なんかねえ、酔うと息子と話ってのも、うまく運ばないのですけど。ねえ。
ごくたまに、息子とまあっ~たりと話をすることがあります。
今日のように……。
といっても、CGの話とかアニメとか、ゲームとかなんですが。
って、ゲームなんて、こっちはちょっとわからないんですけど。
そういう時、私は意図的に自分の昔というか、子どもの頃とかの話を混ぜるようにしているんです。
昭和の子どもの頃のことってのは、私の子どもの世代には、なんというか、別世界的ですがこれは知っていて悪いことじゃないという思いもあって。
それに女っていうだけで、蔑視の憂き目に遭って来たって数々のことを、男の立場の息子に刷り込み(?)をしています。ははは。
昭和と平成の時代に仕事をしてきたこの私でも、女ってだけで、かなりのセクハラっていうか、パワハラを受けましたし、理不尽な思いに泣きを見たってことも少なからずあり。
公務員だったのに、ですよ。教師というけっこう、いい立ち居地であったのですよ。でも。
まあ、それは、置いといて。
昔、昔、この母は、祖父母に大事に育てられたということを、ちゃんと伝えたいわけで。
貧しい時代にあって、特にのほほんとしたこの母にも、女でもやりたいことがあれば、ちゃんと実現すべきっていう、優遇を両親に守ってもらったわけで、大学にもやってもらえました。
ですが。
母とはけっこう今でも話が合いますが、どうも、父とは難しく。
それでも父と今、住んではいるんです。
でも、なんかねえ、どうも、父との意思疎通は難しい。異性だからというより、昔からの話し合いの少なさっていう気がします。というか、彼の思考がよくわからない。というのは大学時代から思ってまして。いや、子どもの時代から……。
まあ、大事にされていたとは思うのですが。
愛されているとは思うのですが。
何を、どういったらいいのか……、考えというか……思考の指標が自分と、どっかずれているって感覚。……を、彼には感じてしまうんですよ。これは、なんか、子どもの頃からあった感覚で。どうしようもありません。
言っても無駄?
通じない?
なんか、感性が違う? っていう連続。どうして通じないんだろうっていう思い。
自分の考えが確固とした時期には、もうそれが顕著で。
やってらんねえ。って感覚で、父を見てたりして。
そういうのって、あるんでしょうかね。単に、頭でっかちに捉えてしまった結果なのかも知れませんけど…ね。
あるとき、父が、まったく本の話題を口にしないと気がつきました。彼はまったく本を読まない人だったんです。それが、どう、というわけではないのですが。
まあ、自分とクロスできねえなあ、て、思いました。
息子を持ってみて、……
なんか、息子と、気持ちが通じないという年月をこれから送りたくないなあと思ったりします。
私が父と相容れないように、息子もなんとなく、そういう感触に陥ってないと思いたいのですが……。
いかんせん。
息子は、いわゆる「いい子」なので。
母を悲しませないよう振舞うことは、きっと、そこそこ可能でしょう。
……。それが、彼を追い詰めないことを切に、願うのです。
「いい子」でいようと思えば思うほど、自分の夢とか、なりたい自分とか見失うってことがありそうですもんね。人のためにいい子を演じるほど、きついことはないですから。
かつて、私もまた、両親のいう、「一人でも生きられるような仕事」にを、暗黙に強いられたように…ですな。なってほしくないんですけど。
ああ、でも、言っているかも。強いているかも。
って、反省してます。
まあ、平凡な親は、仕事して食い扶持がある生き方をしてほしいと、思うでしょうよね。
まあ、ちゃんと、食べられる仕事をして、まっとうに生きてほしいって、思う…よ、ね。
でも、しかし。
人一人、生きるところに、親も子もない。
意志をもって生きる所には、自分個人の夢と、それに見合った義務と責任がある。
ってことが、わかっていればどんな人生もあり、ですよね。
ははは…。
頭と、情念とのせめぎ合い……です。
夢を追い求める息子を、容認すか、否か。
まあ、
いいんじゃない…、まだ、生きていられるっていう段階だし。
「餓死も、……ちゃんと……、お前の視野に置け……」
今日の息子との話の結論です。
生々しく、なりましたけどね、受けとってくれたかは、不明…だね。