Escape!!

解離性障害(解離性同一障害/多重人格)
と診断された私のリアル

幼児期/児童期

2012-10-03 | 発症の原因(成長史/幼少期から成人まで)
父が事業失敗し夜逃げの前日までこの(家)と(離れ)で過ごす事になるのだが…

前の部屋を出たことや業者の出入りは忘れたが引っ越した日の午後って事は確信。光景は私と

妹が屋根つきの駐車場で。自転車と三輪車に乗り広い家にはしゃいでいる様子…これ、時々夢なのか現実なのか区別で

きないほどリアルに見る。私は大人で別の場所から見てるのだがホントにすぐ傍で遊んでいる。天気も良く家は高台に

あったので遠くの山まで良く見える。

私と妹は一人づつ部屋を選んだ。同じ年の4月にこの辺りの子が通う幼稚園に入園するらしい。

幼稚園…行ってたんだろうけど記憶は無い。断片的やあいまいな感じもない。切り取った様にその部分は無くなってる

幼稚園に行きはじめは毎日泣いていたそうだ。そして母が心配したのは便秘。それ以上に笑わなくなっていったと言う

一人遊びが上手く最初は自宅で仕事を手伝ってた母は幼稚園児が元気よく遊ぶことより静かに一人で遊べるいい子を

褒めた。そしてまだ手のかかる妹をいい子のお姉ちゃん(私)が面倒みていたそうだ。

私は幼稚園で(内気な子、我慢する子)と言われたそうだ。男の子にもいじめられっぱなし…だけど泣かないみたい。

いじめって言っても幼稚園のいじめってどんなん?記憶がないので省略。

年が明けた。その年はいよいよ小学生になる。その頃の記憶は無いが写真では勉強机に座っている姿を発見!入学する

3か月前に届き、その日に記念写真を撮った。笑ってるようにもみえるがどこ向いてるのか表情は暗い

幼稚園卒園して春休みも終わりかけのある日、祖母の家に遊びに行った時、ランドセルを買ってもらった。

ランドセルをさわりながら「絶対、大事にする」って誓ったの、ハッキリ覚えてるし、小学校を楽しみにしていた。

入学式…?私、出席したっけ?記憶とんでるが行ってない訳がない。ピカピカの1年生の入学式だ。多少の熱なら

出席させる。少なくとも私ならばそうする。その後の記憶は担任の先生は女性で厳しいイメージ。気になる男の子がで

きる。男子は流行ってたスカートめくり。休み時間はあちこちで「キャー」って声。寂しい。皆の目が恥ずかしい。

そんな記憶だが鮮明なのは授業中に居眠りしてしまった時に先生が黒板指す(伸びる棒)でピシって顔を叩き「立て」

と言われれその場で立たされる。休み時間も立ったままの私に先生が近づいてきて平手打ち。よろけてこける。教室が

一瞬静かになったがその後ドッと笑いに変わる。そこから延々にお説教され、その日は「終わりの会」まで立たされる

さすがにショックと恥ずかしいのとで泣いて帰ったが、別に何を聞かれる事もなく「宿題しときや」と母の声で我に返

る。部屋へ戻って(泣いたら怒られる、既に理解していた。心の中で繰り返す)何事もなかった様に宿題する。

先生には(居眠り)を理由に度々注意される。決まって(伸びる棒)で叩き、立たせて休み時間になれば平手打ち、

寝てばかりだと怒られる。ついに、担任が家へ連絡して母が授業中に(居眠り)してる事を知るが(居眠り)で散々注

意され平手打ち→立たされて授業する事は知らない。教育熱心の母には考えれない娘の失態。キーキー苛立った声。

そしてこの日初めて(反省室)へ入れられ外からカギをかけられる。(反省室)はただの物置で結構な荷物の間に

辛うじてできる隙間に押し込まれる。立った状態で身動きは取れない。初めてだったので真っ暗で動けないこの部屋は

一瞬で恐怖空間に代わり私をパニック状態にした。しかし母は来ない。絶望感のみになり泣きつかれた。シンっとした

狭いその空間と身動き取ることができない不安で泣き叫びまくった。時間の感覚がわからない。ずっとそこにいたのか

一瞬のできごとだったのか分からないが泣くことを諦めて、狭くて苦しいそこでの時間を待った。母が来た鍵の音…

戸が開いたとき眩しかったのが印象的で同時に母に対して何かわだかまりを持った。「大袈裟に泣きすぎ。自分が寝て

るからこうなったんや」そしてまだ、夕方なのに母にもう寝るように言われた「ご飯は抜きやで。居眠りしない方法

は、たくさん寝て明日学校に行くこと!約束やで」明るい口調で言う。ご飯はいらなかった。布団に入り疲れたのか

眠った…と思う。あまりにも早い就寝だったので明け方目が覚めてしまう。お腹がすいたが食べるものは無いと思う

もう一度寝てみるがお腹が減って眠れず、外は明るくなった。

1階に降りリビングに行くがまだ母は居ない、眠ってるのか。毎朝食べている食パンを探してみるがわからない。

冷蔵庫をあけて何か探すがそのまま食べれそうな物は見当たらなかった。ヤクルトを取って飲みながら母が起きるのを

待った。2階で目覚ましの音、階段を下りてくる足音がして母が起きてきた「お姉ちゃん、今日はいっぱい寝たから大

丈夫やな」と母は笑う。私は頷くと「お腹へったやろ?ご飯作るから待ってて」と優しい母。朝食後は元気になった

そして登校時「寝たらあかんで」表情が変わる。私は学校へ…クラスはとても居心地が悪く仲良しの友達は出来なかっ

た。その日は頑張ったつもりでいたが、気づくと状況は叩かれた後だ、先生は怒ってるしみんなに見られて恥ずかしい

でも、何か違う。いつもと違うのは音。音が無くなったのであまり怒られても笑われても嫌な感じは減った。更に痛く

ない。聞こえなくなった訳でなく、その時だけ音が消える。痛みに関しては忘れてしまったのかも知れないが「音が消

える時間」はこの時を境によく体験するようになった。その時本当に…魔法が使えるようになった!と喜んだ。

小学校の早い段階で何でかな?と思ったのが、父が夕方になると「行ってきます」と出ていく。父と母のケンカは増し

母は常にイラついた様子。母に笑ってもらえるようにいろんな事を考えるようになる。

学校が終わっても遊ぶ相手が妹しか居なかったので2人で近所にあった(原っぱ)で遊ぶ。

学年が変わってもクラス替えはない。なので、新しく友達ができることはなかった。だけど担任が変わる。女の先生だ

そして「可哀想な女の子」になりきって遊ぶようになる。

「可哀想な女の子」は周りには誰もいないが(音を消す)魔法を使い、同じ様に可哀想な女の子にその魔法をかけて

あげる。そしていつかは幸せになる…こんな感じ。

漠然としてるし不思議な感覚。その子になってる時は後ろ側からものすごい光を感じるようになる。スポットライトを

自分だけにあてる(主役の状態)そして、誰かがリアルに撮影をする。その時はわからなかったが、台本みたいな物も

あった。

学校が終わって帰り道に突然カメラが回り続きからの撮影がはじまる。この楽しい遊びが現実逃避だと気づくのは、

何十年後の私だが…だけどなくてはならない様になっていった。






幼少期/児童期

2012-10-03 | 発症の原因(成長史/幼少期から成人まで)
精神科への通院はもうすぐ6年になる。正直この6年の間、一度も「スッキリ感」がない。常に気怠く何もできない。

精神科にかなりの偏見を持ちながらしかも(他医師からの強い勧め)何も理由も告げられずにただ「行ったら何か分か

るから」と言われてた私は「変人扱いしやがって!!」と疑問と怒りで受診。そこは精神科の先生と感じさせない明るい

女医さんで印象は良かった。そこで3年半通院しその女医さんが「私にできる事は全てしたが…お手上げです」と言わ

れて現在の主治医のもとへ転院した。女医さんは統合失調症、うつ、全般性不安障害と診断した。通院1年目にPTS

Dの話がでた

しかしピンとこない。世間話の様に過去のできごとをするが記憶は乏しいことと思い出そうとすると激しく発作を起こ

すなので女医さんはつっこんだ質問はしなくなった。何で記憶がないんやろ?何で思い出そうとすると拒否反応が起こ

るかわからない。幼い頃父と母は決まって「お姉ちゃん(私)は●●百貨店の女子トイレで、◎◎ちゃん(妹)は、△

川(実家の近くの川)で捨てられてたから連れて帰って来た」こう言い「私(母)、あんまり子供が好きじゃないか

ら」と言った。

幼児期から成人期を過ごした家が嫌いだった。その家の住所を言えば誰もが「ものすごい高級住宅街のとこやな」と言

われた。確かに大きな家ばかりだったし家も決して狭いと言えない、むしろ部屋は余っていた…けど家は嫌いだった。

思い出せる範囲なら「反省室」があること。白い顔が半分溶けた女がいたこと。そして何故かゴキブリが多かった。

その家に引っ越す前に住んでた所にさかのぼる・・・・

マンションっぽいところで暮らしていた。暗い部屋だった。その部屋にあるお風呂を家族は嫌って(お風呂があると知

らなかったこと)近くの銭湯に行ってた。雨の日は銭湯に行けずに洗濯機(二層式)に入れて回された。私を洗う(回

す)時は妹は脱水入れられ回してないと思うがふたは閉められるので怖かった。次は自分が搾られると思うと恐怖だっ

たが洗われる(回す)事は楽しかったので何度も洗ってもらった。別に母の手で洗ってもらった訳ではない母はタイマ

ーを回して離れた場所で洗い終わるのを待ってただけだ。で、最後の脱水を終えるとお風呂はおしまいだ。

その部屋の思い出はほとんどないが景色は断片的にでてくる(例えば部屋の間取りは全く覚えてないがテレビのある部

屋の右側とか洗濯機(どこに置いてたのかは?)それと近所の男の子?うさぎがバラバラ…)何となくだけど。

幼い頃の記憶って普通そんな覚えてないでしょ。父と母のケンカは最後にいつも母は出ていく。妹だけ抱っこひもに

くっつけて「お姉ちゃん(私)はお父さんにあげる。この子私になつかないし」と言われながらも母に連れて行って

欲しかった。とても悲しい気持ちになった。母は出て行き父と二人になる事は少なくなかった。

その部屋での思い出は父母それぞれあるだろう。妹はまだ赤ちゃんなので全く覚えてないそうだ。大人になり母とその

部屋の話になった「あの部屋嫌いだったわ~」と母。理由は近所に私と同世代の子供がたくさん住んでいて母も今で

いう(ママ友)デビューするがいつもどこかの家をよその子供が集中し子供のママ達はさっさと家に帰りゆっくり家事

をしたらしい。母は結構ターゲットになって5人程の子守をしてたそうだ。そんなある日も母はターゲットになり、

渋々、子供を見ることになったがその日はイラついてたので食卓がある台所で居たらしい。みんな静かに遊んでたので

ほっといたら更に静かになったので??と思って様子見に行くと3人はお昼寝中で2人の男の子と私の姿がなかったの

で探すと使ってないお風呂場の戸が開いていたので覗くと私は下半身裸で陰部を男の子2人が触ったり匂いをかいだり

してたので驚いたのと気持ち悪さと怒りで怒鳴り散らし自宅へ帰らせ、その後その男の子達(8歳と5歳の兄弟)宅へ

怒鳴りこんだそうだ。ほんまに気持ち悪かった…そうだが、全く記憶にございません。


4歳の時に父は無謀にも母に何の相談もなくその家を見て「気に入った」だけですぐ購入。母は引越しの2日前まで

知らなかったそうで大ゲンカしたらしい。そりゃそうだ。そんな大きな買い物を衝動買いした父の気が知れないと

その家で生活した期間はずっとぼやいていた。




わたしと家族

2012-10-03 | 発症の原因(成長史/幼少期から成人まで)
さかのぼること何十年…

私は遊び好きな海上自衛隊の父と世間を全く知らない箱入り娘の母との間に産まれた。お産は決してスムーズではなく

誕生と同時に元気な産声はなかったと聞いた。へそのおが首を1周半まき窒息した状態でへそのおが外れたあともしば

らく泣かなかったという。チアノーゼが出てたようだ

そんな小さい(低体重児)私もうまれた時は親戚一同で喜ばれ可愛がられてたそうな。

精神科での初受診時に家族構成を聞かれたが何か意味あんのかな。のちに因果関係を説明されたことがあったので参考

までに書いておこう

父と母はお見合いでいとこ同士(3親等外だけどかなり直系に近いらしい)と聞いている。そしてこの「いとこ同士の

結婚」については幼いころから「絶対に人に話してはいけない」と、きつく言われていた…(じゃ、子供に話すなよっ

て今は思う)ものごころついた私は父が大好きだったという。父は私を異常に可愛がったらしい。

そんな父(父方)について少し…今の私が父をみて感じることは、遊び人でとにかくモテる。自分勝手(とにかく一方的)

暴力マシンの変態+薬中毒…ざっとこんな感じである。大人になった私がみたら…の印象だ。しかし、大好きだった。

父の父は(祖父)52歳まで●●県警の警部を経てから県会議員になる。父の母(祖母)は整形外科医で鍼灸もしてた

●●県の田舎の方で開業医だった。おじいちゃんもおばあちゃんも優しいけど厳しかった。お仕置きはもぐさたっぷりの

「やいと」を頭のてっぺんにされた。夏休みは長期で遊びに行くので頭のてっぺんは円形のハゲが毎年できた。

でもその熱かった「やいと」は他のいとこ達(4人)も居るのに私だけがその刑を受けた。

幼い頃は「みんなやってたのに何でわたしなん~?」と泣いていたのを覚えてる。いとこ達は「かわいそう」な目で

診察室の扉を少しあけて見ていた。おじいちゃんは優しかった。父の弟(次男/叔父)は父と全く正反対の真面目でふ

ざけ合って遊んでくれた父とは違い色んな知識を教わった。温厚だが時に「霊が見える」「精霊に会いに行こう」など

と言ってた。子供の私は叔父が何か怖くていとこ宅に泊まれず、毎回決まって夜中に泣いて家に送ってもらった。

母(母方)はホントに箱入りで何も知らない女の子で育った。母は5人兄妹でそれぞれが複雑な環境にいた(いてる)

母の兄(長男/伯父)は13歳時登校中に踏切に置かれた岩(誰かのいたずら)が電車がはねて伯父の頭に直撃したと

聞いた。その日伯父を見送った祖母に寒気が走り同時に「悪い予感」を感じ伯父を追いかけた。伯父は踏切待ちで

友達とふざけ合ってた、その姿を見てホッとした瞬間に事故は起こり祖母は混乱したのかバラバラになった伯父の頭部

を拾い集めながら伯父を抱き泣き崩れたと言う。そして(長女/伯母)は重度の統合失調症に対人恐怖症を患い常に幻

覚と妄想(被害妄想)の世界で生き、死ぬまで兄妹たち(母も含め)から「キチ●イ」扱い、加えてC型肝炎を発症し

てからは更に伯母に近づく親戚は居なかった。私は大好きだった。(次男/伯父)これがまた大変な変わり者で潔癖症

だった。口癖は「汚い汚い」で常に何か洗ってる。青年時に蒸発し30年後にふと私たちの前に現れるが数年後突如

蒸発したが母と母の2番目の姉が懸命に捜査したことで見つかったが重度の統合失調症を発症し伯父もまた幻覚の世界

で生きていた。(次女/2人目の伯母)は幼児の頃に祖母の姉へ養子に出されている。成人し伯母が結婚する理由で

戸籍謄本を見た際に事実を知り祖母に攻撃をはじめる(昔は疎遠だったが現在は関係修復)そして(三女/私の母)

祖母にはたくさんの思い出があるし4歳からは祖母に育てられた一緒に住んでた訳ではないが事業を立ち上げた父、母

はその手伝いでいっぱいだったので毎日電車に乗って私たち姉妹の世話をしてくれた。祖母が夕方帰る時はいつも泊ま

ってくれとだだをこねた。年老いた祖母が電車で帰って行く姿は幼心にとても可哀想に見えたので父に「車で送って行

ってあげて」と言ったが無視。大人になってから母が「父が祖母に冷たく、うちでは寝るな必ず帰れ」と言ってたそう

だ…っか、事業資金は祖母の財産から借りてた上我が子達の世話まで押し付けたくせに外道の何でもない。


上記のメンバーは何かしらで私の人生に関わってる。今後話に出てくることもあるだろう