言うまでもなくヌーランドの論文の狙いは、可能な限りロシアの「脅威」を強調し、それへの対応の緊急性を米国と同盟諸国に認識させることにある。そして「脅威」の実態とは、軍事力にあるだろう。これについてのヌーランドの評価は、冷戦崩壊直後にまでさかのぼって以下のように示されている。
「米国と同盟諸国は、かつて冷戦に勝利し、その後も数年間良好な結果を生み続けた政治的手腕を忘れてしまった。そうした戦略は、クレムリンによる危険な行為を抑止し、押し返すために、大統領のレベルでの米国の一貫したリーダーシップ、民主的同盟諸国とパートナー国家らの団結、互いに分かち合われた決意を必要とする」
「(2000年代になって)米国とロシア間の核兵器削減交渉は続いていたが、米国はロシアの核兵器部門以外の実際の軍事上の投資については関心を示さなかった。……米国のアフガニスタンとイラクでの経験と、2008年のジョージアとの戦争でのロシア自身の芳しくない戦闘能力から教訓を得て、プーチンは非正規戦やサイバー戦能力、通常の長距離射程兵器、極超音速ミサイルに予算を投入した。米国と同盟諸国は、2014年にロシアがクリミアを奪取するまで、これらの投資の衝撃に気付かなかった」
「プーチンのロシアを同等の力のある相手とか、あるいは手に負えない敵として描くのは、クレムリンの危険な路線を抑止し、抵抗する米国の能力を見くびることになる。だが、米国は単独でロシアに対処するのを引き受けるべきではない。過去のように、米国は世界中の紛争地帯でのロシアの侵犯を阻止するために世界的な同盟を動員し、自身の防衛力を補強し、他の国々と共同して動くべきだ」
だが「プーチンのロシア」を、世界中の「同盟諸国」をかき集めて対処しなければならないような巨大な「敵」として祭り上げたいためか、ヌーランドは一つの事実を意図的に無視している。それはロシアの国力で、GDPで見るとIMFが20年10月に発表した数字では、ロシアはNATOの一員のイタリアやカナダよりランクが下がり、韓国より少し上の世界11位に過ぎない。
当然、国防費も限定され、スウェーデンのストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の調査によれば、世界の軍事費比較(19年度)で1位の米国は7320憶ドルだが、4位のロシアは651憶ドルとその1割にも満たない低さだ。
それでもヌーランドの主張するようにロシアが「同盟諸国」も動員しなくてはならない相手だとしても、軍事費でNATO加盟国中、上位6カ国の総計の0・07%程度にしかならない。無論、兵員や装備の数量の比較も別途必要だが、少なくともロシアに可能な対外軍事力行使が限定的とならざるをえないのは、国力の面から十分予見可能だろう。
しかもヌーランドが主張するような、2014年2月のウクライナクーデターに伴うクリミアのロシアへの帰属によって、初めて米国がロシアの兵器開発に「衝撃」を受けた式の構図が成立するのかどうか、極めて疑わしい。
確かにクリミアの問題が「国際世論」の対ロシア認識を大きく悪化させたのは間違いないだろうが、その結果、典型的なRussophobiaであるヌーランドにとっては、ロシアとプーチンを「悪魔化」する万能の切り札を手にできた。そのため、「衝撃」の「2014年」を振りかざし、ロシアへの認識・対応を一変させねばならないような「危機元年」として、その意義を膨らませるだけ膨らませたい心理がヌーランドに働いているのは想像に難くない。
米国の軍事技術開発
だが国防総省やDIAは、逐一ロシア軍の装備の更新や配備について把握しており、「衝撃」を受けるほど日常的に任務をおざなりにしているわけではない。仮に「衝撃」が事実だったとしても、ここでも自国を棚上げしてロシアを批判するヌーランドの例の習性が露骨に現れている。圧倒的に「予算」が違う米国の兵器開発は、「非正規戦やサイバー戦能力、通常の長距離射程兵器、極超音速ミサイル」程度に留まりはしないのだが、故意にそれも無視しているのだ。
NATO大使も経験したヌーランドが兵器に疎いとは考えにくいが、「2014年」以前から米軍が手掛けていた新型兵器・技術の開発は一部だけでも以下の項目がある(注=核関連と開発結果は略)。「サイバー戦能力」にしろ、米軍はすでに10年5月の時点で、新たな統合軍としてサイバー軍を始動させていた。この期間、ミサイル防衛(MD)の技術にも多くの予算が割かれている。米国が油断している隙に、一方的に兵器や技術開発で先行されてしまったかのような記述は正確さを欠く。
●海軍の輸送揚陸艦に搭載用した指向性エネルギーを照射し、目標物を破壊するレーザー兵器(Laser Weapon System)。
●新型駆逐艦に搭載予定の、射程が185㎞にも及ぶ先進砲システム(AGS)。
●艦船搭載の、伝導体の砲弾に電磁エネルギーを与えて加速し、射出する電磁兵器の「レールガン」。
●航空機が高い高度と遠距離から海中の潜水艦に精密誘導爆弾を投下して攻撃得する、高高度対潜水艦兵器。
●指向性エネルギー兵器を搭載し、敵側の電力網を攪乱・停止させる対電子装置高出力マイクロ波発達型ミサイル。
●現行のB-1、B-2両戦略爆撃機に代わる、次世代ステルス型長距離爆撃機(LRS-B)。
●航空機に搭載し、飛行中のミサイルを破壊できる高出力の空中レーザー発射機。
●高度20km、連続48時間の偵察が可能な、高高度滞空型無人航空機システム。
このように米国は、「2014年」のクリミア問題発生以前から、ロシアを圧倒する規模で様々な新兵器開発のための巨額の「予算」を「投入」してきた。それだけではなく、より重要なのは一貫してNATOを動員した対ロシア包囲網を強化し続け、ロシア国境近接部での軍事演習を頻繁化させてきたという事実だ。
だがヌーランドはこれについてまったく触れておらず、あたかも自分たちの前号で触れたような「法を基盤とした国際的制度に統合」させるという「善意」があだになって、「ロシアがクリミアを奪取するまで」、プーチンとロシアの悪辣な正体に無策・無頓着でいたかのようなストーリーを創作している。
この「善意」が裏切られた当事者であるかのような立場の確立こそ、ヌーランドの論文における自己正当化の根幹を構成し、ロシアへの新たな対応が、「衝撃」によってようやく自覚させられた側の「反撃」であるかのようだ。
しかしながら、「2014年」以前と以後の米国の対ロシア軍事政策が、決定的に変化したのではない。米国は最初から一貫してロシアへの財政的・物理的打撃、あるいは国家の解体までを展望した何らかの戦略を準備しながら、NATOを動員してきた形跡が濃厚に認められる。そしてロシアも、そうした自国に迫る情勢に危機感を抱いていたはずだ。
NATOの対ロシア包囲網
以下、年表風に「2014年」に至るまでの、ロシア周辺のNATOの軍事動向について最小限度にまとめてみた。
2008年7月 米軍がNATO非加盟国のジョージア国内で、同国軍と計2600人を動員した合同演習「Immediate Response 2008」を実施。ジョージア軍は翌月、同国北部の南オセチア自治州に進攻し、同州に派兵されたロシア軍と戦争状態に。
2009年1月 NATOが非加盟国・スウェーデンのラップランド地方からバルト海北部ボスニア湾にかけての一帯で、10カ国から2000人を動員した空軍主体の軍事演習「Loyal Arrow」を実施。
2009年5月 NATOの米軍を中心にした計9カ国軍が1100人を動員し、ジョージアで合同演習「Cooperative 09」を実施。
2010年5月 ルーマニアの黒海に近接したミハイル・コガルニチャヌ空軍基地に、米海兵隊が駐留開始。米空軍がブルガリア空軍との合同演習「Operation Sentry Gold」を実施。米軍が、ポーランド北部のロシアの飛び地・カリーニングラードに近接したモロンクに、ペイトリオットミサイル防衛システムを配備。
2011年9月 米国がルーマニアとの間で、ルーマニア国内デベセル空軍基地に、地上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」を配備する取り決めを調印。15年から稼働。
2012年3月 NATOがロシア国境に近いノルウェー北部の北極圏で、15カ国1万6000人を動員した当時最大規模の軍事演習「Cold Response」を実施。
2012年4月 米欧州空軍がブルガリアで、ブルガリア・ルーマニア両空軍と共に同地域で当時最大規模の空軍合同演習「Thracian Star」を実施。
2013年11月 NATOがラトビアとポーランドで、全加盟国(及び中立国のスウェーデンとフィンランド等)の6000人を動員し、「緊急展開部隊」の訓練を軸とした軍事演習「Steadfast Jazz」を実施。
以上の演習に対しは、ロシアが「挑発行為」と抗議した例が少なくない。いかなる国家であれ国境地帯を含む近接地で、明らかに自国に向けられていると判断できる大規模な軍事演習を繰り広げられては、国連憲章第1章で各国が「慎む」と定められた「武力の威嚇」以外の何ものにも写らないはずだ。
ヌーランドが強調するクリミア問題発生以前から、これだけの「挑発」と「威嚇」がロシアの目の前に突き付けられた。しかも皮肉にも08年5月から12年5月までは、ドミートリー・メドヴェージェフがロシアの大統領だった。
このようにNATOと米軍は08年を前後して、早くから黒海に臨むルーマニアとブルガリアの軍事拠点化の動きを全面化し、軍事演習を強化した。続いてクリミア問題が起きると、一挙にスカンジナビア半島北部、及びバルト三国からポーランドのラインでも軍事演習の拡大・強化に乗り出し、今日まで続いている。
「脅威を及ぼさない純粋に防衛的な軍事同盟」?
だがヌーランドの論文では、米国が「衝撃」を受けたという「2014年」以前のこうした動きが空白だ。「ロシアがクリミアを奪取」しようがしまいが、最初からロシアに「挑発」と「威嚇」を加え続けるのは既定路線であったと断じるしかない。にもかかわらず、ヌーランドはNATOとロシアの関係について次のような驚くべき認識を示している。
「自由な民主主義諸国と、依然ソビエト連邦の指導者のような人物に率いられているロシアとの間に、とりわけNATOの拡大をめぐって隔たりが生じた。米国と同盟諸国が、どれだけ懸命にNATOはロシアに脅威を及ぼさない純粋に防衛的な同盟であると説得を試みようとても、そうした隔たりは、欧州をゼロサムの関係としかないプーチンのアジェンダに役立ち続けている」
再び「善意」の側と「善意」が通用しない側という二項対立の図式が登場したかのようだが、ロシアが自国の国境付近で軍事演習を実施されることに抗議したなら、「説得」に耳を傾けない頑迷ゆえの誤解になるのだろうか。「純粋に防衛的」なのであれば、「衝撃」を受けるはるか前から、わざわざこれ見よがしに相手国の目の前で軍事演習をやるような行動に出るとは考えにくい。
第一、ロシア海軍がメキシコ湾やフロリダ沖で、キューバやベネズエラの艦船と軍事演習を展開したと仮定した場合、米国がロシアから「脅威を及ぼさない純粋に防衛的」な演習であると「説得」されても、聞く耳を持つ可能性は乏しいはずだ。
しかも、「クレムリンによる危険な行為を抑止」するというのは冷戦期からの手法のようだが、その場合、自軍の戦力が相手に「脅威を及ぼさない純粋に防衛的」なレベルであるなら、「抑止」力になり難いのは軍事常識に属する。要は米国や同盟諸国は「善」、プーチンやロシアは「悪」であるという米国的単純さの図式ですべてを描こうとする意図のため、自身の側を「純粋に防衛的」などと粉飾する必要があるのだろう。しかしこれでは、論文の説得性を著しく損なうだけだ。
そして問題の前提として、ヌーランドがNATOを「ロシアに脅威を及ぼさない純粋に防衛的な同盟」といくら強弁しようが、そうしたレトリックは以下の指摘のような事実により、冷戦崩壊直後からすでに破綻している。
「(ベルリンの壁崩壊後)1990年のドイツ統一に際して、当時国務長官だったジェームス・ベーカーは、ソビエト連邦大統領だったミカエル・ゴルバチョフにNATOは1インチたりとも東方には動かされないと保証した。しかしそのような合併が起きたら東ドイツは現在のドイツのみならずNATOにも吸収され、そしてNATOは即座にソビエト連邦により近いポーランドとチェコスロバキアの国境に向け東方に動いた」(注1)
ゴルバチョフであれプーチンであれ、ロシアの指導者であれば、ワルシャワ条約機構が消滅した後になって、米国により史上例のない強力無比な軍事機構で説明不在のまま自国周辺を取り囲まれたら、それを「純粋に防衛的」な措置であると受け止めるはずがない。のみならず次に拡大したNATOを使い、ロシアの至近距離で軍事演習を繰り返しておきながら、自分たちの「説得」を当然にも受け入れないロシアを何か「アジェンダ」があってのことであるかのように難詰するのは、一方的過ぎよう。
新冷戦と「軍産複合体」
しかもヌーランドは欧州のみならず、「世界中の紛争地帯でのロシアの侵犯を阻止するために世界的な同盟を動員」する必要性を説いている。「紛争地帯でのロシアの侵犯」と言われても、シリアやリビア、あるいは中央アフリカ程度しか思いつかず、世界に800以上の海外基地を網羅した米国のこれまでの「侵犯」例と比べ、ささやかな件数だ。
しかも、「侵犯」に相当するかどうか別として、米国と同じように「紛争地帯」でのプレゼンスが確認されても、なぜロシアだけは「阻止する」対象になるのか根拠が不明だ。加えてシリアでは、違法にシリアの主権を「侵犯」している米国と違い、ロシアは政府の公式要請を受けた軍事支援で駐留している。ロシアにすれば、「侵犯」呼ばわりされるのは心外だろう。
繰り返すようにヌーランドが関与したウクライナのクーデターが引き起こしたロシアのクリミアの「奪取」こそ、一挙にプーチンとロシアを「悪魔化」しての「新冷戦」をもたらす絶好の機会になった。それは2001年の「9・11」事件により、米軍が「対テロ戦争」と称した野放図な中東や中央アジアを中心とする地帯での軍事行動を、堰を切ったかのように展開し始めたのと似たパターンと言えなくもない。
最近のミャンマーにおける軍事クーデターへの非難とは対照的に、選挙で選出された正当な政権をネオナチ主体の勢力が暴力で倒すというウクライナのクーデターの違法性について一切問題視されないまま、それまでのNATOによるロシアに照準を定めた「挑発」と「威嚇」の経過も棚上げされ、NATOの軍事演習のスカレートと経済制裁を含めた欧米によるロシア弱体化の方策を最大限許容する万能の口実を、米国とヌーランドはクーデター工作の成功の結果、得たのではなかったのか。
それでも、すべては事実に基づいた反論が可能だろう。今、必要なのは、世界がプーチンとロシアの「危険」性に対し「共同して動く」ことではない。すさまじい量で流されるクリミア問題以降の「報道」や「公式発表」と称するプロパガンダを駆使した、前者への恐怖と憎悪への投げつけの背後にある「アジェンダ」の本質について理解することではないのか。
これについては、『ニューヨーク・タイムズ』記者の前歴がある米国の秀でたコラムニストのクリス・ヘッジによる以下のような指摘が極めて的を得ていよう。出典は、インターネットサイトTruth Digに19年6月3日に掲載された記事「ロシアとの戦争を作り出す」。ヘッジによれば、「9・11」によって国家予算の半分近くを占める巨額の軍事費をさらに潤沢に享受できる口実を得た「軍産複合体」は、「テロリスト」がもはや悪役としての賞味期限が切れた13年後に、幸運にも新たな冷戦の時代を迎えたようだ。
「モスクワとの新しい冷戦は、ロシア国境への軍事的拡大を正当化するため利用されており、そうした動きは米国の兵器産業に何十億ドルという利器を生み出す。それは、米国の外交政策に対する国内の批判者や、オルターナティブメディアを外国勢力の手先であるかのように悪魔化するのに利用される。……それは、世界最大の2つの核保有国間のデタントを損なうために利用される。それは、国内における市民的諸自由のはく奪と、シリアやベネズエラのような国々を含む海外での介入を正当化するために利用される。……そしてこの新しい冷戦こそは、ロシアとの衝突を煽ることで自身の権力を強固にし、利益を増大させることができると分かっている戦争産業と諜報機関によって、10年前に作り上げられたのだ」(注2)
次稿は、③としてロシアによる「干渉」への批判について考察したい。
※NATOの対ロシア軍事動向については、『脱大日本主義の薦め』(晃洋書房)収録の成澤「欧州における危機の根源とは何か 新たな戦争の策動と米・NATOの対ロシア戦略」を参照。