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薩摩藩主島津家は室町戦国時代に千竈氏を地頭に任命し倭寇として活躍させていた説があるそうですね。 南薩
薩摩藩主島津家は室町戦国時代に千竈氏を地頭に任命し倭寇として活躍させていた説があるそうですね。
南薩
薩摩藩主島津家は室町戦国時代に千竈氏を地頭に任命し倭寇として活躍させていた説があるそうですね。
南薩千竈氏領地の唐仁原・唐渡口・唐浜とは中国人の居住地だそうですが何のために中国人が住んでいたのですか?倭寇が拉致していった中国人ですか?
ベストアンサー
白獅庵
白獅庵さん
2005/3/14 22:01
遣明船での勘合貿易以外に中国の寧波などと博多あるいは薩摩半島南部は海上交通が盛んであったと思われ、それらの地には中国人の居住区があり、唐人町とか唐坊(当房)の地名が存在します。彼らは自ら貿易の拠点として移住してきたと考えられ強制的な拉致では無い。(のちの朝鮮渡海では朝鮮人が拉致されて来ましたが彼らは港近くには居住せずに内陸部です)南薩では千竈氏支配の下で交易を行い、他集団からの海賊行為を排除してもらい中国に渡ったと思われます。中国側から見れば警護の武士がたくさん乗り込む交易船は全て倭寇であり強制的交易も辞さなかったのでは。
唐仁原や当房(唐坊)が加世田にあり、もう一つの港が川内川の「渡唐口」で当房、唐坊園の地名があった。唐浜は浜地で近くの造船所が江戸期まで続くが、これらの渡海船の建造・修理の場所です。唐坊の地名のあるところは、いずれも海上交通に関する場所です。