今日は宗教についてちょっと考えたいと思います。というのも、先に臓器移植法なるものについて、脳死は人の死であるのか、ないのかと言った事が問題になっていましたが、これについて宗教者の意見が政治に反映されたものとは私には到底考えられないので話しておきたいのです。
それは人の生と死の問題に深く関わるものですから、デリケートなんです。特に死の問題ですが、この問題の担当は私は当然宗教がするべきものと考えます。特に日本の宗教では仏教があり、奈良時代に創建され、後に火災により消失、再建された東大寺を見れば分かるように当時の人々の篤い信仰心が伺えるのです。また、宇治の平等院などを見れば、あの世の極楽浄土に生まれるための信仰の表れとも受け取れるもので、ひたすらに仏におすがりする気持ちがあのような美しい建造物を当時の貴族によって作らせたものでしょう。彼らは死んだ後に生まれる世界を感じる事が出来たのです。それは生がいつも死と向き合わせの時代であったせいもあるかも分かりませんが、今ほど唯物思想が発達していなかったせいもありましょう。
そこで、昔から人の死はこの世からあの世に行くための重要なものとされているのです。つまり、人の死というのは、肉体から霊魂が離れる事であり、霊魂が肉体から離れる事によって肉体は滅びるのです。昔の人が今の人とは比べものにならないような悪い事をしていたとしても、善行という事を忘れはしなかったのです。
ところが今は人の死とは何かという根本的な問題に対してはっきりした回答がなされないままに、善悪の判断基準が設けられ、人の死を肉体が滅びる以前の段階において決めてしまっています。このことが後世で大変な結果をもたらしてしまうのに、そのような先が見えていないのです。。。
だから、これは今のビジョンの欠落した社会そのままの姿であると言えますね。。死後四十九日間の時間も良い加減のものではありませんし、命日もまたその人をそのまま表すのですから。。。
今回はこれくらいです。それではまた。