ルカによる福音書6章27~38節 の聖書研究レジメ 2014.8.13
新約聖書には4つの福音書がある。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は資料の選び方や言葉づかいなどを同じくするだけでなく、その内容であるイエスの生涯や宣教活動を共通の輪郭に沿って、同じような観点から記述しているので、一般に「共観福音書」と呼ばれ、ヨハネによる福音書とは区別されている。1)
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書のうち、今日ではマルコによる福音書が最初に書かれたという見解が圧倒的に優勢である。2)
三福音書間には多くの並行記事があって、マルコによる福音書の95%強が他の二つの福音書に用いられており、マルコによる福音書だけの特有記事は31節、この福音書全体の5%弱に過ぎない。3)
マタイとルカによる福音書は、マルコによる福音書を一つの資料として用いると共に、主としてイエスの教説から成るQ――ドイツ語のQuell(資料)の頭文字――と呼ばれる文書を用いた説がある。このQ文書の存在を想定する根拠として、マタイとルカによる福音書には、言葉や内容が類似する約200から250節に上る両者の並行記事がある。これらの並行記事は、非常によく似ているので、マルコによる福音書との並行記事と同様に、口伝伝承ではなく、文書資料から来たものと考えられる。4)
今日のテキストでは「敵を愛しなさい」という言葉で一連の教えが始まるのであり(27節)、この句は終わりで繰り返されている(35節)。その間にあるのは、編集によって入れられたものであり、これは一続きの説教なのではない。複数の「あなたがた」(27~28節)から単数の「あなた」(29~30節)へ、そしてまた複数の「あなたがた」(31~36節)へという変化は、このような見方を確証させるものである。5)
29節 あなたの「頬」を打つ者では、マタイでは「右の頬」となっている。ユダヤ人の間では右の手の甲で相手の「右の頬」を打つことは非常な侮辱とされている。 また「上着」を奪い取る者に対して、マタイでは「下着」を取ろうとするとなっている。ユダヤ教の解釈によれば、隣人から服を奪ってはならないという命令(出エジプト22・25)は上着のことをいうのだ。
しかし。ルカの場合、その言葉は単純に日常生活の領域から出ており、他人の服を奪う人はまず上着から奪うのであるから、その人には抵抗するより下着も一緒に渡すべきだ、というのである。 このように、マタイによる二つの文章の持つ形式の方が、一層古いことが確実に証明される。しかし、目標を述べた所では、二つの福音書の形式は完全に一致している。6)
ルカによる福音書は、異邦人の著者によって書かれたもので、その文章は新約聖書の中で最も文学的に優れたものの一つである。著者は広い歴史眼をもっており、この福音書を書くさいに、当時の世界情勢との関連において、キリスト教の起源を捕えようと努力したのである。したがってこの福音書はユダヤ的民族主義をこえた世界主義、人道主義によって貫かれており、ここではイエス像は「異邦人を照らす啓示の光」として、また万民の救い主として描かれている。7)
マタイによる福音書はユダヤの世界に配慮し、ルカによる福音書は異邦人の方を向いている。
敵を愛することについて(27~36節)
この部分は二つの内容を含んでいる。第一に挙げられるのは、27~31節であってこの部分では、イエスに従っている者たちが、互いにやり返したり、仕返しをおこなったり、自分を苦しめた相手のやり方を自分自身でおこなってはならないという、一般的な原理を提示している。
この段落のこの部分は、ルカ版の黄金律(31節)で締めくくられている。
第二の部分は(32~36節)は第一の部分の原理を、別の視点から繰り返し述べている。つまり、人は他の人の行為をやり返すべきではないのである。キリスト教徒の行為と関係は、憎しみには憎しみで返し、愛には愛で返す人ではなく、むしろ、我々が礼拝する神によって促されるのである。これが、神の子供であるということの意味なのだ。(35節)。「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである」(35節)という言葉は、マタイの「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(5・5)という言葉と、同じ内容を表している。8)
ルカ6・35は、福音全体のエッセンスを表現していると言っても過言ではない。9)
裁くことについて(37~38節)
27~36節での優しさと恵みの教えのあとで、イエスは今や公正や、量るための秤や、報いと罰について語る。しかし、ここでも、「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(38節)というバランスのとれた公正さは、与える人々のふところへと注ぎ入れられる豊かな気前のよさ、というイメージによって打ち砕かれる。「ふところに」(38節)という句は、ポケットやベルトのちょうど上のひだを指している。しかし、どんな大きなポケットでも、あふれるほどの祝福を、入れきってしまうことはできないだろう。10)
1) 聖書講座第三巻 竹森満佐一 船水衛司 編集 1967日本基督教団出版局 p110
2) 同 p116 3)同 p110 4)同 p121 7)同 p138
5) 現代聖書註解 ルカによる福音書 F.Bクラドック 宮本あかり訳 1997 日本キリスト教出版局 p151 8)同 p151~152 9)同 p153 10)同 p155
6) NTD新約聖書註解 ルカによる福音書 K.H.レングストルフ著 泉 治典 渋谷 浩訳1976 NTD新約聖書註解刊行会 p187~188
新約聖書には4つの福音書がある。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は資料の選び方や言葉づかいなどを同じくするだけでなく、その内容であるイエスの生涯や宣教活動を共通の輪郭に沿って、同じような観点から記述しているので、一般に「共観福音書」と呼ばれ、ヨハネによる福音書とは区別されている。1)
マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書のうち、今日ではマルコによる福音書が最初に書かれたという見解が圧倒的に優勢である。2)
三福音書間には多くの並行記事があって、マルコによる福音書の95%強が他の二つの福音書に用いられており、マルコによる福音書だけの特有記事は31節、この福音書全体の5%弱に過ぎない。3)
マタイとルカによる福音書は、マルコによる福音書を一つの資料として用いると共に、主としてイエスの教説から成るQ――ドイツ語のQuell(資料)の頭文字――と呼ばれる文書を用いた説がある。このQ文書の存在を想定する根拠として、マタイとルカによる福音書には、言葉や内容が類似する約200から250節に上る両者の並行記事がある。これらの並行記事は、非常によく似ているので、マルコによる福音書との並行記事と同様に、口伝伝承ではなく、文書資料から来たものと考えられる。4)
今日のテキストでは「敵を愛しなさい」という言葉で一連の教えが始まるのであり(27節)、この句は終わりで繰り返されている(35節)。その間にあるのは、編集によって入れられたものであり、これは一続きの説教なのではない。複数の「あなたがた」(27~28節)から単数の「あなた」(29~30節)へ、そしてまた複数の「あなたがた」(31~36節)へという変化は、このような見方を確証させるものである。5)
29節 あなたの「頬」を打つ者では、マタイでは「右の頬」となっている。ユダヤ人の間では右の手の甲で相手の「右の頬」を打つことは非常な侮辱とされている。 また「上着」を奪い取る者に対して、マタイでは「下着」を取ろうとするとなっている。ユダヤ教の解釈によれば、隣人から服を奪ってはならないという命令(出エジプト22・25)は上着のことをいうのだ。
しかし。ルカの場合、その言葉は単純に日常生活の領域から出ており、他人の服を奪う人はまず上着から奪うのであるから、その人には抵抗するより下着も一緒に渡すべきだ、というのである。 このように、マタイによる二つの文章の持つ形式の方が、一層古いことが確実に証明される。しかし、目標を述べた所では、二つの福音書の形式は完全に一致している。6)
ルカによる福音書は、異邦人の著者によって書かれたもので、その文章は新約聖書の中で最も文学的に優れたものの一つである。著者は広い歴史眼をもっており、この福音書を書くさいに、当時の世界情勢との関連において、キリスト教の起源を捕えようと努力したのである。したがってこの福音書はユダヤ的民族主義をこえた世界主義、人道主義によって貫かれており、ここではイエス像は「異邦人を照らす啓示の光」として、また万民の救い主として描かれている。7)
マタイによる福音書はユダヤの世界に配慮し、ルカによる福音書は異邦人の方を向いている。
敵を愛することについて(27~36節)
この部分は二つの内容を含んでいる。第一に挙げられるのは、27~31節であってこの部分では、イエスに従っている者たちが、互いにやり返したり、仕返しをおこなったり、自分を苦しめた相手のやり方を自分自身でおこなってはならないという、一般的な原理を提示している。
この段落のこの部分は、ルカ版の黄金律(31節)で締めくくられている。
第二の部分は(32~36節)は第一の部分の原理を、別の視点から繰り返し述べている。つまり、人は他の人の行為をやり返すべきではないのである。キリスト教徒の行為と関係は、憎しみには憎しみで返し、愛には愛で返す人ではなく、むしろ、我々が礼拝する神によって促されるのである。これが、神の子供であるということの意味なのだ。(35節)。「いと高き方は、恩を知らない悪人にも、情け深いからである」(35節)という言葉は、マタイの「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(5・5)という言葉と、同じ内容を表している。8)
ルカ6・35は、福音全体のエッセンスを表現していると言っても過言ではない。9)
裁くことについて(37~38節)
27~36節での優しさと恵みの教えのあとで、イエスは今や公正や、量るための秤や、報いと罰について語る。しかし、ここでも、「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」(38節)というバランスのとれた公正さは、与える人々のふところへと注ぎ入れられる豊かな気前のよさ、というイメージによって打ち砕かれる。「ふところに」(38節)という句は、ポケットやベルトのちょうど上のひだを指している。しかし、どんな大きなポケットでも、あふれるほどの祝福を、入れきってしまうことはできないだろう。10)
1) 聖書講座第三巻 竹森満佐一 船水衛司 編集 1967日本基督教団出版局 p110
2) 同 p116 3)同 p110 4)同 p121 7)同 p138
5) 現代聖書註解 ルカによる福音書 F.Bクラドック 宮本あかり訳 1997 日本キリスト教出版局 p151 8)同 p151~152 9)同 p153 10)同 p155
6) NTD新約聖書註解 ルカによる福音書 K.H.レングストルフ著 泉 治典 渋谷 浩訳1976 NTD新約聖書註解刊行会 p187~188