劇場でひとりごちてみる。

職業、ライター。趣味、観劇。というわけで、芝居の感想なぞをつれづれなるままに綴ってみました。

Bunkamuraシアターコクーン『労働者M』

2006-02-26 | ストレートプレイ
周囲の評判はすこぶる悪い。よくわからない。戯曲が遅いためにまとまりがない。なるほど、その意見ももっともだと思う。でも、私はなんだかとっても面白かった。
描かれる2つの世界。どこか世紀末らしい時代の収容所と、現代と思われる怪しげなオフィス。収容所では、実体のわからないMという統率者の指揮により、ときおり管理する者と管理される者とが入れ替わる。現代らしきオフィスでは、自殺志願者のためのホットラインが引かれ、自殺を食い止めると同時になんだかわからないけれど、ねずみ講のような形で高額な商品を電話の向こうの相手に売りつける。どちらも救いようのない世界。それがすごくKERAらしい。
収容所では、これまで上官にいじめ抜かれたイケテツが、管理側に回ることになった。決まった途端、これまで彼を蹴り殴りしていた上官たちに、これまでの復讐とばかりに蹴りをお見舞いする。これってまるで、革命みたいじゃないか。つい昨日まで支配者だった者(イラクのフセインしかり、過去にはルーマニアのチャウシェスク、ペルーのマルコスなんて人もいた)が、革命で国がひっくり返れば、ただの犯罪者になる。そして、新政権が立ち上がりふたたび支配するものが現われる。戦争は、いつの時代でも勝って上に立ったものが正義なわけ。どっちが正しいとか、どっちが悪いとか私には決められないしわからないけれど、マスコミの報道も間違いなく勝った者を英雄として扱う。フランス革命だってそうだったしね。そういう権力とかって、いかに不安定なものかを、この世界が見せてくれているように思った。弾圧されたイケテツは、憎しみの気持ちを募らせて復讐に及び、そこで復讐された者はまた再び憎しみを募らせて復讐へと向かう。終わらない連鎖。ここも、小さな世界なわけです。
そしてもう一方の現代を思わせるオフィス。一見すると普通の会社なんだけど何かがおかしい。徐々にわかってくるのは、そこが自殺志願者たちにねずみ講で壺などを売りつけて利益を得る会社だということ。社員たちは、みな元自殺志願者。自殺をしようとしてここに電話をかけ、説得されて自殺を思いとどまり壺を買う。そしていつの間にやら自分が売り手側に回る。これもまた、終わらない連鎖だ。自殺をしたいと願う人を押しとどめ、命を救った代わりとして壺を買ってもらう。彼らのなかでの正義とはそれだ。しかし、ねずみ講の終わらない連鎖の鎖に繋がれて、どうにも身動きができなっている彼らは、どう見ても幸せじゃない。生きていても死んでいるような状態、それでも生きている方が幸せだと言い切れるのか。
そしてまた、信念についても考えさせられた。この作品には信念を持つ人、持たざる人が描かれる。例えば、冒頭に登場した堤真一の父・松尾スズキは、工場で働く間は日和見主義で工場長の意見に対していつでもイエスマンだった。それが、ひとたびリストラにあってからは、信念を曲げずについには犯罪者となる。ここまで書くと、ノンポリが生き残るための術のようであるけれど、父親が死んだ後、妻・秋山奈津子は「そんなお父さんを誇りに思うわ」といいながら一家心中を試みる。家族のために会社の犬になり働いていたときには言われたことのない感謝の言葉。信念を持ち、死ぬことで家族からの尊敬の念を得られたという皮肉。そして、現代世界での田中哲司の役では、なんのポリシーもなく、性欲にまかせて刹那的に生きる男を見せる。女たちは、そのときには彼に身を任せるがそこに愛は存在しない。でも、つぎつぎと壊れていく同僚たちのなかで、彼だけは飄々とそこに居続ける。生きている瞬間が大事なのか、死んだあとに残るものが大事なのか。もしかしたら、いまがよければいいと言って生きる現代の若者たちが、あながち間違っていないのかもしれない。少なくとも、彼らを批判することなど、死んでみなければできないのかもしれない。それって、人間としての最大の難問だ。
もうひとつ、この作品に描かれていたのは見えない“神”の存在。収容所でのキョンキョンは、通信機から流れてくるMの命令のままに人々を動かす。しかし、その通信機は中身のないただの箱。しかし、ただの箱のはずが、キョンキョンの耳にはMの声が聞こえている。ああ、これは宗教なんだなと思う。見えない神の存在を信じるココロから信仰が生まれる。それは、あまりにも不確定なものであるのにもかかわらず、もっとも強いものでもある。神のために戦うこととは、なんのための戦いなんだろうか。だれも幸せになんてなっていないのに、神の名の元に戦う人たちがいる。信仰を持つことは幸せか、その答えも私には見つけ出せない。
描かれている2つの世界は、ついに最後まで交わることがないまま終わる。それが最初は不満だったが、連れが言ったひと言から、それも意図のうちだったのだと思った。連れは、収容所の世界=社会主義・共産主義社会だといい、オフィス=資本主義社会の象徴なのではと言う、なるほど。2つの世界は互いを見ようとはしない。いつまで経っても交わることのない世界のはずだ。なるほど。
そうやっていろんなことを考えていたら、テーマ曲である空手バカボンの『労働者M』が頭に流れた。ダイヤモンドはただの石、一万円札はタダの紙、人間はただの肉。そうか、この曲って物事のものすごい根本を歌う曲だったんだな~。そこにあるのは虚無。こんな芝居を書いたKERAは、やはりただ者じゃない。本番ギリギリまで台本が仕上がらなかったというけれど、それも納得。・・・でもね、最初のニセキョンキョンとニセ堤のシーンはいらなかったんじゃないの? あれって、KERAさんの言い訳だよね、なんだか。もっと堂々としてりゃいいのさ、あんなもの書いたんだからさ。いや、すごいもの観た。観終わってから、こんなにいろいろ考えさせる芝居ってなかったかも、というくらい。

蜷川幸雄演出『間違いの喜劇』

2006-02-17 | ストレートプレイ
ああ、楽しかった。シェイクスピアってこんなに豊かで面白い作品を書くおっさんだったんだなぁって思った。それって、きっと蜷川さんの上手さなんだろうな。シェイクスピアをやるっていうと、ついつい演出家が権威的な感じになっちゃうところってあると思う。俺、シェイクスピアやってっから、みたいな。高尚、という名のもとに、わからない奴はわからなくって結構、みたいに突き放しているというか。蜷川幸雄っていう演出家は、あんなに大物なのに、ぜんぜんそういう大御所っぷりを出さない人だな~としみじみ。孫みたいに若い俳優たちを使って、好々爺になっちゃうんじゃなく、同じ土俵に立って演出するっていうのかな。もしかしたら、彼らの目線まで下りていっているっていうほうが正しいのかもしれないけれど。なんか、いつも攻めの姿勢。それが素晴らしい。70歳で攻めの人生って、それだけでブラヴォーであります。
とにかく、この喜劇をベタベタのドタバタのコメディに仕上げてきたところがすごい。どう考えても、シェイクスピアとか蜷川幸雄とか、演劇とか、ストレートプレイとか、そういう記号とは全然接点なく劇場に足を運んだ人が多い客層だった。そういう彼らが、小栗君が出てきたときの歓声に近い笑い、じゃなくて、この作品のバカバカシさとか、セリフの面白さみたいなものに大笑い。これって、誰にでも楽しめる演劇を作ろうとしている蜷川さんの演出家としての方針が、ちゃんと伝わっているってことだと思う。いやぁ、すごいなぁ。
で、小栗君ですが、こちらもよかった~。まだまだ芝居がうまいな~っていうまではいかないけれど、なんかね、攻めの姿勢をすごく感じてそれがよかった。蜷川幸雄と小栗旬、2人が稽古場で火花を散らしただろうことはなんとなく伝わってくる。とくに、小栗君が双子を演じ分けているんだけど、エフェソスで育った兄アンティフォラスのときは、弟アンティフォラスよりもちょっと大仰な芝居をするんだよね。そのときの自信満々っぷりがよかった。ちょっとわざとらしくって上手いか下手かといったら下手なのかもしれないんだけど、あそこのマントをひらりとはためかせるシーンの不敵な笑みに、小栗君の男としての気概を感じたとでもいいましょうか。かなり稽古場で蜷川さんにしごかれたという話。それでもこれだけ攻めの姿勢を失わないあたりが、小栗君ってかなりトガってるんだろうなぁ。ちょっと惚れ気味(笑)。真面目にやればやるほど、その勘違いのおかしさが出てくる作品だけに、そういう小栗君の姿勢もかなり笑えてよかった。そういうこともちゃんとわかってやってるんだと思うから、小栗君の今後は楽しみだね。早く、立ち姿だけでなにかが漂うような芝居ができるような俳優になってもらいたいもんです。つまんないテレビドラマはやめて、いい映画とかいい舞台をたくさん経験してほしいもんです。
光っていたのは、高橋洋。ほんと、この人うまい。これまでなんか重いものを抱えているような役が多かったんだけど、こんな軽い役もうまいんだなぁ。しかも、こういう上手い役者って、俺うまいでしょ、っていう自負心みたいなのが漂っちゃうんだけど、そういうのも全部カラッと捨てちゃっている感じがあった。あの、兄ドローミオのズボンがいっつも下がっちゃってパンツ見えちゃうところが、よりその軽妙さを出していたと思うので、もしかしたら、蜷川さんがうまいのかもしれないけれど。でも、吹き替えもうまくてね、最初、じつは録音?って訝しんでしまったくらい。ああ、多才な役者だね。
もうひとり褒めておくとしたら、内田滋。二枚目な自分を捨てることができるっていうのは、貴重だと思う。エイドリアーナのエキセントリックとも思える嫉妬ぶりも、あんだけ大仰にやられると嫌味に見えないのが不思議。ハンカチを噛んでキ~ッってする仕草なんて、いってしまえばクリシェでしょ。そういう使い古された王道の型をわざと使ってみたりするのって、すごくシェイクスピアっぽい。こうやって、女形の役者は笑いをとってたのかな、って思わせた。これまであまり目立つことのなかった役者だけど、蜷川さんの舞台で次回も頑張ってくれたらいいですね。
そうそう、今回の舞台って、出番のない役者が舞台袖で芝居を見てるっていうスタイルをとっていた。なんか、『贋作・罪と罰』といい『コーカサスの白墨の輪』といい『ベガーズオペラ』といい、こういうのよくみるなぁ。なんていうか、大衆感のある芝居の俗っぽい雰囲気を出すってことなんだろうけれど。わざと安っぽい芝居(あくまでも“ぽい”であって、ほんとうに安い芝居じゃないあたりがね~)にしてるっていうのかな。あとでパンフ読んだら、今回は本番直前になって演出を変えたってことらしいけれど、そんな意図でやるんだったら、傍で見ている役者は舞台袖じゃなくて、客席の中にいてほしいかも。そういう意味では『コーカサス~』のほうは、役者が傍で芝居を見ているところを観客に見せることで、旅芝居の役者たちが広場で芝居をうっているみたいな雰囲気にしてたわけで、それは効果的だったと思うんだけど、役者が舞台の上にいることで、やっぱりどうしても出演者でしかないんだよな、と思えてしまって、なんかものすごくあざとい感じに見えちゃった。劇場がコクーンとかだったら違ったのかもしれないけどね。まあ、でもそんなことどうでもいいくらい楽しませてもらった。いい芝居みた、っていうよりも、いいバトルを見たって感じ。蜷川VS小栗。演劇的カタルシスみたいなのがなかったのが今回はよかった。蜷川芝居って、わりとそういうカタルシス的なものを大事にしているような気がしていたのに、そうじゃなかったんだ~って。いやはや、このヤンチャな大御所はまだまだすごいぞ。

阿佐ケ谷スパイダース『桜飛沫』

2006-02-14 | ストレートプレイ
評判悪いみたいなんですが、私これ、おもしろかったんですよね。戯曲の完成度が、とか演出法がとか、なんだかんだいろいろ言ったって、やっぱり観ておもしろいっておもったら、その芝居はいい芝居だと思うわけです。はい。そんな意味で、おもしろい作品でした。やっぱりね、役者がいい。今回の作品のキモは、長塚さんもあちこちで言っているけれど、山本亨と橋本じゅんの共演。2人の魅力がものすごく発揮されている舞台。
橋本じゅんさんって、新感線ではちょっとオバカでハイテンションで猪突猛進してしまうような役が多いけれど、じつは本人はすごく繊細で慎重で真面目な人。だけど、その奥にものすごく熱い情熱とか激しさみたいなものを抱えている。そういうところが、芝居のなかでじわりじわりと見せる。セリフの行間に、役の肚の奥までを匂わせる。だからこそ、家族を殺した非情なる敵が見つかったと聞いても静かに座って言葉少なに返す徳市のシーンが生きる。暴力を暴力で返すという虚しさを嫌というほど身にしみて知ってしまった男の諦めとか悟りだけでなく、死んでしまったものの敵をとるために自分の人生を生きなければならない武士のバカバカシさ(それって『研辰の討たれ』のあの兄弟みたいに)とか、ね。辛い事実を受け入れていきようとすることって、じつはすごく苦しいこと。ふとフラッシュバックする殺された肉親、妻の姿。愛する者を失って、独りぼっちになってしまった自分。考えれば考えるほど、毎日生きるのが辛くなる。でも、もし忘れてしまえたら……。幸せだった頃の自分も、過酷な運命に陥った自分自身も、すべてフィクションだと思い込むことができたら……。だから、ああやって人のために生きてこれたんだと思う。そういう、ある意味自分の人生を捨てた感が、橋本じゅんさんからは漂っていた。
第2部の山本亨さん。昔は極悪だったけれど、いまは死ぬのが怖くて日々恐怖に脅える情けない男。峯村さんに取りすがって泣くシーンで、この男ががらりと変わってしまったそこまでの経緯が見えた気がした。ただ、それって役者の力量であって戯曲にそこが描き入れていたのかというと微妙。じゅんさんもそうなんだけれど、2人とも舞台に立ちながら過去を背負っている雰囲気のようなものを感じさせる。それが、言葉よりも雄弁であるからこそ、その作品が美しく儚く悲しいものに見えるのだ。そう考えると、役者のよさで成り立つ芝居なのかも。でも、その2人をキャスティングしたところで、長塚さんにはそこまで読めていたのかもしれない。そうも考えてみる。戯曲というか、言葉で説明知ればするほどに伝わらないものというものもある。たとえば、じゅんさんが復讐心を無くしたわけ、そして再び仇討ちへの闘争心を燃やすまでのココロの動き、亨さんの死への恐怖と峯村さんに感じている母性。セリフで伝えれば、嘘臭く聞こえやしなかっただろうか。そう考えると、もしかしたら長塚さんは、役者に芝居を託すという技術というか、思いきりのよさを身につけたのかもしれないとも思う。それは『ラストショウ』での風間杜夫との仕事、『ピローマン』での高橋克実との仕事などが大きいんじゃないかな。もしそうだったら、この先の長塚さんはさらに楽しみ。ラストも、橋本VS山本の対決を描かずに終わる。その投げっぱなしの感じが、これまでの長塚作品とはちょっと違う気がする。以前に古田新太さんが「もっと結論を観客に投げちゃっていいのに」というようなことを言っていた気がするけれど、そういう手法を使えるようになったということか。

ミュージカル『アンナ・カレーニナ』

2006-02-11 | ミュージカル・音楽劇
一路真輝&井上芳雄、う~んちょっと前までは親子だったのに恋人役かぁ~、と、妙な感慨を抱いてしまったキャスティング。観ながらも、終始そのことが引っ掛かり、集中できなかった。だってだって、一路さんが現われるたびに「アンナ!」と、うれしそうに声を上げる井上くんが、いかにも年上のお姉さまに憧れる少年(もしくは教育実習の先生にマジ恋愛してしまう中学生)みたいな感じなんだもん。ちょっと淫靡な匂いが漂うカップルでした。ええ。
とにもかくにも、感想はと言えば、やっぱり一路さんは歌が上手、ってこと。今回、小市慢太郎さんとか新谷真弓さんという、まさに異業種交流会みたいなキャスティング。なんでこの2人を出したのかよくわからないけど、ある意味よかったし、ある意味失敗だったと思う。よかったというのはとくに新谷さんだけど、あの人の女優としての幅というか、女優としての懐が広がったのは間違いのないこと。それに、KERA作品ってある意味、ものすごく閉じた世界のなかの演劇だから、今後の展開として開かれている演劇世界を経験しておくっていうことは、すごくいいんだと思う。さんま&生瀬さんの舞台とか、新感線とか、外部作品に出るたびに、新谷さんのおもしろさとか魅力を再認識してきた。それが、こういう異色な作品でもちゃんと発揮できているっていうのはすごい。小市さんも、い~い役者だなぁって改めて思ったし。……でもね、でも、やっぱりふたりとも歌がね、上手じゃないのよ~。しかも、ミュージカルな人たちと、明らかに芝居のトーンが違う。違い過ぎる。もちろん、2人の芝居はあれはあれであり、だとは思う。でも、井上君とか一路さん、とくに春風さんのミュージカルっぽい芝居と、小劇場の2人の芝居は、同じ世界にいて違和感があるのだった。ああ、どちらもきらいじゃないだけに、私は痛しかゆしって感じでした。で、やっぱり一路さんって、こういうザ・ミュージカルの世界にハマるなぁ~ってあらためて思った次第。井上君は、まだまだ一路さんの相手役にはちょっと役不足っていう感じは否めず。歌は上手いけど、なんだか線が細いんだよね。そういう意味では、アンナを支え切れなかったヴロンスキーにぴったりなのかもしれないけれど。でも、山路さんみたいな人もいるんだよね~。芝居もうまいし、一路さんとの組み合わせにも違和感ないしって人。こういう役者さんっているんだなぁ。以前に『ファンタスティックス』なんかにも出演していたから、ミュージカル芝居っていうのも慣れているんだろうか。小市慢太郎さん、こういう役者になってほしいなぁ。応援しております。
ちなみに、この作品も悪くはないけれど、訳詞が気になるところが多くて、それも集中できない理由のひとつになっていたと思う。ミュージカルが苦手、っていう人の半分は、こういう無理な日本語の歌詞に違和感を覚えるからに違いないとか思ったりして。やっぱり日本語って音楽に乗りにくいのかなぁ。残念です。心情をもっとも吐露する場面で歌がくるのに、その歌の場面で心情よりも不思議な歌詞のほうに引きずられてしまうからねぇ。ミュージカル関係者のかた、ご一考願います。
そんなわけで、帝劇でも日生劇場でもなく、ルテアトル銀座という場所で初演されたミュージカルですが、もうちょっと洗練されて帝劇に帰ってきてほしいと思います。このアンナというキャラクター、美しさとか強さとか、弱さとか、どれも一路さんにぴったりなんだよね。というか、エリザベートにちょっと被ってる? 子持ちでも若い将校を惹きつける色気、っていうのがすごく説得力あった。キャスティングを変えてせひ再演を。

東京芸術劇場『ワールド・ゴーズ・ラウンド』

2006-02-11 | ミュージカル・音楽劇
『キャバレー』や『シカゴ』、『蜘蛛女のキス』など、メジャーミュージカルをいくつも生み出してきたジョン・カンダー&フレッド・エップのコンビ。この2人が自作の曲を再編集して作り上げたミュージカルショー。マイフェイバリットミュージカル『ミス・サイゴン』のトゥイこと泉見洋平くんが、初参加とのことで見に行ってきました。
いや、じつをいうとそんなに期待していなかったんだよね。私は歌舞伎でも世話物、宝塚でもレビューよりも芝居のほうが好きなほう。それだけに、こういう作品は参考までに、みたいな気持ちであったことは確か。でも、これがおもしろかったのよ~。ミュージカルのおもしろさを十二分に伝えてくれるウェルメイドなショーでした。
舞台中央にあった斜めの筒状のセットが回転して、中央にいる生バンドが見えるオープニング。その緩い傾斜をうまく使った空間構成、演出はどれもカッコよかった。もちろん、曲もダンスもGOOD。出演者が全員歌がうまいっていうのはやっぱり大切なことよね。とくにピンキーこと今陽子さん、ソウルフルな歌い方は年齢を感じさせない! 素晴らしい。ほかのキャストもみんな素敵。香寿さんのちょっと男気を感じさせる美人お姉キャラも、シルビア・グラブのチャーミングでファニーなキャラも、泉見くんのちょっと情けないかわいい男の子キャラも、大澄賢也のちょっと濃い目のキャラも、それぞれの個性をうまく生かして、見応えのあるショーになっていた。泉見くんの赤ちゃん姿なんて、かなりわらった~。それと蜘蛛女のキスとのギャップもまたよし。なんだか見ていて歌いたくなったり、踊りたくなったり、楽しい気持ちになったりって、ミュージカルの基本よね。こうでなくっちゃ。ああ、おもしろかったっす。

こまつ座『兄とおとうと』

2006-02-09 | ストレートプレイ
う~ん、とにかく深く静かに心に響く芝居でした。「三度のごはんきちんと食べて 火の用心 元気で生きよう きっとね」という歌の歌詞がいまも心に残ります。なんだか、いまっていろんなものが満ち足り過ぎて“幸せ”っていう意味が薄れているっていうのかな。あの頃は、三度のご飯すらきちんと食べられない人がいたんだよなぁ、なんて考えると、いまの我々の暮らしは、当時の日本人、この作品の主人公である吉野作造さんみたいな人たちがいて、その人たちの努力のもとにあるってことなんだよね。でも、そんなことすら忘れて、いまの状況を当たり前のように受け止めている。本当は、もっともっと三度のご飯をきちっと食べられるっていうことの意味を考えるべきじゃないのかな、なんて。そんなことも考えてしまった。
井上さんっていう人は、自分の思想をすごく持っている人だけど、それを過激に押し付けるんじゃなくて、こういうやさしい物語の形をとって伝えようとしているのがすごいなぁ。袁世凱の娘に向かって、吉野作造が“国のもとになるもの”について話す場面がある。それは民族でも、宗教でも文化でも言葉でもない。ここでよりよい生活をめざそうという思い、それこそが国のもとになる、と兄は言う。これ、いいなぁ。平和とか、手あかがついてすり切れてしまったゆえに、心に届きにくくなってしまった言葉を使うんじゃなくて、もっともっと単純でわかりやすくて、誰もが共感できる言葉を使うところが。戦争反対とか、国民主権とか、もちろん大切なんだけど、なんで戦争が反対なのか、なぜ平和が必要なのか、なぜ国民主権を叫ぶのか、すべてはみんなが日本という島でよりよい生活をするためなんだよね。ただそれだけ。思想とか、そんな難しいことはあとからついてくるものでしかないってこと。たったそれだけのことが、なぜ実現されないのか、そんな疑問を投げ掛けているようにも思う。とにかく、素敵な作品でした。もっともっと若い人が観に来るといいのに、と心から思う。

ちなみに、これは、芝居以外のことだから、ここに書くのはちょっと憚れるんだけど、どうしても最後に愚痴らせてほしい。紀伊国屋ホールって結構好きな劇場なんだけど、どうしても堪えられないのはあの椅子。もうそろそろ取り換えてもいいんじゃないか。とにかく座面が古くてベコベコになってしまっているから、30分も座っているとお尻も腰も背中も痛くなる。これじゃあ、いい芝居もなかなか集中できないよ~。