空気に触れると大きくなる?
「伝える言葉を伝わる形で」がコミュニケーションの基本だと思います。しかし、伝える言葉があまりに常套句となると、受け手はうんざりしてしまいます。
例えば、最近の政治家が多発する「説明責任を果たす」とか「シッカリやる」といった類いの言葉です。記者から質問を受ける政治家の殆どがこの言葉を発しており、記者もそれ以上の追求の質問を控えている節があります。こうした予定調和の馴れ合い会見や記事に国民もだんだん馴らされて、腹を立てるのも大人気ないと諦めている始末です。一方、常套句にはことのほか敏感な筈の川柳界はいかがでしょう。作句に行き詰まって安易な常套句で着地してしまうのは私だけではなさそうです。
先般亡くなった作詞家の阿久悠さんの「阿久悠の日記メモより」に、興味を覚える一文がありました。
「詞は凝縮し小さくしてあるが、空気に触れると大きくなることを予測しなければならない」
というものです。
凝縮した詞の中に、人それぞれが理解し合点するものを含ませよ、空気とは世間(人)で膨らませる方法は、受け手(読み手)の自由に委ねよ、ということだと思います。一読明快もさることながら、「全部言っちゃあおしまいよ、それが粋ってえもんでしょう、大きく膨らませるのは読者の裁量に属すること」と、自分を窘(たしな)めながら作詞活動を続けた阿久悠さんの言葉は、やはり重たいですね。
通夜のよるカミユと飲んだことがある・・・しろ猫
字足らずのメールが重いことがある Y