はぐれぼけぼうし

鹿児島拠点の日記をメモ的に残す。

世界陸上物語 ←日当山の思い出

2007年07月03日 04時37分19秒 | 同世代とともに

 07年8月4日(土)の南日本新聞夕刊に「歴史と話題」(世界陸上物語)東京大会加藤博夫氏(スポーツライター)という記事があった。 以下、記事を写しました。(なお添付写真のいきさつは、文末の#に書いてあります)

>>> 第3回東京大会の女子マラソンも、38選手中14人が途中棄権という炎暑のレースとなった。朝7時スタートで、気温はもう21度。レース中さらに上がり、ソウル五輪優勝のロザ・モタ(ポルトガル)らが次々棄権した。 優勝はワンダ・パンフィル(ポーランド)だったが、これに日本の山下佐知子と有森裕子が必死につき、2位と4位に入った。 2人とも「夏は大好き」。 国立鳥取大卒という珍しい経歴の山下は「好条件ではサラブレッドが勝つが、暑ければ私でも勝負になると思った」と男の谷口と同じようなことを言う。有森も「スピードはないが頑張りと情熱にかけては一番」(小出義雄・リクルート監督=当時)の選手だった。翌年のバルセロナ五輪では有森が2位、山下が4位となり、その強さを再び世界に示した。日本の女子マラソンが以後、世界に向かって大きくはばたく出発点がこの東京大会だったのである。 ただ、この成功の陰で忘れてならないのは、日本陸連科学担当スタッフの「暑さ対策」。かつて給水所の水は「飲料」としてだけ使っていたが、彼らはこれを「体の冷却用」にも必要だと考えた。そして給水所では、飲料用とボディ用のボトルを一対にし、選手は水を補給しながら同時に脚や体も冷やすよう指導した。今では外国選手もまねているが、当時としては全く新しいアイデアであった。 男子優勝の谷口は貪欲(どんよく)にこの給水を取った。取り損なう選手が多い中で、谷口は全回成功。15キロでは取り損ねた中山に手渡しをしたこともある。もっとも、谷口はバルセロナ五輪では給水所の雑踏で足を踏まれ転倒してしまったが・・・。 大阪大会でも日本特有の、蒸し暑さが予想される。外国勢の中にはそれを敬遠し不出場を表明する有力選手も多いようだが、谷口や山下らが東京大会で頑張ったように、大阪でも日本選手がこの、蒸し暑さという「地の利」をどう生かすか注目される。

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 先日(8月7日:鹿児島での七夕の日)の南日本新聞に、甲南高校陸上部の後輩の記事が出ていたので書き留めておく。

>甲南3年 西郷 智香(女子百m障害予選敗退) 大会1週間前、調子が良くて練習量を増やしたら腰を痛めてしまった。頑張りすぎた。レースは不安だったが、最後だし体がどうなっても出ようと思った。 去年のインターハイも足を痛めていた。今年こそ万全な状態で臨んで準決勝に進出したかった。それでも、めちゃくちゃな走りだったが思い切り走れたので後悔していない。 3年間故障に苦しむことが多かった。そのせいで、部活も勉強も投げやりになった時期もあった。今年のインターハイは出られないかもと思ったが、仲間に支えられてまた頑張ることができた。感謝している。今日も後輩が応援に来てくれてうれしかった。次は、人より出遅れた受験勉強を頑張りたい。<

   このコメントから察せられるのは、彼女は粋な性格で(たぶん)後輩の面倒見がよいのだろうな、ということである。頑張って無事受験も突破してくれるものと確信している。(以上、8月9日 19:15)

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 今朝の南日本新聞HP(07年07/01 07:38)に、 「天降川にも巨大シメジ/霧島」という題目を見つけて、早速、覗いた。   http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=5264

 天降川(たしか、あもり川とよんでいた。)といえば、日当山の温泉  中学2年と3年のときの鹿児島県中学駅伝大会のときの宿泊地であった。当時、甲南中は「大観荘(だいかんそう)」とかいう宿が定宿であった。  1年生のときは、野球部に所属していた同級生の助っ人K君を仰ぎ、私は補欠であった。  2年生のときは、その(幼稚園以来のライバルの)彼が野球部にもどったこともあり、私は2年生のエース区間を任された。  試合当日は、激しい(集中豪雨のような)雨であった。その1ヶ月余り前の鹿児島市の陸上大会(市中体連)2000mで、これまでの最悪の優勝タイムながら優勝できた私は自信をもって臨んだ2回目の駅伝であった。(続く 9:30  7月2日)

 区間賞は取れるとは思っていないが、たぶん首位で受け取るタスキを確実に差を広げて(最悪でも私のところで首位に立って)次区間のバスケット部の助っ人H先輩に引き渡す、という目算だった。しかし、タスキを受け取ったのは5位で先頭から30~40秒(約二百m)の差だった。待つ間が5分にも6分にも感じられた。私は、タスキを運んできた後輩の「お願いします。」という言葉に返す言葉ももどかしく飛び出した。走り出しは下り、50mほどで左へ曲がり直線道路に出る。(13:00) 下りは、重力を利用して力を使わずスタートダッシュして、左折。数十m前にほどよい射程の前走者がいる。直線1kmといっても集中豪雨のような雨と途中に数mの丘?があるので一人しか見えない。ヨシ、コイツのペースを測って、1km付近で追いつくように走ろう、と方針を決めて少し遅いペースを選んだ。(駅伝では予定から遅れた場合、オーバーペースが最も怖いのである。) その小高い丘の辺りに一人が後ろから並んできた。(よし、ちょうど良いペースメーカーが来た)と思い、引っ張ってもらおうとしたが、早い。東串良のS君だった。(彼は高校は鹿実に進み、我々の学年のエースになったオノコである。)これはヤバイ、ついて行ったら俺が潰れる、と判断して先に行かせた。私の受け持ちの区間では、Y君というめっぽう早い選手がいた。Y君は私の幼稚園以来のライバルK君の1年生のときの好敵手だった。 彼がきたらつけるとこまでつこう、と思っていた。それ以外の選手でマークしていた選手はいなかったので、少し、焦った。S君は、私のすぐ前を走っていた選手もほどなく抜き去り、さらに差を広げていった。1km付近だったろうか、右の横側、気配を悟れない距離で一人の選手に抜かれた。シマッタ、Y君であった。彼にはどんなペースであっても百メートル以上はついていって、ペースを体感させてもらおう、と思っていたがしてやられた。さらに数百メートル進んだところでもう一人、Y君を上回るペースで私を抜き去っていった選手がいた。C君であった。(区間賞は、このC君が手中におさめ、最もてごわいと思っていたY君をも抜き去っていた。)これで8位になってしまった。

 私は、一人を抜き(抜き返し?)、7位になったが、1.5km近く続く次の直線道路で次の標的をさがした。なかなか差がつまらず、苦しくなり、自身でも乱れたフォームになってるだろうと思いながら、うつむき加減で走っていると、「コウカ、なにをやっとるんだ!」という低いが力のこもった声が聴こえた。顧問のI先生だった。ハッと我に返り、この一声で、気持ちを入れ替えて(新たなペースで)前を追い始めることができた。 最後の(鹿児島神宮近く)の跨線橋の上り坂で一人とらえた。すぐに抜きさり、下りに入ると重力の力を無駄にせずその勢いで次の走者と並んだ。この走者は粘る、あと数百メートルで次走者へのタスキわたしだからラストスパートである。気持ちの強い方が勝つ!と教えられてきた。負けそうになったとき、1年のとき担任だった大声の持ち主のT先生の「コーカーー!」という声が聴こえた。このエネルギーで私は、走りを短距離的走法に切り替えることができた。

 結局、受け取ったときと同じ5位でタスキを渡した。  このときの成績は、チーム総合2位。区間賞一人(=後輩の蔵満君:故人)であった。私は、区間たしか6位。受け取ったときの先頭からの差を約10秒(50mほど)縮めて次走者に渡したことになり、満点(合格)ではないが一応の成績であろうと思った。(できれば区間3位以内に入って、その証しとなる賞を頂きたかったのだが、(そうなればおのずと首位を射程内(50m内)においた走りを次走者ができることになったはずである)11月末の悪天候にもかかわらず試走時の最高タイムとわずか4秒遅れであったことで自身を許すことにした。  最初に抜かれたS君は、やはりオーバーペースであったようだ。いつ抜き返したのかわからなかったが、タスキ渡し、区間タイムともに私の方が早い結果となっていた。しかし、このS君、次の年(3年生)のときは、私とともに1区を走り、Y君をも抑えて見事区間賞を獲得した。もともと、大きな走り(ストライドが伸びる走り)だったので、素質は明らかに私より上だったのだろう。長距離走者としては肺活量が小さいという欠点を持っていた私はこの2年生のときが長距離専門走者として最も輝けた時期であった。

<<<<  私は、おやじをその年の3月に失っていたので報告は墓にすることになったのだが、力を出し尽くして頑張ったときは、いつも包容力を感じさせる笑みで褒めてくれた立派な体格のオヤジであった。鹿児島では14歳で立志式というものを迎える。一人前のオノコとして(精神的に)自立しなければならない歳というわけらしい。私はその平均的節目より1年早く父の生のアドヴァイスを聞けなくなったわけであるが、モノゴトの節目など反省をするときは、その顔を思い浮かべられるかどうか、で全力を尽くせたかどうかの目安にしている。  今では、2男1女の父そして、一人の義娘を持つ義父としてどんな後ろ姿を見せられるのだろうか、と問いかけることも加味しながら生きているつもりである。 #「ボケた帽子」をかぶって歩き回っている(添付写真)のも私なりのパフォーマンスなのです。 http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/49/1b9a2026f84fe09a268440b472927ce1.jpg

 <<<<  日当山温泉街は、タスキを受け取りすぐ左折した約1km続く直線道路の左手の旧道沿いにあった。西郷隆盛もよく訪れたという「しゅじゅどん温泉」は、その頃の私は知らなかった。

  http://www.press9.gr.jp/onsen/individual.asp?n=70343

  http://www.spa.yad.jp/

   などを参照くださいませ。 (以上、07年7月3日)

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  Region(季刊誌)8号(2007年Summer)に、「天降川とともに暮らす」という記事を見つけた。 >天降川は国見岳を源流とし、長さ四十二.五キロメートル、流域面積四百十一.八キロメートルの二級河川です。また、約二十三の支流と名称を持ち、古くから多くの恵みを人々に与えてきた、霧島市を代表する河川でもあります。 さまざまな立場で天降川にかかわる人々を取材する中で感じた、一つの思い。それは天降川のそばで生きる人の、「この川を守りたい」という大切な願いでした。

・・・ 以上、8月8日20:50  


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3 コメント

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コメント?ありがとうございます。 (kouka-h)
2007-07-03 23:11:52
 ホントにショートコメントなので、適切な?お礼の言葉が見つかりません。
 添付されてた、アドレスの内容は心にスキを作ってくれる内容?が多いようですね。 視野が狭まりかけようとするのを押し広げてくれるというか・・・。
 う~ん。 うまく表現できない・・・。
 
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コメントありがとうございます。 (元甲南高校陸上部)
2008-09-26 00:40:11
(8月9日 19:15)

この日のコメントを書いていただきありがとうございました。私の名前をインターネットで検索するとこのコメントが書いてあると友達から聞き見にきました。
嬉しくてコメントさせてもらいました。
これからもこれを続けてください。
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気を強くするために・・・ (kouka)
2008-09-26 11:44:23
 本ブログへのコメントありがとうございます。

 私は、甲南高校のすぐ近くで生まれ育ちましたので、本当の意味で甲南高校がふるさとになります。 そのふるさとで後輩たちが頑張っている姿は(私が)気を強くするために一番効き目があります。

 気はいつも(常に)強くしていることはできませんが、ココ、というときはそれを思い出すことによって集中力が高まるように感じています。

 陸上部もOB会が立ち上がりましたが、単に大会などでよい成績を残す、ということだけにこだわり過ぎない会になることを祈っています。 
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