明治時代に日本の道路の出発点として道路元標が麒麟像のある日本橋の中央に埋められた。それを見たくて日本橋を訪れたが、それより日本橋に向かい建つ建物が気になった。それは、かつてウィーンの王宮裏手に建つロースハウスを連想させたからだ。日本橋に向かい建つ旧日本橋野村ビルとウィーンの王宮裏手の広場に面して建つロースハウスの全く異なる土地に建つ2つの建物に何か共通するものがあるような気がし、調べることにした。
日本橋に向かい建つ旧日本橋野村ビル【1930年竣工】
ミヒャエル広場に面して建つロースハウス【1910年竣工】
旧日本橋野村ビルの設計者は安井武雄(1884~1955)であり、安井建築設計事務所の創設者である。1884年千葉県生まれで、東京帝国大学工科大学建築学科に学んだ後、満州に渡るが帰国後は大阪を拠点に活躍した。学生時代から様式スタイルに従うことを否定し、他人の真似をするのが絶対に嫌いで何とかして自分自身のものを出そうと努力と野心に満ちていたという。その時期の帝国大学では、レンガ造の大規模建築をこなせる能力を示すことが求められたが、卒業設計では木造住宅を主題にし、教官陣の不興を著しく買うこととなったいうエピソードが残る。真にして美なるものを求め続けた安井は、関西の企業である野村コンツェルンの東京進出の拠点として旧日本橋野村ビルを設計した。野村の拠点は東京にある数あるビルと同じであってはならないと安井武雄は創作意欲を燃やしたという。ここで1922年に発表した論文「ギリシャ古典芸術に関する一考察」のなかの動的均整(ダイナミックシンメトリー)の設計手法が使われている。
一方、ロースハウスの設計者であるアドルフ・ロース(1870~1933)は、チェコのブルノに生まれ、オーストリアのウィーンやフランスのパリを中心に活躍した。ロースは、当時装飾が生活の隅々まで蔓延している状況に対し、文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義であるとし、装飾は国民経済や健康、文化の進展を損なうことで罪を犯しているとした。しかし、ロースハウスを見ても分かるように、建築から装飾を完全に排除したとは言い難く、低層部に古典的な列柱が並んでいる。ロースは装飾を犯罪と呼び、モダニズムの先駆者であったと同時に、古典様式を手掛かりとしてひとつの偉大な精神の復権を夢見ていた。ロースは様式は否定していない。ルネサンス風やバロック風などイミテーション(にせもの)を否定したのである。また、材料にも強いこだわりがあり、被覆された材料のイミテーションを嫌っていた。
安井武雄とアドルフ・ロースに共通していえることは、それぞれ当時の時代に異を唱え、先駆的な独自の道を歩んだが、「真の美」や「不変の尺度」として古典主義にたどり着いている。それは形の比例(プロポーション)である。
旧日本橋野村ビルのプロポーション(ダイナミックシンメトリー)
ロースハウスのプロポーション(黄金比)
ロースは100年前にこう言った。成功した建築家とは例外なく、その時代に阿ることが最も少なかった者であり、他人の目などまったく気にせず古典主義的立場を堅持した者であった。将来の偉大な建築家とは、古典主義者ではなかろうか、と。
旧日本橋野村ビルとロースハウスはモニュメンタルな場所で今も美しくそびえている。
航空写真でみる旧日本橋野村ビル
航空写真でみるロースハウス
参考文献
「装飾と罪悪」 アドルフ・ロース