪われ始めて衰退していきます。その後11世紀には、”四百年に渡る積年の恨み”、とばかりに東ローマ皇帝バシレイオス2世はブルガリア人を虐殺しまくって「ブルガリア人殺しの皇帝」と言われ、生きながらえた捕虜については殺さずに目を潰して奴隷としても役に立たない状態にし、それら一万人の盲人をブルガリアにわざわざ送り返したようです。いやぁ…恨みこもってます。
そして四百年ぶりにバルカン半島を取り戻し、バシレイオス2世はギリシャでは英雄と呼ばれ「大帝」と称されています。
なので、「Sclavus」が誕生したのはそれまで三百年間スラヴに圧迫されていた9世紀ですが、そのバルカン半島を奪い返されたのはその百年後の皇帝バシレイオス2世の11世紀の時です。いやまぁ歴史というのはやってやられての繰り返しですね。
ですが、そんな東ローマ帝国に対して、また再びスラヴ民族部族のセルビア人の王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが14世紀にバルカン半島を支配し、前例のシメオン1世と同じように皇帝となります。(このドゥシャンについても知っている人はなかなかいないんじゃないでしょうか…) そして東ローマ帝国はまたも滅亡危機に陥るんですが、そこでなんと、東ローマはオスマン帝国の力を借りるという、リスクを顧みない無謀な起死回生の一手に出ます。そしてセルビアはオスマンとの対決の結果負けてしまい退きはしましたが、案の定東ローマは完全にオスマン帝国の属国となって、そのほぼ百年後にはオスマン帝国にコンスタンティノープルは落とされて遂に滅亡します。無念です。

ミュシャのスラヴ叙事詩より 皇帝ドゥシャン戴冠式
”よく「現在のギリシャ人は古代ギリシャ人とは違う」と言われますが、その理由が当時のバルカン半島にいたスラヴ民族達で、「現在のギリシャ人はその頃からスラヴ人と同化し始めたギリシャ人の子孫」だから違う、という事のようです。ですが、「だからと言って現在のギリシャ人は古代ギリシャ人とは違






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