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私の家は父と母、それから私の三人家族。祖母は六年前に亡くなった。祖父の顔は遺影でしか知らない。病を患い、私が生まれるよりも先に世を去ってしまったという。
父は家から少し離れた場所にある診療所で、医師として働いている。この町にたった一つだけの診療所で、訪れる人も多く、それだけ父を慕う人々も多い。私はそんな父をとても誇りに思っている。
父の収入だけで家計は十分に落ち着いていたので、母は専ら主婦業に専念する日々を送っていたのだけれど――どういうわけか一ヶ月ほど前から、母はパートで仕事を始めた。スーパーのレジ担当というオーソドックスな職種だが、それは見た目よりもずっと大変な仕事だ。
一度母の職場を見に行ったことがある。勤務時間はおよそ六時間ほど、仕事が始まってから終わるまで、ほぼ休みなくレジに立ちっぱなしで延々と手と口を動かし続けるという仕事だ。言ってみればただそれだけのことだけど、言うのと実際にやるのとでは全く違う。私はレジから少し離れた場所で十数分ほど母の仕事ぶりを見ていただけだったけど、そんな短い間でさえも人の流れは止めどなく、もしも自分が母の立場だったらと想像するだけで気疲れを起こしてしまった。ただ思い描いてみただけでそれなのだから、実際にそれを行っている母の疲労はかなりのものだろう。そして家に帰ればこれまでと変わらない主婦としての仕事。
本当に、凄いと思う。
それから私は母の家庭での仕事が少しでも減るようにと、自分にできることから少しずつ家事をやってみるようになった。母も私のことを気遣ってくれて、決して仕事を任せっぱなしにしたりはしないのだけど……まあ、それもごもっともな話。
私の職業はというと――来年に受験を控えた高校三年生。そして今は天王山とも言われる夏休みの真っ只中。朝起きて、予備校の夏期講習へ行って、それが終わったら自習室で勉強して、帰ってきて夕飯を食べたらまた勉強して……といった具合に、一日を思い返してみると勉強以外の記憶がほとんど無かったりする。自分ながら、よく続いてるよなぁと感嘆してみたり。あはは、これじゃあまるで他人事だ。
こうして毎日頑張っていられることに理由があるとすれば、やはり私に『目標』があるからだ。いまだ進路に悩んでいるクラスメイトもちらほらと見受けられる最中、私は比較的早くに自分のやりたいこと、なりたいものを見つけることができた。
私は医学の道を進みたいと思っている。
父の影響、だろう。
人を助けるという仕事の意味。それは、時に逃れ得ない悲しみとも向かい合っていかなければならない仕事。それを幻想だけでなく間近で感じ、知り、見てきたからこそ、私はこの仕事に携わっていきたいと心から思っている。そして、そのスタートラインに立つにはそれ相応の努力が必要だ。私の志望大学はそれほどレベルの高い場所ではないけれど、やはり医学部という敷居は他と比べて格段に高い。私の通う高校の過去データを統計してみると、その学部に合格することが出来たのは一学年に二~三人程度。私の成績は決して悪いほうではないけれど、目標ラインにはまだまだ程遠い。
だから私は頑張らなければいけない。
それは決して義務ではなくて、私自身が望むことなのだから。
「――ふう、こんなもんかな」
「ん。それじゃ、お母さんの最終チェック」
許容量を踏み越えて油を吸い取り続けてくれたキッチンペーパーを恭しく隅に置いて、私は母にその成果を見せた。横目に真剣な眼差しが見える。……駄目、かな?
「――うん。まあ、いいでしょ」
そう思った次の瞬間、母は相好を崩してにっこりと微笑んでいた。
「よかった……」
緊張した分、何だか気が抜けてしまった。この程度のことで気を張っているようでは、とてもじゃないけど大学の面接なんて通れないんじゃないかなぁ……先行き不安だ。
「ねえ、お母さん。ずっと聞こうと思ってたんだけど」
そんな気持ちを紛らわそうと、すかさず話題を持ち上げる。
「お盆でたくさんのお客さんがうちに来るから大掃除……ってのはわかるんだけど、どうしてこんな見えない場所にまで気を遣うわけ? 換気扇の裏側なんて誰も見ないのに」
そんな私の問いかけに対し、母は少しも表情を変えずに言う。
「誰も見ないからこそ、よ。目に見える範囲だけの掃除はね、なんて言うのかなぁ、わかっちゃうの。柚香だったら……例えば部屋の掃除をする時、なかなか片付かないものをとりあえず目に付かない戸棚の中に詰め込んで、それを良しとして掃除を終わらせちゃうなんてことはない?」
「あ、うん。よくある」
そのときの光景を思い出してみる。あれって、片付けた瞬間だけは綺麗に見えるんだけど……結局はすぐに元通りになるんだよね。
「つまりね、そういうことよ。掃除に限ったことじゃないけど、上辺だけの行いはいつか必ずボロが出るの。だけど、誠心誠意心を込めて一生懸命にやったことは崩れにくい。一年に一度のお客様だっているわけだし、『気の遣いすぎ』なんてことはないのよ」
「へえ……説得力ある」
「長年の主婦暦、ってやつね」
歯切れのよい口調でそう言い切った母の姿は、なんだかいつも以上に輝いて見えた。私たちはふだん友達のように接しているけれど、やはりこういう場面では親子になる。
五、六年ほど前だっただろうか。ほんの一時期だったけれど、母の言うこと為すこと全てが気に入らなくなった時期があった。それはきっと――というより、間違いなく反抗期だったんだと思う。あのときの私は母に対して本当にひどいことを言ったし、実は今でもそれを後悔している。嫌な記憶というものは、小なり大なり忘れられないものだ。
だけど母は、決して私を見放すようなことはしなかった。どんな悪口雑言も受け入れて、誠心誠意、私と向かい合い続けてくれた。――ああ、そっか。母はいつだって、誠心誠意心を込めて一生懸命に――接して、くれてたんだ。
「ほら、そんなことより早く終わらせちゃいましょ」
ぽん、と背に優しい感触。その温もりは、母の手のひらが離れてからもずっと残り続けた。暖かい。私が生まれてから今までのあいだ受けてきた情愛の数々が、身体の内側からじんわりと染み出していく。
昔、今、そして未来へ。ずっとずっと、呼応していく。
「……お母さん」
「ん?」
この気持ちを表現するには、いったいどんな言葉がいいのだろう。「ごめんなさい」は違うよね。だったら……うん、そうだ。
「ありがとね、お母さん」
――うん、これがいい。
「……? いきなりどうしたの、柚香?」
見るからに訝しげな表情。それもそうだろう。我ながら実に脈絡がない。
「いろいろ、全部ね。生まれてから今までの感謝の気持ち」
でも、そんなのは問題じゃないんだ。
少し大げさな気もしたけれど、それは決して間違ってなんかない。あとから思い返すとすごく恥ずかしいことを言ってるんだろうなぁとも感じたけれど、そんなことよりもずっと、伝えたい気持ちのほうが大きかった。
母はしばしの間、訝しげな顔のままで私の瞳をじっと見つめていた。笑われちゃうかな。私、変なことを言っちゃったのかな。
――ううん、そんなことない。
だってほら、きっと。
「ふふ、どういたしまして、柚香」
窓の外に目をやれば、真夏の太陽を目指して真っ直ぐに咲き誇る向日葵の花。
母の笑顔は、そんな素敵な笑顔だった。
私の家は父と母、それから私の三人家族。祖母は六年前に亡くなった。祖父の顔は遺影でしか知らない。病を患い、私が生まれるよりも先に世を去ってしまったという。
父は家から少し離れた場所にある診療所で、医師として働いている。この町にたった一つだけの診療所で、訪れる人も多く、それだけ父を慕う人々も多い。私はそんな父をとても誇りに思っている。
父の収入だけで家計は十分に落ち着いていたので、母は専ら主婦業に専念する日々を送っていたのだけれど――どういうわけか一ヶ月ほど前から、母はパートで仕事を始めた。スーパーのレジ担当というオーソドックスな職種だが、それは見た目よりもずっと大変な仕事だ。
一度母の職場を見に行ったことがある。勤務時間はおよそ六時間ほど、仕事が始まってから終わるまで、ほぼ休みなくレジに立ちっぱなしで延々と手と口を動かし続けるという仕事だ。言ってみればただそれだけのことだけど、言うのと実際にやるのとでは全く違う。私はレジから少し離れた場所で十数分ほど母の仕事ぶりを見ていただけだったけど、そんな短い間でさえも人の流れは止めどなく、もしも自分が母の立場だったらと想像するだけで気疲れを起こしてしまった。ただ思い描いてみただけでそれなのだから、実際にそれを行っている母の疲労はかなりのものだろう。そして家に帰ればこれまでと変わらない主婦としての仕事。
本当に、凄いと思う。
それから私は母の家庭での仕事が少しでも減るようにと、自分にできることから少しずつ家事をやってみるようになった。母も私のことを気遣ってくれて、決して仕事を任せっぱなしにしたりはしないのだけど……まあ、それもごもっともな話。
私の職業はというと――来年に受験を控えた高校三年生。そして今は天王山とも言われる夏休みの真っ只中。朝起きて、予備校の夏期講習へ行って、それが終わったら自習室で勉強して、帰ってきて夕飯を食べたらまた勉強して……といった具合に、一日を思い返してみると勉強以外の記憶がほとんど無かったりする。自分ながら、よく続いてるよなぁと感嘆してみたり。あはは、これじゃあまるで他人事だ。
こうして毎日頑張っていられることに理由があるとすれば、やはり私に『目標』があるからだ。いまだ進路に悩んでいるクラスメイトもちらほらと見受けられる最中、私は比較的早くに自分のやりたいこと、なりたいものを見つけることができた。
私は医学の道を進みたいと思っている。
父の影響、だろう。
人を助けるという仕事の意味。それは、時に逃れ得ない悲しみとも向かい合っていかなければならない仕事。それを幻想だけでなく間近で感じ、知り、見てきたからこそ、私はこの仕事に携わっていきたいと心から思っている。そして、そのスタートラインに立つにはそれ相応の努力が必要だ。私の志望大学はそれほどレベルの高い場所ではないけれど、やはり医学部という敷居は他と比べて格段に高い。私の通う高校の過去データを統計してみると、その学部に合格することが出来たのは一学年に二~三人程度。私の成績は決して悪いほうではないけれど、目標ラインにはまだまだ程遠い。
だから私は頑張らなければいけない。
それは決して義務ではなくて、私自身が望むことなのだから。
「――ふう、こんなもんかな」
「ん。それじゃ、お母さんの最終チェック」
許容量を踏み越えて油を吸い取り続けてくれたキッチンペーパーを恭しく隅に置いて、私は母にその成果を見せた。横目に真剣な眼差しが見える。……駄目、かな?
「――うん。まあ、いいでしょ」
そう思った次の瞬間、母は相好を崩してにっこりと微笑んでいた。
「よかった……」
緊張した分、何だか気が抜けてしまった。この程度のことで気を張っているようでは、とてもじゃないけど大学の面接なんて通れないんじゃないかなぁ……先行き不安だ。
「ねえ、お母さん。ずっと聞こうと思ってたんだけど」
そんな気持ちを紛らわそうと、すかさず話題を持ち上げる。
「お盆でたくさんのお客さんがうちに来るから大掃除……ってのはわかるんだけど、どうしてこんな見えない場所にまで気を遣うわけ? 換気扇の裏側なんて誰も見ないのに」
そんな私の問いかけに対し、母は少しも表情を変えずに言う。
「誰も見ないからこそ、よ。目に見える範囲だけの掃除はね、なんて言うのかなぁ、わかっちゃうの。柚香だったら……例えば部屋の掃除をする時、なかなか片付かないものをとりあえず目に付かない戸棚の中に詰め込んで、それを良しとして掃除を終わらせちゃうなんてことはない?」
「あ、うん。よくある」
そのときの光景を思い出してみる。あれって、片付けた瞬間だけは綺麗に見えるんだけど……結局はすぐに元通りになるんだよね。
「つまりね、そういうことよ。掃除に限ったことじゃないけど、上辺だけの行いはいつか必ずボロが出るの。だけど、誠心誠意心を込めて一生懸命にやったことは崩れにくい。一年に一度のお客様だっているわけだし、『気の遣いすぎ』なんてことはないのよ」
「へえ……説得力ある」
「長年の主婦暦、ってやつね」
歯切れのよい口調でそう言い切った母の姿は、なんだかいつも以上に輝いて見えた。私たちはふだん友達のように接しているけれど、やはりこういう場面では親子になる。
五、六年ほど前だっただろうか。ほんの一時期だったけれど、母の言うこと為すこと全てが気に入らなくなった時期があった。それはきっと――というより、間違いなく反抗期だったんだと思う。あのときの私は母に対して本当にひどいことを言ったし、実は今でもそれを後悔している。嫌な記憶というものは、小なり大なり忘れられないものだ。
だけど母は、決して私を見放すようなことはしなかった。どんな悪口雑言も受け入れて、誠心誠意、私と向かい合い続けてくれた。――ああ、そっか。母はいつだって、誠心誠意心を込めて一生懸命に――接して、くれてたんだ。
「ほら、そんなことより早く終わらせちゃいましょ」
ぽん、と背に優しい感触。その温もりは、母の手のひらが離れてからもずっと残り続けた。暖かい。私が生まれてから今までのあいだ受けてきた情愛の数々が、身体の内側からじんわりと染み出していく。
昔、今、そして未来へ。ずっとずっと、呼応していく。
「……お母さん」
「ん?」
この気持ちを表現するには、いったいどんな言葉がいいのだろう。「ごめんなさい」は違うよね。だったら……うん、そうだ。
「ありがとね、お母さん」
――うん、これがいい。
「……? いきなりどうしたの、柚香?」
見るからに訝しげな表情。それもそうだろう。我ながら実に脈絡がない。
「いろいろ、全部ね。生まれてから今までの感謝の気持ち」
でも、そんなのは問題じゃないんだ。
少し大げさな気もしたけれど、それは決して間違ってなんかない。あとから思い返すとすごく恥ずかしいことを言ってるんだろうなぁとも感じたけれど、そんなことよりもずっと、伝えたい気持ちのほうが大きかった。
母はしばしの間、訝しげな顔のままで私の瞳をじっと見つめていた。笑われちゃうかな。私、変なことを言っちゃったのかな。
――ううん、そんなことない。
だってほら、きっと。
「ふふ、どういたしまして、柚香」
窓の外に目をやれば、真夏の太陽を目指して真っ直ぐに咲き誇る向日葵の花。
母の笑顔は、そんな素敵な笑顔だった。