周囲の評判はすこぶる悪い。よくわからない。戯曲が遅いためにまとまりがない。なるほど、その意見ももっともだと思う。でも、私はなんだかとっても面白かった。
描かれる2つの世界。どこか世紀末らしい時代の収容所と、現代と思われる怪しげなオフィス。収容所では、実体のわからないMという統率者の指揮により、ときおり管理する者と管理される者とが入れ替わる。現代らしきオフィスでは、自殺志願者のためのホットラインが引かれ、自殺を食い止めると同時になんだかわからないけれど、ねずみ講のような形で高額な商品を電話の向こうの相手に売りつける。どちらも救いようのない世界。それがすごくKERAらしい。
収容所では、これまで上官にいじめ抜かれたイケテツが、管理側に回ることになった。決まった途端、これまで彼を蹴り殴りしていた上官たちに、これまでの復讐とばかりに蹴りをお見舞いする。これってまるで、革命みたいじゃないか。つい昨日まで支配者だった者(イラクのフセインしかり、過去にはルーマニアのチャウシェスク、ペルーのマルコスなんて人もいた)が、革命で国がひっくり返れば、ただの犯罪者になる。そして、新政権が立ち上がりふたたび支配するものが現われる。戦争は、いつの時代でも勝って上に立ったものが正義なわけ。どっちが正しいとか、どっちが悪いとか私には決められないしわからないけれど、マスコミの報道も間違いなく勝った者を英雄として扱う。フランス革命だってそうだったしね。そういう権力とかって、いかに不安定なものかを、この世界が見せてくれているように思った。弾圧されたイケテツは、憎しみの気持ちを募らせて復讐に及び、そこで復讐された者はまた再び憎しみを募らせて復讐へと向かう。終わらない連鎖。ここも、小さな世界なわけです。
そしてもう一方の現代を思わせるオフィス。一見すると普通の会社なんだけど何かがおかしい。徐々にわかってくるのは、そこが自殺志願者たちにねずみ講で壺などを売りつけて利益を得る会社だということ。社員たちは、みな元自殺志願者。自殺をしようとしてここに電話をかけ、説得されて自殺を思いとどまり壺を買う。そしていつの間にやら自分が売り手側に回る。これもまた、終わらない連鎖だ。自殺をしたいと願う人を押しとどめ、命を救った代わりとして壺を買ってもらう。彼らのなかでの正義とはそれだ。しかし、ねずみ講の終わらない連鎖の鎖に繋がれて、どうにも身動きができなっている彼らは、どう見ても幸せじゃない。生きていても死んでいるような状態、それでも生きている方が幸せだと言い切れるのか。
そしてまた、信念についても考えさせられた。この作品には信念を持つ人、持たざる人が描かれる。例えば、冒頭に登場した堤真一の父・松尾スズキは、工場で働く間は日和見主義で工場長の意見に対していつでもイエスマンだった。それが、ひとたびリストラにあってからは、信念を曲げずについには犯罪者となる。ここまで書くと、ノンポリが生き残るための術のようであるけれど、父親が死んだ後、妻・秋山奈津子は「そんなお父さんを誇りに思うわ」といいながら一家心中を試みる。家族のために会社の犬になり働いていたときには言われたことのない感謝の言葉。信念を持ち、死ぬことで家族からの尊敬の念を得られたという皮肉。そして、現代世界での田中哲司の役では、なんのポリシーもなく、性欲にまかせて刹那的に生きる男を見せる。女たちは、そのときには彼に身を任せるがそこに愛は存在しない。でも、つぎつぎと壊れていく同僚たちのなかで、彼だけは飄々とそこに居続ける。生きている瞬間が大事なのか、死んだあとに残るものが大事なのか。もしかしたら、いまがよければいいと言って生きる現代の若者たちが、あながち間違っていないのかもしれない。少なくとも、彼らを批判することなど、死んでみなければできないのかもしれない。それって、人間としての最大の難問だ。
もうひとつ、この作品に描かれていたのは見えない“神”の存在。収容所でのキョンキョンは、通信機から流れてくるMの命令のままに人々を動かす。しかし、その通信機は中身のないただの箱。しかし、ただの箱のはずが、キョンキョンの耳にはMの声が聞こえている。ああ、これは宗教なんだなと思う。見えない神の存在を信じるココロから信仰が生まれる。それは、あまりにも不確定なものであるのにもかかわらず、もっとも強いものでもある。神のために戦うこととは、なんのための戦いなんだろうか。だれも幸せになんてなっていないのに、神の名の元に戦う人たちがいる。信仰を持つことは幸せか、その答えも私には見つけ出せない。
描かれている2つの世界は、ついに最後まで交わることがないまま終わる。それが最初は不満だったが、連れが言ったひと言から、それも意図のうちだったのだと思った。連れは、収容所の世界=社会主義・共産主義社会だといい、オフィス=資本主義社会の象徴なのではと言う、なるほど。2つの世界は互いを見ようとはしない。いつまで経っても交わることのない世界のはずだ。なるほど。
そうやっていろんなことを考えていたら、テーマ曲である空手バカボンの『労働者M』が頭に流れた。ダイヤモンドはただの石、一万円札はタダの紙、人間はただの肉。そうか、この曲って物事のものすごい根本を歌う曲だったんだな~。そこにあるのは虚無。こんな芝居を書いたKERAは、やはりただ者じゃない。本番ギリギリまで台本が仕上がらなかったというけれど、それも納得。・・・でもね、最初のニセキョンキョンとニセ堤のシーンはいらなかったんじゃないの? あれって、KERAさんの言い訳だよね、なんだか。もっと堂々としてりゃいいのさ、あんなもの書いたんだからさ。いや、すごいもの観た。観終わってから、こんなにいろいろ考えさせる芝居ってなかったかも、というくらい。
描かれる2つの世界。どこか世紀末らしい時代の収容所と、現代と思われる怪しげなオフィス。収容所では、実体のわからないMという統率者の指揮により、ときおり管理する者と管理される者とが入れ替わる。現代らしきオフィスでは、自殺志願者のためのホットラインが引かれ、自殺を食い止めると同時になんだかわからないけれど、ねずみ講のような形で高額な商品を電話の向こうの相手に売りつける。どちらも救いようのない世界。それがすごくKERAらしい。
収容所では、これまで上官にいじめ抜かれたイケテツが、管理側に回ることになった。決まった途端、これまで彼を蹴り殴りしていた上官たちに、これまでの復讐とばかりに蹴りをお見舞いする。これってまるで、革命みたいじゃないか。つい昨日まで支配者だった者(イラクのフセインしかり、過去にはルーマニアのチャウシェスク、ペルーのマルコスなんて人もいた)が、革命で国がひっくり返れば、ただの犯罪者になる。そして、新政権が立ち上がりふたたび支配するものが現われる。戦争は、いつの時代でも勝って上に立ったものが正義なわけ。どっちが正しいとか、どっちが悪いとか私には決められないしわからないけれど、マスコミの報道も間違いなく勝った者を英雄として扱う。フランス革命だってそうだったしね。そういう権力とかって、いかに不安定なものかを、この世界が見せてくれているように思った。弾圧されたイケテツは、憎しみの気持ちを募らせて復讐に及び、そこで復讐された者はまた再び憎しみを募らせて復讐へと向かう。終わらない連鎖。ここも、小さな世界なわけです。
そしてもう一方の現代を思わせるオフィス。一見すると普通の会社なんだけど何かがおかしい。徐々にわかってくるのは、そこが自殺志願者たちにねずみ講で壺などを売りつけて利益を得る会社だということ。社員たちは、みな元自殺志願者。自殺をしようとしてここに電話をかけ、説得されて自殺を思いとどまり壺を買う。そしていつの間にやら自分が売り手側に回る。これもまた、終わらない連鎖だ。自殺をしたいと願う人を押しとどめ、命を救った代わりとして壺を買ってもらう。彼らのなかでの正義とはそれだ。しかし、ねずみ講の終わらない連鎖の鎖に繋がれて、どうにも身動きができなっている彼らは、どう見ても幸せじゃない。生きていても死んでいるような状態、それでも生きている方が幸せだと言い切れるのか。
そしてまた、信念についても考えさせられた。この作品には信念を持つ人、持たざる人が描かれる。例えば、冒頭に登場した堤真一の父・松尾スズキは、工場で働く間は日和見主義で工場長の意見に対していつでもイエスマンだった。それが、ひとたびリストラにあってからは、信念を曲げずについには犯罪者となる。ここまで書くと、ノンポリが生き残るための術のようであるけれど、父親が死んだ後、妻・秋山奈津子は「そんなお父さんを誇りに思うわ」といいながら一家心中を試みる。家族のために会社の犬になり働いていたときには言われたことのない感謝の言葉。信念を持ち、死ぬことで家族からの尊敬の念を得られたという皮肉。そして、現代世界での田中哲司の役では、なんのポリシーもなく、性欲にまかせて刹那的に生きる男を見せる。女たちは、そのときには彼に身を任せるがそこに愛は存在しない。でも、つぎつぎと壊れていく同僚たちのなかで、彼だけは飄々とそこに居続ける。生きている瞬間が大事なのか、死んだあとに残るものが大事なのか。もしかしたら、いまがよければいいと言って生きる現代の若者たちが、あながち間違っていないのかもしれない。少なくとも、彼らを批判することなど、死んでみなければできないのかもしれない。それって、人間としての最大の難問だ。
もうひとつ、この作品に描かれていたのは見えない“神”の存在。収容所でのキョンキョンは、通信機から流れてくるMの命令のままに人々を動かす。しかし、その通信機は中身のないただの箱。しかし、ただの箱のはずが、キョンキョンの耳にはMの声が聞こえている。ああ、これは宗教なんだなと思う。見えない神の存在を信じるココロから信仰が生まれる。それは、あまりにも不確定なものであるのにもかかわらず、もっとも強いものでもある。神のために戦うこととは、なんのための戦いなんだろうか。だれも幸せになんてなっていないのに、神の名の元に戦う人たちがいる。信仰を持つことは幸せか、その答えも私には見つけ出せない。
描かれている2つの世界は、ついに最後まで交わることがないまま終わる。それが最初は不満だったが、連れが言ったひと言から、それも意図のうちだったのだと思った。連れは、収容所の世界=社会主義・共産主義社会だといい、オフィス=資本主義社会の象徴なのではと言う、なるほど。2つの世界は互いを見ようとはしない。いつまで経っても交わることのない世界のはずだ。なるほど。
そうやっていろんなことを考えていたら、テーマ曲である空手バカボンの『労働者M』が頭に流れた。ダイヤモンドはただの石、一万円札はタダの紙、人間はただの肉。そうか、この曲って物事のものすごい根本を歌う曲だったんだな~。そこにあるのは虚無。こんな芝居を書いたKERAは、やはりただ者じゃない。本番ギリギリまで台本が仕上がらなかったというけれど、それも納得。・・・でもね、最初のニセキョンキョンとニセ堤のシーンはいらなかったんじゃないの? あれって、KERAさんの言い訳だよね、なんだか。もっと堂々としてりゃいいのさ、あんなもの書いたんだからさ。いや、すごいもの観た。観終わってから、こんなにいろいろ考えさせる芝居ってなかったかも、というくらい。