娯楽を一切やっては駄目という理屈ならそれはおかしいが、一方でパチンコに問題がありすぎるのも事実なんで。
生活保護でパチンコなぜ悪い?過熱する”最低限度の生活論” nico.ms/nw2076911 #niconews
ぼくは一夫一婦制など破壊してしまっても案外国は回り続けるのではないかと思っている。シングルマザー天国の結婚を媒介としない事実上の一夫多妻制に国がなっていくこと自体は面白そうで見てみたいとは思う。ただ、今のところぼくは子どもがいないので大変な税金が取られるのはイヤだなと思う。
最後に「僕は嫌」と言ってるのがすべてという。個人の幸福が第一というリベラル社会では「国の繁栄のためにキモくて金のないおっさんは子育て費用だけ負担する働き蟻になってろ」とは言えなくなったし、その物語が無いからこそ納得しない。 twitter.com/mentane/status…
何度も言ってますけど事実上の一夫多妻制の合意には強烈なナショナリズムが必要だと思っています。
これは皇室に関しても同じでしょうね。皇室を廃止するとむしろナショナリズムの増大への歯止めがなくなるでしょう。
事実上の一夫多妻の社会になって、そこで戦争が起きて独身非モテが徴兵された時に、敵が「貴方は女を独占した男とあなたをモテないとあざ笑う女の為に死ぬのですか? 馬鹿ですね」と謀略宣伝やってどれだけ士気が保つかなと。
せせりさんとかが思考実験的にアリやらハダカデバネズミの例を持ち出すけど、人間で同じことをやるならやっぱり「お国のため(「社会のため」とか言い換えても同じ)」という旧時代的な思想が必要になるだろうな。
真社会性動物が子を残せなくても共同体の犠牲になるのは女王に遺伝子的に近いからだそうですけど、キモくて金のないおっさんおばさんに甥っ子姪っ子へのお金の供出のできるインセンティブをつける制度ならある程度の不満の抑制はできるようなきがするんですよね。下男下女ってやつですね…
血縁とそれによる愛着による扶養が実現しない場合、全く縁もゆかりもない他人様同士の相互扶助に納得感を与える物語として逆転的に強烈なナショナリズムが必要になると僕は思うんですよね。
保育士問題も所詮はそこに「物語」が無いからだよな。初戦は他人の子供だし自分の子供の面倒みるよりは高い報酬が欲しい。一方で保育園に預ける方からすれば自分が身を切るわけではないから出来るだけ安く預けたい。そのせめぎあいの結果、人手不足が起こる。
これはおとといも書いたけど、人類が「男性社会」の歴史を歩んできたのはその「男性優位」であることが生存にとって有利だったからだと思うんですね、そうして人間が「不合理な歴史」つまり根源的にはまったく妥当性をもたない風習を持っているのもそれが生存にとって有利だったからでしょう。
その証拠に、リベラルやポリコレがあらゆる風習を取り払って社会の歪がどんどん大きくなっているわけですね、女性が社会に出る必要は無いという風習は目的の結果作られたのではなくその逆、でも彼らは風習に「〈意味〉(おそらくカント的な意味)がないからと」どんどん撤廃して行くわけです。
が、それ自体は〈意味〉あるものではなくて「集団の維持」としての、何かを「纏め上げる」ための装置として機能している場合が多い、軍隊を維持する際の「愛国心」みたいなもの、それ自体なんら〈意味〉あるものではないけども風習は絶対に必要。
そういうことを言うと「本当に何の必要もない風習」(害も益もないような)なら撤廃すればよいか、ということもあるわけですが、それなら頬っておけばいいわけですよね、どうでもいい風習ならなおさら。
リベラル/ポリコレからすれば「風習」など唾棄すべき家父長的価値観でしょうが、それこそが人間の繁栄と維持には絶対に必要なんですね、さっきも言いましたけど人間は根本的なところで不合理なことを心の拠りどころにして、根本的に妥当性を持たない風習の結果人類は繁栄してきたわけですから。
常識を疑うということができない人が多すぎて、びっくりする。この「天皇は大事だ」という思い込みによって天皇や皇族が存在しているということが認識できないんだろうね。自分の盲目的な思想を客観視さえできないのは、逆に気の毒。
だからこのような「思い込みだけで存在しているだけ」ということはすべてのことに対してそう、リベラル的な「平等」だって完全な思い込み、根本的なところで「意味」は持たせられない、なぜならば〈意味〉とは言葉の指定に純化したものだからです。
僕だってほんとに個人的なとこだったら天皇なんてどうでもいいですよ、三島由紀夫も「天皇は、私の思うような天皇でいらっしゃらない」と言ったようになんにもアイデンティティなんか感じませんが、すぐ「風習を疑え」みたいなこと言うのには距離を置いてしまいますね。
馬鹿な社会学者が馬鹿なのは、実証が全く足りない(もしくはない)からというよりは実は素朴な実証主義を信じ込んでるからと言ったほうが良いのではないかと思う。素朴な実証主義だと今自分に見えてるもの聞こえてるものにそのまま依拠し、基準と現実の関係で見えてない部分や隠れた構造を見落とす。
人間は不合理なものを支持しているから、完全な客観、事実の積み重ねをして行っても「意味」は持たせられないんですよね、デモが理論や理屈で団結しないのもそういうこと。
「科学が発展すれば生きる意味そのものが見つかる」みたいなこと聞きますが、科学は「生きる意味」を発見できない、なぜなら〈科学〉とは客観を推し進めて再現性を獲得したものでそこには主体(=不合理なもの)がない、主体がないなら「生きる意味」という不合理なことを持たせられないのは当然。
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