早いもので先月祖母が亡くなって、はや一ヶ月が経とうとしている。
日々の生活に追われてはいるが、思い出すことは多々。
行きつく先は「身の回りを綺麗にしておかなきゃ」とか、食べたいものを我慢しないようにしよう(危険)とかその程度だったりするのだが、やはり祖母の死は私達に色々な事を考えさせるきっかけとなった。
特に子供達は表面上変わっていないようにも見えるが、「亡くならない人間はいない」と言う当たり前のことを再確認。
子供達の言動の端々にそれらを感じることが増えてきた。
通夜、告別式とも思いきり泣いたおかげか心の踏ん切りもついて、それぞれ前を向いて歩いて行けているわけだが、世の中にはもっとつらい事が沢山ある。
先日は悲しい事に、実に若い知人の通夜、告別式に参列することとなってしまった。
奇しくも東日本大震災が起こった日が通夜であった。
入院生活をしていたわけでもなく、体が弱かったわけでもない、突然の死であった。
祖母と違って若かったため葬式場に全員が入りきらないほどの参列者で、若々しい遺影を見るたびに胸が痛んだ。
残された家族の心中を思うと「順番通りだから・・・」と祖母のように納得できない不憫さにやるせない気持ちになる。
夢があった、未来があった、そんなことはお構いなしに、それこそ年齢など関係なく訪れる死に、子供達は衝撃を受けた。
愕然となった子供達はしばらく言葉を発することが出来なかった。
「神様は残酷やなぁ・・・」こいちゃんが涙目で言う。
「若くても死ぬんか・・・」いっくんが空を見ながらつぶやいた。
祖母が亡くなり、若い知人が亡くなり、死を身近に感じる私達は薄氷の上を歩くような、うすら寒い感覚にさらされている。
しかし、本当は気が付かないだけで、私達は常にそんな状態の中で生かされているのかもしれない。
黙祷をすると脳裏に浮かぶのは、祖母、震災で亡くなった人、知人、もっといろいろな人・・・
数えきれない別れを繰り返しながら私達もまた消えてゆくのだと思う。
彼らが亡くなったことは無駄ではないと信じ心に折り合いをつけながら、精いっぱい生きて行く事で、祖母や知人の供養になると信じて、前に進むのだ。