レオナルドボフは南米の解放の神学を唱える、バチカンに破門されたキリスト者。
彼が、こんなことを言っている。
「貧困の反対は、富ではなく正義である。」
いままで、「暴力」のことを、ずっと考えてきて、ベンヤミンから導かれて、埴谷雄高の「暴力考」までたどり着いた。
暴力の二重構造のことを、埴谷さんは指摘しているのだが、内部の暴力には合目的的性格で臨む者が、他者からや自分以外の暴力には不寛容である実態は、どこの世界にも存在している。
そこで、現在の社会構造の中において、このような、「格差社会」を容認すること自体が、社会的な暴力であるように感じられるのである。それは正義に反することである。
「格差社会」は実は、言葉のオブラートに包まれた「差別・選別」社会そのものである。
ガンジーの「非暴力運動」の学習を今日的課題において、もう一度とらえ直す必要が出てきたように、思う。
いま、岩波新書の最近出た、ノーマ女史の「小林多喜二」を読んでいる。
私たちの若い頃は、吉本隆明の「転向論」がバイブルであった。
「党生活者」の陰惨な生活と意見は、吉本の中では、アウフヘーベンされねばならぬものであった。しかし、だからこそ、この2009年の小林多喜二の読み返しが、吉本流ではなく、ノーマン流で読みとらえ直さねばならぬ、意義もあるのである。
文学と政治の問題は、即時的に時代に支配されていくものである。いなむしろ、経済に左右されるといっても過言ではないのである。
彼が、こんなことを言っている。
「貧困の反対は、富ではなく正義である。」
いままで、「暴力」のことを、ずっと考えてきて、ベンヤミンから導かれて、埴谷雄高の「暴力考」までたどり着いた。
暴力の二重構造のことを、埴谷さんは指摘しているのだが、内部の暴力には合目的的性格で臨む者が、他者からや自分以外の暴力には不寛容である実態は、どこの世界にも存在している。
そこで、現在の社会構造の中において、このような、「格差社会」を容認すること自体が、社会的な暴力であるように感じられるのである。それは正義に反することである。
「格差社会」は実は、言葉のオブラートに包まれた「差別・選別」社会そのものである。
ガンジーの「非暴力運動」の学習を今日的課題において、もう一度とらえ直す必要が出てきたように、思う。
いま、岩波新書の最近出た、ノーマ女史の「小林多喜二」を読んでいる。
私たちの若い頃は、吉本隆明の「転向論」がバイブルであった。
「党生活者」の陰惨な生活と意見は、吉本の中では、アウフヘーベンされねばならぬものであった。しかし、だからこそ、この2009年の小林多喜二の読み返しが、吉本流ではなく、ノーマン流で読みとらえ直さねばならぬ、意義もあるのである。
文学と政治の問題は、即時的に時代に支配されていくものである。いなむしろ、経済に左右されるといっても過言ではないのである。