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marimoya

ハンドメイド活動のことを中心に日々のことを気ままに書き綴っています。

うつについて語る 1

2020-03-30 02:00:00 | コラム
私はいま、うつ病と闘っています。
診断では「適応障害」「気分障害」そして後から「パニック障害」になりました。

これから何回かに分けて、私が体験してきたうつ病との闘いの記録や、今をどう生きているのかを書き綴っていこうと思います。
あくまでもこれは「私の症例や体験」であって、うつ病と闘う全ての人に当てはまることではないということだけ覚えておいてください。症状や対処法は人それぞれです。私の記事を読んで間違った知識で偏見や差別を生まないで下さい。
よろしくお願いいたします。


※内容が内容なので定期的に(私が)癒されるアクアリウムな写真を載せておきます。

☆発症と経過、そして入院。


私がうつ病と診断されたのは2013年7月頃だったかと思います。
最初に表れた症状は「生理不順」詳細は忘れましたが、月経前症状が酷くなり、月経以外の時も下腹部が痛むので心配になり婦人科を受診しました。
セカンド・オピニオンで訪ねた病院は個人のクリニックで、これまで出産した大きめの病院とは違うところへ行きました。母の友人たちが更年期障害の治療をした際に非常に良い先生だったと話していたとのことで、そこを選びました。

一通り内診を含めた診察を終えましたが、子宮などに異常はなく、二人目の妊娠も考えていなかったこともあり低用量ピルを飲んでみることにしました。

最初の一週間くらいは吐き気がひどく落ち着かなかったのですが、次第に慣れてきて、その月と翌月の生理は不快感もなく順調でした。

しかし、それでも倦怠感や目眩で立ち上がれない時もあり、これでは子育てに力を入れられないと再び同じ婦人科を受診。ピルを貰うついでに相談をしてみました。すると、その先生が突然言いました。

「あなた、うつ病なんじゃない?」

唐突だったので驚きはしましたが、私自身がうつ病かも知れないということに驚きは全くありませんでした。

私は大学を中退していますが、それまで通っていたのは心理学科。うつ病のことはもちろん、精神的な病気や症状、薬、カウンセリングなどの勉強を一通りしていたのです。
元々カウンセラーを目指して進学したのですが、授業でカウンセリングの過去のケースや心理の話を聞いているうちに、自分にも当てはまることが多々あることに気付きました。
そして臨床心理センターでカウンセラーとしても活動されていたゼミの先生にカウンセリングをお願いすることにしたのです。

細かい内容はまた後述しますが、自分が「うつ傾向の高い人間」であり「過去の精算ができていない」ことをそれで知りました。

なので、うつ病かも知れないことは簡単に受け入れられたのです。
そしてクリニックの先生はいくつかの心療内科を紹介してくれました。月経不順のことも含めて紹介状を書いてくれて、後日、私は勧められたその心療内科へと行きました。

そこは個人クリニックで、元は県立病院で勤務していた先生が独立して始めたところです。なので予約も取れやすく、他の患者さんとの接触も少ないので、通うのに抵抗はありませんでした。
吐き気や目眩といった、ピルで解決しなかった症状が緩和されるなら…その一心でした。

穏やかな語り口の男の先生は、記述式の検査や面談をした上で、言いました。

「あなたの症状は、うつ病です」

やっぱりか、と思いました。
当時の自分に思い当たるストレスは、夫が私の反対を押し切って車を買い換えたこと、夫が仕事を辞めてしまったこと、その中でやり繰りしながら子育てをしなければいけなかったこと…思い当たることが多々ありました。
息子は当時1歳、歩き始めて可愛い盛りでしたが、気を張ることは常にあります。実家に行くことも多くありましたが、それでも子育てに疲れていることは間違いなかったと思います。

いきなり強い抗うつ剤を使うのは、と先生はまず漢方薬を処方してくれました。それと生理痛と頭痛のために鎮痛剤、胃腸薬も処方してくれて、まずは安心して帰宅していたと思います。
ツラくなったら薬を飲めばいい。鎮痛剤と胃腸薬は頓服でしたが、持っているだけで支えになりました。

しかし、私の体調は回復するどころか、徐々に悪化していきます。明らかに食欲がなくなっていったのです。

普段の私は白米を余裕で一杯分、おかずによってはおかわりをするくらいに食べるタイプでした。
最初は、まず料理をしている段階で食欲が減退していくようになりました。作っていても全く美味しそうに見えず、実際に食べても美味しく感じませんでした。隣にいる夫はいつも通りだと言うのに。

それからも段々と食欲が失せ、大好きな間食さえもしなくなり、息子のために作った雑炊をちょっと食べれば満足だと感じるようになりました。しかし醤油を少し入れただけでは味を感じず、かなり塩を入れて食べていました。

そのうち、立ち上がれば目眩がして息子のところへ歩み寄るのもしんどくなり、とうとう実家に帰ることになりました。
家族が息子を見てくれて、夫は職を探す合間に顔を出してくれていましたが、最初は別居のような感じでした。
けれど日に日に食事が喉を通らなくなり、死ぬのではないかという不安が襲ってきたとき、ついに私は泣きながら夫に「横で寝ていて欲しい」と頼みました。私の横に布団を敷いて、しばらく夫も私の実家で寝ることになりました。

米粒ひとつ食べるのも嫌になり、唯一の栄養分であったポカリスエットやOS-1を飲むことさえ億劫になり、家族の付き添いなしではトイレまでも歩けず、風呂も介助がなければどうにもならず…流石にこのままではマズイと、家族が救急車を呼びました。
私の記憶は曖昧ですが、息子の顔は殆んど見ていなかったように思います。当時の息子がそんな中でどうして暮らしていたのかも全く覚えていません。

大きな病院に運び込まれ、横たわりながら必要最低限の受け答えはしていたように思います。隣で話をしている夫と先生、会話から「このまま入院を」と聞こえてきたのは覚えています。それほどまでに衰弱していたのかと自分ではまだ少し状況を理解できていませんでした。

うつ病はよく「死にたい」気持ちに苛まれるというイメージを持たれます。しかし、実際に最大限まで追い込まれると、そんなことさえもどうでもよくなるのです。生きているのか死んでいるのか、それさえもよくわからなくなります。更に思い通りに体が動かなくなり、手足がまるで石にでもなったかのようにも感じました。

心療内科を勧められて受診してから2~3ヶ月で、私の体重は15kgほど落ちていました。最初はまだ元気があり痩せたんだと喜んでいましたが、入院時に聞いた時には全く何も感じませんでした。


☆入院生活と治療のはじまり。

精神科病棟に車椅子で運ばれ、個室に案内されました。子供が会いに来るからと母が個室にしてくれたそうです。
看護師さんに「ご飯を食べられるようになろうね」と言われましたが、目の前に出された昼食はお粥を一口食べて終わりました。

そして、夕方。看護師さんが迎えに来ました。お風呂の時間です。
点滴を外し、看護師さんに介助されながらお風呂場へ。順番に入るので私以外の患者さんと一緒に入ることはありませんでした。
看護師さんは母くらいの年代の女性、優しい物腰で、母親のようでもありました。

しかし、最初の難関はお風呂の介助だったのです。

神経質ではない私ですが、とにかく「他人に体を触れられることが苦手」で、それは今もあまり変わってはいません。
特に男性相手となると至近距離に居られるのも無理だと感じることがあるくらいで、唯一、触れても平気な血の繋がらない男性は夫だけなのです。今でもそれはあまり変わっていません。
なので、他人に体を洗ってもらうというのがとてもとても嫌で仕方なくて、それでも看護師さんも仕事だからと髪と背中までは我慢したのですが…さすがに胸や股間を洗われるのには本気で無理だと感じたので「お願いだから!自分で洗わせてください!」と何度も何度も言いました。向こうも仕事なので「気にしなくてもいいから!」と言ってきたのですが「本当に!本当にどうしても嫌なんです!」と言い続けて、何とか体の前面だけは自分で洗わせてもらえました。

お風呂から出て、着替えも看護師さんが手伝ってくれたのですが、やはりどうしてもお風呂を他人と入ることが苦手で、その感情だけはうつで心が死にかけていた中でも強く強く前に出てきました。
なので「どうすればお風呂の介助を無くしてもらえますか?」と聞いてみたら、看護師さんは「先生の判断もあるけれど、ご飯をちゃんと食べられるようになったら外してもらえるかもね」と言いました。

その夜、私は出された食事を無我夢中で完食しました。

その時は、お風呂の介助が嫌だという一心でしたが、それが治療へのきっかけになったことは間違いないと思います。

それから薬の効果もあって、翌日には少しだけ周りを見る余裕ができました。
テレビをつけていないと気が沈むからと祖母がテレビカードを買ってきてテレビをつけてくれましたが、いつも腹を抱えて笑って観ていたバラエティ番組を観ても何も感じることがなく、息子が来ていたのもあってEテレに替えました。

「何か持ってきて欲しいもの、ある?」

と夫に聞かれました。
ゲーム?漫画?何か必要?色々と挙げてくれましたが、私が最初に持ってきて欲しいと思ったのは「スケッチブックと色鉛筆」でした。

ちょうど無印のたくさん入った色鉛筆を買ったばかり、それをふと思い出したのです。夫は翌日に色鉛筆と、百均のスケッチブックを買ってきてくれました。

最初は何を描こうとも思わず、ただテーブルの上に置いてありました。
食事と先生や看護師さんと話をする以外は横になって、ただテレビを観ていました。Eテレの色々な番組を、ただずっと無言で観ていました。

どのタイミングかは覚えていませんが、私はふと色鉛筆を手に取りました。
真っ白なスケッチブックに、油性マジックで車を描き、ひたすら赤で塗っていきました。その横に「Car」と描いて。

翌日、着替えを持った母と息子が来ました。私は息子に車の絵を見せました。
息子は1歳3ヶ月、まだはっきりと言葉を話せない息子は「ぶっぶ!」と嬉しそうにスケッチブックを手に取り、ずっと離しませんでした。

その日から退院まで、私は2冊のスケッチブックを埋めました。すべて息子のために、息子の好きなものを描き続けました。その中には魚や動物、アンパンマンやワンワン、どこを開いても息子が喜ぶスケッチブックを作りました。

これが私にとって、大きな治療の第一歩になったのです。



次回は、入院生活について書いていこうと思います。
自身の備忘録も兼ねて、頑張って書き上げたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

母乳が出ないママたちへ

2018-10-01 00:46:55 | コラム
最近になって、友人や知人が出産をして子育てに奮闘している様子をSNSなどで見かけるようになった。また、その友人や知人が拡散した文章の中でも、赤ちゃんを育てるという母親にとって試練とも言うべき事態に一喜一憂している様子を目にする。

その中で、私が何度読んでも涙を流してしまうのが、母乳育児の賛否に関する話だ。
粉ミルクの開発も進化を続け、女性のライフスタイルも多様化した今の時代でも、まだ「母乳神話」を押し付けてくる人がいるという現実がSNSには溢れている。

私も、母乳が出ないタイプだった。
詳しく検査をしたわけではないが、乳房の形や大きさ、乳首などによって吸いやすかったり吸いにくかったりもするらしい。私の乳房は大きく丸みを帯びているので、出産後すぐに飲ませた初乳の時も、息子が乳房の肉で窒息しないように指で肉を避けながら与えたりと苦労をした。
入院中は看護師さんや先生のアドバイスや助けもあり何とか母乳をやることができた。それでもミルクを足さなければいけなかったので、混合にしようと決めた。
しかし、その頃から「母乳育児はいいよ」と言ってくる親族がいて、母乳の出なかった日は1人病室で泣いていた日もあった。

退院後、何とか息子に母乳を与えようとしたが、息子の飲みたい量と出てくる量が見合っていなかったのか、乳首を咥えながら毎回息子は大泣きしていた。搾乳用のアイテムを揃えて飲みやすくならないかと工夫したり、毎日毎回マッサージもしていたが、1週間、泣きながら母乳を吸わせては諦めて泣きながらミルクを飲ませる日々が続いた。

そんな時、妊娠中から治療できずに放置していた歯が痛み始める。育児に集中するためにも治療しようと思ったのだが、歯科医から「麻酔を使うから母乳をあげられなくなる」と伝えられた。そこでとうとう、私の中で何かがプツンと音を立てて切れたような気がする。

真っ先に母に相談した。もう母乳は無理、苦しい、歯の治療をしたい。歯の治療を言い訳にしてでも、母乳を与える苦痛から逃れたかった。
母は言った。
「別にミルクでいいんじゃない?」
私はその言葉に耳を疑った。心のどこかで、母乳をやめる=子供への愛情を捨てると思っていたのか、母にも叱られると予測していたからだ。しかし、母は違った。
母も、私を産んだ時に母乳があまり出ず、私と同じような乳房の形で苦労をし、更に私の哺乳力が弱かったためミルクで私を育てたらしい。それもすべて初耳だった。
「ミルクで育てたけれど、あんたは大きな病気もせずに育ったし、いま子供を産むこともできた。母乳とかミルクとか関係ないから」
母がそうはっきりと言ってくれた時、私は何だか肩に背負い込んでいた大きな荷物をドサッと全部下ろしたような、楽な気持ちになれた。
私は歯の治療を始め、息子はそれからミルクのみで育てることになった。

夫の実家へ行った時、義母に「母乳が出なくて…ごめんなさい」と伝えた。すると義母は言った。
「あなたがミルクで育ててくれているお陰で私だけでなく息子(夫)も他の家族も赤ちゃんにミルクをあげることができる。こういう経験をさせてくれてありがとう」
私は泣きそうだった。出産してから、母乳のことでどれだけの涙を流してきただろうか。ミルクで育てる罪悪感に耐えながら、母乳をあげられない分の愛情をどう与えていけばいいのかを毎日のように考えていた。
でも、身近な母と義母は、決して私を責めたりはしなかったのだ。

そして今思い返せば、祖父母(息子の曾祖父母)や私の弟たちまでが息子にミルクをあげていて、それは母乳育児ではなかなか体験できないことだったのかも知れない。
今では一児の父となった弟にとって子育ての勉強になったのかは定かではないが、貴重な経験になったのではないかと思っている。

今年の8月に6歳になった息子は、あまり病気もしない逞しい子どもに育っている。風邪を引いても長引かず、怪我をしてもすぐに治る、私よりも遥かに健康体の幼児だ。
離乳食に関しても「手作り神話」を耳にするが、息子の離乳食の後半期あたりから私が体調を崩して発病し入院していたため、実家ではほとんどレトルトを食べさせていたらしい。実家には独身の弟たちもいて家族も仕事があったので、さすがに手作りを与えることは難しかった。祖母はレトルト離乳食をしょっちゅう買いに行ったお陰で、ドラッグストアの店員さんと仲良くなるほどの常連になったそうだ。

出来るならば母乳で手作りで、という気持ちは、それが出来ない人ほど強く思っていることだろうと思う。
しかし、無理をする必要はないと私は感じる。
今は産後間もなく働く女性もいたり、肉体的精神的負担から産後うつなどに苦しむ女性も少なくない。しかし、そこで母親が無理をして子育てをすることが子供のためになると言い切れるのであろうか。

子育てに関しては、パートナーをはじめ、家族とよく話し合うことが大事である。何かと母親に押し付けられがちな乳児期だが、他の家族が母親を支えるためのミルク育児やレトルト離乳食育児があっても良いのではないだろうか。

料理があまり得意でない私にとって、レトルト離乳食は栄養バランスも考えてあり、様々な食材を簡単に与えられる手軽で立派な食事であるように思えた。
手抜きをしていると思われるかも知れないが、当時は自分の病気でいっぱいいっぱいだったこともあり、白飯にレトルト離乳食をかけて食べさせるのがやっとだった時も多々あった。

しかし、その分というわけではないが、色々な場所へ遊びに行った。息子の大好きな水族館には年間パスで通い、時にはスケッチブックを持って水族館でスケッチをした。自分のリハビリも兼ねて少し離れた公園まで歩いたりもした。

母乳育児も手作り育児も、母親から子供への愛情のひとつの形である。だが、それだけが全てではないし、それを強要するのも間違っていると思う。
十人十色のライフスタイルがある中で、どのような選択をしていくのかは本人や周りの家族が話し合って決めていくべきことである。他人が「これが正しい」などと母親を困窮に追い込むことは、決してあってはならない。

育児に正解はないからこそ、毎日が苦悩や困惑、不安の連続である。が、だからこそ子供だけでなく親も成長していけるのではないだろうか。
何が正しい、誰が偉い、とかではなく「子育て」という一大プロジェクトに共に挑み続けていける家族であれば、母乳だのミルクだのという問題は非常に些細なことなのではないかと思うのである。

2018年9月30日

はぴねすダンス

2018-09-28 11:34:04 | コラム

昨年の秋、息子が幼稚園で披露してくれた「はぴねすダンス」に感銘を受けた。
毎年なにかしら全員でダンスを踊る運動会。そして毎年、親は感動して涙をこらえながら見守っている。それが、昨年は福井国体のために作られた「はぴねすダンス」だった。

福井という郷土を愛する私としては、あのダンスを考えた人に強い敬意を覚える。子どもたちのつたないダンスの中にも福井ならではのアクションが組み込まれ、恐竜ガオーやメガネなど子どもたちにも覚えやすい特徴的な仕草が非常に印象深く残っている。

福井新聞社が発行している「fu」の中にある宮下奈都さんのコラム「緑の庭の子どもたち」を読んだ。最新の10月号では、その「はぴねすダンス」について触れられていた。



はぴねすダンスの功罪。私は確かにそうだと思った。
私たちが幼い頃にも、マーチングに対して同じように感じていた子どもたちがいたことを母から聞いたことがある。私の通っていた幼稚園にはなかったが、強制的にマーチングの練習をさせられていたことを苦痛に感じていた母の友人の子ども。走り回りたい盛りの年長男児にとっては苦痛だったようで、マーチングの発表が終わりその親が感動しているところに、こう言ったそうだ。
「これでもうマーチングの練習しなくてもいいの?」
その親は衝撃を受けたらしい。我が子は当たり前のようにマーチングを練習することを楽しく受容していたと思い込んでいたからだ。
もちろん、中には心から楽しんでいた子どももいたと思う。しかし、全員がそうではないことを周りの大人は意外と気付かずにいるのだと、私は知人のエピソードと宮下さんのコラムを読んで思った。

今年は「はぴねすダンス」ではなく、違う音楽でダンスを踊る息子。踊るのが好きな息子は、毎日のように踊ってみせてくれる。
ある日、福井駅前に行った時、西武の前の時計から「はぴねすダンス」の音楽が流れてきた。昨年は見ず知らずの女の子と一緒に踊っていた息子。今年は全く反応をしない。
「踊らないの?」
そう聞いたら、
「もう全然覚えてない」
と答えた。

ようやく待ちに待った福井国体。
果たして今「はぴねすダンス」を踊れる子どもはどれくらいいるのだろうか。

ハピテラスを通りかかると、時々あの大きな画面から「はぴねすダンス」が聞こえ、画面を見る。私は福井が好きなので、あの歌とダンスを目にすると毎回のように感動を覚える。
福井国体が終わって、来年にはどうなってしまうのだろう。町の至るところで国体をアピールしてきた「はぴりゅうくん」はどこへいってしまうのだろう。
そんなことを考えながらも、まずは明日に開会式を迎える福井国体・障スポの成功を願っている。


2018年9月28日