Journal Journey

~たのしいケンチクをめざして~

生き続ける建築

2013-03-03 22:16:45 | 旅行

明治時代に日本の道路の出発点として道路元標が麒麟像のある日本橋の中央に埋められた。それを見たくて日本橋を訪れたが、それより日本橋に向かい建つ建物が気になった。それは、かつてウィーンの王宮裏手に建つロースハウスを連想させたからだ。日本橋に向かい建つ旧日本橋野村ビルとウィーンの王宮裏手の広場に面して建つロースハウスの全く異なる土地に建つ2つの建物に何か共通するものがあるような気がし、調べることにした。

日本橋に向かい建つ旧日本橋野村ビル【1930年竣工】

 

ミヒャエル広場に面して建つロースハウス【1910年竣工】

 

旧日本橋野村ビルの設計者は安井武雄(1884~1955)であり、安井建築設計事務所の創設者である。1884年千葉県生まれで、東京帝国大学工科大学建築学科に学んだ後、満州に渡るが帰国後は大阪を拠点に活躍した。学生時代から様式スタイルに従うことを否定し、他人の真似をするのが絶対に嫌いで何とかして自分自身のものを出そうと努力と野心に満ちていたという。その時期の帝国大学では、レンガ造の大規模建築をこなせる能力を示すことが求められたが、卒業設計では木造住宅を主題にし、教官陣の不興を著しく買うこととなったいうエピソードが残る。真にして美なるものを求め続けた安井は、関西の企業である野村コンツェルンの東京進出の拠点として旧日本橋野村ビルを設計した。野村の拠点は東京にある数あるビルと同じであってはならないと安井武雄は創作意欲を燃やしたという。ここで1922年に発表した論文「ギリシャ古典芸術に関する一考察」のなかの動的均整(ダイナミックシンメトリー)の設計手法が使われている。

 

一方、ロースハウスの設計者であるアドルフ・ロース(1870~1933)は、チェコのブルノに生まれ、オーストリアのウィーンやフランスのパリを中心に活躍した。ロースは、当時装飾が生活の隅々まで蔓延している状況に対し、文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義であるとし、装飾は国民経済や健康、文化の進展を損なうことで罪を犯しているとした。しかし、ロースハウスを見ても分かるように、建築から装飾を完全に排除したとは言い難く、低層部に古典的な列柱が並んでいる。ロースは装飾を犯罪と呼び、モダニズムの先駆者であったと同時に、古典様式を手掛かりとしてひとつの偉大な精神の復権を夢見ていた。ロースは様式は否定していない。ルネサンス風やバロック風などイミテーション(にせもの)を否定したのである。また、材料にも強いこだわりがあり、被覆された材料のイミテーションを嫌っていた。

 

安井武雄とアドルフ・ロースに共通していえることは、それぞれ当時の時代に異を唱え、先駆的な独自の道を歩んだが、「真の美」や「不変の尺度」として古典主義にたどり着いている。それは形の比例(プロポーション)である。

 

旧日本橋野村ビルのプロポーション(ダイナミックシンメトリー)

 

ロースハウスのプロポーション(黄金比)

 

ロースは100年前にこう言った。成功した建築家とは例外なく、その時代に阿ることが最も少なかった者であり、他人の目などまったく気にせず古典主義的立場を堅持した者であった。将来の偉大な建築家とは、古典主義者ではなかろうか、と。

 

旧日本橋野村ビルとロースハウスはモニュメンタルな場所で今も美しくそびえている。

 

航空写真でみる旧日本橋野村ビル

 航空写真でみるロースハウス

 

 

参考文献

「装飾と罪悪」 アドルフ・ロース

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自由な表現を求めたガウディ

2011-08-03 22:04:57 | 旅行

ガウディの肖像画


アントニ・ガウディ(1852~1926)はスペインのバルセロナを中心に活動した建築家である。様式的な歴史建築から幾何学的な近代建築への過渡期に流行した曲線を用いた芸術であるアールヌーボーを、カタルーニャ地方の伝統的工法と合わせ、独特な建築を造り続けた。

その幾何学とは無縁の奇妙な形態の建築物の印象から、自分はガウディの事を建物の構造をあまり知らない装飾的な表現を追求した人だと誤解していた。ガウディの場合、逆に自由に装飾的な表現をしたいために猛烈に構造を追求した人だった。


カサ・ミラ


カサ・ミラの外観




建物は光庭を囲んでいる




光庭にある一階と二階を繋ぐ階段



カサ・ミラは、隅切りされた矩形の敷地一杯に建てられ、内部の円と楕円の二つの光庭を囲むように計画された集合住宅である。
竣工当時、独特な外観から"石切り場"のようだと酷評され、あまり評判はよくなかった。しかしガウディはカサ・ミラを、バルセロナの街を取り巻くチビダボの丘陵などの形態と大きさとの対応によって決定されたと反論した。その大きさと精巧な波打つ表現によって建築そのものに自然をデザインしている。




カサ・ミラ各階平面図、各階に4世帯が住めるプランである



ここで注目すべきなのは、ガウディは自由に外観を表現したいために石灰岩の外壁の内側に鉄骨の柱を設け、外壁に上階の床からの荷重がかからないようにしている事である。外壁は自重に耐えられる範囲で自由に表現できるようになり、現代で言えばカーテンウォール工法の先取りである。




施工当時の写真、外壁の内側に鉄骨の柱が設けられている



また各階の床(屋上以外)にはカタルーニャの伝統的なレンガ工法であるボディベージャが用いられている。ボディベージャとは水平な床をレンガで造るときの工法であり、床の下にレンガによる小さなアーチを連続して造り、丸鋼の引張り材によって補強され、それを柱に接合してある梁に繋げて床を支持している。床の厚みを最小限にすることができる先人の素晴らしい知恵のある工法である。



施工当時の写真、ボディベージャと石柱と鉄骨の梁が繋がれている



自然を表現するガウディは建築をなるべく曲線で造りたかったのだろう。それは床も例外ではなく、屋上において実現している。屋上の床は屋根裏部屋であり、ここでカタルーニャの伝統的なレンガ工法である薄肉板構造によるカテナリーアーチが屋上の波打つ床を支持している。カテナリーアーチとは懸垂曲線とも言われ、一本の鎖の両端をつまんだときに鎖の自重によりたわんだ曲線を上下逆にしたアーチをいう。カテナリーアーチには力学的に安定していて、石やレンガなどの組積造には理想的な形である。カテナリーアーチは二支点間の距離により高さが変化するので、屋根裏部屋の幅が狭いところでは高く、反対に幅が広いところでは低くなり起伏のある屋上を造りだしている。




屋上の床は起伏があり階段が設けられている




サグラダ・ファミリア大聖堂


サグラダ・ファミリア大聖堂の誕生のファサード


バルセロナの書店主ホセ・マリア・ボカベーリャの発意により計画された。ガウディは1883年に聖堂の主任建築家として指名され、亡くなるまでの43年間設計・現場管理に取り組んだ。
聖堂は五身廊、三袖廊のラテン十字型平面で東側に誕生のファサード、西側に受難のファサード、南側に栄光のファサードを構える(ファサードとは正面の意味)。各ファサードは四本の鐘塔をその上に冠し、各々12使徒に捧げられている。さらに各ファサードには信徳・愛徳・望徳の三つの門をもち、ファサードの主題となる様々な光景が生命ある彫刻レリーフ群によって展開されている。




サグラダ・ファミリア大聖堂の平面図、東側に誕生のファサード、
西側に受難のファサード、南側に栄光のファサードが計画されている



ガウディは1898年~1908年までの10年間、逆吊り模型システムを駆使して、建築構造の安定性の研究に専心した。それはおそらく従来のゴシック大聖堂の構造の模倣では、屋根を支持するアーチと柱の間に発生する水平荷重に対応するためのフライングバットレスと呼ばれる構造物が、ガウディが表現したい外観に邪魔だったからだと思われる。ガウディは研究の結果、中央身廊部の支持構造に放物線アーチあるいはカテナリーアーチを逆さにした形態を採用することで、また中央身廊部と側廊部の適切な組み合わせによって屋根荷重の力の垂直化に成功し、フライングバットレスを必要としなくなった。その柱の形態は大樹のように傾斜し、小枝へと分岐している。晩年に"自らの建築の師は樹木である"と語ったように、ここにきて自然から得た表現を構造体にまでに進化させている。




ゴシック大聖堂(プラハにある聖ヴィート教会)のフライングバットレス




サグラダ・ファミリア大聖堂の側面図、柱は傾き枝分かれをする




逆吊り模型実験の様子、あらかじめ設定した荷重に見合う応力を
散弾入りの小袋を適切な位置に吊り下げた懸垂多角形の編状組織



ガウディは1907年から1925年まではグエル公園内にある薔薇色の家で過ごしていたが、それからはサグラダ・ファミリア大聖堂後陣脇のアトリエに居住して建築の任にあたっていた。熱心なカトリック信者であった彼は、サグラダ・ファミリア大聖堂から約4kmほど離れた旧市街のフェリペ・ネリ礼拝堂に行く事を日課にしていた。1926年6月、その途中で市電にはねられた後、歩道の隅に放置されて亡くなった。素足のまま靴を履き、顔はやつれみすぼらしい身なりをしていた事から浮浪者と間違えられた。その上着のポケットの中には受難のファサードをデッサンした紙切れが入っていた。




ガウディが住んでいたグエル公園内の薔薇色の家




薔薇色の家の内観




ガウディの机




遺体の上着ポケット入っていた
受難のファサードがデッサンされた紙切れ



現在は受難のファサードも完成し、作業は急ピッチで進んでいるが、残念な事に最近は石ではなく鉄筋コンクリートが使われている。鉄筋コンクリートは圧縮力に加えて引張力にも強い素材で、方枠を造りコンクリートを流し込めばよいので作業スピードも格段に速くなる。しかし、ガウディが10年間費やした逆吊り模型実験は石を使った組積造の実験であって、鉄筋コンクリートではほとんど意味がない。しかも鉄筋コンクリートは何百年も維持する素材ではない。ガウディがこれはを見たら何を思うだろうか。




コンクリートを削って形を造っているように見える、根気のいる作業である




完成している受難のファサードにも
鉄筋コンクリートを使用しているものと思われる



もっとガウディを知りたい人へ
図説ガウディ-地中海が生んだ天才建築家-  入江正之
バルセロナの陽光に魅せられて 田中裕也 http://www.kenchikuka.jp/gaudi/index.htm 


変化するアカ族の村(タイ北部)

2011-07-15 05:25:17 | 旅行
タイ・ミャンマー・ラオス北部や中国雲南省南部にアカ族(中国ではハニ族)という山岳民族が住んでいる。アカ族は山の頂上付近に住居を構え、20~200戸くらいで一つの村をつくる。今回ポストカードの写真をきっかけに、一つのアカ族の村を訪れた。その写真はまるで日本昔話にでてくるような世界で、どのような生活をしているのか見たかったからである。しかし調べる内に、その写真は1980年代のものだと分かった。




一枚のポストカード



実際に訪れると、住居や民族の生活スタイルは大きく変わっていた。電気や水道もあり、村の人達は洋服を着ている。未だに民族衣装を着て、茅葺きの家に住んでいるなんて今の時代テーマパークくらいしかないのだろう。




ポストカードのアカ族の村の現在




村は電気を引いている




アカ族の子供



アカ族の伝統住居の外観は屋根に特徴がある。ススキと同じイネ科のチガヤを材料にして屋根を葺くのだが、軒が住居全体を覆うように地面近くまで伸びている。しかし現在の屋根はトタン・スレートや瓦屋根に変わり、軒は沖縄の伝統家屋のように、人が雨に濡れずに住居の周りを歩けるくらいの長さになっていた。また、元々アカ族は山の自然の斜面に添って生活していることもあり、高床式にして住居を平面にすることが一般的だったが、今ではコンクリートやレンガなどでヨウ壁や塀をつくり、土地を整備して段上の平地に住居を構えるようになり、住居は高床式から普通の地床式に変わっていた。さらに村では木造の住居がほとんどだったが、コンクリートブロックやレンガで造られた住居・学校・教会・集会所などもあった。建物の規模や平面プランは昔に比べて大きく変化はないものと思われるが、建物の材料と土地の形が変わったせいで、全く別の村に来たように風景が一変していた。しかしここはアカ族の村であることが分かる、ある伝統的なシンボルは残っていた。




補修中のトタン屋根




ブロックでヨウ壁をつくり、段上の平地に住居を構える




鉄筋コンクリート造の教会、現在ではキリスト教信者も多い



住居の入母屋屋根の両妻に、棟よりも突き出て装飾的に交差させた板や、村の出入口に立てる精霊の門は昔から変化していないアカ族の文化を伝える重要な役割を果たす。実はアカ族と日本人は元を辿れば同じルーツだと言われている。日本に仏教が伝わる以前の神社建築を今に残す伊勢神宮は、同じく屋根の両妻の破風板は屋根を貫いてクロスに交差していること、また神宮の出入口には鳥居があり、人間の住む俗世の世界と神域とを分けていること。そして何にでも神様が宿る(日本では八百万の神)という精霊信仰も両民族ともに共通していることは興味深い。




屋根の両妻の交差した板はアカ族の住居を示す




村の出入口に設ける精霊の門、人間の世界に外部から霊が入ってこないようにする



アカ族は国や周りの人々との関わりの中で便利なもの、必要なものを受け入れてはいるが独特の文化は未だ存在している。何を変えるべきで何を変えないべきか。それは民族自身が決めることだが、独特の文化を残すことは、その民族だけじゃなく人間そのものの存在価値を示すことに繋がると思う。グローバル社会のいま、本来多様である文化の危機でもある。

帰国しました!

2011-07-07 22:39:51 | 旅行
6月26日に帰国しました。3月5日に出発しましたので、3ヶ月と21日の旅になりました。その間に行った国は、


日本→韓国(経由)→ロシア→エストニア→ラトビア(移動)→リトアニア(移動)→ポーランド→チェコ→オーストリア→ハンガリー→セルビア→ボスニア・ヘルツェゴビナ→クロアチア→イタリア→バチカン市国→スペイン→フランス→ベルギー(移動)→オランダ→ドイツ→タイ→インド→カンボジア→ベトナム(移動)→日本


移動も含めれば、23ヶ国でした。

当初はもっと長期で行く予定でしたが、ヨーロッパの物価は想像以上に高額でした。また、パソコンを途中で盗まれるなどトラブルもあり、思うようにブログもUP出来ませんでしたが、今後も"旅"で自分が感じたことや考えた事をUPしていきたいと思っています。暇があったらちょこっとだけ覗いて見てください。


※ブログ内容も旅の順ではないので分かりにくいと思いますが、ブログが増えてきましたらカテゴリー別に分類しますのでご了承ください。

屋根を重ねること、柱を傾けること(タイ)

2011-07-06 17:44:55 | 旅行
タイを歩いていると、よく寺院などで屋根を重ねたようなデザインを見る。それは、おそらくタイの伝統建築から由来した屋根の形状であるだろうが、タイの人達が昔から知覚していると思われる"屋根を重ねる"というキーワードに関して現代でも優れた知恵として生かされているように感じたことがあった。ここで二つの例をあげる。




タイの寺院の屋根




BTSと道路を繋ぐ階段の屋根は重なるようにデザインされている



①ショップハウス間の通路に屋根を設ける(ショップハウスの屋根と重ねて設置する)ことで半屋外的な屋台として機能するスペースが確保されている。この屋根はトタン板を使用し、数年間は使用する屋台としている。







②細い路地に面する住宅地で、住居の延長として路地に屋根を架け、そのスペースで話をしたり、椅子などに座りくつろいでいる風景をよく見かける。屋根はこの時期の強烈な太陽や激しいスコールの雨を簡易的に遮り、路地を通る涼しい風をさらりと流す。確かにそこは涼しく快適で、道行く人とのコミュニティスペースともなっていた。







また、タイシルクを世界的に広めた実業家のジムトンプソンの家では6棟ものタイの伝統建築が残されている。その建物はアユタヤなどから現在のバンコクへ移築され、建物の年齢は200年以上前のものもあるという。この建物は、タイの伝統建築として高床や急勾配な屋根といった特徴をもっているが、最大の特徴は壁の傾きにある。強度を増すために建物の壁は垂直に建てられているのではなく、わずかに内側に傾けてあるのだ。同じ敷地内の最近の建物は、それを受け継ぎ今度は柱が内側に傾けられている。どのくらい強度が増すかは分からないが、四角形よりも三角形に近い(台形)ほうが安定した形であることはわかる。建物自体の鉛直荷重や地震などによる水平荷重に対しても、いくらかの強度を発揮すると思われ、伝統的な住まいの知恵がここに生かされていた。




写真では分かりにくいが、四本の柱は僅かに内側に傾いている




BTSのプラットホームの屋根、柱は傾いている