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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

人間、おやさま

おみき様は人間として生まれ、覚った者としてこの世の身体を置いた。
その生涯は覚りの九十年と呼ぶにふさわしい。
この世ならざるものをこの世に教える教えの全ては喩えであり、”神”もその”神名”も喩えにすぎない。
喩えによる教えが導く真実を見通す姿勢、それこそが本当の信仰の姿である。
九十年の間におみき様の教えは変遷していった。
真の覚りは最晩年に訪れた。
この世に対する怒りが完全に克服されたのである。
繰り返された、神の”ざんねん”や”りっぷく”。
それはおみき様自身に向けられていたものであった。
なぜそうなるか。
この宇宙は精神が投影されたものだからである。
全体の精神につながるもの、それが人間。
人間はそれぞれの心を持つ。
心はその胸の内を投影する。
投影されたものに対する怒りとは、自分に向けられたものに等しい。
つまり第三者に対する”ざんねん”や”りっぷく”は正当化できないのである。
だから人をうらんだり(うらみ)腹をたてたり(はらだち)してはいけないと言うのである。
人間はすべて一体である。
ひとしく神の子供である。
全ての源である神は、怒りも裁きもしない。
永遠なる普遍の存在である。
晩年に至り、この覚りに完全に到達したのである。
投獄されるにあたって嘆きも怒りも戦いもしなかった。
それは覚りに到達したからである。
おみき様が72歳から85歳まで書きつづったおふでさきにも見られる”無念”を克服したからである。
天保九年のあの日を境に霊性への目覚めがおみき様にはおこった。
天保九年は1838年である。
”をびやゆるし”が人々の蒙を開いたのは嘉永七年(1854年)のことである。
この間十六年。
覚りには人間の体感としては長い時間がかかっている。
それは人間『おやさま』が霊性の導きを得て、一歩一歩あゆんだことも示している。
神とは人間の霊性につながるものである。
神と人間とは別々ではない。
おみき様が自ら語る神の呼び名を次々と変えたのは、この世ならざる存在を言い表すためだった。
最後には『をや』になった。
ここにもおみき様があゆんだ”覚り”が現れている。
絶対者がいて、真実の教えを説くのであればまず全てを一なるものとして明かすはずである。
だがそのような絶対者はこの世には存在しない。
地上に現れた覚者たちはみなこの世界に生まれ、人生を旅し、霊性について学び、語った。
霊性の指導者とは、もっとも熱心な学び手でもある。
生身の人間として生まれ、霊性の導きを得てそれを越えた人。
それが中山みきである。

おみき様の覚り。
この事実を証拠立てる物証はない。
おみき様自身が書き記したものも存在しない。
残念なことのように見えるが、それで良いのである。
物証によって物事の是非を問えるのはこの三次元世界の話であって、この世を越えた存在については適用しようがない。
これを物証によって証明しようとしたから長い間、真実にはたどり着けなかった。
道は開かれた。
あらゆる人間に覚りの道はある。
それがおみき様の語った教えである。
目覚めこそ道である。
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