霊的世界についての視点がない限りは、
どんな耳ざわりの良い言葉でもその思想が最終的に実を結ぶことはありません。
『持続可能な社会』と言う目標を掲げたとして。
もし人間が『生き物としての命が尽きたらそれで無になる』という存在だとしたら自分の死後について本当に真面目に考えられるでしょうか。
個人の楽しみに生きて後のことは知らない。
そう言う人が出てきてもおかしくないでしょう。
自分の利益にならないことはしたくない。
そんな余裕はない。
そういう考えは広がり続けています。
多くの人が心の奥では自分とその周囲さえ良ければいいと考えています。
つまり私たちの共同体は崩れつつあります。
なぜそうなってしまっているのか。
それは霊的世界についての感覚が薄いからです。
日本では天皇家を中心とした同族的家族愛、儒教的道徳心、そして仏の教えを初めとする霊的世界観の三つが絶妙なバランスで社会を支えてきました。
核家族化が進み、霊の世界を感じる感覚は鈍っている。
儒教的道徳心だけは学校教育の現場で日々再生産され今日にも根強く残っています。
年齢による先輩、後輩という人間関係は儒教の『長幼の序』という思想に基づいています。
家庭内の役割が固定的なのは『夫婦の別』という思想が基になっています。
自覚するかどうかに関わらず、私たちがあたりまえと感じる枠組みは社会の中で培われたものです。
また特定の思想に基づかない教育というものはありえません。
道徳心の基本は抑圧です。
ですので道徳心が突出している社会は管理主義的になります。
文明は進み、社会は清潔になって、配慮が行き届くようになっているのに生きづらい。
それは日本では道徳心が突出して社会に反映しているからです。
それが現代の日本社会です。
私たちは抑圧社会に生きています。
自分自身をどう捉えますか?
誰かから生まれさせられて、
あるいは勝手に生まれて来て、
気がついたら生きていて、
生き物としての寿命が尽きたらそれでおしまいなのでしょうか?
そうではありません。
生まれてくる前があり、この身体の終わりの先があります。
私たちは、どこから、何をしにこの世に来て、そして時がたてばどこに行くのか。
それを探究するのが人生です。
おやさまの教えに導かれ、霊的な世界につながる人は選ばれた存在です。
神によってこの世界で生きるための身体が貸し出されているのですから、全ての人間は神によってこの世での存在が保証されています。
そして世界は『守護』という名のシステムに守られています。
これがおやさまの語る霊的世界観です。
それを知らされているあなたは絶対なる存在から選ばれた存在です。
そして絶対なる存在と実は一体なのです。
安心して生きていきましょう。
問題なくこの世界は機能しています。
病気の心配もいりません。
不安を煽る声に耳を傾けないでください。
ただし『天理教』という共同体には霊的導きを実践する機能がありません。
それぞれが目覚めて行かなければなりません。
何に目覚めるか。
まずは『無常』についてです。
この世は仮の世界であり、知覚出来るものは常に変化する世界。
五感で感じられるものは消えてしまう。
だから知覚できるそのものに執着しても意味がない。
地位も名誉も財産も、そして究極的には身体にもそれそのものには絶対の意味はない。
霊的進化を実践することに本当の意味があり、この世界はそのための空間なのです。
それぞれの人生に見合ったものが必ず用意されています。
遊んでいてもいい、休んでいてもいい。
勤勉さは本質ではありません。
全ての経験から得られる精神の拡張こそがこの世界で本当に価値のあること。
どうぞ日々、自分自身を大切にお過ごしください。