俳聖を慕いて

俳聖といわれる芭蕉を想いながら、俳句を詠む楽しみを綴っていきます。

静かにたたずむ

2024-07-20 22:12:38 | 日記

 私の住んでいる地域では、今年の梅雨は空梅雨なのか雨が少ないようだ。6月の頃から暑い日が多くなり、これからが夏本番なのかと思うと意識がスーッと遠のくようだ。これも異常気象のせいなのだろうか。それも本をただせば人間が作り出したものだろう。

 自分が過ごしてきた幼少時代や青年時代は、もう少し自然の季節の変化にメリハリがあり、季節ごとの行事にもそれらしさを感じ喜びを享受できていた気がする。今は何かディスプレイを通してそうしたものを見ることはあっても、自分の肌で感じることが少ない気がする。季節の移ろいを常に窓ガラス越しに見ているような感じだ。

 ただ夏だけはやけどするような暑さを肌で感じて、これだけはかつての四季の変化の総量を一気に引き受けるような季節感をじかに感じさせてくれるものだ。季節感が四季の変化で感じるのでなく、夏で一気に感じるように時代が変化したんだと思えばいいのかも知れない。

 生きていくことが変化を受け入れることなら、そうすることこそまさに生きることなのかもしれないが…。そう屁理屈をつけて自分に言い聞かせようとしても、心の底では「受け入れ難い」というつぶやきが漏れてくる。それはどうにもならない人間としての感情というものであろう。

 前世紀に夢を抱いて幼少期や青年期を過ごした者には、今世紀はさぞや輝かしい素晴らしい時代になるだろうと思っていたが、いざ新しい世紀になってみると、頻発する大地震や世界に蔓延した感染症、そして侵略戦争と信じられないことの連続である。こう並べ立てていくうちに、気づけば精神的に不幸の中にいる気がする。

 が、ものは考えようで前世紀も同じように災害や感染症、戦争があった。それを直接経験していないだけだ。知らないだけだ。だから今も若い時を過ごした前世紀の後半のように、明るい希望と未来を信じていけば、同じように素晴らしい日々が送れると思えばいいのだ。ところが、ここでまた「受け入れ難い」という声が漏れてくる。また同じような闇に入りそうになる。この思考の繰り返しをしていて出口が見いだせないでいる。

 世界中の出来事に想像力を働かせて、共感して生きていくことが大切なのは分かっていても、そうすることで押しつぶされそうになってしまう。想像力を働かせることは素晴らしいことだと思うが、どこかで自己防衛をすべく、悲しい出来事を見ても見ぬふり、つらい話を聞いても聞かぬふりをしてしまい、ついには何も思わず、何も考えない日々としてしまうのだ。想像することが禁じられた行為であり、意識の上に昇らないように無意識に押し殺して生きている気がする。多くの人がそうしているように思えてならない。

 そんな中で唯一俳句だけが、自分の想像力を働かせエネルギーを注ぎ込むことに喜びを見いだせるものである。外では少ないながらも梅雨の雨が申し訳なさそうに降っている。かすかな雨音が私のところまで聞こえてくる。それを聞いて静かにたたずんで詠んだ句である。

    鶏や 梅雨空仰ぎ 声聞かず
                              令和6年7月15日


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