脊髄小脳変性症(SCD)を発病してから…

脊髄小脳変性症(SCD)と診断されてから現在までの事やこれからの事などを語っています。

車いすを常用している難病患者が一人暮らしを実現し、念願の都営住宅の住居に入居するまでと、現在の自分

2022-08-24 | Weblog
都営住宅の、単身者向け車いす使用者用住居で一人暮らしを始めて2年半が経とうとしています。
ちなみに、その前の約1年間は 都営住宅の住居に入居するために必要な条件を満たすためUR住宅の住居で一人暮らしをしていました。
都営住宅の住居に入居するためには、もちろん都民で、単身者向け住居には一人暮らしをしていての応募でないと例え当選しても審査は通りません。
UR住宅には、車いす使用者はおろか身障者を優遇する制度はなく、僕が住んでいた部屋はバリアだらけ(比較的新しい住居はバリアフリー仕様の部屋もあるようです)で 車いす使用者にとって住みにくい住居でした。家賃は、いまの10倍以上しました。ちなみに、ここ(都営住宅)で一人暮らしがしたかった理由の一つは家賃の安さです。こともあり、ここでの生計は障害年金と障害者手当だけです。話しは戻りますが、UR住宅の住居の家賃は、障害年金などの蓄え等で、なんとか1年分は前払いが出来ました。
UR住宅は入居したかった住居に1ヶ月で入居でき、都営住宅は1回の応募(7倍)で入居できラッキーの連続でした。
都営住宅の募集は年4回あるんですが、単身者向け車いす使用者用住居の募集は2回しかなく、この1回で入居できなかったら路頭に迷うところでした。それにしても、たった1回の応募で入居できたのは超がいくつもつくような幸運の何者でもありませんでした。
上記の2件で、一生分の運7割は使い切ったと言っても過言ではないと思いました。
残りの3割は人脈だと思っています。というのも、いま10数人の方にお世話になっていますが、私的な方々も公的な方々も みなさん素晴らしい方々です。そして、30代40代の方々との絡みが増え、彼ら彼女らに凄く刺激を受けています。ちなみに、僕は50代の半ばです。障害者で絡みのある方は、ほぼいません。

この、一連の引っ越しの流れを作ったのは僕自身ですが、それを後押ししたのは父と姉および周囲の方々だと思っています。もちろん、難病(脊髄小脳変性症)患者の一人暮らしは無謀だと思っていましたが、それしか選択肢はありませんでした。
15年前に母を亡くし、それからの11年間は実家で父と2人暮らしでした。父が まだ仕事(自営のクリーニング店)をしていた時はよかったのですが、数年後に仕事を辞めてからの 2人の関係は最悪でした。
男同士で2人とも頑固。父は職人ということもあり、さらに頑固。何かというとぶつかり合い、お互い譲らないので姉に凄く迷惑をかけていました。僕は母にベッタリで”超”が付くほどのマザコンだったこともあり 父とあまり絡まなかった(父とは、母を間に挟んでコミュニケーションをとっていたことが多かったです)からか、2人は かみ合っていませんでした。
一人暮らしをすることは、母が亡くなる数年前から計画していました。姉は、2人の様子を知って僕の一人暮らしを後押ししてきました。僕は難病患者で少し不安だったということもあり あまり一人暮らしの計画を具体化していませんでしたが、姉の後押しで急加速しました。
そして、5•6年前から一人暮らしに向けた活動を積極的にしていき、とんとん拍子でUR住宅の住居に入居でき念願の都営住宅に転居でき今に至ります。

ここ(都営住宅)で一人暮らしをするようになってから、ちょっとずつですが父との関係が改善してきています。それも、姉の存在なしには語ることが出来ません。姉が2人の間に入ってくれなかったら今の自分はないと思っています。僕は長男ということもあり父の介護をしなくてはならない立場なのですが、姉に頼っています。姉は嫁いでいますが たまに実家まで父の様子を見に行ってくれています。姉には頭が上がりません。
UR住宅は同じ市内•町も同じだったこともあり父との絡みが少しあったのですが、ここは隣の市、しかも今はコロナ禍ということもあり全く会っていません。ですが、事あるごとに手紙を書き誕生日と父の日•年末にはプレゼントを贈っています。
そして、姉の旦那さんとキチンと会ったことがないので、コロナが落ち着いたら父も含めて食事をしよう、と 姉と話しています。できるだけ早くの実現を願っています。