ここに初めて行ったのは一昨年(2年前)だ。私の一番気に入っているアイヌ衣料(チヂリと呼ばれている木綿衣)がここにあるのだ。
ある図録を見ていて「とてもいい!!」と思い、実物を観ようと訪問した。
だが、そのときは「他の展示会に貸出中」で観ることができず、昨年、再訪したということである。
そのチヂリの刺繍模様は、ハート型を組合わせたようにも見える、現代にも通用するデザインだ。


札幌からも観にいく価値は十分ある、と今の私は考えるが、実は私はこの博物館を訪問する機会は何百回とあったのだ。
これから書くことは、四半世紀(25年)前のことであり、意識して憶えていたことでもないので、記憶違いもあるかもしれないことをお詫びしておく。
私は、昭和57年から62年(1982~1987年)まで帯広市に住んでいた。
私が育った神奈川県とは全く異なる環境の北海道にやって来て、毎日が楽しかった。
帯広は十勝平野の中心にある。十勝平野は北、東西の3面を山脈で囲まれ、南は太平洋に面している。
帯広からその端までは南北はそれぞれ100km、東西はそれぞれ50kmほどある。十勝の面積は、神奈川県の4.5倍あるのだ。
毎日、仕事が終わると夜中までバイクで走り回っていた。
あるときなどは、真っ暗な農道をバイクのライトのみで走っていたところ、ギョッとした。牛の群れの中にいるのだ。牧場の中に迷い込んでしまったらしい。
出口を探すのに苦労した。ともかく毎日が楽しかった。
帯広市を東西に横断する国道38号線を東に行くと隣の幕別町になる。
私のアパートから東に6kmほど行くと『白人小学校⇒』という案内標識(看板)が立っている。バイクで通るたびにそれを見ていた。
気になった。ここはアメリカでも横須賀でもない。『白人小学校』というのは、どういうことだ。
私にとって、北海道は初めての土地だったので、知らないことは職場の先輩にいろいろと聞いていた。この『白人小学校』についても聞いた。
すると、『白人』の読み方は[はくじん]ではなく[チロット]と読む。
アイヌ語が語源の地名で、この土地で収穫される「チロット大根」は有名だ、ということだった。
当時の私の疑問はこれで終わった。
一昨年、『蝦夷文化考古館』を訪問するまで、『白人』という言葉は忘れていた。
当時の私は、アイヌに興味がなかった。
帯広在住の5年間、仕事では車で十勝全域を走り回ったし、仕事以外はバイクで十勝はもとより道東(釧路・根室・北見)や道北(旭川・宗谷)をバイクで走り回った。
各地の見物をしながらでも1日500~600km走るのは普通だった。
道内各地の博物館もそれなりに行ったので、アイヌ関係の展示品も見たはずであるが、全く記憶にない。(自然科学系、生物などの展示はよく憶えている。)
仕事の取引先の社長に博学な方がいて、十勝・帯広に関するいろいろなことを教えてくれた。生きている博物館のような人だった。
何回か、その社長の車に乗せていただいたことがあり、国道を走っているとき、次のような話を聞いた。
『○○さん(私の名)、この辺りの国道沿いの右手の農地(畑)の中に少し大きい物置位の家がぽつんぽつんと建っているのが分かるかい?
あれはね。今はほとんど空き家なんだけど、アイヌの家さ。
昔、国がアイヌに農業をさせようと家と土地を5町歩(5ha)渡したんだが、アイヌが農業になれていなかったことや字が読めないことをいいことに、ずるい日本人がアイヌを騙して酒と土地を交換させて取っちゃったのさ。
かわいそうに、ああやって家に住むことだけはできているが、ひどく貧乏な暮らしだよ。』
確かにその国道沿いの農地には、そういった家が5~6軒ほどあった。
私も本州から遊びに来る友人たちを車に乗せたときは、この話をそのまま使って解説していたが、それ以上の興味はなかった。
こういう人間(私)に対し、どういう感情を抱くかは、人それぞれだと思う。
話は、一昨年及び昨年、『蝦夷文化考古館』を訪問したことに戻る。
そこで聞いたこの地区に関する話をご紹介する。
*詳細部分は「幕別町百年史」(平成8年:幕別町発行)などで追補した。
□『蝦夷文化考古館』は、幕別町字千住(せんじゅう)という地区にある。
*読み方が「せんじゅ」でなく「せんじゅう」であるのは、意味がある。
この「千住」という地区名は、昭和19年(1944年)まで「白人(ちろっと)」と呼ばれた地区を改称したことによる。
「白人」は、アイヌ語の「チル・オッ・トー」(cir-ot-to=鳥の・多くいる・沼)に由来する。
*「鳥」が「chikap」でなく「cir」となっているのは十勝地方の方言?
ここにあったコタンは、「白人(ちろっと)コタン」と呼ばれていた。
地区名の改称(字(あざ)名変更)は、幕別村(当時)の全域に対し行われた。
道庁の指導により4つの基本方針が出された。
①漢字とし1字ないし2字とする、②難解なる字名は廃止する、③隣接町村の字名と類似のものは避ける、④歴史的由緒沿革などは、なるべく遵守する。
この結果、「白人(ちろっと)」は「千住(せんじゅう)」と改称された。
当時の資料にある「起源又ハ語源」は次のようになっている。
『従来白人ト称ス十勝開拓ノ地ナリ先住民族ノ住セシ地ノ意ナリ』
読み方の「せんじゅう」は、『先住民族の住んでいた土地』という意味があったのだ。
地名としての「白人」は消えたが、現在においても名称として使われているものはたくさんある。「幕別町立白人小学校」、「白人公園」、「白人川」、「白人神社」、「白人産ながいも」、「白人平原牧場」、「(店舗の名称として)○○○○白人店」などである。

□『蝦夷文化考古館』は、白人コタンのアイヌ指導者であった吉田菊太郎氏が、先祖の残した文化財を収集し昭和34年に開設したもので、昭和40年の吉田氏死去後は、町の施設となった。
□『白人小学校』の前身は2つある。
1つは、白人コタンのアイヌ児童を対象に明治29年7月に開校された「白人アイヌ学校」。(キリスト教系)
もう1つは、同30年11月に日本人(和人)を対象に開校された「白人学校」。
いずれも私立学校(教育所)である。というより、当時の幕別村に公立学校はない。
幕別村初の公立学校は、明治31年6月開校の「公立猿別尋常小学校」である。
その後、先述の「白人学校」は明治33年7月に「公立猿別尋常小学校白人分校」、翌34年4月に「公立白人尋常小学校」となり、同39年3月の「白人アイヌ学校」閉校後は、すべての白人地区の児童が「公立白人尋常小学校」に通うようになった。
これが、「白人小学校」の沿革である。
*幕別町初の学校は、明治29年7月開校の「白人アイヌ学校」である。
当時、村で最も栄えていた猿別市街に「猿別教育所」が開設されたのは5ケ月後の同年12月。「猿別教育所」は、翌30年「私立猿別尋常小学校」、翌31年公立となった。
『蝦夷文化考古館』は、昭和34年に開設され、現在に至るまで同じ場所にある。
私は、昔、何百回とその前を通りながら、一度も訪問しようとは考えなかった。
物理的には私の視野に入っていたのだろうが、心の視野には入っていなかった。