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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

呪術としての『おつとめ』

おつとめを繰り返しても神意は理解できない。

理解しよういう視点がなければ理解できません。

内容を理解するということが大事なこと。

明治時代のはじめごろに書かれた謎が多い言葉の数々。

現代の私たちに直接理解できるものではありません。

神意とは何か。

神の意図と書いて神意。

それはこの宇宙の成り立ち、法則、仕組み、運行そのもの。

その中に置かれる人間というものの存在の理由。

『かしもの・かりもの』の喩えによって説かれる、この世界は仮の姿であるという教え。

この知識と理解。

それを人生において実践するということ。

これら全てです。

なぜ教祖はつとめの実践を繰り返し人々に求めたか。

それは当時の人々の理解に合わせて求めたと言えます。

教祖の望まない認可運動に執心していた人々。

「神意感得への道は遠い」

そう感じた教祖は歌の中に神意を込めて神の世界へと人々を向けようとしていたのです。

だから二言目にはつとめ。

つとめをせよ。

「認可運動などに精を出さずに神の世界とつながるのだ」

と云うことが言いたかったんですね。

切実な思いが伝わってきます。

現代に生きる私たちはどう感じたら良いのでしょうか。

それは呪術的なものにすがるのではなく、本質を求めることです。

意味よりもやることそのものに意味を見いだして行う宗教的行為は呪術的です。

呪文のようなもの。

呪術が意味をなしていた文明の段階は終わりました。

『さづけ』も手段にすぎません。

本来目的になってはいけないものです。

それを目的化するのは堕落です。

真の人助けはこの世界の真実について語ること。

『身体を借りて』この世界に来た私たちは何をするのか。

それはこの宇宙の理解です。

それを通して行う精神の拡張です。

経験し、理解し、自分自身を開いていく。

それが仮想空間であるこの世界での本当に意義あること。

それはこの世界に生きる人間の姿をした精神たちの交流によって行われます。

その実践が、

「楽しめ、楽しめ」

と教祖が言ったこの世での正しいあり方。

その様を見て共に楽しみたいと神は望んだのです。

神が望んだこの世の姿は真理に向かう人々の姿なのです。

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