主は私の羊飼い

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神経症について

2017年07月10日 14時28分44秒 | 日記
今日は2回目のブログです。

外はすごい日照りで、ハウスのトマトが心配です。
遮光ネットを買うか考えています。

前回紹介した本に神経症のことが載っていました。
いわゆるノイローゼです。

私は、幼稚園のときから小学4年生まで、家族のいないところでの飲食ができないノイローゼでした。

きっかけは、幼稚園のおじちゃん先生が、お弁当を残しちゃいけないと子供らに何度もきつく、(そう聞こえた)言って、残していないかチェックしていたのが恐ろしかったのです。

私は、家では好き嫌いなく何でも食べていましたが、その時からお弁当、給食が食べられない子になってしまいました。
全く食べられないわけでもなく、少しずつゆっくりなら、半分くらいは食べられたのですが、担任の先生が威圧的だとよけいにだめで、吐き気を催すのです。
例えば、給食の時間の最中に担任の先生が、一人の男の子が悪さをして怒り出したら、私は顔面蒼白になっているのでした。

だから、ずっと学校には朝食抜きで通っていたのです。
母はいちよう心配はしてくれましたが、担任に相談したような気配はありませんでした。
なにせ、自分の子らは何も問題ないと思っていたくらいですから。

友達の誕生日会に行っても、ケーキが食べられなくて、吐きそうになって、外に飛び出して友達とそのお母さんに白い目で見られたことを覚えています。
でも家族との外食は喜んで食べていました。

それが、4年生の時の担任の先生は、そんなに食べられないならパンは自分でビニール袋を持ってきて持ち帰って良いと言ってくれました。
そのことばで私のノイローゼは終わったのです。

倍賞千恵子さん似の優しい先生でした。
パンを何回か持ち帰って、母が喜んで食べました。

でも、私は間もなくパンも他のものも、時間内に食べられるようになっていったのです。

私が屋久島で幼稚園の担任を持ったとき、お弁当のいちごが食べられないと泣いている子がいました。
私は、「食べなくてもいいよ」と言うと、「お母さんに怒られる」と言って何とか食べました。
私は、その子の連絡帳に、嫌いなものは持たせない方がいいと書きましたら、お母さんも反省してくれました。

食べ物は大事なものですが、人間は食べ物のために生きているのではありません。





人はみな発達障害をもっている?

2017年07月10日 10時08分50秒 | 日記
今朝は風が涼しいので、インゲンの収穫に没頭してしまいました。
上のこどもの同級生のおうちにあとで差し入れたいと思っています。

先日、テレビでどこぞの教授さんが、人は誰でも多かれ少なかれ発達障害を持っていると言っていました。

それは、以前から私もそうかなと思っていましたが、多くて厄介な障害を持っていて、家族や周りの人を怒らせたり、悲しめたりすれば、問題となってくるわけです。

「臨床心理学のすべてがわかる本」松原達哉著でフロイトの発達論が詳しく書かれていました。
以前ちょこっと勉強した時も、すごい分析だなあと思っていましたが、より詳しく知ると、結構驚きました。

例えば、口唇期という乳幼児のときに十分授乳されて育つと、おっとりとした人間になり、愛情不足だと、せわしなさ、甘えん坊、慢性の孤独感などが現れる。愛情過多だと自己中心的な人間になる。

もし、母親がバランスのとれた育て方をしていれば、バランスのとれた性格の人間に育つということになるのでしょうか?
そもそも、バランスのとれた人っているんでしょうか?

私は、4人兄弟の末っ子で、母はかつてよく「うちの子たちは、みんなおとなしく問題なく育ってくれた」と言っていましたが、私からするとそれぞれが問題だらけだったように思えます。今も変わりません。

私は20歳のときクリスチャンになったので、だいぶ軌道修正ができたのだと思います。

うちのダンナも片付けができないのは、お母さんがやはり片付けられない人で、フロイトの説く、肛門期に適切なしつけがされなかったことも大きな原因なのかもしれません。

なので、安易に何かが出来ないから、あの人は発達障害だと決めつけるのは控えなくてはならないと思います。

人間の内面のことは、他人も自分自身も簡単に理解できるものではないわけです。